*** ご注意 **

このお話は未来編です。

全体的に、世の中のあり方をはじめ、現実には到底ありえないホラ吹き設定になってます。
また、未来編ということで、原作との相違点が多いと思われます。

そのようなお話が苦手な方、または、ご理解していただけない方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。
「どんなんでもOK! ドンと来い! 笑って許してあげよう!」という心の広い方のみ、どうぞ〜♪






 世界同時発売して一週間で爆発的な販売数を記録したゲームソフト《Cosmo Frontier》は、銀河宇宙で繰り広げられる壮大な英雄伝のRPG(ロールプレーイングゲーム)である。

 銀河に君臨する帝国の第二皇子が仁義を突き通す宇宙海賊王と友情を築きつつ、様々な種族の族長たちの信頼を集めながら多くの人々の支持を得て、乱暴で利己的な皇太子を廃嫡に追い込み皇位を目指すSFファンタジーの世界は、感動的なストーリーをはじめ、魅力的なキャラクターと創意工夫されたバトルシステム、そしてオーケストラを起用したクラシック風の音楽によって見事に表現され、大勢のゲームマニアから絶大な支持を得た。

 そして、経済紙は、「何よりもこのゲームのすごいところは、今までゲームとは無縁だった人々の興味を惹いたことだ」と書きたてた──。


導きの開拓者



 《Cosmo Frontier》が発売されてから二週間後、ゲームで使われた音楽はオリジナルサウンドトラック《Cosmo Frontier Symphonies》として店頭に並んだ。
途端、快挙ともいえる売れ行きを見せ、歌曲でないにもかかわらず、ゲームの主題曲「悠久」はヒットチャートのベストテン入りした。

 メディアはその理由を、厳格なクラシックファンを唸らせる高品質な管弦楽曲が、ゲームプレイヤーの親世代をゲーム音楽に目覚めさせたためと語り、ゲーム中のほとんどの楽曲を演奏した、ぼくが所属するKフィルは、世界中から一躍注目を浴びることになった。

 それより少し前、Kフィルの本拠地であるKホールに耐震工事が持ち上がっていて、工事の内容でごたごたしているらしいと、ぼくは事務局から聞いていた。

 Kホールの耐震工事は音響設計、建築設計、施行を担当する各三社が協力して行うことになっている。
その中のひとつ、音響設計を請け負うことになったTKO建築音響が、設計段階でKホールを運営しているMホールディンクス側の意向に真っ向から反対した。

 TKO建築音響は、劇場や音楽ホール、体育館などの設備建設を専門としており、防音、防振の設計に特出した技術を持っている、その道では定評、信頼がある会社で、その素晴らしい実績は自分たちの仕事に対する熱意と自信の結果なのだろう。
そのTKO建築音響株式会社の腕利きの設計士が、天井耐震安全性を追求した設計案を見て、これでは工事以前の音響品質を保つのは難しいと言ってきたものだから、関係者たちが顔を引きつらせた。

 いずれ起こるだろうと予測される大地震に備えて、天井が落下しない安全なホールにするために構造計算や実験を繰り返して完成された設計図は、安全性を優先するために大ホールの音響に若干影響が出る可能性を把握しつつも無視している状態なんだそうで、仮に音響細部まで考慮して工事をするとなると、当初予定していたものより約二倍に相当する工事期間と費用が必要になるというのだから、お偉方が頭を抱えてしまうはずである。

 Mホールディンクス株式会社はその見積金額に難色を示し、そこまでの費用は出せないとはっきり言っていたと事務局長が憂いた顔でぼくにぼやいてきた。

 事務局長がそうしたことを何かとぼくに打ち明けてくるのは、ぼくがKフィルのコンサートマスターを拝命しているからである。
現場の代表として楽団員たちの意向や反応を教えてほしいと、ぼくはあらかじめ事務局側から頼まれていた。

 事務局側には事務局側の、楽団員には楽団員側の都合や考えがあり、今のぼくはまるで上と下に挟まれた中間管理職みたいだなあと最近よく思う。

「どうしたもんかねえ」
「でも、Kホールをこのままってわけにもいかないでしょう」

 事務局長の憂いは当然のようにぼくにも伝染し、ぼくの意気消沈な様子を案じたギイが、「何があった?」と訊いてきたコレが、あとから考えれば、ことの発端だったのかもしれない。

 一連の話を聞いたギイが、すかさず問題点を突いてきた。

「本末転倒だな。Mホールディンクスも何を考えてるのやら。
耐震工事はこの国では必須な工事だ。でも音楽ホールである以上、音響設計は必需だろうが」
「だよねえ」

 天災が避けられないものだしても、日頃から防災を心掛けておけば被害を最小に抑えることができることは誰もが知っている常識だ。
人がたくさん集まるホールなどは、特に二次災害を起こしやすいため、耐震工事以外にも緊急避難経路の確保や職員の防災訓練など、日頃から防災を意識していることが望ましいと述べるギイの持論はもっともなものだと思う。

 また、Kホールはあくまで音楽をはじめとする芸術活動を行うための場所なのだから、音響品質を無視するなどホールの存在意義をはき違えているというのも正しい意見だ。

 ギイは眉間を寄せつつ、さっきからずっと中指でテーブルを軽くトントン叩いていた。
きっとギイの頭の中ではいろんなことがぐるぐる巡っているのだろう。

「まず、耐震設計に不安があるようなホールが託生の仕事場だってのが気に食わないな」
「でも耐震工事は絶対するわけだし……」

「なら音響は?」

 日本の多くのホールは音響がいいことで知られているが、振動体・共鳴体として優れている天然木をふんだんに使用したKホールは、特にピアニッシモが綺麗に聴こえ、反響して戻ってくる音響が素晴らしい。
加えて、天然木に囲まれたホール内のしつらえは視覚的に上品かつ、、落ち着いた温かみのある雰囲気もを醸し出していて、世界の名だたる指揮者たちからも定評のあるホールだった。

 聴く側も気持ちよく聴こえ、演奏する側も気分よく演奏できるホールが、自分が所属するオーケストラの本拠地であることはぼくの誇りでもある。
それでも、残念なことだが、その屈指のホールの音響品質を削ぐ形になったとしても安全性には変えられないのが現実だ。

「そんなこと言ったって、完璧な工事をするとしたらそれだけ費用がかるんだから。
予算はないって言われたらどうしようもないよ」

 身が引きちぎれそうな気持ちで言葉にすれば、どうしてもギイにあたるような言い方になってしまう。
誰が悪いわけでもないのに燻る想いは止まることなく沸き続けて。
こうして一番近くにいる人にぶつける形で諦めようともがくことになる。

 だが、ギイは妥協を許さない人だった。

「ふうん。だったらオレが買うしかないな。それが一番妥当だろう」
「は?」

「Mホールディンクスが耐震しか考えてないって言うのなら、Kホールを所有する資格なんぞないさ、宝の持ち腐れだ。
自分のものならどんなに手を加えようと構わないんだろう? だから、オレのものにするって言ってるんだ」
「ちょ、ちょっとギイ。まさか本気」

「本気の本気。でもこれは投資でもあるからさ、託生は気にするなよ」

 有言実行の人がその気満々でやると言ったら、その行動力はいつにも増して目を見張るものになる。
「買う」と断言してから一週間後には、ギイは顧問弁護士を同伴の上、Kホール運営の上層部の話し合いの席に着いていた。
驚いたことに、その会議に出席していた事務局長の話によると、ギイが指を一本立てただけで瞬時に十億のお金が動いたというのだから、ギイが住んでいる世界はぼくには到底理解できない異次元世界なのだとつくづく思い知らされた。

 音大を卒業したからといってプロとして音楽で食べていけるとは限らない。
ましてや世界で活躍している演奏家となると、ごく少数だ。
演奏が素晴らしければそれだけで身を立てられるというわけではない。
音楽の世界は、実力だけでなく運もいる厳しい世界だというのが現実である。

 ぼくはギイというパトロンに恵まれていて、素晴らしいバイオリンを永久貸与されていたりと、自分がすごく幸運な人間であることを自覚しているつもりだけれど。
自分の力で仕事に向き合っていきたいこの気持ちは昔からずっと変わらないまま、持ち続けている。
だから、ギイが必要以上にぼくの仕事関わることに神経質になっているし、それをギイもわかっているから、普段ギイはぼくの仕事に極力関わらないようにしてくれている。

 結婚してからもそのスタンスは変わっていない。

 それでも今回のようにいざとなると、ぼくを含む大勢の人の安全性と利益を守るためならば、ぼくの領域に入り込むことをギイは迷わない。

 ギイは人間として、とても大きな人だと思う。
なのに、ギイを切り離すようにして音楽活動をしているぼくという人間はどうなのだろう。

──これってもしかしたらものすごくギイに甘えてしまっているってことにならないかな。

 だとしても、ギイのバックグラウンドを頼らなければ仕事に恵まれないようなそんな音楽活動しかできないのならば、プロの演奏家としてやっていく資格などないとぼくが固持している以上、ぼくはぼくのやり方を信じて進むしかない。

 Fグループは世界でも屈指の多角経営の大企業である。
昔、社会の授業でコングロマリットという言葉を習った覚えがあるが、まさにそれだ。
その大企業の中枢の中枢、目を見張るほど大きな氷山の一角の、これまた見上げるのに首が痛くなるくらいの高い場所にギイはいる。

 ギイが経済界に与える影響はものすごく大きい。
そのギイを伴侶にしているぼくは、Fグループという大きな渦に吸いこまれないように、自分の足で力強く立たなくていけないのだと改めてわきまえるのだった──。





 あれやこれやのうちに、Kホールは耐震工事を含む全面改修をすることになり、Kホールが第三者に売却された件は伏せられたまま、着工から完成までのおよそ一年間、全館使用不可能になるという知らせが事務所からKフィルの楽団員たちに発表があった。
当然、その耐震工事は音響設計を考慮されたものである。

 数日後には、避難時を考慮しての通路幅の見直しをはじめとする隣接のレストランやショップなどの店舗スペースの改装が公的にも発表され、するとKホールの定期会員や一般の来場者たちはもちろんのこと、周辺の住民やオフィスに通う会社員たちが今回の改修にこぞって興味を示した。
Kホールはどちらかというとオフィス街のようなところにあって、現在、周辺には目ぼしいショップがない。
この発表により、周辺環境が新しくなり、今後、開演予定に限らず日常においてこの一帯に人の流動が見込めるというのが世間の見解だった。

──ギイって本当にすごいんだな。

 財力も実力も半端なくある人が精力的に動くと、経済だけでなく周囲の生活環境にまで強い影響を与えてしまうこの現実。
人々の日々の過ごし方すら変えてしまう未来の可能性を見せつけられて、ギイの視野の広さと的確な構築性を思い知らされるのだった。

 ちなみに、Kホールはギイの個人名義の所有となったが、結局のところ、ホールの運営は継続してMホールディンクスに委託することに落ち着いた。
Mホールディンクスからも快諾の返事が早急に来たらしく、これらの契約はとんとん拍子に進んだと聞いている。
つまり、ギイとMホールディンクスとKフィルは、簡単に言うと、大屋と仲介業者と店子の関係になったわけだ。

 とはいえ、「運営に不正や不備が発覚した時点で即座に委託契約は切らせてもらうってさ、思いっきり脅しをかけておいたから」というのだから、ギイもまったく意地が悪い。
音響を無視して工事を進めようとした義務優先の会社方針を余程根に持っているようだ。

 改修後はショップの充実度を計り、芸術ホールとしてだけでなく、商業でも利益を目論むところはさすがに若き敏腕の経営者と言われるだけあって手抜かりがない。
これで運用に失敗したとなれば、脅しが脅しでなくなるのは確実だろう。
Mホールディンクスも責任重大である。

「これで安心して託生をオケに参加させられますよ」
「ありがとうございます。私たちにとってはこれ以上とない有難い話となりました。
それにしても葉山さんのお相手があなたのような方とは……。いやはや、驚きました」

 ギイをつれて事務局を訪れた時、Kホールの新しい所有者がぼくの連れ合いだと知った事務局長が、玉のように流れ落ちる額の汗を拭いながら言った。

 結婚して一ヶ月と少し。
ぼくはギイと結婚したことを特別隠していないし、Kフィルの楽団員のほとんどがぼくの結婚相手の素性を知っていたから今更のような気がしたのだけれど、事務局長にとってはぼくとギイの婚姻は驚愕の事実だったらしい。

 ぼくには随時四人のSPが付いている。
彼らが張り付きはじめたの頃、ぼくは前もって、「付き人がお世話をおかけします」と事務局に挨拶しておいたのだけど、どうやら事務局長は付き人というのを弟子と勘違いしていたようだ。

──まったく、ぼくに弟子なんてとんでもない。そんなの百年先だって早いくらいなのに。

 Kフィル内でぼくが財閥関係者と結婚した噂が立った頃はそれこそ大騒ぎになった。
「おめでとう」と言ってくれた人もたくさんいたけれど、遠巻きにこそこそ言う人、当てこすりしてくる人や露骨に態度を変える人がまったくいなかったわけではなかった。
けれど、ぼくという人間とちゃんとわかってくれて、お互い認め合いながら付き合ってくれる人たちのほうが今では断然多いから、ぼくはこうして演奏家として何とかやっていけている。
事務局長も前と変わりなく普段通りに接してくれると信じたい。

 だけど現実は思っていた以上に深刻のようだ。

「どうしました? 今日は暑いですか?」
「いや、何でもありません」

──うわあ、事務局長、汗タラタラだ……。、

 Fグループ次世代の総帥を前にして、ひたすら困惑中の事務局長がぼくを見るその視線は、まるでライオンでも見るかのようにおどおどしている。
勘弁してよと溜め息をつきたくなったが、今は何を言っても無駄だろうと諦めた。
いずれ落ち着ちついてくれるであろうと期待したい。

 片やギイはといえば、ここ最近で一番の機嫌の良さで、こちらはこちらでどうしたものかと思う。

「Kホールが一年使えないとなれば、その間Kフィルは活動休止になりますよね。
その間、託生、アメリカに来れるよな。いやぁ、Kホールさまさまだなー。ああ、いい買い物した」

 前半は事務局長に、後半はぼくに笑ってギイが言う。

「無茶言わないでよ。
Kホールが改修工事で休館になるのはもともと決まっていたことなんだし、その間、Kフィルは他の会場を借りる算段でスケジュール組まれてるんだから」
「そっか。そうだよな……」

 当てが外れてギイは思いっきり残念そうな顔をしたが、あの眼は全然諦めた感じではない。
何やらぐるぐる頭の中で考えていそうだ。

──ギイ、余程ぼくをアメリカに連れて行きたいみたいだなあ。

 ギイのことはすごく好きだし、日頃からいろいろ感謝をしているぼくだけど、時として多大な期待が重くのしかかって、「ちょっとタンマ」と言いたくなる瞬間がたまにある。
まさに今がその状態で、新婚生活をアメリカで過ごしたいと最近やたらギイはぼくを誘ってくるのだ。
ギイが言うには、アメリカのほうがぼくが素直に甘えてくるからたまらないんだとか。
もう、勝手に言ってろって感じ。

──アメリカかあ。あそこって人前でキスするのなんてへっちゃらの国だったよなあ。
石を投げればキスしてる人にあたるってのはまあ、大げさかもしれないけど、限りなくそれに近いような気がするんだよね……。

 自由の国アメリカは、ある意味自由奔放の国だとも言える。
郷に入れば郷に従えとはよく言ったもので、かの国の解放感に飲まれて、ついぼくまでタガが外れてしまいがちになるものだからまずいのなんの。
それをギイが面白がっているから余計始末が悪くて、「コンニャロ」って諌めたところで哀しいかな、ギイにはまったく効果なし。

 アメリカに行くのがトクベツ嫌なわけじゃないけれど、日本を離れがたい気持ちがあるのも本当で。
何しろぼくは生粋の日本人として生まれ、ずっとこの国で育ったわけで、ギイには申し訳ないがやっぱり日本が一番住みやすいのだ。
それに、どうしたってお互い仕事の都合というものがある。

「あ。でもそうなると工事期間の延長分はどうなるんだ?
託生、今から会場予約って間に合うもんなのか?」

──そう来たか。

 ギイの質問に答えたのは事務局長だった。

「今からですとおそらく無理でしょう。目ぼしいところは一年先を見越して予約を入れるのが通例なので。
こちらとしても公演のいくつかはキャンセルせざるを得ませんし」

 工事期間が延長されるという話を初めて聞いた時、おそらく七か月ほど、Kフィルは休業宣告を余儀なくされる確率が高いだろうとぼくはふんでいた。

「参りましたね。このままだと工事期間の後半の数か月、Kフィルは路頭に迷うことになってしまいます」

 事務局長も、そこはさすがにぼくと同じ考えだったようだ。
Kホール休館期間のKフィルのスケジュールをどのようにすべきか、きっとずっと悩んできたに違いない。

 ギイの瞳がキラリと光った。
どうしてこう、ギイって抜け目ないのだろう。

 事務局を辞して、ギイとふたりきりになってから、ぼくはこの先のことを現実的に考えてみた。
もしも半年間丸々ぼくのスケジュールが空くのだとしたら……。
確かにギイの仕事を考えたら、ぼくがアメリカに行くのがいいような気がする。

──ぼくだって、できればギイと一緒にいたいし。

 結婚してまだちょっとしか経っていないぼくとギイは、世間でいうところの、いわゆる新婚さんだ。
それでなくても、今までのぼくたちといえば二週間ごとに別居しているような有様で、お互いの仕事の都合で仕方がなかったとしても、Kホール休館のこの好機くらいはそんな別居生活を返上しても罰は当たらないだろう。
べったり四六時中一緒にいられるまではいかないとしても、同じ家に帰ってくるだけでもすごく魅力に思えた。

──毎晩ギイと同じベッドで眠る生活かあ。ちょっと憧れるかも……。

「アメリカ……。でも英語がなあ」
「結構、聞き取れてると思うけどな。オレが《Cosmo Frontier》やってても意外にわかってたじゃんか」

 《Cosmo Frontier》は日、英、仏、中の四か国語対応となっていて、字幕表示も音声も変えられる。
その言語変換機能が功を成したこともあって、世界に認められたゲームソフトとなった。

 ちなみにギイは音声を英語に、字幕を日本語に設定してプレイしている。
ギイがゲームしている間、ぼくが横で退屈しないよう、どうやらギイなりに配慮しているつもりらしい。

「字幕を読んでたんだよ。当然だろ」
「そりゃそうかもしれないけどな。託生、自分で思ってるより拾ってるよ、発音」

「発音?」
「そう。こんな話、聞いたことないか? バイオリンの周波数は英語の周波数と似ているっての」

「へ?」
「ピアノは鍵盤を押せば、その音が確実に出る。つまり、CはCしか鳴らない。
けれどバイオリンは演奏者がひとつひとつ音を作らなきゃならない。だろ?」

「うん」
「Cを出そうにも、オレみたいのがバイオリンを弾いても綺麗にCが出るかはわからない。
けどピアノなら措定の鍵盤を押せば、とりあえず鳴る。
つまり、日本語はピアノで、英語はバイオリンなんだ。
日本語の母音は今じゃ、あ、い、う、え、おの五つしかない。
まあ、昔はもっと多くの母音があったそうだけど」

「わかった。それってもしかして、ワ行のアレ?」
「おそらくな。で、日本語はピアノの鍵盤みたいに五つの音って決まっているが、英語の母音は口の形や舌の位置で変化する。
まるでバイオリンの絃を押さえる位置をちょっとずつスライドしていくように」

「バイオリンと英語が一緒……?」
「そう、一緒だよ。託生はさ、いい耳を持ってるんだ。
ちょっとの音の狂いも、音色の違いも敏感に聴き分けられる。
ってことは、気が付いてないだけで、本当に英語だってちゃんと聞き取ってるんだよ。
現(げん)におまえ、ドイツ語だったら簡単な会話、二年でしゃべるようになってたじゃないか」

「あれは……。だって、二年もドイツ語だけにどっぷり浸かってる生活してたら何となく聞き取れるようになるよ。っていうか、あの時はどうにかしなきゃならなかったわけだし。
でも言っとくけど、しゃべれるって言ってもあくまで生活するには困らないって程度で、全部が全部わかるわけでもないし、書いたりするのはもっとお手上げだよ?」
「英語も同じだよ。とりあえずはお互い言いたいことが通じりゃいいんだよ。
託生ってさ、高校の時もなぜか英語にコンプレックス持ってたよなあ。どうしてだ?」

「どうしてって言われても……。
えっと、日本語ですらうまく言葉で言い表せなくて。そんななのに英語なんてってのがあったかも……?
あ、それと、アメリカ人のくせに純粋な日本人のぼくより流暢な日本語をしゃべる人が近くにいたってのももしかしたら原因のひとつだったかもね」

 当てこすりのように言ってやると、「え? まじにオレが原因?」とギイが浮き足立った。

「そんなわけないだろ。ギイ、本気にしないでってば」
「うわー、思いっきり焦ったぞ。もう少しで計画がオジャンになるとこだった」

「計画? 何の?」
「今は内緒」

「ギイのドケチ」

 強引に、かつ、正確に、ギイは自分の道を切り開いていく人だけれど、さすがにギイといえど、いつもいつも思惑通りにことが進むわけではない。

 実は今回も然りで。
Kホールの耐震工事計画を聞きつけたゲーム会社の広報担当者が同伴した外国人のエージェントと共同戦線を張って、事務局をどでかい爆弾を落としてくださったものから、Kフィルはまたスケジュールを変更を余儀なくされることになった。

「こちらは《Cosmo Frontier Symphonies》を演目とするワールドツアーの企画書です。いかがでしょう?
工事着工の直前にKホールにて東京公演を行い、それを皮切りに、ソウル、北京、上海、シンガポール、シドニー、ウィーン、ミュンヘン、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスを二ヶ月半かけて回るというツアーなんですが。
全世界の《Cosmo Frontier》ファンのためにも、Kフィルの方々にぜひ承諾していただきたいんです。
ぜひ前向きにご検討してください?!」

 当然、事務局は嵐が来たかのような大騒動となり、Kフィルのメンバーたちは俄然、色めきだった。
突然降ってわいた、世界十か国を巡るなんともゴージャスなツアー企画にぼくは思わず頬をつねってしまったくらいだ。

「あの企画、本当に通ったんですか?」と半信半疑で呟く事務局長。
彼はあらかじめ事前に広報担当者からツアー実現の可能性を示唆されていたのかもしれない。

「十か国とは、こりゃまた大きく出たねえ」
「世界! 世界ですよ? 絶対これはいい経験になりますよ!」
「さすが《Cosmo Frontier》! すげー」

 だが、若干一名、このゴージャスな話を聞いてショックを受けている人物がいた。ギイである。

「長期休館がまさかツアーのきっかけになろうとは……。迂闊だった。足をすくわれた思いだぜ」
「それって例の計画?」

「まあな。計画に軌道修正が必要になっちまった」
「ふうん。それにしても、《Cosmo Frontier》って本当にすごい人気だねえ」

「確かにあのゲームはよくできてるよ。売れるのもわかるな」
「そうでしょうとも。まさかギイがあんなにゲームに嵌るとはぼくも思わなかったよ」

 いつも忙しい忙しいと言っているギイなのに、ここ最近は家に帰ってくるとゲーム三昧。
発売前だというのにどうやったのか、まだ世の中に出回っていない《Cosmo Frontier》を手に入れて以来ギイはゲームに熱中していた。
すでにゲームクリアは済ませていて、今は細かいところを地道にやっているのだそうな。
一度、ゲーム中に落雷で停電したのだけれど、「マジかよー、セーブしてねえ!」と叫んでギイはソファーに倒れ込んでいた。
それまでやっていた努力が露と消えたのが余程ショックだったらしい。
「大丈夫?」って訊いたけれど、再び明るくなった部屋の中でがっくりと項垂れたギイの周囲だけ暗く淀んでいて、それ以上は声がかけられなかった。

──ホント、あれは仕事人間のギイのイメージがガタガタ崩れた瞬間だったなあ。

 ギイは凝り性だと思う。
ギイのようにとことん突き詰めるまで諦めない性質の人がゲームにのめり込んだら命取りだ。
見ているこちらのほうがハラハラしてくる。
とにかく、何かに憑かれたようにただひたすらプレイしているのである。
ヘタすれば睡眠時間を削っている可能性もあるし、このまま続けば仕事へ影響がでるかも、と心配になって、一応島岡さんにちょっと言っておこうかとぼくは本気で迷ったものだ。

──今はある程度プレイし終わったのか、一時期よりは随分マシになってるからまだいいんだけどね。

「たくさん売れるってことはそれだけの魅力があるってことだろ?
オレがプレイしたところで、大勢の中のひとりに過ぎない。別にヘンじゃないだろが」
「うわっ、あれを『プレイ』の一言で済ませちゃうんだ。ギイの場合、そんな次元じゃないと思うんだけどな」

「そうか?」
「そうだよ。単にゲームしてるだけならともかく、ギイは周辺機器まで凝りだしてたじゃないか。
テレビの音響をよくするためにってスピーカーをセッティングするところまではまだわかるよ。
でもさ、ギイ。
技術開発部の人に、テレビ機能に《Cosmo Frontier》のゲーム専用の3Dカラー表示とか音響設定を入れたらどうかって言ったそうじゃない。
島岡さんが、ゲームに夢中になるにしても製品開発を自己満足に使うとはって呆れてたよ?」

「託生も島岡もわかってないなあ。《Cosmo Frontier》をプレイしている人数を考えてみろよ。
世界規模だぜ。それらの中にテレビを買い替えようとしている人がいる。
だったら、より迫力のあるオリジナルに近い画像や音質でゲームを楽しみたいって思うのが人情ってもんだろ?
絶対売れるぜ、アレ。試作品さ、もうそろそろうちに届くことになってるんだ。
そしたらパラメータ最高値まで頑張ってみるかな」

 嬉々としてギイは言う。
何ごとにも百パーセントを目指すところはいかにもギイらしい。
けれど、モノには限度というものがある。

「呆れた。結局、自己満足なんじゃないか」
「ふっふっふ。欲望とはいつの世も人を動かす活力となるのだよ、託生くん。
巫女姫と皇子が再会して抱き合うあのシーンのおまえのバイオリン、オレすげえ好き。
いい曲だよな。ピアノとバイオリン、滅茶苦茶合ってた。綺麗な画像にいい音楽。あー、楽しみだな」

 ぼくだって、ギイが《Cosmo Frontier》にのめり込みたくなる気持ちがわからないではない。
《Cosmo Frontier》はとにかくスケールが何もかもでかいのだ。
ストーリーもデザインもシステムも音楽も。

 ゲームをほとんどしたことがないぼくだって、ギイがプレイしているのを見ていると、《Cosmo Frontier》の世界にいつの間にかぐいぐい惹き込まれてしまっているくらいなのだ。

──でもやりすぎはよくないと思うけどね。

 《Cosmo Frontier》の音楽は壮大なオーケストラ演奏が大部分を占めるのだけれど、いくつか小曲もあって、ぼくのバイオリンソロ演奏の曲もその中に入っている。
ギイが気に入ったと言ってくれた曲は、ゲームの主題曲でありオープニング曲でもある「悠久」をピアノ伴奏つきバイオリンソロバージョンにアレンジしたもので、ゲームの挿入曲の中でぼくの一番お気に入りの曲でもある。

 Kフィルのコンサートマスターを拝命しているお蔭でソロのオファーが来たのだろうけど、オケでは味わえないすごくいい経験をさせてもらえたとぼくは今も感謝している。
《Cosmo Frontier》の音楽に携わることができたことを、今更ながらに誇りに思う。

 オーケストラ演奏のレコーディングはKホールで演奏し録音したのだが、「悠久」を含むすべてのバイオリンソロの曲は音楽スタジオで行われた。
初めてスタジオというところに足を踏み入れたぼくは感心と驚きの連続で、分厚いドアひとつに見ても「へえ」って驚いていた。
スタジオの一画にドラムが置かれていたところがあって、そこが小さなひとつの部屋になっているのだが、そこにもドアがあって、信じられないことに半分浮いている部屋だというのだ。
聞けば、防振のためにそういう小部屋になっているらしい。
見ること聞くこと知らないことばかりでいつもキョロキョロしていて、何だか都会に出てきたばかりの田舎者丸出しのおのぼりさんの気分だった。

「何事も経験かぁ……」

 そうして、とんとん拍子にツアーの件は決定し、Kホールの耐震工事もはじまり、Kフィルは国内主要都市でのコンサートを滞りなくこなしたあと、《Cosmo Frontier Symphonies》ワールドツアーに突入していった。

 そうして二か月半かけて、ぼくたちはアジア、オセアニア、ヨーッロッパ、アメリカの順に回り、大きな事故にあうこともなく、天候にもほどほど恵まれつつ、どの公演も大盛況のうちに幕を閉じることができた。

 今でも耳に残る拍手喝采と「ブラボー」の声援に心が躍る。
無数の雨粒が屋根に降り落ちて鳴らしているかのように、小学生くらい子供から高齢者の方まで幅広い年齢層のたくさんの方々が笑顔で手を叩いてくれて、それがまた会場が割れんばかりで、拍手の振動に身体が震えて、なかなか興奮が治まらなかった。





「次に会うまで生きてろよ」
「腕、上げてくるからな。見てろよォ」

 最後のロサンゼルス公演を終えたぼくたちKフィル楽団員は、Kホールが完成するまでこれでしばらく別れとなる。

 一生の別れというわけでもないのに、何とも言えない寂寥感に襲われたのはきっとぼくだけではないだろう。
Kフィル楽団員をはじめ、スタッフ、ツアー関係者で行われた打ち上げは夜通し行われ、盛大な盛り上がりを見せると、最後はみんなでハグをして再会を約束して別れを惜しんだ。

 ぼくは打ち上げの閉めの言葉を頼まれた。
ちょっと酔っぱらっていたので、ちゃんと話せるか自信がなかったけれど、みんなから熱烈に催促されたので思いきって頷いた。

「皆さん、二か月にわたる長いツアー、本当にお疲れ様でした。
スタッフや関係者の方にもすごく恵まれて、みんなでいい演奏ができて本当によかったです。
本当にすごくたくさんのお客様に喜んでいただいて、皆さんもこのツアーで得たものがいろいろあったと思います。
二か月とちょっと、本当にいい時間を過ごさせていただきました。
これから長い休みに入りますが、皆さん健康に気をつけてください。
それと、落成式のセレモニーでの演奏曲ですが、スケジュール表通りに最初の合わせはTホールで行います。
Kホールは二回目以降からですので、くれぐれも場所を間違えないように。
ではお互い元気な顔でTホールで会いましょう。四か月後の再会を誓って!」

 確か、そんなようなことを言った気がする。
みんなが、「はい!」と元気に返事をしてくれたのを覚えているし、一本締めをした記憶もちゃんと残っている。
けれど、どうやってホテルに帰ったのかは定かではない。

 翌朝、SPのひとりが心配げに、「二日酔いの薬、もらってきましょうか?」と声をかけてきたくらいだから、余程顔色が悪かったのだろう。

「薬はいいです。あー、できたら冷たい水をお願いします」
「レモン水にしましょうか。きっと頭がすっきりしますよ」

「あ、じゃあそれで」

 レモン水は美味しかった。
ぼくのSPは警護だけでなく、酔っ払いの介抱にも慣れていて、優秀な人は何をやらせても優秀なんだなと思い知った朝だった。

 ツアーの最後がロサンゼルス公演だったのもあって、ギイと相談して、ぼくはそのままアメリカに残ることした。
実際、楽団員の中にはぼく以外にも、ツアーが終了しても日本に帰国しない人が結構いたようだ。
何しろおよそ四か月間の滅多にない長期休暇なのだ。
アメリカに残り、ハリウッドやラスベガス、マンハッタンなどを回ってアメリカ芸術の最先端を肌で感じようとする人、アメリカやヨーロッパの音楽学院の短期講座へ留学する人、そのまま空港から世界遺産を求めて旅立つ人など、みんながそれぞれ思い思いに散らばっていった。

 Kフィルの本格的活動再開はKホールの柿落しと決まっていたので、各自それまで充電期間に充てるのだろう。
実際はリハもあるので、休みそのものは三か月半といったところなのだが、それでも長い休暇となることは違いない。

 そして、ぼくも。
ギイの住むアメリカで最初の一歩を踏み出そうとしていた。



 そんな時だった。

「CMソングのオーディションに応募してみないか? 今度ニューヨークであるんだ。
ほかにもレセプションでの演奏とか、探すといろいろあるらしい」

 ギイが突然、言ってきた。

 どうやらギイの計画というのは、「ぼくがアメリカに住みながら単発の仕事をする」だったようだ。

「今回はチャレンジでいいじゃん」とギイからフォローが入ったくらいだから、ぼくは相当心細そうな顔をしていたのかしれない。
それでもギイがくれた「チャレンジ」という言葉が、アメリカで仕事をするという不安を少しだけ削いでくれたのは本当で、頑張れるだけ頑張ってみようと気持ちになった。

「ちなみに何のCM?」
「お。託生くん、やる気だねえ。いい傾向だ」

 とにもかくにも英語ができないと仕事にならないだろうという思いが今まであったから、アメリカで仕事をするなんて夢のまた夢だと思っていた。
漠然と想像したことはあっても、実際本気で考えたことなど一度もなかったというのが正直なところだ。

 でもだからと言って、いずれはグリーンカードを取得してアメリカに住むとギイと約束した以上、仕事のことをまったく考えなかったわけでもなくて。
かといって、住む場所を与えられて、ギイの帰りだけを待っているような専業主婦のような生活なんてぼくには考えられないまま未来が見えなくて。
心のどこかで漠然とした不安を感じていたような気がする。

──ギイ、もしかして気づいてた?

 ギイはぼくの不安を摘み取るのがすごくうまい。

──ぼく、本当にアメリカで仕事していけると思う?

 もしもバイオリンで食べていけるなら……。
そう思うだけで、ほわっと胸が温まる。

──オーデションというからにはきっと実技テストがあるんだろうし、その場合、英会話力云々というよりはバイオリン演奏の如何で採用されるかどうかが決まるのだろうから、言葉は何とか誤魔化すとして、演奏だけでも頑張ってみよう。

 こうして手探り状態のアメリカ生活が始まった──。





 島岡さんの友人の友人、ぼくにとってほとんど他人と言っていいほどの人が音楽事務所に勤めていた経験があるから、その人にマネージメントをしてもらいながらいくつか腕試しにオーデションを受けてみないかとギイに言われた。

 アメリカでは右も左もわからないぼくである。
島岡さんが専門の人を紹介してくれるというのなら、大助かりだ。ぼくは有難く甘えることにした。
これもある意味、経験を重ねるチャンスかもしれないと思って、ギイに唆されるままふたつ返事で頷くと、それ幸いにと三日後には島岡さんからイーサン・ラードナーという人を紹介された。

 どこかの研究所で何かの薬を調合していそうな、銀縁メガネが似合うキリッしたその人は音楽業界専門のマネージメントのプロなんだそうで、ぼくが《Cosmo Frontier Symphonies》のバイオリンソリストだと知るやいなや、息ができないくらい熱い抱擁で歓迎してしてくださった。
ヒョロッとした細見のわりに腕力がずば抜けている。
笑うととても優しげな人に見えた。

 ぼくが英語をあまり得意としていないことは事前に話がいっているらしく、イーサンはゆっくりと短いフレーズで話してくれた。
お蔭で英語が聞き取りやすくて、何だか急に英語がわかるようになった気分になった。
言葉自体も態度もとてもラフな感じで、こちらとしても思ったより気負わずに済んですごく助かった。

 彼の言葉をフィーリングで脳内変換すると、つまりこんな感じになる。

「わお、あの『悠久』のバイオリニストだって? そんな話、ぼくは聞いてないよ!
なんてラブリーなニュースなんだ。神に感謝しちゃうよ」

 ぼくも「あなたに会えて嬉しいです」にあたるお決まりの英語のフレーズで挨拶をした。
すると、彼はポケットからそそくさと電磁辞書を取り出して、何やら文字を打って、「ヨ、ヨロシクオネガイシマス?」とわざわざ日本語で言ってきた。
たどたどしい日本語だったが、彼の気持ちがとても嬉しかった。

 そんな微笑ましいイーサンを見て、島岡さんがちょっと笑いながら、
「イーサンは日本語がまったく話せませんけど、日本語にすごく興味を持ってましてね。
昨日、英和辞書が入っているアレを早速買いに走ってましたよ。
外国語習得はイーサンの趣味なんです。日常会話くらいなら確か五、六ヶ国語は話せるはずです。
彼、この機会に託生さんから日本語を学びたいんだそうです。こう見えてすごく優秀なんですよ。
彼のことだから、きっと日本語もすぐに覚えてしまうでしょうね。
託生さんがよろしければ、お付き合いお願いできますか?
その代り、イーサンも託生さんの英会話練習のお手伝いをしてくれるそうですから。よかったですね」
と言ってくれて、ぼくはイーサンに一気に親近感が沸いてしまった。

 彼にしてみればギブアンドテイクということなんだろうが、言葉がちょっとわからなくてもお互いさまで、ヘタクソでも気兼ねしなくていいのはものすごく楽だ。

「島岡さん、よろしくお願いしますって英語でどう言えばいいんですか?」
「日本では日常的によく使いますが、実はそれに相当する英語はないんです。
強いて言えば、先程の託生さんの挨拶がそれにあたりますかねえ。
まあ、笑顔で挨拶されて悪い気がする人はいませんから、あまり細かいところは気にしないで大丈夫ですよ」

──うん。いい人間関係を築くには、まず笑顔で挨拶が基本だよね。

 一見簡単で、でもたまにおろそかにしまいがちなもの──。
その中には、本来とても大切で大事にしなければならないものがたくさんある。

 ここ数か月、ギイと婚約してからは、安全面やSPの手間を考慮して車での移動が多くなっているけれど、それより以前はぼくは電車をよく利用していた。
たまに、駅のホームで電車を待っている時とかに、小さい子を連れたお母さんが「ちゃんと挨拶するのよ」とか、「ありがとうって言えた?」とか言い聞かせているのを何度か見かけて、あんなに口うるさく言わなくても、とその時は思ったものだけど。

──お母さん、あなたたちは正しかったです。

 社会生活の大切な基本が身についていないと、あとで困るのは子供たちだ。
母親たちが必死になる気持ちが社会に出てみて痛感させられる。
挨拶ひとつまともにできない社会人は結構いるものなのである。

「悠久」の録音のためスタジオ入りした時、夕方でも平然として「おはようぼざいまーす」とスタッフに言われて、最初ちょっと違和感を持った。
けれど、窓ひとつない密室の中に長時間こもっているうちに、年がら年中昼も夜もわからないこんなところで仕事をしていれば、いつでも「おはようございます」は超便利で言いたくもなるかと思うようになった。

 島岡さんが笑顔いっぱいにしてアドバイスをくれる。

「何事も産むがやすしです。習うより慣れろですよ」

 まさにそれこそが真髄なのだろう。

「そうですよね。やってみます。えっと──Thanks for the happy chance to see you.!」
「So do!」

 イーサンもニコニコ顔で答えてくれた。

 それからその日一日、ぼくはイーサンととにかくしゃべりまくった。
まさにそれは主婦顔負けの世間話のオンパレードだった。

 お互いの呼び方は何て呼べばいいかから始まり、思いついたまま、お互いいろんなことを話した。
といっても、ぼくの英語力は底が知れているので、電子辞書を引いたり、ジェスチャーを交えたりしてのおしゃべりだったのだけれど。
それでも何とか向こうの言いたいもわかるし、ぼくが伝えたいことも相手に通じているようだから良しとした。

 ヘタクソなりに英語で話せてるじゃないか、と実感できるのはすごく楽しかった。
今のぼくの実力では一から十まで全部理解するのはまだまだ遠いの先のことかもしれないけれど、だいたい半分わかれば何とか受け答えはできるもので。

──まあ、ぼくのことだから、もしかしたら聞き違いしているかもしれないんだけどね。

 その可能性はものすごくありそうだが、それはそれ。
ここは気持ちを大らかに持って、細かいことは気にしないようにした。

──ギイや島岡さん相手だとこうはいかないなあ。

 英語を目の敵にしているわけないけれど、なぜかぼくは昔から苦手意識を持っていて、日本語が通じてしまうと楽なほうに逃げる癖がついていた。
ぼく自身あまり切羽詰ってなかったせいか、忙しいギイを相手に英会話を練習しようなんて考えたこともなかったし、英語で何とかしなくちゃってここまで自分を追い詰めた記憶もない。

 けれど、今はそうはいかない。
イーサンは日本語がわからないから、自分が英語で頑張るしかないって奮い立つしかないのだ。

 思うに、ふたりのおしゃべりが盛り上がったのは、話しやすかったから──これに尽きると思う。
イーサンはとにかくゆっくりと、ぼくがわからなければ何度も同じフレーズを繰り返し話してくれたし、日本に興味津々のイーサンが相手となると話題はやっぱり日本のことが多かった。
これはすごく助かった。
ぼくにもわかりやすい話題だとあらかじめ話の流れが予想できるので、こちらとしても聞き取りやすいのだ。

 最初、イーサンが興味を示したのは名前につける尊称で、「さん」とか「様」とか「ちゃん」とか日本語にはいろいろありますと言ったら、ものすごく驚かれた。
ぼくより年上の彼を呼び捨てにしていいものか迷っていると、日本では名前にさん付けで呼ぶのが普通という話になり、『では、私はイーサンサンになりますか?』と訊かれて、つい笑ってしまった。

──イーサンサンって何かヘン!

 結局そういうところからぼくたちの間柄は砕けていき、ぼくは彼のことを「イーサン」、彼はぼくを「タクミ」と呼ぶようになった。
それらすべて英語で何とか頑張ったのだから、ぼくとしてもちょっとは自信がつくというものだ。
現金なことに単語を繋げたような砕けた感じでも大丈夫とわかるとなるとますます英語に対して親しみが沸き、脳内変換もよく働くようになってくれた。

 そうは言っても突然英語がペラペラになるわけではない。
聞き取れないところは多々あるのは相変わらずだ。

 それでも、思っていた以上に相手の言っていることがすうと頭に染み込んできて、何ととなくだとしても相手の気持ちが伝わってくるのが実感となってじわじわ感じられるのが嬉しくて、英語でしゃべるという行為がだんだんと楽しくなっていった。

 やっぱり第三者を通してではなく、自分で直接話ができるというのは嬉しいものだ。

──学校で習った英語も馬鹿にできないなあ。中学生程度のでも結構通じたりして。
今更だけど、もっと真剣に勉強しとけばよかったな。

 イーサンは、外国語を習得するにはやっぱりその国の言葉にどっぷり漬かるのがいいとが言う。
複数の言語を操る先達者から「そのほうが耳も慣れていきますよ」の有難いアドバイスをもらって、なるほどと思った。

 確かにぼくにもそういう経験がないわけではなかったから、彼の言いたいことはすんなり理解できた。

「だったら、日本語はあまり使わないほうがいいですか?」
「でしたら、まずはまずはタクミの英会話力の上達を優先しましょう」

 そうして、英語に慣れろを実践するため、イーサンはぼくを英語漬けにする方針で行くと予告してきた。

「それではイーサンのためにならないです。だって、イーサンは日本語を習いたいんだろうし」

 イーサンの親切に甘えてしまっていいものだろうかと悩むぼくに、
「問題ないです。その代わり、私はタクミに日本についていろいろ教えてもらいますから」
イーサンはちゃっかりとそんなふうに言ってきた。
日本語修得は後回しになるのはよくても、日本の情報はは今すぐ知りたいらしい。

 そんなこんなで日本への憧れに目を輝かせた彼はますます欧米人感覚を全開にして、日本にまつわる不思議さをストレートに尋ねてきた。
それがまた、日本人のぼくが思いつかないようなところに興味を示すものだから、ぼくのほうが逆に驚かされてしまうのだ。
彼というか、アメリカ人というべきか、彼らの敏感な感覚は非常に面白みに溢れている。

 最初に「へえ」と思ったのが、東京かどこかの下町らしい場所の写真をイーサンが出してきてて、トタン屋根がたくさん並んでいるのが面白いと言ったことだ。
ぼくには普通の下町の風景写真にしか見えないのに、生まれ育った場所が違うと不思議な光景に見えるらしい。

 ギイはアメリカ人のくせに日本人のぼくよりもよっぽど日本人らしいところがあるからわからなかったけれど、普通のアメリカ人ってイーサンみたいな感覚をしているのだろうか。
そう思うと、単なるトタン屋根がすごく新鮮に感じられて、ぼくまでその写真をじっくりと眺めてしまtった。

「日本の文化は素晴らしいです。古い歴史も世界で一番古い天皇家も興味深い。
私はマンガ、アニメーション、ゲームも好きです。
タクミは《Cosmo Frontier》の仕事に参加できてラッキーでしたね。
私もタクミと一緒に仕事できてラッキーです。
ああ、『悠久』のバイオリニストが目の前にいるなんて、夢の中にいるみたいですよ」

 ちょっと照れてしまうけれど、イーサンのゆったりとした英語はそんなふうに脳内変換されてぼくの心に響いていった。

「ははは。ぼくもイーサンと友達になれてラッキーです」

 イーサンの青い目が眼鏡の奥で細められると、もともと整っている容姿をしている彼は二割増しにハンサムになる。
そのくせ、白い歯を見せるようにニヤッと笑うと真面目でクールなイメージがなぜか三枚目風に砕けた感じになって、最初のうちはそのギャップにすごく戸惑るぼくだった。
けれど、慣れるとそのギャップが面白く感じられて、どちらかというと人見知りをするぼくなのだけれど、イーサンに対してはすごく付き合いやすい人のように感じられた。

 イーサンはぼくのSPにも気軽に話しかけていた。
外見に似合わず中身はずいぶん社交的な人のようで、アメリカ人ってだいたいそういう感じなのだろうか。

──ギイも全然人見知りする性質じゃないもんなあ。

 とはいえ、人種のるつぼのアメリカだけあって、アメリカ人をひとくくりにするのは難しいようだ。

──それはそうだよね。日本人にもいろんな人がいるんだから。

 ちなみにイーサンはイングランド系アメリカ人なのだと言う。
日本人の感覚だとよくわからないのだが、外国から移住したり、外国に移り住んだりするのはアメリカではそれほど珍しいことではないらしい。

──まあ、アメリカ人のギイと結婚したぼくもいわゆる国際結婚組なわけで、他人のことをどうこう言えないんだけど。

 やはり英語が話せるのは強みなんだろう。
世界で利用されている言語の上位三つは、英語、中国語、スペイン語と言われている。
とりあえず英語が話せたら世界中どこに行っても何とかなる気がするのはぼくだけだろうか。

「私の両親はイギリスから移民して来ました。
イギリスの父も母の実家はどちらもアッパーミドルクラスでした。
父の従妹の結婚相手は貴族でしたが、貴族と言っても領地も何もない名ばかりで……。
でも、従妹の夫の本家は今も城に住んでいるらしいですよ。
このご時世では貴族が領地や城を維持するのも大変だと聞いています。
生まれながらにして守らなければならないものあるというのは大変な責任を持って生まれてきたということなのでしょうね」

 そう言ってイーサンはSPの人たちを眺め見てから、ぼくにひたと視線を戻した。

「今や、ミスターサキはアメリカ経済界のプリンスと言ってもいいでしょう。
彼はイギリスの貴族のように守らなければならないものや大きな責任をたくさん持っています。
タクミはそういう人と結婚したのですね。私はきみの勇気に素晴らしいという言葉を送りたいです」
「そんな大げさな。でもありがとう。イーサンの言葉は嬉しいです」

 島岡さんの紹介だけあって、イーサンはギイが生きている世界やぼくの置かれている立場をよく理解してくれているようだった。
それも本当の意味で、だ。
ちゃんとわかってくれる人が近くにいる──、それがどれほど心強いことか。

 帰宅したギイにその日のことを話して聞かせると、ギイは最初は「へえ」ってふうに聞いていたのに、そのうち腹を抱えて笑ってくださった。

「オレがプリンスなら、さしずめ託生はプリンセス?」
「笑っちゃうよね」

 ギイが調子に乗って、「ドレスを買うなら見立ててやろうか?」とふざけてきたので、「だったら王子タイツはぼくが選んであげるよ」と応酬しておいた。
ある意味、スタイルのいいギイなら似合うかも、と男性バレエダンサーを思い浮かべていたぼくに対して、ギイの感想は違ったらしい
ギイを振り返ったら、渋い顔して、げえ、と舌を出していた。

──こんな姿、Fグループの社員には見せられないよ。

 Fグループの将来が若干心配になったとしても、そんなことは誰にも言えやしない。
ぼくはギイに隠れてどこかに穴を掘り、「王様の耳はロバの耳」と囁きたくのを我慢するしかないのだった。





 イーサンはぼくが関われそうな仕事の情報をその後もいろいろ持ってきてくれた。

 その中のひとつに、ギイが言っていた新型車種のCMの仕事も入っていた。
仕事といってもオーデションに受からないと話にならないのだけど。

 新型車種は、洗練されたボディ、細部まで快適仕様の、車こだわる大人が乗るのにふさわしいハイクラスのセダンタイプなのだとか。
このCMに注目すべきはそれだけではない。
CMテーマ音楽の歌を、GBことジュリオ・バルドゥッチが歌うことになっているのもすごい魅力だった。

 GBはイタリア出身の新進気鋭のオペラ歌手で、彼のイニシャルにグレートボイスをひっかけて、世間の人たちは親しみと尊敬をこめて彼のことを「GB」と呼んでいる。
音楽家には多いのだが、彼も殊の外はっきりとした性格をしているという噂で、それを傍若無人気と取るか、正直者と取るかは受け取る側如何によるようだが、彼の実力が本物であることは誰もが納得しているところである。

 そのGBの歌声に合わせてバイオリンを弾けるかもしれないと知って、俄然やる気になったぼくはホント現金以外の何者でもない。

 高音が綺麗に響く、ファッショナブルなGBの歌声が、ピアノとバイオリンの調べにのせて、新型車の滑らかな走行をより優美にする……。
若者から熟練層まで幅広い年齢層の男性をターゲットにした新型車にGBの歌声とは、まさに最先端のイメージそのものじゃないかと勝手に空想の世界に浸りそうになるぼくを、イーサンが現実世界に呼び戻した。

「ピアノには、GBが贔屓にしているトリプルAランクのピアニストの起用が決まっているようですねえ。
オーデションはバイオリンパートだけのようです。
それでも、このCMの制作現場で新しい風を求めているのがわかります。
既存の活躍している人よりもまだ売れていない新人を発掘しようとしているのが見え見えですよ」

 オーデションの応募資格には、十五歳以上三十歳以下という年齢制限と他社と専属契約していないことが条件とされているのだと応募要項をイーサンが読み上げる。

 こういう資格条件はたまにあることらしい。
それはそうだろう。
有名な俳優や歌手を起用すれば知名度がある分だけ広告になるが、そういう売れっ子は大概にして契約料も桁外れになるから経費かかるものだ。
その点、新人はネームバリューがない分、安上がりで済む。

「ねえ、イーサン。ぼく、日本でオケに所属しているんだけど、それってこの専属契約、オーケーですか? 大丈夫?」
「問題ないですよ。
タクミの場合はオケという団体に所属しているという意味で、こちらの場合はある会社のイメージキャラクターに就いているかどうかを指します。
私の英語わかります?」

「……たぶん」

──しっかりしてくれよ、ぼくの脳内変換機能!
つまり、某劇団に所属している俳優があるメーカーの広告塔になっても大丈夫ってそれと同じようなものだよね。

「えっと。わかりました。ぼくは大丈夫、と。それでオーケー?」
「オーケー、オーケー。おそらく音大生とかもたくさん応募するでしょうから、タクミ、ファイト! オーケー?」

「音大生? もしかしてジュリアード?」
「そうですね。それにもしかしたらカーティスの学生も応募するかもしれませんよ」

──うわっ、プレッシャーだなあ。

「が、頑張ります」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。一次の書類選考、タクミは簡単に通りますから」

「え? どうしてそんなことがわかるんですか?」
「タクミ、コンクールで入賞経歴があるでしょう? それもヨーロッパの」

「あ、はい」

──そういやそうでした。もう何年も前のことだけど。

「アメリカではヨーロッパで行われたコンクールでの入賞はとても価値があります。
それはすごいプレミアムなのでオーデションでもあなたを助けてくれます」
「なるほど」

「多くのアメリカ人は歴史あるものに憧れをもっていますし、特にクラシック界においてはやはりヨーロッパが本場です。
アメリカという国そのものですら二百年ちょっとの歴史しかありませんからね。
何百年も前から音楽が生活の一部となっているようなところにはなかなか太刀打ちできません。
歴史が古いという点では、日本もすごいと思いますよ。
土を掘れば千年昔の土器が出てくると言うのですからブラボーです。
私もぜひ掘ってみたいですねえ」
「いやそれ、古墳群とか奈良とかの古都の話で日本でどこでも通じる話じゃないですから。
イーサン、わかってます?」

「オーケー、オーケー」
「ほんとかなあ」

 そして二週間後、イーサンの言った通り、ぼくのところに一次審査通過の連絡が来た。
当然、ぼくはギイに即座に連絡した。

「ギイ、とりあえず一次は通ったよ」
「やったじゃん、託生」

「うん!」
「二次審査は五日後か。その日が来るまでドキドキだな」

「それはそうなんだけど、何だかんだって言ってイーサンがこれまでにも飛び入りの仕事とか伴奏の仕事を持ってきてくれるから結構忙しくて。
どの仕事に行く時も毎回ドキドキだから二次審査だからって改めてドキドキしてるってわけじゃないんだ」
「何にしろ充実してそうでよかったよ」

 ぼくはコツコツと小さな仕事をしながら二次審査の日まで過ごした。

 二次審査の当日、イーサンが会場までぼくを送ってくれるというので甘えることにした。
と言っても、車を運転しているのはぼくのSPで、ぼくとイーサンは後部座席に乗り込んだのだけれど。

 オーデションまでの道すがら、ぼくはイーサンにSPをどこまで連れて行けるのか相談してみた。
イーサンと助手席に座るSPリーダーのトーマス・クロダがこれまた押し問答しながら折り合いつけたのが、オーデションが行われる階までは四人とも同行し、会場の許せる範囲までトーマスが通訳としてついていくというもので。
さすがに審査員のところまでSPを連れていくなんて勘弁してほしいのだが、トーマスは極力ぼくから離れたくないらしい。
以前、入国して早々に荷物の引ったくりにあった前科が彼の記憶に新しいのだろう。

「託生サン、あなたは目を離すと何が起きるかわかりませんからね」

 トーマスはどこまでも可能な限りついて来る気満々のようだった。

──目立ちたくないんだけどなあ。特別視もされたくもないし。
ほかの参加者の邪魔になっても申し訳ないしなあ。
でも、かといって何かあったらすべて彼らの責任になってしまうし、ギイにも迷惑かけたくないし。

「タクミ、大丈夫ですよ。中には母親と来る人だっているんですから」
「え? それってマザコンですか」

「マザコン……。いえ、母親がマネージメントしているんです。
子供の頃から活躍している人の中にはよくいますよ」
「なるほど。ステージママってやつですね」

「ステージママ? でも、母親は舞台に立ちませんよ?」
「タレントである子供のマネージャーを勤める母親のことを日本ではそう呼ぶんです」

「オゥ、ステージママ」
「ええ」

「では私は、ステージイーサンですね」
「ははは。それはナイスです、イーサン」

 そんなふうにぼくの気持ちをほぐしてくれるイーサンの気遣いがぼくはとても嬉しかった。



 ギイと結婚したことでぼくが負わなくてはいけないことのひとつに、ぼく自身の「安全確保の自覚」がある。
何人もの人たちがぼくを守るために努力してくれているが、ぼくが意識しなければ彼らの努力を無にしてしまい兼ねないのだ。
ぼくに何かあった場合、それはギイへの負担に直結し、ひいてはFグループで働く何万人という社員たちに迷惑がかかってしまう。
だから少しくらい不自由でも受けいなければならないのだと思っている。

 特にこの銃社会アメリカでは、日本のようにちょっと離れた場所から警備するなど考えられないとSPたちは口をそろえて言う。

 車が突然止まり、もうオーデション会場に着いたのだろうかと周りを見渡したら、「スクールバスが止まっているので、もう少しお待ちください」と運転をしてくれているSPから声をかけられた。

「スクールバスが停車したら、後ろの車も停車して追い越してはいけないんです。
対向車線の車も同様です。停車します。
子供がいつ飛び出してくるかわからないので」

 余程ぼくがどうして止まったのか不思議そうな顔をしていたのだろう。
助手席からトーマスがアメリカの基本的な道理規則を教えてくれた。

 日系人のトーマスは日本語を流暢に話せる。
いつもならぼくとの会話は日本語なのだけれど、今回は彼にも極力優しい英語で話してくれるよう頼んであるのでここ最近はすべて英語でやりとりしている。

「日本では交番というシステムがありますが、アメリカにはありません。
アメリカではパトカーがあちこちものすごく頻繁に巡回しています。
交番はすばらしいシステムですね。アメリカにもあればいいのですが」

 トーマスの英語はとても聞き取りやすい。
ぼくのためにゆっくり、簡単な会話を心掛けてくれているせいかもしれないけれど。

──そう言えば、トーマスは綺麗なアメリカ標準英語を話すってギイも言っていたっけ。

 日本でも関西弁や東北弁、そのほか、ぼくもわからないようなその地域独特の言葉などいろいろな方言があるように、アメリカでも地域によってそれぞれなまりがあるようだ。
英語のなまりってどうなんだろうと思ったものだが、ウィーンで知り合ったオーストラリア出身のピアニストがセンテンスの最後に「ヘイ!」と掛け声のようなものをいちいちつけていたのを思い出した。

──もしかしたらあれもなまりだったのかも……?

 こう考えると、最初にぼく専用のSPとしてトーマスが選ばれたのは、護衛の手腕もさることながら日本語が話せるから起用されたのだろうと思っていたが、もしかするとギイは彼の綺麗な英語も買っていたのではないだろうか。

──ギイ、もしかして、ぼくの英語のお手本になるようにって、そこまで考えて彼を抜擢してくれてた?

 気持ちが溢れて、じわっと血が目元に集まってくる感じがした。
ぼくって愛されてるな、と心が喜びに震えてしまう。

 そうこうしているとスクールバスが走り出し、ぼくたちの車も動き出した。



 オーデション会場をざっと見まわしたところ、五十人くらいの受験者たちで溢れていた。

「タクミ・ハヤマです」
「ミスターハヤマですね。こちらをどうぞ」

 受付を済ませるとオーデションスケジュールが印刷された用紙を渡される。

 二次審査は実技だった。
三分程度の曲を審査員たちの前で演奏するというものだ。
選曲は自由で、小曲でまとめてもいいし、長い曲の場合は時間が来たらストップがかかることになっているようだ。

 ぼくが選んだのはモーツアルトのバイオリンコンチェルト。
明るい感じの小曲なのでまとまりがいいかなと思って選んだ。
無名の曲よりも知られた曲のほうが実力を知ってもらえるという気持ちもあった。
もし、この曲そのものを知らないのだとしても、モーツアルトらしい明るくてテンポのいい曲想は気分をうきうきさせてくれる。
それは弾き手にとっても聴き手にとっても同じ心地よさを与えてくれると思うのだ。

 五人一組となり、一組ずつ呼ばれて審査室に入り、全員が弾き終わったところで五人そろって指定の待合室に行くようにと説明があり、ぼくの組は真ん中あたりの順番だった。

 一時間が過ぎて、ぼくたちの組の番が来た。
一緒に審査室に入ったほかの四人はおそらくみんなぼくより年下なのだろう。

 ピンと張りつめた空気が漂う部屋の中には、ずらっと並んだ審査員たちから離れたところに椅子が五つ用意されているる。
案内してくれた人は、「座って待っていてください」とだけ言うとすぐに部屋を出ていった。

 審査員のひとりが、番号と名前を読み上げる。
それ以外の人はほかの人の演奏を聴きながら自分の番を待っているらしい。

 一番最初の人の演奏がはじまった。
そうしてぼくたち五人は、順番に呼ばれたら前へ出て弾いて、時間になったら自分の席に戻るの繰り返しを求められた。

 ぼくは五番目で最後だった。 
待っている間、先に弾いたほかの四人の音を聴いていたのだけれど、あまりにも実力に差があるというか……。
うまいなと思わせる青年もいたが、中には独学で学んだんだろうなという感じの少年もいて、正統派からオリジナリティ溢れていたりと、正直その範囲の広さにすごく驚かされた。
何と《Cosmo Frontier》の「悠久」を弾いた人もいて、ちょっと感動しちゃったりなんかして。
彼らの演奏に自分らしく弾けばいいのだとぼくは教えられた気がした。
お蔭で自分の番ではのびのびと、あまり緊張しないで弾けてよかったと思う。

 弾き終わって席に戻ろうとした時に、「きみはクラシック専門か?」と審査員のひとりに質問され、「はい」と答えた。
それが唯一審査員室での会話となった。
ちなみにぼく以外は誰も質問されていなかった。

 審査室を出ると、ぼくたちは前とは違う待合室に通された。
途端、一緒に出てきたほかの四人に「誰に習ったのか」とか「ジャズは弾かないのか」とかそんな感じのことを訊かれて、みんながすごく気さくに話しかけてきたものだからこれには驚いた。
審査が終わってほっとしたのはぼくだけじゃないんだと、そこでやっとぼくも緊張を解くことができたのだけど。
それにしても、終わった途端一変してすぐに打ちとけてくるこの気取りがないさまはやはり国民性なのか。
もしかしたら同じ釜の飯を食った仲というか、苦労と共にした戦友というか。
みんなそういうノリでおしゃべりを楽しもうとしているのかもしれない。

 なぜかはわからないけれど、いざという時、開き直る性質のぼくは、どちらかというと上がり症ではない。
だからといって緊張をしないというわけでもなくて。
弾き終わったあとの解放感は何とも言えない充実感に満たされて、この瞬間は一度味わったら癖になる体験だと毎回感じるのだった。

 それは音楽を志す者ならば誰しもが感じることなのだろう。
みんな、審査前と比べてずっと表情が明るかった。

 三時間にわたる二次審査が全員終わると、三十分ほどしてから合否の結果が発表された。
番号の若い順に呼ばれて行き、呼ばれたものは最終選考に進むことになる。

 ぼくの番号もどうにか呼ばれ、ほっとしていると、顔見知りになった今日のライバルたちに肩を叩かれ、驚きつつもすごく嬉しく思った。

「いい演奏だったよ」
「次も頑張れよ」

 オーデションに落ちたというのにラフで陽気な雰囲気で接してくれるのがすごくアメリカだなあとしみじみ感じ入る。
心から「ありがとう」の言葉が口から出て、自然とぼくの顔もほころんだ。

──日本だとこうはいかないな。同じ「頑張れよ」でもこんなに明るい感じにはならないもの。

 過去の経験を振り返って比べても、アメリカという国はとても大らかで陽気な国だとつくづく思う。
けれどその反面、この国は緊張する国でもある。
相反した感想かもしれないけれど、どちらもぼくにとって正直なアメリカのイメージだった。

 クラシック一辺倒できたぼくにとって、こういうオーデションは何もかもが初めての経験なのだが、スタジオミュージシャンというのは毎回こんなにオーデションを受けて仕事を得ているものなのだろうか。
それとも大きな仕事となるとこういうオーデションがあるのが普通なのだろうか。

 彼らの多くがGBとの共演を夢見て応募してきたんだろうなと周囲を眺めつつ、自分もその中のひとりなんだと思わず足元に目が行った。

 最後の通過者の番号が発表させると、別のスタッフが手をあげて、叫ぶように封筒を示した。

「二次審査を通過した人はこちらの封筒をお持ちください! 最終選考の概要が載っています。
受け取った方は同意書にサインをお願いします!
なお、同意書にサインをいただけない場合は、最終審査への参加資格がなくなりますのでご注意ください!」

 ぼくの分をもらい、中身を確認すると、最終選考への案内と譜面が入っていた。
譜面はメインのメロディ、バイオリンパート、ピアノの伴奏に分かれていて、ざっと目を通すとバイオリンパートの中盤部分のカデンツァがパッと目についた。
最終選考での実技は、当のCM音楽で行うらしい。

 最終選考に残ったのは全部で八人。
遅いランチを済ませたあと、九十分間の練習時間を与えられ、午後三時から選考が始まった。

 最終選考では、まず通過者八人がそれぞれ簡単な自己紹介をした。
半数が十代、残り半数が二十代の通過者のうち、現役音大生の参加が三人いて、自分の経歴を誇らしげに語るライバルたちの多くが、名の知れた音大生、もしくは卒業生だったのにはちょっと慄いた。
ここまで勝ち残る人たちなのだから実力があるんだろうなとはある程度想像してはいたが、ジュリアードの名が半数近くの人から出た時点で、もう「うわあ」って感じで。
でも、それだけ魅力ある仕事なのだろうと思うことにした。

 大丈夫かな、とちょっと弱気になったことはギイには内緒だ。

 ちなみに順番に自己紹介をしていた時、ぼくの番になって、名前に続いて年齢を口にした途端、審査員のひとりから、「え? この中できみが二番目に年かさなのかい?」と素っ頓狂な質問をされ、ほかの審査員だけでなく、ライバルたちの注目を浴びてしまった。
ぼくとしては「またか」という感じで少しだけやさぐれ気分になったのだけれど、かえって闘志が沸いて一気に緊張が解けたので、予想外のラッキーだったかもしれない。

 ぼくのあとにまだ自己紹介をしていない人がひとり控えていたのだが、どう見ても彼は二十代前半という感じだった。
実際彼はぼくの後の自己紹介で、十九歳だと明かしていた。

──あれで十九かあ。大人っぽいなあ。

 ぼくに限らず日本人というか、東洋人全般が実年齢よりも若く見られがちなのはよく聞く話だし、事実、ウィーンに留学していた頃も年相応に見られたことは稀だったので、ぼくとしては今更な感じの感覚しかなくて。
別の審査員から「若く見えるね」と言われて、「年相応です」と平然と返したところ、「いやはや、羨ましいねえ」と苦笑されてしまったが、 「I look my age.」の英語が口からすんなり出たことに気をよくしていたぼくはとりあえず、賞賛の言葉として素直に受けとめることにした。
ここはやっぱり返事は、「Thank you」でいいのかもしれない。

 意外だったのは、最終選考でひとりずつ演奏する際、残りの七人も審査員と一緒にほかの人の演奏を聴くようにと言われたことだ。
このやり方は先の二次審査と同様であることに気付いたぼくは、他人の演奏を聴いて勉強する機会を与えてくれるその気遣いに、主催者側というか、アメリカならではの懐の深さを感じていた。

 八人がそれぞれ演奏を終えると、スタッフのひとりが一枚ずつ真っ白な紙をぼくたちに渡してきた。

 紙が全員に行きわたったところで、中央に座っていた審査員の男性が声高々に言い放った。

「私たちもひとり選ぶが、きみたちもひとり選んでほしい。
もちろん自分の番号は除いてだ」

 さすがにこれには八人全員が驚いていた。

 ぼくは目から鱗が落ちる思いだった。

──つまり、自分の耳も試されるってことか。

 数分後、みんなが記入し終わるのを確認した審査員が、「オーデションの結果は後日連絡します。くれぐれも今日の曲については他言しないように」と告げて、長い一日がやっとの終わった。

 その翌日、電話を受け取ると初っ端から早口の英語でしゃべられて、ぼくがあたふたしていると、ギイが「しょうがないなあ」と言わんばかりに受話器に手を伸ばしてきた。
ぼくは即座にギイに甘えることにする。

「ハロー。電話を代わりました。託生は英語がまだ不慣れなので、私が通訳します」

 ギイは何やらどんどん早口で話していて、最後に「Thank you」と結んで電話を切った。

「何だって?」
「最終選考でひとりに絞られなかったらしい。どうやらふたり残ったんだってさ。
そのうちのひとりが託生で、もう一度託生ともうひとりの候補者に演奏してもらって。最後のひとりを決めたいからまた来てほしいそうだ。
今度はGBも聴きにくるようだぞ。よかったな、託生」

「GBの前で演奏するの? うわっ、どうしよう」
「すごいじゃないか。これはチャンスだぞ」

「うん!」

 あの中から選ばれて、残ったことがすごく嬉しかった。
もちろん、GBに会えるっていうニュースにもわくわくだったのだけれど。

 ぼくが言うのもおこがましいが、最終選考に残った八人の演奏は大差ないように思われた。

 あの時ぼくが選んだのは、現在ジュリアードに通っているという二十一歳の学生の演奏だった。
ほかの六人もみんな上手だったが、彼はほかの人たちよりも基本に忠実な演奏をしていたように聴こえたのがすごく印象に残っていた。
決してほかの六人が悪いというわけではない。
みんな相当弾きこんでいる人たちなのは聴いてすぐにわかった。

 ただ、今回、ぼくたち候補者に求められているのはオペラ歌手の伴奏ということだったので、クラシック色の強い彼の演奏が一番歌が映えるだろうと考えて選んだだけの話だ。

 あの最終選考は自分の実力を披露する機会であったことには間違いない。
でもそれならば、ただの実力比べならばあの譜面でなくてもよかったはず。
けれど、渡された譜面にはちゃんと歌詞までついていた。

 GBが歌うメインメロディ、そしてバイオリンとピアノの伴奏譜。
あの譜面に書かれたバイオリン譜はあくまで伴奏として作曲されていたもので、歌よりもバイオリンが前面に出るべきではないとぼくは判断した。

 思うに、ぼくがふたりのうちのひとりに残ったのは、それが正解だったからではないだろうか。

 ぼくがそう言うと、ギイは、「音楽って奥深いな。まるで推理してるみだいだ」と深く息を吐き出した。

「託生がいる世界はすごくロジカルなんだな。もっと感性主体なんだと思ってたよ」
「ギイの言うとおり、ぼくだって音楽は感じるものでいいと思ってるよ。
ただ、どんなふうに聴こえたら一番気持ちがいいかってことを考えると論理的にならざるを得ないのかも」

 ギイのいる世界がぼくには難しいように、ギイもぼくのいる世界が小難しいのかもしれないと思うだけで、ちょっとだけ「やったね」って誇らしく思えてしまう。
わずかでもギイでもわからない世界があるのはぼくにとって救いかもしれない。

「託生ってすごいんだな」
「何言ってるの。出来すぎのギイにそんなこと言われたくないよ」

 冗談ではなく、本当に嫌味にしか聞こえない。

「ここは素直に受け取れよ。オレはお世辞で他人を褒めないぞ」
「だったら半分だけ有難く受け取っておくよ。残り半分はお返しします。
ギイはぼくに甘いから、判定基準も甘々だろうし、半分くらいが丁度いいだろうからね」

「信用ないなあ、オレ」
「信用はしてるよ。だからそんなにいじけないで」

「そうだなあ。託生がキスしてくれたら、イジケ虫も吹っ飛ぶかも」
「虫にキスするのは勘弁かな。ぼく、虫は苦手です」

「泣き虫のくせに。それとときどき疳の虫」
「誰が!」

「託生に決まってる。でもそういう表情が豊かな託生ってオレ、好きだな」
「あー、そうですか。それはアリガトウゴザイマス」

 今のアリガトウは気持ちがこもってなかったぞ、と拗ねられて、いつの間にかギイの手の内に嵌ってしまうぼくなのだけど、ギイがキスの雨を降らせながら「託生って音楽と相性いいよなあ」と感慨深く言うので、ぷっと思わず笑ってしまった。

「突然どうしたの、ギイ」
「うーん、ちょっとヤキモチかな」

「それはいい気味」
「お。そんなこと言っちゃう?」

「だって、ぼくのライバルはギイのオシゴトだからね。
何度我慢を強いられたことか。もう目の敵くらいになってるよ」
「そっか。それは申し訳なかったな。では両成敗ということで」

「うん。お互い様ということで」

 お互い譲ることでぼくとギイの平和は保たれている。

 久しぶりにギイと過ごす休日の午後は、そんなふうにふたりで過ごした。

「今度、外でおいしいものでも食べようって言ってただろ。うまいところ予約しといたから」

 蕩けるような笑顔でデートの約束を取り付けてくるギイに、ぼくも笑顔で「ありがとう。楽しみだな」と答える。

 ただし、釘はしっかりさしておくことも忘れない。

「ギイ、仕事はちゃんと終わらしてきてね。
島岡さんに残りの仕事を押し付けてくるのってのはナシだからね」

 実はぼくは島岡さんから、「託生さんはいい秘書になれますよ」と褒められるのが結構嬉しかったりするのだ。
彼からは見返りに、会社でのギイの小ネタを教えてもらうのがぼくの密かな楽しみだった。

「ふふふ。ギイ、デート楽しみだねー」

 ギイが片眉を器用に歪めて、小さな溜め息を零す。

「託生がだんだん島岡に毒されてる気がするのはオレの気のせいか?」

 不機嫌な呟きは、煌びやかに宝石のように輝くマンハッタンの眼下の夜景に紛れていった。





 本当の意味での最終選考の日がやってきた。

 指定された音楽スタジオに赴くと、スタッフがもうひとりの彼から交通渋滞で遅れてくると連絡があったと教えてくれた。
ぼくのライバルの名前はレオナルド・メイソンといい、ジュリアード卒業間近の学生らしい。

 三十分ほど遅れてレオナルドが到着し、彼の顔を見て、ぼくが選んだ学生とは別人だったことに寂しさを感じつつ、選考会場となるAスタジオにふたりそろって入っていった。
ミキシング・コンソールや各種音楽機材が置いてあるコントロールルームとは防音ガラス窓で仕切られた向こう側のブースでは、ひとりでマイクに向かって発声練習をしているGBの姿が見えた。

 ぼくたちが入室して、ドアが分厚いドアが閉まるのを確認したミキサーが、ミキシング・コンソールのつまみをいじる。
すると、GBの声がコントロールルームのスピーカーから聞こえてきた。

──ああ、すごく胸に響く声だ。チェロみたいな柔らかくて豊かな音……。人間ってすごいな。
GBが教会で聖歌を歌ったらみんな腰砕けそうだ。

 教会で声を張り上げて歌うGBの前でバッタバッタと人が腰を抜かしている様子を想像してしまい、不謹慎かなと思いつつも、つい口元が緩んでしまった。

 この歌声に合わせて演奏できるなんて、なんてすごいんだろう。

 音楽プロデュサーだという大柄な茶髪の男の人がぼくとレオナルドに一緒に来るようを促すと、先にブースに入っていった。
音楽プロデューサーがGBとピアニストにぼくたちを紹介し、ぼくたちが簡単に名乗ると、GBが手を差し出してくる。

「ハイ、タクミ、レオナルド。今日はふたりとも頑張れよ」
「はい、お会いできてうれしいです」
「あなたにお会いできて、今日は素晴らしい日ですよ」

「では、これからふたりそれぞれにGBの歌に合わせてバイオリンを弾いてもらう。いいかね」
では、タクミ。きみから弾いてくれ」
「はい」

 名指しされたぼくは持っていたバイオリンケースをブースの隅に置いてあった台の上に置くと、ケースの留め金に手をかけた。
金具に触れる指がわずかに震えている。
GBを前にして緊張がぶり返してきた。

──落ち着け。深呼吸だ。さっきの余裕はどうした。あれが精一杯の空元気だったわけじゃないだろう。

 ぼくは気持ちを静めようと息を大きく吸いこんだ。その時、ぼくの手元が暗くなった。
振り返ると、レオナルドがぼくとGBの間に移動していて、彼の身体で照明が遮られたのだとわかった。
レオナルドは面倒そうに床に向かって息を吐くと、きゅっと顔を上げて口を開くのが見えた。

「もういい加減にしませんか? もうオーデションする必要などないでしょう?
これ以上は彼にも失礼にあたる。
前回の選考で実力的にも僕らはあなたたちに認められ、ここに残った。
しかし、この先、あなたがたは僕を落とすわけにはいかないんだから」

 ぼくに振り向いたレオナルドは申し訳なさそうにぼくに向かってこう言った。
「僕の本名はレオナルド・スタイン。僕はミック・スタインの息子で、メイソンは母の旧姓です」と。

 ぼくはハッとして、思わずバイオリンケースから手が離れた。

”スタイン”はこの場にいる誰もが知っている名だった。
今回の新型車種を発売する自動車会社がスタイン社なのだ。

 つまり、目の前にたたずむ青年はスタイン社オーナー一族のひとりであり、彼を落選すればこのCM自体、そのものの話がなくなる可能性があるのだと彼ははっきりと示唆してきたのだ。

 みんなの視線がぼくに集まった。
その中にはトーマスとイーサンの視線も含まれていた。
トーマスは通訳として、イーサンはマネージャーとして今日、ぼくに同行していた。

「悪いが帰っていただけないだろうか。あなたがここにいては彼らの立場も悪くなるだけだから」

 ぼくが理解できたレオナルドの言葉はそれくらいだったが、本当は彼はもっといろいろ語っていたのだろう。
けれど、彼は興奮しているのか、ものすごく早口な上、途中で口をくぐもらせたようにしゃべってくるものだから、ぼくの脳内変換は途中から全くついて行けなかった。

 ぼくより随分年が下であろう彼の言い分をそのまま鵜呑みにするならば、この状態で彼と最後まで演奏を競ったとしてもぼくが選ばれる可能性はほとんどない。
それくらい、ぼくにもわかる。
そして、ぼくがここで引かなければ巨額な宣伝費をかけて多くのスタッフが苦労して進行してきたこのCM制作事業の先行きが不透明になるということも、ちょっと考えればわかることだった。

 素直に納得したくない。それが正直な気持ちだった。
でも、悔しいけれど、こういうことはこの手の業界ではよくあることなのかもしれない。
それにコネで仕事の繋ぎをつけるのはこの業界に限ったことではない。
それは世間の常識でもある。
人を動かすのは人だから、人との繋がりに情緒や意志が入り込むのは、世界を動かしているのが感情を持つ人間である以上仕方がないことなのかもしれない。
機械のように無感情で働ける人間などいやしないのだから。

──だとしても……。

 握った手にギュッと短く切っていたはずの爪が食い込んだ。

 その時、うつむくぼくの肩をポンと叩く人がいた。GBだった。

「残念だが、このようなケースは珍しくない。
けれど、こんなことに負けず、諦めないで前進する音楽家にだけミューズは微笑みかけてくれるんだ。
いいかい、タクミ。何事も諦めないことだよ。そうすればいつか道は開けるんだ、わかったね」

 そうして、唇を噛み締めるぼくの肩にGBは腕を回してぼくの半身を一瞬ぎゅっと抱いてきた。

「この曲を、一度でいい。きみのバイオリンで歌いたい。──構わないだろう?」

 最後の言葉は音楽プロデチューサーとレオナルドに向けられていた。

 GBの優しい心遣いにぼくも頷き、目元を簡単に拭うと、一度だけ大きく息を吸ってからストラディバリウスをケースから取り出す。

──ギイ。頑張るって言ったのに、ごめんね。でもぼくは……。

 いつまでも俯いてばかりではいられない。
姿勢を正してバイオリンを構えようとしたその時、ひとりの男の人がコンソールルームからブースに早足で入ってきて、無言で軽くぼくの右腕を叩いてから、そのままピアノのほうに向かって行った。

 ピアノの前に座ったその人は、GBと、それからぼくに小さく顎を引き、ぼくも軽く頭を下げて頷き返す。

 しんと静まり返ったスタジオに春の小川が流れるような柔らかなタッチのアルペジオが静かに流れた。
その優しいピアノの音色に感謝しながら、ぼくはそっと弓を弦にのせた……。

 このCMテーマ曲のぼくの初見での印象は、春から夏への季節の移り変わり。
緩やかな水の流れを思わせるピアノのアルペジオに合わせて、春の息吹の喜びをそよ風が吹くように、バイオリンがこれでもかというくらいビブラートを長く響かせたスラーで表現する。
季節の滑らかな移行をGBの声がのびのびと歌い上げ、美しいハーモニーがひとつの名曲を生み出してゆく。

 ただ穏やかで甘いだけではなく、緑豊かな森の中にいるかのようなあの清浄な空気を彷彿させる。
それでいてどこか温かい日溜りを思わせるメロディは耳に心地よく浸透し、大切な人に優しく抱擁されているような気分になる。
時には明るくテンポのいい付点音符がリズミカルに心躍る期待感を呼び寄せ、そしてその後連続するスラーが回顧の切なさを彷彿させる。

──ああ、気持ちいい。

 素直に、素敵な曲だなと思った。

 もっとちゃんとこの曲を、GBやピアニストと一緒に作り上げてみたかった。
どんなふうに表現したらこの曲が一番素敵に聴こえるか、とことん意見を出し合いながら、理想とする音楽について語り合って。
ひとつの名曲が完成されるその瞬間に、願わくば、ぼくもぜひとも立ち会いたかった。

──こんなに素敵な曲なのに。ここでもっと弾いていたいのに……。

 ぼくは心から祈り続けた。

 それでも、ぼくは自分で、このままここを去ることを決めた。
どんなに後ろ髪が引かれようが絶対に後悔しない。

──そうだよ、後悔なんかしてやるもんか。ぼくは葉山託生としてここにいるんだ。
それ以外の何者でもないし、なるつもりもないんだから。

 最後まで弾き終わり、ピアノの音が消えたその瞬間、ぼくは心に誓っていた。

「ありがとうございました。この曲をあなた方と弾けて嬉しかったです。
素敵な曲になるよう期待しています」

 ぼくは堂々とGBとピアニストに礼を述べると、ケースにバイオリンをしまい、さっさとブースをあとにした。
コンソールルームにいたスタッフたちにも軽く頭を下げ、「ありがとうございました」とこれまた簡単に感謝の言葉を告げる。
本当ならば一曲弾くことすらもままならなかったかもしれないのだ。

 ぼくとGBたちとで作り上げた一曲は確かにあの瞬間、存在した。それは確かなのだ。
忙しい時間を割いてくれて、ぼくが弾くことを許してくれた彼らにはきちんと感謝しておきたかった。

 そうして一通り挨拶を済ませたぼくは、立つ鳥後を濁さずの心境で廊下へと続く厚い扉に近づいて行く。

 先を行くトーマスが、ドアを開けて押さえてくれる。
その出口に向かって、ぼくはまごつかないよう気を引き締めながら歩いていった。

 だが、廊下に一歩踏み出した瞬間、ふいに思いついて、ぼくは一度だけ振り返った。

 こちらをじっと見つめるレオナルドにわざと日本語で言い捨てる。

「一度だけだから。ぼくがきみの顔を立てるのは今回だけだから。
じゃないとぼくも含めて、今までオーデションに正々堂々チャレンジしてきたライバルたちの努力が報われない。
こういうのはきみのためにもよくないことだよ。だから、お願いだ。もう二度としないで」

 言いたいことだけ言うと、ぼくは踵を返して足を速めた。
ぼくを追ってくるイーサンが何度か言葉にならない声を出していたのはわかっていたけれど、「今は何も言わないでください。ぼくが決めたことです」と今度は英語でお願いした。

 あとから早足で追いついてきたトーマスが、「彼には必要なことだと判断したので、通訳しておきました。私は通訳としてあの場にいたのですから」とどこか得意げに報告してきたのがいつもの彼らしくなくて可笑しかった。

「トーマスって優しいね。ゴクロウサマ」

 ちなみに最後のゴクロウサマは日本語だ。

 ぼくは最初から最後までバイオリニストの葉山託生としてこのオーデションに臨んだことを絶対に後悔したくなかった。

 仮にぼくが一言でもタクミ・ハヤマ・サキのアメリカ名を出してしたら、もしかしたら結果は違っていたかもしれない。
けれど、ぼくはそれを望まなかった。

 今までだってぼくは、大勢の人が、「ギイという後ろ盾がいるからきみはすごく恵まれている」とはやし立てるを聞いてきた。
事実、サキの家名は彼らの言うとおり、とても大きな力を秘めているのだろう。

 だが、それがどうした。
例えそれが真実だとしても、それはギイやギイのお父さんが努力して築いた地位であって、ぼくが作り上げたものではないし、ぼくが好きになったのはギイがギイという人だからであって、ギイが御曹司だから将来を誓い合ったわけではないのだ。

 Fグループの御曹司として生まれたお蔭でギイが今の地位に就いたのだと未だに言う人がいるらしいけれど、企業経営がそんな甘い考えの上で成り立つような底浅いものではないことくらい、財界に身を置き、目まぐるしく変動する経済を目の当たりにしている人たちならば簡単にわかることだ。

 確かに、ギイの出自が傑出した出世を全く後押ししていないとは言わない。
けれど、これまでのギイ自身の努力と熱意があったからこそ、周囲の人たちがギイの実力と才覚を認め、今の彼があるのだと僕は信じている。

 最終選考まで本名を伏せたまま紳士な態度で挑戦していたレオナルドが、最後の最後で出自を晒した真意がぼくにはわからない。
でもわからなくても構わない。

 ぼくはぼくとして生きて行くしかないし、何よりも、いつだってギイに誇れる自分でいたいだけだ──。





 きっといろんなことにぼくは怒っていたのだろう。
その夜、ふたりだけになったのを見計らって帰宅してきたばかりのギイを奇襲するかのように勢いよく首に抱きついた。
ギイに「ただいま」の一言すらの微塵の猶予も与えることなく、「しよう」と直球でぼくから誘う。

 ギイの手首を掴んで、引きづるようにしてずんずんと寝室に向かうぼくに、ギイは「どうしたんだ」とか「何かあったのか」とか尋ねてきたけれど、ぼくは「言いたくない」と黙秘権を行使する。
するとそれきり、ギイは何も訊いてこなかった。

 その代り、ギイは難なく主導権を奪い返すと何度も「愛してる」と囁き返して、ぼくの弱いところばかり性急に攻めてきた。
強引に利己的に、ギイはぼくを泣かせにかかったが、それがぼくを想っての行動だと、ぼくはちゃんと察していた。
結局、このどうにもならないイラつきをどうにかしてほしくて、ぼくはギイに縋(すが)ってしまったのだ。

 ギイにはもしかしたらぼくの心の叫びが聴こえていたのかもしれない。

「託生。託生。泣いていいんだ。オレの前でなら、どんな託生でもいいんだよ」

 ささくれ立ったぼくの心はギイの優しい言葉の雨に濡れて、その夜、ぼくは枕をグシャグシャにした。
しばらくして互いの熱が冷めると、裸のギイがシーツを引き寄せながら、「落ち着いたか。たまには泣くのもいいだろ」とぼくの頬を伝う涙を拭ってくれた。

「この年齢で?」
「誰だって、いくつになったって泣きたい時くらいあるもんさ。別に泣いたっていいじゃないか。
ここにはオレと託生しかいないんだ。恥ずかしがらなくていい。
じゃないと、泣きたいのに泣けないのはすごく辛いだろ」

 ギイにはぼくがそんなに辛そうに見えていたのだろうか。

 ただ怒りが静まらなかっただけで、別に泣きたかったわけじゃない。
強いて言えば、やっぱり悔しかったの一言に尽きるのもしれない。

 でもだからと言って、今日のぼくは本当にどうかしてる。
オカシイ。ヘンだ。気持ちがどうにも落ち着かない。イラついてイラついて……。

──ああ、そうか。ぼくは余りにも悔しすぎて泣くに泣けずにいたのか。

 自覚した途端、またもや目尻から涙が零れ、関を切ったようにどんどん流れ落ちていった。

「大丈夫か?」

 気遣うようなギイの声が少し掠れて耳に響く。

 ギイが手のひらをぼくの頬にそっと添えて、親指で濡れた目元を拭ってくれた。
涙を吸い取るように何度も唇で触れてきて。
そんなギイの優しい仕種になぜか切なさが溢れてきて、また涙がこみ上げてくる。

 ほんわかと温かいギイの手に手を重ね、ぼくは頬を擦り寄せた。

「なあ、託生。オレ、今も託生の精神安定剤になってる?」
「うん……。なって、る……」

 これ以上ってないくらい。
まるで麻薬みたいに癖になるほどの優しさが今はすごく嬉しい。

「なら、よかった。言いたくないなら言わなくてもいいけど……。もしかして、オレのせいか?」
「違う、よ……。ギイのせいじゃ、ない……」

「そっか」
「うん……。ギイは関係ないから……。ごめん、これ以上は言いたく、ない……。
これ、は……ぼくのプライドの問題、なんだ……」

「わかった。でも言えることはちゃんと言ってくれよ」
「うん。もちろん……」

「だったらいいさ」

 ギイがごろんと横になってぼくの首の下に腕を差し入れてきた。
ぎゅっと横向きで抱きしめていて、じんわりと互いの体温に慣れた頃、「腹減ったなあ」のしみじみとした呟きが振動でも伝わってきた。
ぼくは涙を流しながらぷっと笑ってしまった。
我ながら器用なことだ。

 どうやらぼくの涙腺は壊れてしまっているらしい。
涙が全然止まらない。

 ギイは黙って、そのままのぼくを受けとめてくれていた。
それがすごく有難かった。

「ギイ……、泣か、せてくれて……ありが、と……」

 こつんとギイの顎に額を当てる。

 お礼すらも涙声になってしまって。

「どういたしまして。託生もちゃんと泣いてくれてありがとう」

 今夜ほど、ここがアメリカでよかったとつくづく思ったことはない。
日本にいた時は、月の半分は別居生活のぼくたちである。
その日の出来事を電話越しに毎日報告していたとしても、こうして肌を重ねて抱きしめてくれる腕がいつもあるとは限らない。
ギイの体温はいつだってぼくの心を落ち着かせる万能薬だ。

「ギイがいてくれて、よかった……。それがアメリカで一番よかったことかも……」

 ぐすっと鼻を啜りながら言うと、「何、当たり前なこと言ってんだ。託生はオレがいるからアメリカに来たんだろうが」とギイに飽きられてしまった。

「はは、は……、そうでした」

 ギイに、「笑わせないでよ」と言うと、「禁止されると人間、やりたくなるもんだよな。なあ託生、泣き笑いさせてやろうか」と脇の下とか滅茶苦茶くすぐられる。
これがまた容赦なくて、泣き笑いどころか、笑いながら抵抗するのに必死で止まらなかったはずの涙がお蔭で引っ込んでしまった。

「おや。泣かせるはずだったのに。泣いたカラスがもう笑った」とギイがすかさずキスしてきて。

「託生、夕飯は? もう食べたのか? まだだったらこれから食わない?」

 平然と何事もなかったようにぼくを食事に誘ってきた。
そこには色めいた空気はどこにもなくて、それがすごく「今を生きている」という日常を思わせる。

 そう言えば今日は朝食以来ほとんど水分も取らなかったなあと気が付いて、急に空腹感が沸いてきた。

「ぼくもお腹すいたかも」
「よし、なら今から食おう」

 ギイが勢いよくは起き上がる。
そうして寝ころんだままのぼくの手首を握ってくると、ベッドから力強く引っぱり上げた。
そのまま手を繋いだまま、ギイは薄暗い寝室を出て行こうとする。

「ギイ、服!」
「いいじゃん。裸族で」

「どこが! 全然よくないよ!」

 ははは、とギイの笑い声が広い寝室に満ちる。

──いつだって、ギイはぼくの手を引いて、明るい場所に先導してくれる。
ぼくもいつか、ギイが迷った時、手を携えて道を示せたらいいな。

 左薬指に煌めく指輪の固さをそっと確かめるように親指で撫でてみた。

──並び立つということは、きっとそういうことなんだ。





 数日後、ぼくは芸術推進を目的としたチャリティーパーティに出席していた。
《Cosmo Frontier》の「悠久」で組んだピアニストの高梨康行が突然連絡してきて、「ぜひパーティで『悠久』を一緒に弾いてほしい」と頼まれたためだ。

 康行も先週、仕事で渡米したらしいのだが、アメリカ留学時代にとてもお世話になったという恩師チャールズ・マクリガー教授という人が、どんな伝手を使ったのか康行がアメリカに来ていることを知って、「アメリカにいるんだったら、なぜ顔を見せない。ぜひ『悠久』を生で聴きたいと思っていたんだ。ちょうどいい、必ず寄りなさい」と連絡してきたのだと言う。

「葉山くん、忙しいところ付き合わせて申し訳ない。今日はよろしく頼むよ」
「いえ。高梨さんとまたこの曲を弾けるなんて、こちらこそ嬉しいですよ。
誘っていただいてありがとうごいます」

「パーティのオープニングの余興のようなものだから、そんなに固くならないでくれよ。
それにしても葉山くんがちょうどアメリカにいてくれてよかったよ」
「たまたまですけどね」

「誤魔化さなくてもいいよ。だって噂のきみのパートナーってアメリカ人の大富豪なんだろう?」
「ええ」

 康行がちらっとSPのほうを見る。
SPなんて窮屈だね、と声を潜めた彼に、ぼくは苦笑で応えた。

「でも本当に今回はたまたまなんですよ。
Kフィルが長期休暇に入らなかったらこの国にこんなに長くいられなかっただろうし」

「そっか。確かホールの改修工事が長引くって言ってたっけ。
ホント、俺ついてるなあ。お蔭できみをこうして捕まえることができた」
「でもぼくの連絡先、よくわかりましたね」

「だろ? 苦労したよ。俺、思いきってFグループ本社に電話したんだぜ。
最初は全く相手にしてもらえなかったけれど、よくよく説明したら秘書って人があとで連絡くれるって言ってくれてさ、助かったよ。
葉山くんの携帯に電話かけたくても、俺の携帯、海外通話の契約してないんだよね。
だからアメリカに持ってこなかったんだけど、こんなことなら持ってくればよかったな。
通話は無理でも電話帳は使えたろうし。
しなきゃしなきゃって思ってても、忙しくて手続き放っておいたらこのざまだ。マジに後悔したよ。
日本に帰ったらブラックベリー持たなきゃな」

 アメリカ滞在中は期間限定でこちらの携帯を持っているのだと康行は言う。
ちなみにぼくの携帯は海外通話もなんのそのの優れものである。
普段、日本在住のぼくにとって、この携帯は必需品だ。
これがないと、アメリカと日本をしょっちゅう行き来している恋人の声を聞くことすらままならない。

 そういうわけで、今時の携帯は海外通話が標準装備になっているものと勘違いしていたぼくは、康行がアメリカでどんなに苦労してぼくに連絡を取ってきたのか最初のうちは理解できていなかった。
何しろ、ぼくの第一声は、「どうして携帯に電話してこなかったんですか?」だったくらいだ。

 だが、それに関してはぼくにもちょっと言い分がある。
知らない電話番号が書かれたメモを「ほらよ」と渡され、「浮気するなよ」と耳元で脅されたぼくの身にもなってほしい。
あの時のギイの声には鬼気迫るものがあった。
それも濃厚な空気の漂ったベッドの中でのこのやりとり、だ。
痛くもない腹を探られて、咄嗟にナニゴト?って焦ったとしてもおかしくないと思う。

──電話番号は日本の番号じゃなかったし。
第一、アメリカに住んでる知り合い……、それも連絡が取れなくて困るような間柄の知り合いなんて心当たりなんかまったくないのに、相手が誰なのかわからないまま電話する羽目になったんだから。
多少の暴言は許してほしいよ。

 ギイは電話番号しか教えてくれなくて、ドキドキ緊張しながら、「ハロー」と電話したら、「もしもし。葉山くん? よかった〜。高梨です。元気してる?」って元気な日本語が聞こえてくるものだから、一気に気が緩むというものだ。

「まったく、チャールズ先生ったらホントいつまでも子供みたいなところがあってさ。
あれでもピアノの指導にかけてはこの世界の一人者っていうんだから世界の七不思議に入れてほしいもんだよ。
未だに俺も頭があがらなくて、呼び出しくらった時はどうしようかマジに悩んじまった」
「そんなにすごい先生が《Cosmo Frontier Symphonies》を聴いてくださったなんて嬉しいじゃないですか。
それもバイオリンソロの『悠久』をリクエストしてくださってなんて、ぼくとしては光栄ですよ。
だって、高梨さんのピアノソロ、ほかにもたくさんあのアルバムに入ってたのに」

「甘いな、葉山くんは。あの先生の抜け目なさを知らないからそんなことが言えるんだよ。
こちとら昨日、一昨日と先生のお宅にお呼ばれして、しこたま例のピアノソロを弾かされてたんだから。
それに感想という教育的指導が何度入ったことか。お蔭で今日も寝不足だよ。
何年経っても恩師に逆らえないのが弟子の辛いところだよねえ」

 そんなふうに恩師に対する愚痴を零しつつも、おどけるように肩をすくませて笑う康行はどう見ても嬉しそうにしか見えない。
確かに目の下がうっすらと隈になっているけれど、恩師との交流はとても懐かしいものになったのであろうことは彼の滑りのよいおしゃべりからも充分うかがい知れる。

 そうこうしているうちに時間がやってきた。

 ぼくはバイオリンを抱えて、康行を従えながら会場入りをした。

 司会者のがぼくたちの紹介をするのを耳に流しながら、ぼくは小さなステージに立つ。
康行は楽譜を譜面台に置くと、椅子の位置が合わなかったのか、わずかにピアノから遠ざけた。
彼の準備が整うのを待って、ぼくはバイオリンを構える。

 会場を見渡すと、今朝まで一緒にいた愛すべき美貌を見つけて、つい口元が緩んだ。

 大きく頷いてピアノに合図を送る。

──さあ、みなさん。「悠久」の世界にようこそ。ぜひ楽しんでくださいね。



 RPG《Cosmo Frontier》では、第二皇子と巫女姫のラブストーリーも描かれている。
銀河には、古来より予知能力を持つ一族があり、その一族に生まれた女性は誰もが予知能力を持つ。
巫女姫とは、一族の中で一番力の強い女性に与えられる称号であり、ゲームの物語は先の巫女姫の宣託が引き金となって銀河帝国が揺らぐところから始まる。

 皇統が皇太子ではなく、第二皇子に引き継がれるという驚愕の宣託が降りた瞬間、第二皇子は幼少の身で居城から姿を消さなければならなくなり、彼が預けれた先は巫女姫の一族が住む星だった。
予知の一族が住む星は、一族が許可与えた者にしか降り立てないため、長い間、位置の特定がされないまま、皇子はその星でただの少年として成長してゆく。

 一族の男たちは予知を持つ女性たちを守るため、戦士として育つ。
当然、皇子も戦士を目指してゆく。
戦士は科学を紐解き、機械を駆使し、心身を鍛え、戦術・戦略を理解する男たちの総称である。

 皇子が戦士として成長した頃、皇太子の軍勢が皇子を襲い、皇子は自身の身分と運命を悟り、協力者を求めて旅立ってゆくのだ。

 代替わりした新しい巫女姫は皇子の想い人で、ふたりはそれぞれすべきことをするために道を分かれるのだが、数年後、ふたりが再会し、想いを伝えあう場面で流れる曲がこの「悠久」のバイオリンソロバージョンだった。

 皇子と巫女姫が離れていた間の出来事が走馬灯のように画面いっぱいに映し出され、プレイヤーは悲しくも甘いメロディに彼らの辿ってきた人生の荒波を思い浮かべる。

 彼らの偶然の再会は、相手の姿を恋い焦がれた恋人の幻のように見せ、細かく震えるバイオリンの音色が彼らの恋情が生み出すの細い糸の揺らぎを紡ぐ。
曲の半ばの早弾きで、再会の感動が彼らの身体のすみずみまで満ちて、恋人たちの喜びあふれるさまを思い浮かべながらぼくは会場の隅々まで音が届くようにビブラートを利かす。
ふたりの気持ちがしっかりと繋がって、手と手を取り合ってふたり一緒に歩いてゆける情景を、ぼくはバイオリンの音に乗せて、聴いてくれているすべての人たちに伝えたかった。

 《Cosmo Frontier》をゲームクリア……というか、まともにプレイしていないのにぼくがどうしてこんなにストーリーに詳しいかというと、この曲を録音するにあたり、音楽監督がイメージしやすいようにと《Cosmo Frontier》のストーリーのあらすじを教えてくれたからに尽きる。

──ゲームばかりでぼくを蔑ろにしていたギイに、よっぽどエンデディングを教えてやろうかと何度思ったことか。
ギイはまだそんなところにいるんだね。ああ、そのキャラを育ててもどうせ途中でパーティから離れるのにとどれだけぼくが言いたいのを我慢していたか。ギイはきっと知らないままだろうなあ。

 皇子と巫女姫が再会したあとも、まだまだふたりには困難が待ち受けている。
それでもふたりはしっかりと前を向いて、一歩一歩仲間たちとともに帝位を目指して歩んで行く。

 その未来への真摯な歩みをしっかりと、たった四本の弦で力強く伝えるために、休符で息を一気に吸いこんでエンディングへと突き進んだ。
弓の傾きの調節に気をつけながら左指の複雑な動き駆使して生み出す連符の重音が、メロディに音の厚みを出す。
普段はあまりしない指を寝かせて解放弦の音程を変える奏法は重音から重音へのハーモニー移行を円滑にし、弦を押さえて基本の音を作って別の指で弦を引っ掻く左手ピッチカートも入れると複雑な音の羅列となって、まるできらきらと星が瞬くような音になる。
最後の音までしっかりとビブラートを利かせて重音和音を綺麗に効かして、ピアノの音が消えると同時にぼくも弓を弦から放した。

 一瞬にしてシーンと静寂が訪れる。
次の瞬間、パラパラと聞こえてきた拍手が怒涛の洪水となってぼくと康行に向けて押し寄せてくるのを夢心地の中、聞いていた。
「ブラボー」の歓声と、陽気にはやす口笛が、早鐘を打つ鼓動にエネルギーとなって染み込んでいく。

 椅子から立ち上がった康行がぼくのところまでやって来て、握手を求めてきた。
しっかりと握りしめた手は力強く、「素晴らしかったよ! また近いうちに機会を作ってこの曲をやろう!」と誘ってくれて、彼が心からぼくとの共演を望んでくれているんだなと彼の気持ちが強く伝わってきてすごく嬉しかった。

「こちらこそ! 今日も高梨さんのピアノ、すごく素敵でした。またぜひよろしくお願いします!」

 ぼくもまた、すごく興奮していた。
そのまま康行と軽くハグを交わすと、ふたり並んで客席にむけて挨拶をした。

 会場の真ん中ほどにいたギイが手を叩きながら早足で近づいてくる。

「すごくよかった! ピアノが弾けないのがこれほど残念に思ったことがないくらいだ!」

 ギイは腕を弾けんばかりの笑顔で大きく広げると、そのままぼくに抱きついてきた。
ぎゅっと抱きしめられて、「ありがとう」と片手で抱きしめ返すと、ますます強い力で抱きしめられた。

──うっ、マジにちょっと苦しいぞ!

 バイオリンを死守するようにもがいた途端、抱きしめられていた腕がふいに解かれて、咄嗟に息を大きく吸いこんだ。
ぼくを殺す気かと思わず睨みつけようとしたら、当のギイはすでに次の獲物に向かったあとだった。
見れば、何とギイは康行にもハグを強いていて、ギイの突然の襲撃にあった康行はえらくあたふたしながらハグを返している。

「とてもとても素敵でした。もう感動です。ああ、《Cosmo Frontier》最高です」

 そう言いながら、次にぼくのところにやってきたのはイーサンだった。
気分が高揚しているらしく、ほんのりの頬が染まっている。
眼をキラキラと輝かして、イーサンはオーバーアクションでもって、ペラペアと流暢な英語を披露した。
その様子からいろいろ褒めちぎってくれていたのだろうけれど、残念ながらぼくの英語力ではイーサンの早口に到底ついて行けなかった。

 どうやら興奮のあまり、どれだけ自分がペラペラ早口で言っているかイーサンは気付いていないようだ。
それでも緩みっぱなしの満面な笑顔を見ているだけで、言葉はわからなくても彼がすごく喜んでくれているのはわかる。

 そのうち、康行の恩師という人もやってきて、ぼくに握手を求めてきた。

「いやあ、いいねえ。いいねえ。きみのお蔭でヤスのピアノがすごく上手に聴こえたよ!
今日はいい日だ! ヤスにも感謝しよう!」

 弟子を貶めつつ褒めているように聞こえたのだが、ぼくの脳内変換がおかしいのだろうか。

 だが、この康行の恩師という人はひと通りぼくらを褒めちぎると、まるでちょっとでも力を入れたら壊れてしまいそうなガラス細工を扱うごとく、イーサンの腕にそおっと労わるように触れたのだった。

「元気だったか、イーサン」
「マクリガー教授……。私を覚えていらっしゃるのですか?」

 歓喜に弾けていた空気がふたりの周囲だけ一変していた。

「何を言っているんだ。当たり前だろう、イーサン。
きみはいつまでも私のかわいい弟子以外の何者でもないよ」

 イーサンが咽び泣くのを堪えるかのように口に手を当てる。

 その間にもぼくと康行は集まってきたほかのお客さんたちからひっきりなしに握手を求められて、ぼくはイーサンたちを気にしながら、笑顔で対応しなければならなかった。

 異変を察したギイが、「このままではパーティの邪魔になります。奥に行きましょう」と気を利かしたのが聞こえた。
マクリガー教授がイーサンの背をそっと押すようにして、ふたりはパーティー会場から出ていった。

「イーサンって、もしかして、イーサン・ラードナー? 葉山くんの知り合いかい?」
「期間限定でマネージメントをくれてます。高梨さんこそ、イーサンを知ってるんですか?」

 握手の合間合間にこそこそ話をするぼくと康行。

「知っているも何も、俺の大先輩だよ! イーサン・ラードナーと言えばコンクール荒しの異名がついたくらいの鬼才のピアニストだぞ。
先生のところにはイーサン・ラードナーが獲得した優勝トロフィーとかがたくさん飾ってあるよ」
「そうなんですか?
でもイーサンはぼくと一緒にいる時、ピアノが弾けるなんて話は一度もしてませんでしたよ」

「それはそうだろう。彼は今では満足に弾けないって話だ」

 ぼくは驚きで声が出なかった。
お客さんたちの握手攻めがひと段落した頃を見計らって ギイがぼくの肩に腕を回してきた。

「託生、とにかく今は控室に行こう。イーサンたちはもう先に行ってもらってるから」
「ああ、そうだね。ごめん、気が動転して」

「ああ、わかるよ。──高梨康行さんですね。お話するのは初めてですね。
今日の演奏、すごく感動しました。先程はあまりの感動につい抱きついてしまってすみません。
改めまして、私は託生の連れ合いの崎義一です。託生がお世話になってます」

 手を差し出すギイの間近のアップにぎょっとしつつも、康行はコホンとひとつ咳をしてから、落ち着いた声でこう言った。

「いえ。こちらこそ葉山くんにはお世話になってます。
今日も二つ返事で引き受けてくれて、本当に感謝しているんです。さっきの演奏も素晴らしかった。
ピアノを弾きながら、バイオリンに惹きこまれてしまいましたよ」

 どうやらフライングの強制ハグで少しは免疫ができたのか、ギイの気高き美顔を至近距離で直視したわりには康行の立ち直りは早かった。
それでなくても今日のギイは生粋の容姿端麗に付け加えて、正装しているせいか、一般庶民とは一線を引く感じのハイクラスな迫力が漂っている。

──うーん、高梨さんってナニゲに美形に慣れてたりする?
そういえば……以前、誰かが康行の弟さんは人気絶頂のアイドルだと言ってたっけ。

 本人は「そんなことあるわけないじゃないですか」と言っていたが、もしかするとあれはデマカセじゃなかったりして、と唐突に思った。

「葉山くんにはいつもすごく刺激させられてます。
こちらこそ今日は彼とこうして演奏で来て、本当にラッキーでした」

 ふたり固く握手を交わしたあと、ギイが、「とにかくオレたちも行こう」とぼくの背中に手を回してくる。

「うん。それと高梨さん、歩きながらで申し訳ないんだけど、イーサンについて知っていることを教えてくれますか?」
「構わないよ。でも俺が知っているのは先生の弟子の間じゃあ誰でも知ってる程度だよ?」

「それでもいいです」

 そうして康行は、イーサンが将来有望なピアニストだった話をぼくとギイにしてくれた。

 小さな頃から多くのコンクールで優秀な成績を収めていたイーサンは、若干十歳でジュリアード音楽院のプレカレッジ入学したのだと聞いて、その時点でぼくは思わず唸ってしまった。

「イーサンってすごいんだな」
「ジュリアードでチャールズ先生に出会って師事しだしたところは俺と同じだけど、俺が先生に出会ったのは十八だったからなあ」
「見出された年齢を考えてもイーサンの特出した才能のすごさがわかるってことか」

「あ。じゃあ、もしかしてイーサンって高梨さんの兄弟子になるのかな」
「まあ、そうなるね。俺がチャールズ先生にお世話になりはじめた時にはすでにイーサン・ラードナーはピアノをやめたあとだったから直接顔を合わせたことはなかったけど、俺、彼のことはずっと知ってたよ」

「やめたって、どうして?」
「さっきも満足に弾けないとか言ってましたよね」
「 イーサン・ラードナーは事故で右手の筋を痛めてしまった噂を聞いたことがあるな。
それが引退の原因だともね。
先生のお宅のレッスン室には、彼がコンクールで優勝した時のトロフィーとかがたくさん飾ってあってさ。
イーサンからの預かりものだって先生は言ってたけど……。
過ぎ去った栄光を見るのは本人だってきつかったんだろうな。
でも先生だってすごく辛そうに見てたの、俺も知ってたからさ……。
今日、ふたりが偶然会えたのも神様の思し召しだといいな」

 康行はそう言って胸の前で十字架を切った。
彼はどうやらクリスチャンのようだ。

「イーサン、ピアノはもう弾かないのかな」
「どうだろう。普通に手を動かしてたようには見えたけどな。託生は彼に弾いてほしいのか?」
「俺も彼の音を聴いてみたいけど、でもそれはもう無理なんじゃないのかな」

「もうプロの音が出せないから……ですか?
だとしても、ぼくはイーサンが鳴らす音ならどんな音でも聴いてみたいです。
イーサンはぼくの友達だから。ぼくはぼくの友達がどんな音を鳴らすのか聴いてみたい。
でも、イーサンが弾きたいのなら弾いてほしいし、弾きたくないのなら、無理してほしくないかな」
「そうだな。音を楽しむのが音楽だもんな」
「なるほど。葉山くんは詩人だな、友達の音か。うん、いいね。確かにそうだな。
うまく弾けても弾けなくても、彼の人生が辿ってきた音には違いない。
俺も兄弟子として以上に、人生の先輩としての彼の音を聴きたくなったよ」

 控室に行くと、マクリガー教授がイーサンを抱きしめていた。
ぼくたちに気付いて、イーサンが慌てて涙をぬぐう。

 マクリガー教授は恥ずかしげに身じろぎしたイーサンをもう一度、ぎゅっと抱きしめていた。

「すみません。教授にお会いできたのはとても久しぶりだったもので。あまりにも懐かしくて」
「ううん。今日がイーサンにとってとてもいい日になったのなら、ぼくは嬉しいです」

 たどたどしいぼくの英語力ではこう言うのが精いっぱいだった。

「タクミ、私はあなたに感謝していますよ。
教授に会えたことにも感謝していますが、何よりあなたのポリシーに出会えたことに私は感謝したいです」
「ぼくのポリシー?」

「ええ」

 イーサンはギイに軽く頭を下げると、すごい早口でしゃべりだした。
とてもじゃないけれど、ぼくには全然聞き取れなくて、ギイが通訳を買って出てくれた。

──イーサンはぼくと話すときはものすごくゆっくりと、言葉を選んで話してくれていたんだな。

 普段、どれほど彼がぼくに合わせてくれていたがわかる。

「ごめんね、イーサン。ぼくと話すの大変だったでしょう?」

 ギイに思いのたけをぶつけていたイーサンがぼくの英語の呟きを拾って、
「問題ないですよ。タクミとのおしゃべりは楽しいです。
あなたと一緒だととてもたくさん興味深いことを知ることができます」
そんなふうにゆっくりと、いつものぼくと話す速さで答えてくれた。

 うんうん、とぼくに向かって何度も頷いたイーサンがにっこりと笑って、それからその笑顔をギイにも向けて、またもや弾丸のようにしゃべりだした。

 ギイがぼくをちらっと見ながら、イーサンの話を聞いていて、途中でちょっと顔をしかめたり、肩を竦めたり、笑って頷いたりしているのをぼくはぼんやりと見ていた。
ふたりの会話の中で、ぼくの名前が何度も出てきて、何を話しているのか気になったけれど、彼らは別に内緒話をしているわけじゃないし、イーサンは勢いに乗って話さないと今まで抱えてきた想いを吐きだしづらいのかもしれないって雰囲気は何となく伝わっていたから、別にいいんだけど……。
でも早くギイ訳してくれないかなってすごく待ち遠しかった。

 そのうちイーサンの弾丸トークが終局を迎えた。
伝えたいことはすべて伝えきったのか、イーサンが満足したようにほっと小さく息をつく。
そんなイーサンにギイは慈愛の眼差しを向けて、それからふたりは握手を交わしていた。

 ギイがぼくに振り返った。

──今度はぼくの番だよね。さあ、話してもらおうか。

 ギイだけを見て、ぼくは大きく頷いた。ギイも大きく頷き返してくれた。
ギイは日本語でぼくにわかるようにイーサンの言葉を紡いでゆく。

「まず結果から」

──は? 結果? 何それ。

「イーサンは今後も託生のマネージメントを続けたいと言っている。
今後というのは託生が日本に帰ってからという意味を含めてだ。
イーサンは今も日本語を勉強しているらしいが、これからはもっと日本語に取り組むつもりらしい。
ってことで、その件に関してはふたりで相談してくれと伝えておいた。
オレは基本的に託生の仕事にはノータッチだってね。
ここまではいいか?」
「うん。わかった」

 ぼくはイーサンに、「ぼくのマネージメントについて、あとでお互い相談しましょう」と英語で言うと、イーサンが、「アリガトウ」と日本語で返してくれた。

「次は、イーサンの懺悔だ」
「懺悔?」

「大まかにまとめるとそうなるな。
イーサンは事故が原因でピアノが弾けなくなったって事は本当らしい。
だが、それより以前からイーサンの中で、困惑というか、迷いというか。音楽活動に関して気持ちが揺らいでいたらしい」

 イーサンはプロのピアニストとして活動している時、ぼくのようにオーデションを受けたのだとギイは言う。
けれどそのオーデションは形ばかりの出来レースで、結果は散々。
イーサンは納得がいかなくて主催者に問い合わせたらしい。
だが、連絡しても埒(らち)が明かなかくて、純粋に音楽に向き合っていたイーサンは自分の腕に自信を持っていたのもあって、ちゃんとした説明がほしいとわざわざ会社側に出向いたのだそうだ。
だが、かえってその行為がイーサンの演奏家生命を断つことになってしまった。

 その日、主催者側の本社入口の階段は雪解けで滑りやすくなっていた。
だからイーサンは足元を見ながら気をつけて登っていたらしいのだが、ところが足元ばかりみていたせいで、上から転げ落ちてくる人に気が付くのが遅くなってしまった。
イーサンにぶつかったせいで勢いが薄れ、落ちてきたその人はそれ以上転がり落ちなくて助かったが、逆にイーサンが不安定な体制のまま後ろ向きに落ちる羽目になってしまった。
イーサンは頭を庇うために咄嗟に手を後ろに出した。それが最悪な結果を招くとも知らずに。
変な向きでに手を着いた瞬間、イーサンの左手に激痛が走った──。

 悲鳴を上げながらイーサンは痙攣する左手首を右手て押さえる。
偶然、通りかかった人がその痛々しい姿を見て、すぐに救急車を呼んでくれた。

 そこまで話して、ギイは一端、言葉を切った。
ぼくと康行をしっかりと見つけて、沈痛な面持ちで続きを話しだした。

「ところが、連れて行かれた救急病院での医者の診断は、イーサンにとって最悪の結果をもたらしたんだ。
捻ったまま左の手首に成人男性ひとり分の全体重をかけてしまったせいで、イーサンの左の薬指と小指……、どちらも神経が切断されていたそうだ」

 ひぃっと、ぼくの息を吸いこむ音が部屋に響いた。
「嘘だろ……」と漏らしたのは康行だった。

 ギイは続けた。

「それからイーサンの地獄がはじまった。
何度も手術を受け、辛いリハビリに耐え、もう一度ピアノを弾くために努力を続けた。
そのお蔭で指はちゃんと動くようになったし、医者はよくぞここまで頑張ったと褒めてくれたそうだが、イーサンは納得できなかったようだ。
そりゃそうだろう。動くといっても日常生活に支障なくやっていける程度であって、とてもじゃないが演奏家としてやっていくにはもう無理だと医者に断言されたって言うんだから。
イーサンにとって最悪だったのはそれだけじゃない。
イーサンにぶつかってきた相手ってのが主催者側の血族の人間で、一応の謝罪はしてきたらしいが、言われた言葉が、『お礼にきみを採用しようと思ったのだが、残念だがその怪我では弾けそうにもないな』ときたもんだ。
結局、コネを使って採用を決めた男がそのままピアノを弾いたらしい」

 それを聞いて、ぼくは思わずイーサンにに抱きついた。

「辛かったね。大変だったね」

 ぼくの声は涙声になっていた。

 イーサンは両手をあげて降参のポーズで、ぼくとギイと見てちょっと困ったような顔をしていたけれど、ぼくは全然構わなかった。
だが、約一名、そんなぼくの肩をちょんちょんと指で叩いてくる無粋な人がいる。

「あのなあ、まだ話の途中なんだけど。いいか?」

 ギイはぼくの襟足を掴んで、イーサンから引きはがしにかかった。

 呆れたようにぼくを見て、ギイははあ、と大きな溜め息をつくと、また話し出した。

「そういうわけでイーサンはピアニストとしての道は断念しなければならなかったんだが、音楽の世界には未練があって、どういう形であれ音楽関係の仕事に就きたくて経営を学ぶために大学を受けなおしたんだそうだ。
だが、社会に出て初めて担当した演奏家がドラックに溺れて廃人となってしまって──」
「廃人! 何でまた! どうしてドラックなんかに……」

「優秀なピアニストだったそうだ。
だが、コンクールで優勝するのと仕事でやっていくのでは違いが大きすぎる。
託生だったらわかるだろう?」

 確かにコンクールの場合は、大げさにいうならば、とことん実力を磨く努力を積みさえばいい。
だが、仕事となると、そうはいかない。
正直言うと、実力だけでは駄目で、人との出会いや運がすごく必要となる。

「そのピアニストはイーサンも認めるほど実力はあったが、どちらかというと社交的な性格とは言えなかったそうだ。
で、プロとしてやっていくうちに人間関係がうまく回らなくなった。
ついでにイーサンにとって二度目の横やりが入って──。つまり、またコネさ。
結局そのピアニストは社会に潰されてドラックに逃げたんだ。今は故郷に帰って療養中らしい。
イーサンもまた、薄汚れた音楽界に見切りをつけて、一時は家に引きこもっていたようだが……。
それくらいショックがデカかったんだろうな。
そんなイーサンを心配した彼の家族が何か立ち直るきっかけあればと縋ったのがイーサンの幼馴染のミケイラという女性だったわけだ。
彼女はイーサンと島岡の共通の友人で、それでミケイラが島岡に連絡してきたんだそうだ。
オレが一介のバイオリニストと結婚したのは知られてるからな。
島岡経由でイーサンをオレに、いや託生に紹介したかったらしい」

 そこらへんの話はイーサンの言葉を通訳したわけではないとギイは言った。
ということは、島岡さんがギイに繋ぎを取った時に報告した内容なのだろう。

「島岡の友人をしているだけあって、ミケイラは、オレたちの使い方を心得ている女性のようだ。
彼女、託生だったらイーサンはこれ以上傷つかないで済むだろうからって言っていたそうだ。
けど、オレも島岡もそれは違うだろってさ、最初からわかってたんだ。
第一、託生はどんな逆境の中でも『葉山託生』であり続ける人間だからな。
でもそういう託生だからこそ、おそらくイーサンは救われるだろうな、ともわかってたからオレ、島岡の顔を立ててやったんだぜ。
ほら、やっぱり思ったとおりになっただろ?」

──えっと、ちょっと意味がわかんないんですけど。

 ギイは日本語でちゃんと説明してくれたはずなのにどうしてだろう。
日本語が理解できない。

 でも、わかる人にはちゃんとわかったようだ。
康行が、「確かに葉山くんは適任ですね。それも最高に」としきりに頷いている。

 康行には音楽仲間同士の近況報告の一環として、オーデションに落ちたことやGBと一度だけ音を合わしてもらえたことを話してあった。

 ぼくがコネに負けたと言ったら、康行はすごく驚いて、
「どうしてサキの名を出さなかったんだ。そんなヤツ、返り討ちにしてやんなきゃ。
きみが葉山託生として音楽活動をしていくのは確かにすごい美徳だと俺も思うけど、強く出るところは強くでないと淀んだ水はそのまま淀み続けて、いつになっても綺麗にならないぞ」
そんなふうに少しだけ叱るように、ぼくに意見してくれた。

 そんな康行の考えを聞いて、一瞬、なるほど、と思ったぼくだけど、「でも、それじゃあ結局ぼくもコネを使うことになるじゃないですか」とあとから気付いて、「結局、元の木阿弥か」「そうですよ」と康行と一緒にも乾いた笑いを浮かべたのが数時間の前のことだ。

 康行は英語でイーサンに言った。

「あなたはタクミがどんな選択をするか知りたかった? 違いますか?
もしくは、タクミを試していた? そうなのでしょう?」

 イーサンは弟弟子に微笑むと、「That is right.」と答えていた。
すると、ギイがまたまたわけのわからないことを言いだした。

「そういうことか。託生はイーサンにとって、負けなしの勝負札だったわけだ」
「へ? どうしてぼくが負けなしになるの?」

「そりゃそうだろう。【コネクション】という攻撃をしてきた相手に【タクミ・ハヤマ・サキ】の切り札を使えばもれなく【コネクションカウンター】で反撃可能。
仮に託生が切り札を使わなかったなら、それはそれでイーサンの矜持は報われるんだ」

 ギイは思惑ありげにイーサンをちらりと見た。

「どっちに転んでもイーサンに損はない。
だが、その差は歴然だ。わかるか、託生。
イーサンにとって精神的救いは後者の選択でしかあり得なかったんだよ。
イーサンはおまえに救われたって言ってた。それがイーサンの本当に欲しかった彼の未来なんだ」

 ギイがイーサンに頷くと、イーサンはぼくの両手を強く握ってきて、何度も日本語で「アリガトウ」を繰り返した。
そして英語で、「これからも私はタクミをサポートしたいです。あなたのマネージメントをさせてください」と言ったあと、しきりに「許してください」と迫ってきた。

 ギイは、「音楽界に復讐するつもりが毒気を抜かれ、成れの果てた結果がこれか。やれやれ」とやや同情しつつも、結局は他人事っぽい。

 康行は康行で面白そうに、「いいじゃないか、葉山くん。兄弟子が日本語勉強するついでに日米の音楽業界についても学ぶって言ってるんだ。心頃強いじゃないか」ってこれまた口を挟んできて。

「高梨さん、イーサンは全然そんなこと言ってないですよ」
「いや、イーサンはその気満々だろう。
何しろ経済界に飛び込む決心をして若干三年でハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得した秀才らしいからな。
やるとなったらととことんやるだろうさ」

──へ? ハーバードですか……?

 こんなところにまたひとり、第二のギイみたいなズバ抜けて優秀な頭脳の持ち主がいるとは。

 ギイがイーサンに滅茶苦茶早い英語で話しかけた。
それを聞いて、マクリガー教授が大笑いして、「オーケーオーケー、、私が保証人になりましょう」とのんびりとした口調でギイに握手を求めていた。
イーサンも、「神に誓って」とギイと堅く握手を交わしていて、ぼくには何が何だかわからず終いだ。

 みんなの蚊帳の外でぼくがきょとんとしていると、つつつ、と康行が近づいてきて、「葉山くん、愛されてるねえ」なんて突然囁いてくるものだから、「ええっ」と身体が一歩退いてしまった。

『託生を貶めたら殺す。浮気を唆しても殺す。己の矜持をもって託生に仕えろ。
約束できないのなら二度と託生の前に姿を見せるな』

 康行がどうにか聞き取れたというギイの言葉の意味を教えてくれて、もう開いた口が塞がらなかった。

──ちょっと待ってよ。マクリガー教授、さっきの保証人って何ですか? イーサン、ちょっと何で神に誓っちゃってるの?

 無謀な約束を取り付けるギイもギイだが、無責任にも約束してしまうマクリガー教授とイーサンもどっこいどっこいだと思う。
それにしても、マクリガー教授はピアノの権威だそうだし、イーサンもすごく優秀らしいし、出来る人というのは人とは違った感覚を持ち合わせているものなのだろうか。

 康行の「それにしても、さすがは兄弟子。あの先生にちゃんとついていってるんだからすごいよ」の呟きを聞き流しながら、この人たち何かヘン!とぼくは思わずにいられなかった。

「葉山くんはすごい切り札を持っているんだなあ。よくKフィルのメンバーに妬まれないね」
「何、言ってるんですか。妬まれましたよ、もちろん。
けどコネをつけたくても土台無理なんだってみんなすぐに気付いてくれたんです」

「何それ」

 康行は純粋に疑問をぶつけてきただけのようだ。
彼はKフィル内でもっとごたごたがあってしかるべきと思っていたのだろう。
ぼくの返答は予想外だったようだ。

 だが、ぼくは事実を語っているだけだ。嘘は言っていない。

「だってよく考えてみてくださいよ。
ぼくがソロリストとしてバリバリ活躍しているならともかく、みんなと同じKフィル団員でしかないし。
それなのに、地道にKフィルでオケ活動しているぼくに、自分はソロでデビューしたいからコネよろしくねなんて言えると思います?
そりゃぼくは今、コンマスっていう特等席を拝命させていただいてますけど、コンマスって団員の半数以上、かつバイオリンバートの三分の二以上の賛成票がないと認められないんです。
つまりぼくの一存でコンマスになれたわけではないんですよ、
そんなぼくにソロデビューさせてくれとかコンマスになりたいとか言ってもねえ。
少し考えりゃわかるってもんですよ」

 途端、康行は腹を抱えて笑い出した。

「あはっ。何それ、使えねー」

 この日ぼくは、涙を流して笑い身悶える康行を目の当たりにして、「この人、ものすごい笑い上戸だ」とピアニスト高梨康行の新たな一面を知ったのだった。





 ギイとのデートの日がやってきた。
前もって、「ドレスコードはカジュアル・エレガンスが無難だぞ」とギイが言ってきたので、どんな改まったレストランなんだと思っていたら、ギイはニヤッと笑って「三ツ星レストランだぞ」と誇らしげに言う。

「うわっ、三ツ星レストラン! ぼく、初めてかも……」

 星の数がすべてだとは思わないけれど、その筋の専門家が最高の評価をつけたレストランだ。
どんな素晴らしい料理が出てくるんだろうとあれこれ想像するのはすごく楽しかった。

 高まる期待を胸にぼくは、トーマスを含む四人のSPとともに指定された場所に向かう。
その日、ギイは仕事があったため、ぼくたちは現地で待ち合わせすることになっていた。

 四人の背の高い男性に囲まれているぼくはさすがに人目を引いてしまうみたいで、ホテルらしき建物に入った途端、ロビーにいたほかの客たちがちらちらとこちらを窺ってきた。
彼らの視線に晒されるを避けるように、ぼくはエレベーターを目指してそそくさと早足で通り過ぎた。
最上階まで一気に上るエレベーターに乗り込んだ瞬間、ほっと胸を撫で下ろして、ぼくはやっぱり庶民だなあと実感する。

「誰が見ても仰々しいよねえ」

 誰にというわけでもなくひとりごちると、トーマスが、「ハリウッドスターほどじゃありませんよ」とすかさずフォローしてくる。
そう言ってもらえると、ぼくもちょっと気が楽になるというものだ。。
それが例え、ただの慰めでしかないのだとしても。

「そうだよね。さすがに写真撮られたり、サイン求められたりってことはないしね。まだマシかあ。
でも、ギイだったらハリウッドスターだって言われたら信じちゃう人がいるかも……」

 理解者がひとりでもいると、そのくらいのおどける余裕も出てくる。
自分ひとりではない。それはとても心強かった。

──でも、もとはと言えば、彼らがいるから目立っているわけで。何か矛盾してるんだけどね。

 エレベーターがレストランのある最上階に着いた。
エレベーターホールにふたり男の人がいたがどうやらお客という感じではない。
なぜか辺りはしーんと静まり返っていて、客は誰ひとりとしていない。

「あれ? もしかして今日は休みだったりする?」

 キョロキョロしながらぼくが立ち止まると。

「それはあり得ませんよ」
「予約してありますからご安心を」
「大丈夫ですよ」

 三人のSPたちが優しい言葉をかけてくれる中、ひとりトーマスだけが、「よくお考えください。休みであればスタッフがいるのはおかしいでしょう」とすごく手厳しい。

「ああ、そうだよね。ちょっとびびっちゃったよ」
「あなたが休みだと誤解してお帰りになってしまわれたら、それこそレストランは永久に休業せざるを得なくなりますよ」

「そんな馬鹿な」
「あなたにはそれだけの価値があります」

 彼はいつもぼくに甘いかと思えばそうでもなく、飴と鞭の切り替え方が絶妙なのだ。
これは喜ぶべきなのか。

「客商売というものはそういうものですよ。
ましてや最上客となれば、失礼があったとなると、ここを畳むだけで済めばまだいいほうです。
ほかの場所でやり直すにしてもやっていけるかどうか……。
社交界というものは意外に狭いものですからね。
ボスは今日はおふたりだけでゆっくりしたいと言われて、わざわざ貸し切りにしています。
ですからほかの利用客がいなくてもおかしくありません」

 ところが、トーマスがそう言ったそばから、エレベーターがほかのお客を連れてきた。

「おや。貸し切りと知らないで来たお客のようですね」とぼくの後方にいたSPがエレベーターホールを振り返って言った。
それを聞き流して、トーマスが、「託生サン、行きましょう」と先導してぼくをレストランに連れて行く。

 レストランフロントにはふたりの男性が立っていた。
ひとりは黒服を着ていて、ぼくたちの姿を見とめると、深く頭を下げていた。
もう片方のスーツを着た体格のいいアフリカンアメリカンの男性は携帯のようなものを取り出して、どこかに連絡を入れている。
近づくと、彼の顔には見覚えがあって、ギイのSPだと思い出した。

──もしかして、さっきのふたりもギイのSPだったのかな。

「託生サンが到着しました」

 トーマスが改めて報告すると、彼はぼくに軽く頭を下げ、「ボスがお待ちです」と告げてきた。

「ギイ、もう着いてるの?」
「そのようですね」

 トーマスはぼくに笑顔で返すと、うしろのふたりにここで待つよう指示していた。

 ぼくがレストランに入ろうとすると、あとから来たほかの客らしき誰かの話し声がどんどん近づいてくる。
どこかで聞いた声だと思って、ちらりと視線を投げると、金髪の青年がさっきのふたりに何か言われているのが目に留まった。

「彼は……レオナルド・スタイン、ですね」

 トーマスがぼくより先に彼の名を口にした。
レオナルドのほうもぼくたちに気付いたようだった。

 彼は何か言いたげに口をぱくぱく開閉している。

「託生サン、ボスが待っています。参りましょう」

 トーマスたちに促されて、ぼくはレストランへ入って行った。
中はなぜかだだっ広い空間になっていて、レストランにあるはずのたくさんのテーブルと椅子がそこにはなかった。

 窓際にひとつだけ、ふたり用ににしては大きめなテーブルがあって、対面して座るように二客分の席が用意されている。
そのひとつにギイはすでに座ってぼくを待っていた。
ぼくが来たのを見てギイは微笑むと、すっと席を立って、ぼくをもうひとつの席に座らせた。

「遅かったな、待ちくたびれたぞ」
「ごめん、先に来てるとは思わなかったよ」

「島岡が久しぶりのちゃんとしたデートだからって気を利かせてくれたんだ。
ああもう、腹が空きすぎだ。託生、メニューはどうする。シェフに任せるか?」
「ああ、うん、どうしようかな。っていうか、ここ貸し切りにしたんだね。びっくりしたよ」

「たまのデートくらいゆっくりしたからな。何か食べたいものはあるか?」

 黒服の人がメニューを開いて渡してくれたけれど、内容はちんぷんかんぷんだった。

「これ、もしかしてフランス語?」
「……英語でもちゃんと書いてあるけど。いい、わかった。
託生、これだけは苦手ってのだけとりあえず教えてくれ」

「えっと、苦いのはパスかな。ニガウリみたいなのは駄目かも」
「人参は?」

 祠堂時代、あれだけ避けていたじゃないかとギイが暗に匂わせる。

「失礼な。大丈夫だよ。でもあんまりたくさんはいらないけど。あ、それと甘いのはちょっとパスしたいかも」
「オーケー」

 絶妙なタイミングでよ黒服の男の人がやって来て、ギイが注文を済ませてくれた。

 この無駄に広いレストランフロアにギイとふたりっきりというのはちょっと落ち着かない。

「貸し切りにしなくてもよかったのに」
「個室よりもここのほうが夜景が綺麗らしいんだ。
オレは個室のほうしか知らなかったんだけど確かにこっちのほうがよく見れる。
それに、ほかの客たちがいたら、SPに囲まれて食事する羽目になるんだぞ。
そんなの無粋じゃないか、せっかくのデートなのに。だろ?」

 そう言って、ギイはぼくの手をぎゅっと握ってきた。
ギイがにやけるのを唖然と見つめながら、「そりゃそうかもしれないけど。やりすぎも困るよ」と今更だけど恥ずかしさがじわじわ沸いてきて、テーブルの上で重なね合うふたりの手にそっと視線を落とす。

「託生がアメリカにいるのも残りわずかだからな。それに今日は結婚記念日だし、今日くらいはってさ」
「あっ! そっか……」

「もしかして託生、忘れてただろ」
「うっ、ごめ……ううん、ありがとう。ギイの気持ち、嬉しいよ」

「どういたしまして」
「もう一年になるんだね。あっという間だったなあ」

「日本に帰ったら墓参りにも行かなきゃな。静岡のほうにも顔を出しておきたいし。
託生がSPぞろぞろ連れてったらちょっと引かれちまうかな。やばいな」
「でも最近は前に比べたらぼくだって随分トーマスたちがいるのも慣れたし、両親もそりゃ最初は驚くだろうけどきっとわかってくれるよ。
ギイは気の遣いすぎだよ。
今日だってさ、ギイ、わざわざ貸し切りにしてくれたけど、ぼくはみんなに囲まれて食事をするんでも全然いいんだからね。
ギイがいれば……、それでいいんだ。公園でアメリカンドックをかぶりつくんでもいいんだよ」

「託生……。気持ちは嬉しいけど、SPからしちゃそっちのほうが気苦労しそうだな。
ああ、わかったよ。じゃあ次も、貸し切りにするのは特別な日だけにする。決めた!」

──え? 次もあるんですか? 何でそうなる。

 ギイが視線を窓に向けたので、ぼくもつられてそちらを見ると、確かにギイが固執しただけあって素晴らしい夜景が広がっている。
ギイの家から見える夜景も素晴らしいが、高度がある分、こちらのほうが遠くまで景色が広がって豪勢に見えた。

「すごいね。ギイのオススメだけはある。キラキラしてて、月並みだけどホントに宝石みたいだ」
「喜んでもらえてよかったよ。いつか託生を連れてきたいと思ってたんだ。
ここの料理長はフランス人なんだが、京都の会席料理も学んだ異色の経歴なんだぜ」

「へえ。そりゃ変わってるね。どんな料理が出てくるんだろ。想像がつかないなあ」

 食前酒がやってきて、「オレたちの結婚記念日に乾杯」とギイが、グラスをわずかに上に持ち上げる。
嘗めるように一口飲んで、
「これ何?」
「シェリー酒。絶品だろ?」
すると、ギイはすでに三分の一ほど飲んでいた。

「きりっとした辛口だね。ぼく好きかも。でもすぐ酔いそうだな」
「強いからな。調子に乗って飲むと料理が来る前に酔っちまうから、ほどほどにしとけよ」

「わかってます。だって料理を楽しみにしてきたんだから」
「まあ、酔って食べきれないようだったらオレが引き受けてやるから。安心していいぞ」

「何それ。ぼくのはちゃんとぼくが食べますよーだ。ギイ、食い意地張りすぎ」
「そりゃ残念。忠告しないで酔わせときゃよかったな」

「まったくもう」

 ふたりしてたわいない話で笑う。
そんなぼくらにトーマスが恐縮しながら近づいてきた。

「お楽しみのところ申し訳ありません。
託生サン、どうしてもお話したいとレオナルド・スタインが言っておりますが──」

 だが、ぼくが何かをしゃべる前に、「追い返せ」とギイが短く言い捨てた。

「託生に何の用があるって言うんだ? もう例のCMの件は終わったことだ。
それにオレたちはデート中だ」
「申し訳ありません。ですが相手はスタイン会長ご子息ですのであまり乱暴に対処するのもどうかと思いまして」

 トーマスの立場では、自分の一存でどこまで手心を加えていいか判断がつきかねたのだろう。
フロントのほうからレオナルドのものらしい興奮気味の声が聞こえてきて、黒衣のスラッフ数名が慌てて声のする方に向かって行った。
だが、それは火に油を注いだだけだったようだ。
レオナルドの声は更に興奮を帯びてすでに叫び声になっている。
ほかの人間たちの声も混じって、入り口付近はがやがや騒々しかった。

 一瞬、SPたちや黒衣の人たちが無理やり中に入ろうとするレオナルドを押さ付けようとしているのが見えた。
すぐに引っ込んだが、入口でこれ以上中に入らないように、支配人らしき人が両手で通せん坊をしている様子はまだ見えたままだ。

「本日は全席完全予約となっております。
どうぞ今日はご遠慮いただいて、次回のお越しをお待ちしています」

 緊張気味の青い顔で同じフレーズを何度も繰り返していその姿は、すごく痛々しかった。

「糞野郎。一昨日きやがれ」

 ぼくの前の席から、捨て台詞が聴こえてきた。
「え?」っと振り向いたら、ギイがちょうど席を立ったところで。

 ギイはそのまますたすたと入口の方に向かうと、「食事中だ。静かにできないのか」と低い声をフロア全体に響かした。
ギイの登場はさすがにレオナルドの意表をついたのか、急に甲高い彼の声が聴こえなくなった。

 ギイの姿はぼくの席からよく見えた。
ギイの横顔にはまったく表情がなかった。
それがどんなにギイの秀麗な容貌を冷たく見せるか、ギイが知らないはずがない。

 ギイは腕を組んで、呆れたように大きく息を吐くと、英語でこう言った。

「レオナルド・スタインだな。オレはギイチ・サキだ。
何を考えてこんなことをしているのかは知らないが、ここにいるのはオレの連れ合いのタクミ・ハヤマ・サキだ。
一介のバイオリニストがオレの託生に何の用がある?
今日は帰ってもらおうか。
言っとくが、これ以降、そう簡単にタクミに会えるとは思うなよ。
バイオリニストのタクミ・ハヤマに会いたければ、精々日本まで会いに行くんだな。わかったか!」

 ギイの言葉に反応して、レオナルドが身を乗り出したのか一瞬姿が垣間見えた。
ちらっと、ぼくのほうを見た気がしたが、すぐにSPに引き戻されたのか、すぐに彼の姿は見えなくなる。

 再び席に戻ってきたギイに、「大丈夫?」と尋ねると。

「ああ。諦めて帰って行った」

 ギイはグラスを一気に空けた。

「ギイ、知ってたの? 彼のこと」
「ああ。ミック・スタインが突然オレのところにアポイントを申し込んできたからな。
それで知った。託生がどうして怒ってたのかも。
最初はマネージャーのイーサンに連絡を取ったようだが、イーサンはわざわざオレの連絡先を教えたらしい。
イーサンもやってくれる。オレを盾にしやがった。まあ、いいけどな。
で、スタインが愚息の愚行を謝りたいと電話口で言ってきたから、オレはお宅の息子など知らないって答えておいた。
第一、本当にオレは託生からは何も聞いてなかったし。
だからオレは会ってないよ。それでよかったんだろ?」
「うん。結局ギイに迷惑かけちゃったみたいだね。ごめんね」

「いいさ。たいしたことじゃない」
「でも彼、どうしたんだろう。
最初会った時はあんなふうに感情丸出しに恥を晒すようなタイプには見えなかったけどな」

「ミック・スタインの話では、本人もすごく反省しているようなことは言ってはいたが……。
さあ、もういいだろ。あんなのほっとけ。うまい料理もまずくなる。
ほら、ちょうどタイミングよく来たようだ。シェフの心づくしだぞ。楽しもうぜ」

「そうだね」

 だが、ぼくとレオナルドとの縁はそこで切れたわけではなかった。





 季節もあと幾ばくかで一巡し、Kホールの改修に完成の兆しが見えてきた。
同時に、ぼくたちの長い休暇も終わりを告げ、ぼくは帰国の途についた。

 長いようで短かった数か月間のアメリカ生活は、いつかあの国で暮らすことへの不安を、全部とまでは言わないけれど随分拭ってくれた。
日本以外の国で仕事をすることへの自信と期待を少しは持てるようになったことも、ぼくにとっては大きな変化だった。

 帰国の日が近づくにつれ、ますますギイから離れがたくなって、例え異国の地であってもギイがいるならいいじゃないか、このまま永住してしまおうかと感傷的な気持ちになるのだから、蜜月の威力はものすごい。
こんなにギイにべったりくっついていられたのは祠堂を卒業して以来なような気がするから余計なのだろう。

 ギイはぼくが弱っていたのを見こして「そうしちまえよ」なんて無責任に言ってたけれど、さすがに現実を考えるとそう簡単にはいかない。
ぼくにもKフィルの仕事があるし、残してきたスケジュールをこなさなければならない責任だってある。
ギイだってそれはわかっていたはずなのに。

「言うのはタダだろ。ダメもとでも瓢箪から駒ってこともある」

 言ったもん勝ちとギイは言いたいのか。

 何にしても、アメリカに行って本当によかったと思う。
英語が苦手とか言って悩んでいたのが馬鹿らしくなったし。
英語がペラペラしゃべれるようになったわけではないけれど、前ほど苦手意識がなくなったのはすごい収穫だ。

 誘ってくれたギイや、ほかにもいろいろお世話になった人たちに心から感謝したい。



 そして現在、ぼくは日本に舞い戻り、以前の生活に戻りつつある。

 そんなわけで、ぼくは久しぶりにKフィル事務局に顔を出したのだが──。

「葉山さん、大変ですよ。楽団員四人が退団を希望しているんです」

 そう突然聞かされて、「え? どうしてですか?」と事務局長に詰め寄ったところ、退団届けを出してきたのは、バイオリン二名、チェロ一名、トランペット一名の四人だと言う。
第二バイオリンの女性は夫が転勤となり一緒について行くことになったから、ほかの三人は休暇中していた留学をそのまま延長したいから、というのが主な退団理由らしい。

 そこで事務局は毎年行っている新人楽団員の募集時期まで待たずに、臨時にバイオリン、チェロ、トランペットの楽団員募集をかけることにしたようだ。
すると、珍しいことに外国人が応募者の半数を占めていたと事務の人が言ってきて、ぼくとしてはちょっと感動的だった。
これまでにも外国籍の楽団員がいなかったわけではないけれど、この数は半端ない。
事務局長は、「《Cosmo Frontier Symphonies》ワールドツアー効果でしょうかねえ」と推測していて、ぼくもそうだったらいいなと思った。

 募集の締切日が数日過ぎた頃、事務局長から依頼されて、ぼくも事務局長たちスタッフと一緒に新団員を決める面接に立ち会うことになった。
第一バイオリンのぼくのほかにも、第二バイオリン、チェロ、トランペットの各首席奏者が出席した。

 面接直前に渡された彼らの経歴はざっと読んだだけでも国際色盛りたくさんですごく華やか。
「すごーい」の呟きがぼくの口から何度も漏れた。
だが、その書類の中に、金髪碧眼の見知った顔を見つけて、思わずぼくは仰け反ってしまった。

 突如、椅子をガタつかせて焦るぼくに、事務局長が「どうしました?」と訝しげに訊いてきたが、「いえ、何でもないです」以外に何て言っていいかわかるわけがない。

 その後、面接で本当にレオナルド本人が姿を見せて、ぼくは目を見張るしかなかった。
事務局長がお決まりの入団希望を質問すると、レオナルドはにっこりと笑いながら、「そちらのミスターハヤマと一緒に弾きたいからここに来ました」と英語ではっきりと言い切っていた。

「は?」

 情けない声が漏れてしまったぼくに向かって、事務局長を先頭に審査員席に座る人たちの数多(あまた)視線が好奇心の矢となって一斉に突き刺さってくる。

「ミスターハヤマは素晴らしいバイオリニストです。
そして、彼の音楽に向き合う姿勢は彼が奏でる音そのものです。
私は彼という演奏家の存在を知って変わりました。
焦らず、地道に音楽を追求したい、いえ、追求しなければならないと思うようになったのです。
すべて彼のお蔭です」

 レオナルドの言葉を日本語に通訳してくれたのはイーサンだった。
イーサンは表情を全く変えずに平然と自分の仕事をしているように見えた──のだが。

「そんなに短時間に更生するようなら再犯なんぞ起こりませんよ。
精々、そのひん曲がった性根を叩きなおして差しあげましょうね」

 そう、ぼくにしか聞こえない小声で呟いてきたくらいだから、内心では余程、苦々しく思っているに違いない。
そこまではっきり意思表示されてしまったら、いくらイーサンが完璧に無表情を装っていても、鈍感なぼくでさえ彼の苛立ちに気付かないわけがない。

 そのイーサンだが、彼は信じられないことに数か月間で日本語をマスターしてしまった。
もともとぼくがアメリカにいた間にもハーバードの伝手を使って日本語講座にちょこちょこ顔を出していたらしいのだが……。
だとしても、日本で再会した時にはすでに日常会話であれば充分というくらいにとても流暢に日本語を話せるようになっていて、ぼくは唖然とする反面、英語を何年も学校で習ってきた身としては、ちょっとどころかものすごく悔しかった。

 イーサンは、来日するまでにラードナーエージェンシーという会社を立ち上げていた。
今、彼は自分の会社から出向という形で、ここで通訳と事務を手伝っている。

 事務局長はイーサンが虎視眈々とぼくの仕事枠を拡げようとしているのを知りながら、今のところ何も言わないでいてくれている。
それもそのはず、「私はKフィルもまたとても愛しています。ですからKフィルの名声をもっと海外に広げたいのです」とイーサンはとにかく口が達者で、事務局長もKフィルの海外進出をほのめかされて悪い気はしないようなのだ。

──世渡りがうますぎるよ、イーサン。

 ひと通りの面接が終わり、受験者たちが席を立った。
レオナルドも腰を上げる。

 がしかし、彼は出口に向かうのではなく、猪のようにまっすぐにぼくのところまで突進してきて──。

「ミスターハヤマ。あなたは私の人生の師です。私はどこまでもあなたについて行きます!
あなたについてゆけば、絶対間違いがないと私にはわかるのです」

 目の前のテーブルにドンッと手を叩きつけた。
その振動でテーブルから転がり落ちたボールペンが床に弾んで音を立てる。
周囲に緊張の糸が張り巡らされた。

 縋るようにぼくを必死に見つめてくるレオナルドと視線を合わせた瞬間、背筋にそってぞぞぞと悪寒が這い上がった。

 そんなぼくに追い打ちをかけるように、斜め後ろのごく近いところに控えていたイーサンが、「ですって。よかったですね、タクミ」と、笑顔という仮面を張り付かせながら、こそっと囁いてきたものだから 刹那、ぼくは再び、身震いした。

──いつからここは極寒の地になった? イーサン、その目は絶対笑ってないよ!

 その夜のギイとの定期連絡の時間が、この時ばかりは本当に待ちきれなかった。

「ギイ! ギイ、大変だよ! 例のレオナルドがKフィルに乗り込んできたっ!
ギイがあんなこと言うから、本当に彼、日本に来ちゃったじゃないかっ! どうしてくれるんだよっ。
イーサンは仮面のように笑ってるし、もう滅茶苦茶怖いんだから……」

 開口一番、弱音を吐きだしたぼくに、ギイは、「へえ、そりゃお気の毒サマ」とものすごく楽観的な態度を見せ、そののほほんとした言い方に、瞬時ぼくは、「誰のせいだ!」とムッとした。

「なあ、託生。一般的に最強なキャラってどんなのだと思う?」

──どうしてまたここで役作りの話っ?!

「そんなの知るわけないだろ。普通に考えたら攻撃と守備が強けりゃそれが最強なんじゃないの?」

 ギイが何を考えているのかわからず、ぼくの声はますますぶすっとしたものになっていった。

 なのにギイは。

「わかってないな。《Cosmo Frontier》で皇子が最強だったのは経験値が高いからだけじゃないのさ。
つまり、『昨日の敵は今日の友』……。わかるか?
皇子はいつの間にか敵側すらも味方の陣営に引き入れてしまうから最強なんだ」

 とても誇らしげにそう言う。

 ぼくはこの憤りをどこにやったらいいのかわからなくなってしまった。

「えっと、それってつまり……」

──ギイ、もしかして、ぼくを褒めてる……?

「あのさ……。ギイって時々、愛情表現が複雑だよね」
「そうか? いつだってオレはストレートに託生を愛してるつもりだけど?」

 言ったそばからギイは携帯越しに、チュッとキスをしてきた。

 機械越しのギイの「愛してる」は奇跡のレインボーボイスの威力を三割増しにしてしまう。
恋人同士になって十年以上も経つというのに未だにぼくはドキドキしっぱなしだ。

「託生。託生……。何か言ってくれよ。電話越しじゃあ、おまえがどんな顔をしてるかわからないだろ」

 こういう時、ギイがここにいなくてよかったと思う半分、何でここにいてくれないんだと拗ねたくなるのが半分。

「まったくもう。ギイのバカ……」
「託生、そりゃないだろう。おい、託生。何とか言えよ。託生くーん、おーい……」

 愛しい恋人の苦情を聞き流しながら、複雑な恋心をぼくは持て余すのだった。





 暇さえあれば、ギイはアメリカでもバイオリンソロバージョンの「悠久」を繰り返し聴いているようだ。
「息抜きにいいんだ」とギイは言う。

 この「悠久」はぼくにとっても思い出深い曲だ。
スタジオでこの曲を録音する時、昨年の初夏、兄の墓の前で結婚の報告をしたあの日を想いながら弾いたのを今もよく覚えている。

「悠久」といえば、有難いことにあれからGBから、空が白み始める頃合いのの聖母教会の静寂な祈りが思い浮かんだという素敵な感想を頂いた。
GBは《Cosmo Frontier》のものすごいファンらしく、もちろんゲームクリア済みだと言っていた。
だからか、「悠久」のバイオリニストがぼくだと知ってすぐに、ぼくの連絡先を調べたそうだ。
彼とは今ではメール友達というか、時々忘れた頃に連絡が来る仲である。

 それから、来日して以来、ますます日本文化に陶酔しているイーサンは、「悠久」を聴いてこんなふうに言ってくれた。

「この曲を聴いていると、この間連れて行ってもらった弓道の、弓を引く前の厳粛な礼から射技へ移るあの一連の所作がなぜか目に浮かびます。
清廉で、潔白。タクミの心、そのままの音ですよね。とても清々しくて、それでいてすごく優しい」

 今もイーサンは矜持の一矢を弓につがえ、弓をぎゅっと引き絞って、遥か先にある傷ついた心の的を見据え続けているのだろう。
けれど、穏やかな表情で、舞台袖に置いてあるピアノを撫でていた彼の姿を見つけた時、いつかきっと幸せな音を聴かせてくれるんじゃないかと自然に思えた。

 いつか必ず訪れるであろう約束の予感を、ぼくはいつまでも楽しみに待っていたい。





 誰かに「優しいね」と言われるとしたら。
ぼくがもし誰かに優しいのだとしたら。

 それはきっと、ギイがいつもぼくを幸せにしてくれているからだろう。

「託生。オレはおまえが誇らしいよ」

 その言葉がどれだけぼくの心をあたたかくしてくれているか、ギイは知っているのだろうか。

「なあ、もっと自信を持っていいんだぞ」

 いつだって、ギイに誇れる自分でありたくて。

「自信なんて、そんなの……」
「大丈夫。託生は意外性ありまくりの最強キャラだから」

 だから、《Cosmo Frontier》の第二皇子のように、ひとりでもたくさんの誰かを幸せな空間に導けるなら、こんな嬉しいことはない──。

                                                         おしまい


material * Noion

*** あとがき **

   最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onのサイト300,000hit記念作品「導きの開拓者」はいかがでしたでしょうか?
こちらは「駆け落ちは金のスプーンを咥えて」のその後のお話となります。

このお話には、《Cosmo Frontier》というゲームソフトが出てきます。
もちろんマイオリジナルです(笑)。

このゲームのストーリーは、
不遇の主人公の第二皇子が敵をバッタバッタと倒しつつ、
倒した先から敵を味方に引き入れて、どんどん勢力を増していき、
たくさんの人々を導いて、ついには皇帝の座につく──というもので、
完全に個人的趣味に走ってます♪

人の心という未知の地を開拓していく第二皇子。
ゲームタイトルの「Frontier」には開拓者とか最先端を行く者というか、そういう意味をこめました〜(笑)。

その《Cosmo Frontier》が、
葉山託生というひとりのバイオリニストの矜持を描くにあたって、
いい隠し味になっていたら幸いです。


ここまでいい加減な設定のお話を最後まで読んでくださり感謝します。
このお話を少しでも気に入ってくださったら嬉しいです♪

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

最後に、このお話は、
原作「タクミくん」シリーズの文庫本「プロローグ」までの設定での未来編となっていることを明記しておきます。

by moro


moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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