vol.1



『日没の交換』



陽の君の種族越えての恋
友よ、月詠の女神の安と信を託そう

月詠の女神の白き手の温もり
友よ、陽の君の如く頭を撫でたもう

一粒の涙、月詠の瞳より地に零る
生まれ出るふたつの石、君に与えん
陽の背の君の髪、映せし黄石
禁忌の恋見知る友の髪、溶けよ白石

昔日の陽、落ちた射干玉の暗闇
友よ、額に白石、翳せよ
翹望の黄石、もたらせよ



                   「茜さす照る陽の君と射干玉の月詠の女神の恋詩」より抜粋






 雪柳、小手毬、白山吹。縁だけが淡く朱がかった、名前の知らない一重の薔薇。

 足を踏み入れた途端に、この場所は、絡みついたしがらみからこの身を浄化してくれる。
張り詰めた気を、ほう‥‥と、つい吐きだしてしまっても、この奥庭は許してくれるだろうか。

 ほかの整然とした庭園に比べて自然と、といえば聞こえはいいが、気ままに咲き誇る庭なんて、
シルヴィ王宮広しといえどそうはない。

 でも、ぼくは、この自然らしさに満ちた庭が昔から大好きだった。ここはぼくの思い出の場所でもあるからだ。
お気に入りのこの場所に来ると煩わしいことすべてが一瞬で消え去り、いつも心が和んだ。

 王宮で暮らしていた頃は、悲しいこと、辛いこと、悔しいことの連続で、たくさんの理不尽な思いをしていた。
それでも、この王宮には懐かしさと切なさでぼくの胸を締め付ける思い出も多い。

 ここは、そんな忘れたくない、心惹かれる思い出の場所のひとつだった。
誰も来ないこの場所は、ぼくの安住の地──それは今も変わらないのかもしれない。

 久しぶりに訪れた奥庭は、しんと静まり返って、ぼくの足音と息遣いだけが聴こえた。

 今夜は一年でも特に華やかな催しで知られた夜会連夜の初日である。

 さすがに高貴な方々と称される彼らの中には、貴族の誇示する機会をぽいっと放り出し、
こんな人影ひとつない、うっそうと草木が茂った庭にわざわざ来ようなどと考える者などいないだろう。
たとえ、紳士淑女たちが恋を囁き合うのに相応しい人気の少ない所を探すとしても、
それはきっと大円舞室に接したキレイな広い中庭であろうから。

 だから、ここには、ぼくひとりだけ‥‥。

 ここでなら、安心して肩の力を抜くことができた。

『ほら、例のロザイ侯爵の‥‥』
『ああ、カンギール・オッドアイ?』

 耳打ちするなら聞こえないようにすれば良いものを。
仕草だけ囁くふりして声をひそめない彼らは、平気な顔でぼくの耳に言葉の針を突き刺す。

 この生まれついた身を、ぼくが有り難く拝受してるとでも彼らは思っているのだろうか。

 たくさんの好奇の目。その視線に含まれたさまざまな心情には、魔導師や神官たちの神聖視するところとは相反して、
よもや「好意」という二文字は存在しない。

 在るのは、侮蔑、嫌悪、そして、畏怖。

 神聖視されるのも困りものだけど、彼らのそれらの反応は、崇め奉られる以上にぼくをとても困惑させた。

「ぼくの存在を否定したいのなら見なければいいのに」

 なのに、彼らは執拗にぼくを見る。

 それでは、狼の前に羊の肉を差し出すようなものだとわかっているだろうに。

 彼らはとても矛盾している。

 ぼくには到底、理解できないし、したくもない。





「確か、この木‥‥だったはずなんだけどなあ。やばいな。ないや。どうしよう」

 昼間、明るいうちに適当な場所を見つけておいたというのに、今更ながら困ったことになった。
ほのかに甘く薫るのが夜の目印にはもってこいと考えて、この銀木犀の下を選んだというのに、
着替え、そのほか、諸々を入れた革袋──探し物のそれ、がないのだ。

──あれがないと困るんだけどなあ‥‥。

 月明かりを頼りに、甘い香りを漂わせるその銀木犀の根元のあたりを何度もきょろきょろと見渡したのだが、
必需品を入れた革袋はどこにも見当たらなかった。

「もっとよく探せばきっとあるはず」

 気弱になりそうな自身を叱咤するようにそう言葉にしながら、木の根元を中心にそこかしこを探してみるが、
どうしても見つからなくて焦りばかりが募ってゆく。

 ところが、そんな状況下で。

「嘘、だろ‥‥?」

 探す範囲を広めた途端、ぼくは問題の探し物を見つける前に滅多にお目にかかれないであろうモノに出くわしてしまったものだから、
ますます頭を抱えてしまう。

 長く白いたてがみを奮い、銀の角を翳す白馬が優雅にゆるりゆるりとこちらに近づいてくる。

 そう、それは一角獣だった。

──まさか、ホンモノ‥‥?

 白い白いその獣は、人見知りで知られている。
いくらこのイクミル王国が魔導王国で知られているとはいえ、一角獣が気軽にイクミル王国の王宮内を散策するわけがない。
まさに、ここで出会うはずのない存在だ。

 一角獣の動きは、夜の空にひらりと風に舞う蝶を思わせた。

 美しい聖獣の息が手の甲に触れる。

──温かい。幻じゃない。

 一角獣はその白い首をすうっと寄せて、ぼくの右腕に擦りつけた。

 途端、どこからか澄んだ声が聴こえてくる。

『微妙に女性の薫りが致しますが、いまだ眠れる卵です』

 それは、頭に直接響く声──心話だった。

 角獣に会うのも、心話を聞くのも、何もかもが初めての出来事だった。
驚きの連続で言葉が出ない。まるで夢を見ているようだ。

 だが、その美しい白い夢を、ひとりの男が現実の扉へと導いた。

「そりゃ良かった、ご苦労さん。悪かったな、急に呼び出して」

 男の声はすぐ近くで聞こえた。

 いつの間にか物陰から姿を現した男は一角獣に労いの言葉をかけながら、一歩一歩とぼくへと近付いてきた。

 その男の動きにぼくは気を取られてしまった。
はっと気付いた時には、一角獣の姿は徐々に透けて、今にも消えていこうとしていた。

 そして、その薄れて消え去る瞬間をまるで狙ったように、一角獣の消えたあたりに向かって一度頷いてみせた男は、
今度はくるりとぼくに向き直り、
「よ。元気にしてたか、ルティエ」
微笑みながら、弾むような声でそう言った。

「‥‥え?」
「久しぶりだな」

──まさか‥‥シン?

 シン・エスレイ・イクミル──。

 彼はこのイクミル魔導王国の第三王子だった。
それも嫡流筋でありながら、魔導師を目指した変わり者で知られる王子サマだ。

 シンが十歳の時、魔導学総本山と呼ばれる学びの塔へ身を投じたその醜聞は、王位継承権を持つ王子の乱行として、
イクミル王国の社交界を揺るがした。

 そしてそのシンが半年前、学びの塔からふらりと王宮に戻ったという噂はまたもや退屈していた貴族たちに、
格好の話題を与えたのだった。

 世情に疎いぼくでさえも耳にするほどその噂は至るところに駆け巡り、なぜ今の時期に彼が帰還したのかと、
その理由についてたくさんの憶測が飛び回った。

 ぼくの場合は、他人に興味のないぼくだと熟知している母がわざわざぼくの部屋まで噂の真相を語りに来たため、
噂話以上の情報を聞き知っていた。

 耳元ではっきりと語られてしまっては、耳を塞いでもやっぱり聴こえてしまうのだ。

 つまり、シンがシルヴィ王宮に帰って来たのは事実なのだから、王宮の奥深いこの庭でばったり彼と出会ったとしても、
それは何ら不思議なことではない、ということになる。

 理屈では、わかる。

 でも、ぼくは彼とどんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、この偶然の再会にどうしたらいいのか困ってしまう。

 王侯貴族たちにとってこの数日の夜はトクベツな夜だった。
一年の中でも最も規模の大きな社交の場が大円舞室に用意されているのだ。

 王宮に招待された貴族たちが優越感高々に見目麗しく着飾り、踊り楽しんでいる今宵、煌びやかな賑わいの夜会から逃げるように、
こんな寂しいところに来るモノ好きなんぞ滅多にいない。

 しかし、それがシンだとしたら容易に頷ける。
シンは貴族社会のしがらみなどもともと気になど留めないし、元老院の思惑さえもシンにはおそらく通用しないだろうから。

 昔から、シンを知る者たち誰もが、王位継承権三位の王子であるにもかかわらず彼のことを、「自由な存在」とどこかで認めていた。

 案の定、彼は七年前、ひとりの従者も連れず王宮を飛び出している。

 いくらこのイクミルが魔導王国と各国に知られ、魔導師の地位が高く評価されているとはいえ、
王家の、それも嫡流筋の王子が魔導師になるなんていうのはさすがに常識を脱していた。

 高い評価といっても魔導師のそれは、貴族の身分、地位には程遠く、神官級にしか相当しないからだ。

「ただ今、探し物中、というところか」

 それなのに、その非常識を目の前の男は実行した。
まったく、「モノ好き」以外に言いようがない。

「‥‥なあ、ルティエ。目当てのモノってのはコレなんだろう?」

 そのモノ好き王子が見慣れた革袋をぼくの目の高さまで持ち上げ、ゆらりゆらりとちらつかせた。

 月明りの下、夜の薄暗闇の中でおよそ七年振りに見たシンの顔は、相変わらず整っていた。
それでも、幼い頃、美姫で誉れ高い王妃似の女顔のせいでよく姫とからかわれていたのが信じられないほど、
彼のそれは男の容貌に変わっていた。

 幼さをなくした分、凛々しさが加わり、本来の女顔が少し神経質そうな精細さを引き出していた。
まさに、禁欲的な薫りさえ漂う清潔感のある若者の顔がそこにあった。

 そして、この月明かりではわかりづらい彼の瞳の色は、きっとあの時のまま、深い青をしているのだろう。

 闇に溶ける黒髪と紺よりも深い青の瞳は、イクミル王国ではよく見られる組み合わせだった。

 そう、平凡と言っていいほどに──。

 だが、このシンときたら、森の中に木を隠すのが無駄のような気さえさせられる。

 昔も、そして現在も‥‥。

 平凡な黒髪も深い青の瞳も、これだけ生気に満ちた者が纏うと非凡とさえ言いたくなる。
イクミル王国内に紛れても、きっとこの男は目立つだろう。

「どうしてきみがそれを持っているんだい?」
「大舞踏会は七日後だよな。それまでに帰ってくればいい‥‥なあんて、おまえ、考えているんだろ?」

「何のことだよ」

 惚けるな、とシンはぼくに視線を止めた。

「きみが何を言っているのかわからないね。それに王子のきみが、こんな所で油を売ってていいのかい?
夜会会場では、きっと姫君たちがきみを探してるはずだ。こんなところを誰かに見られたら、恨まれるのはぼくなんだよ?」

「あのなぁ、オレは回りくどいのは好きじゃないんだ。ごまかそうとしても無理なんだから諦めろよ」

 いつだってぼくの前に立つことを厭わないシン。

 ぼくの瞳を真っ直ぐ目を逸らさずに見ようとするのは、昔から変わらない。

 カンギール・オッドアイを持つぼくを、ただのルティエ・セイユ・ロザイとして扱ってくれるのは相変わらずで、
その、ぼくに恐れを抱かない視線が、今はとても怖かった。

 もう七年も経とうかというのに‥‥。

 あんなことがあったのに。

──きみはどうしてぼくを見つめることができるんだ?

 久し振りのはずなのに、離れていた時間をこれっぽっちも感じさせないシンとの言葉の掛け合いが、何だかとても不思議だった。

 怖くて、ドキドキして、懐かしい‥‥この感覚。

「いいか、オレは知っているんだ。おまえがカルバ村に行こうとしていることも。
七日後までにここに戻って何事もなかったように親父に挨拶するつもりだってことも、何もかもな。
ひとりで行くつもりでこんなとこに荷物隠して、本当にひとりだけでどうにかするつもりだったのか?
無理があるだろう、良く考えてみろ。馬を使ってでさえ三日はかかるとこなんだぞ。
シロウトのおまえだけでは倍の六日かかってやっとカルバ村に着くのがオチさ」

 カルバ村は誰も知らないはずのぼくの行き先だった。

──どうしてシンが知っているんだ?

 シンの持っている情報は余程の裏付けがあるのか、彼の言葉には揺るぎがなかった。
何よりも、それは事実に近い。

 目的地のカルバ村までは、馬を飛ばしても三日を切るのがいいほうだと聞いている。つまりは、往復するだけで六日も要してしまう。
寄り道をしたり、ゆっくり観光気分を楽しむなんて論外だった。ぼくは一日だった惜しいのだ。

 順調に往復したとしても、七日後の夜には王宮にいなければならないぼくがカルバ村に滞在できるのは一日だけ。

 そのたった一日で結果が出るのか、自分でもわからない。

 それでも、ぼくは、カルバ村に行きたいと思った。

「シンには関係ないことだ。それに、きみが止めても‥‥ぼくは行くつもりだから。
王宮の抜け道はここだけじゃないことはお陰さまで良く知ってる。きみがいないところを狙って、また別の道を行くだけのことだよ」

 五歳から十歳になる頃まで、ぼくはこの王宮に身を寄せていた。

 子供は探検が大好きだ。抜け道。隠れ家。全部遊びの中で見つけてゆく。
何せ一緒に遊んだ相手が、王宮を隅々まで知っていると自負する王子である。
近衛隊の連中よりも、もしかしたらぼくのほうが王宮に詳しいかもしれない。

「止めても無駄だよ?」

 ぼくが一歩も退かずに睨み返すと、シンは肩を竦めて、困ったような、何ともいえない笑みを浮かべた。

「止めるつもりで来たわけじゃないんだ。オレも一緒に行こうと思ってさ、ここでこうして待ってた、と。ま、そんなところだ」
「え?」

 彼の足元には、ぼくの荷物のほかにもうひとつの革袋があった。

 シンは勢いよく、その見慣れない革袋を持ち上げた。

 よくよく見てみればシンの服装はどう見ても王子という身分には不釣り合いな、品質に欠けるというか、
市井の者が普段身につけるような服装で、王宮に出入りする御用達商人たちがまず王侯貴族にと持参しそうもない部類のものだった。

「オレはすぐさま出掛けられるが、おまえはとりあえず時間がかかりそうだな」

 そのシンの言葉にぼくは反論できなかった。

 王宮の外に出ても目立たないシンのその装いに対し、ぼくのは王宮一広い部屋を出入りしても遜色ない、
つまりは、街では目立つであろう薄手の柔らかい質感のブラウスを身につけていたからだ。

 当然、ぼくは着替えに多少の時間を要するわけで、その分、出発の時間は遅くなる。

「ほら。早く着替えろよ」

 シンがぼくの革袋を突き出した。

 シンの意図はわからないまま。

 だが、時間は止まることを知らない──。

 だから。

「向こう向いてくれなきゃ着替えられない」
「了解」

 ぼくは着替えの入った革袋を素直に受け取らざるを得なかった。






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