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想い出のアルバム(時代はランダムに更新します)

吹く風は冷たく私たちの心を慰めてくれました、思えばこれが最初の共同作業だったのでしょうか。
コブシ咲く旧道から蓬峠を越え土樽迄歩きました撮影場所は柴倉沢虹芝寮付近
結婚半年前、早春の谷川岳へ妻と行きました。.この日、蓬峠迄は思わぬ雪でワカンを履いての山行となりました。





教会の写真は私たち夫婦の母校の中学、高校である、桜美林学園の新、旧チャペル




大学一年の頃、丹沢山塊、蛭ヶ岳山荘の小屋番、てっちゃんと、姫次にて。


私のアルバムより、前穂高岳東壁、Dフェース(全体写真:清野さん提供)
全体写真あり

井上靖先生の氷壁を読んで以来、前穂高東壁には底知れぬ思いがありました。 高校3年、暑い夏の日、目標の岩壁であったDフェースに登る事ができました。登攀終了点に咲く深山薄雪草(エーデルワイス)をみて何故か涙がわいてきました。

















私のアルバムより、一ノ倉沢、四ルンゼ、核心部にて
核心部の上と一ノ倉沢全景

谷川岳、一ノ倉沢は日本を代表する岩壁帯である。故、大島亮吉先生の有名な言葉のとおり「谷川岳は東京に近くして良い山」、東京から近いのに、積雪、岩壁、国境稜線とバライティーにとみ、登る人に興奮と安らぎをもたらすでしょう。大学一年の時、秋たけなわのテールリッジを登り、烏帽子岩基部から南稜テラスを通過し本谷バンドより登攀を開始した。














南アルプスでの新人強化合宿、白根御池小屋横のテント場にて






富士山雪上訓練、向かって左から角田先輩、代先輩、相沢先輩、
中山、松田先輩、津田、佐々木、林、 佐々木が頂上近くでザックを落としたのが印象的の合宿でした。
この年の富士山は特に雪面が硬く燕沢で滑落者が続出した為、
船津口からの頂上アタックとなった。(年月不明)

















新人強化合宿、(5月の南アルプス縦走)
北岳稜線で小休止の一コマ、
この時人工衛星かUFOが指さす方向に見えたと騒いでいる!
山岳部の最初の女性部員、旧姓、佐々木さんが印象的です。
(年月不明)



現役が5月の新人強化合宿で遭難、西穂から槍に向かう途中天狗のコルの岩場で滑落、死亡した。連絡を受け準備もままならず岳沢に向かったがゴーグルを忘れた為、ハイライト(煙草)の箱でエスキモーゴーグルを作った。雪面の刺したアイスバイルはエバーニュウーの木製ピッケルのシャフトを加工したもので登山OFF中に飲み屋の友人にあげてしまった。(年月不明)







私のアルバムより、北アルプス、黒部川上ノ廊下にて、会社の友人と自動シャッターで



会社の友人、吉田さん、上野さんと憧れの山域、上ノ廊下を遡行し三俣蓮華岳に登りました。黒部立山アルペンルートから黒部ダムに入り、黒部湖の周りを通り平らの渡しからボートに乗って対岸に渡った。 奥黒部ヒュッテからいよいよ上ノ廊下の遡行にはいるが想像以上の水量と渓層が悪く、一人が泳いではザイルを固定、ザックを渡し、チロリアンブリッジの連続であった。当時は渓流靴というものがなく、地下足袋 に草鞋での遡行でした。 行程、三泊四日、途中、立石の奇岩の高巻きで全員のピッケルが無くなった事が印象的でした。



私のアルバムより、北アルプス、穂高、滝谷にて。

井上靖先生の小説「氷壁」のとりこになった私は、大学一年の頃だったでしょうか?、
小説のヒロー、「魚津」が苦しんで歩いたルート(滝谷出合〜D沢を経て穂高)辿ってみようと思い単独行を決意した。 涸沢で夏山合宿を終えた私は、穂高小屋から白出し沢を下降、独り滝谷出合に向かった。 出合で仮眠をとり入渓、雪渓をしばら登ると落差の大きな滝が見えてきた、雄滝である。 雄滝と雌滝の中間リッジより取り付く。錆びた残置ハーケンある凹角から草付きに上り、右上する踏み跡をたどると、草付きの非常に悪いルンゼとなり単独は無謀と感じた。滑滝は言葉の通り涸れており、この夏、剣、穂高での岩トレ効果もあったのか楽に登ることができた、水量が多いと非常に厳しそうだ。ゴルジュ状よりの落石も怖い。バテバテで合流点に着いたのはお昼を過ぎており、視界ゼロの為D沢をあきらめ、通いなれたB沢「滝谷B沢の写真(清野さん提供)」を登り北穂小屋を経て松浪岩でのビバークとなった。 それから10年後、二回目の遡行は会社の山中間、田中盛博さん、吉田保さん と登る事になる。スノーコルでのビバーク、雨の中の第三尾登攀はとても辛く思い出に残る山行となった。













滝谷冬の写真(私のアルバムより槍平にて撮影)

滝谷概念図(RCCU日本の岩場より借用)





















私のアルバムより、丹沢、塔ヶ岳、尊仏山荘前にて、蛭ヶ岳山荘の小屋番、「てっちゃん」と。

高校生の頃、毎週のように丹沢に登りました。
無線にこった時期がありました。
私の杖の中には手製の八木アンテナ収納されていて、各地の山にこんなスタイル
で登りオンエヤーしました。
当時の尊仏山荘主人と(昔、原小屋にもいました)ご存じの方も 多いかも....


















私のアルバムより、雨上がりのい穂高、涸沢にて、後輩の故、岡田さんと。



















大学2年の頃、2月、春山合宿の一こま。
紺のヤッケ、オーバズボン、ロングスパッツならぬオーバーシュズが当時の装備を感じさせる。


私のアルバムより、北アルプス、後竜岳山頂にて、後輩の鈴木君と。














                  


私のアルバムより、北アルプス、屏風岩東壁、青白ハング鵬翔ルートにて、後輩の鈴木君と。

1967年49年前の夏、北アルプスの屏風岩東壁青白ハング小倉ルートにて大学2年の頃、岩登りに熱中していた頃の一こま。
オーバーハング下の垂壁は高度感がある。
この日、大テラスで故、田部井 淳子さんと故、佐宗るみ子(代)のパテイーと会い暫く語らった。 冥福を祈ります。

   小倉ルートの大ハング(2016、11、20 鈴木さん提供)




大学1年の頃、一ノ倉沢に毎週のように通っていた頃の一こま。このテラスより正面雲綾ルート、雲綾第二ルート、ダイレクトカンテに分かれる。私の始めての雲綾ルート登攀の始まりだ。当時は洞穴ハング下でビバークして衝立の頭に立った。友人の原田君はダイレクトカンテ登攀後の翌月、幽ノ沢中央壁にて遭難、19歳の若さで帰らぬ人となった。


私のアルバムより、谷川岳一ノ倉沢衝立岩ボサテラス(アンザイレンテラス)にて、故、原田君と当時の山仲間。






















高校二年の頃、赤岳鉱泉から中山峠を越えて行者小屋に幕営した。石尊稜と阿弥陀岳北稜を登った。


























私のアルバムより、回想の中山峠、林君、故、原田君と。














大学一年の二月、長い冬山合宿を終えて新穂高温泉に下る。
槍ヶ岳の厳しさが嘘の様に春を感じた。































高校三年の夏、山岳会の涸沢合宿、ジ
ャンダルム登攀後、
頂上にて、皆、歳をとったのだろうなー。
























私のアルバムより、ジャンダルム。
私のアルバムより、春を感じる下山。


私のアルバムより、アルミの弁当箱。

大学山岳部3年生の夏、剣からの縦走を終え涸沢での岩登りが始まった。西穂稜線での一こま、この頃定着合宿の昼飯は弁当箱に詰めた!

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