*** ご注意 **

この「駆け落ちは金のスプーンを咥えて」は未来編です。

全体的に、世の中のあり方をはじめ、現実には到底ありえないホラ吹き設定になってます。
また、未来編ということで、原作との相違点が多いと思われます。

そのようなお話が苦手な方、または、ご理解していただけない方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。
「どんなんでもOK! ドンと来い! 笑って許してあげよう!」という心の広い方のみ、どうぞ〜♪






「許されない恋だというなら、このままグレトナグリーンにでも行こうか」

 ずっときみと会えなかった、ふたりが会うために抗っていた十年前。

 やっと手に入れた束の間の逢瀬で、きみが当時の厳しい状況を軽くいなして口にした言葉がそれだった。

「グレトナグリーン? それってどこ?」

 ぼくの問いにハッと我に返ったように、一瞬身体をびくつかせたギイ。

「……馬鹿だな、オレ。ごめん、何でもない」

 ただのジョークだと笑ってうやむやにしていたけれど、本当に軽い冗談だったのだろうか。

 今のぼくはグレトナグリーンがどこの国のどこにある街なのかを知っている。
だから、あの時のギイの気持ちも、今だったらわかる気がする。

『グレトナグリーンに行こう』

 それは切実な願いだったはず。

 あの誘い文句にこそ、ギイの本気がぎゅっと詰まっていたのだと、ぼくはずっと信じていきたい──。


駆け落ちは金のスプーンを咥えて



 新緑が眩しい季節になったのだと改めて気づいたのは、ホテルのラウンジのソファに腰を下した時だった。
陽光があふれる大きなガラス窓の向こう側には日本庭園が広がり、篭を覆う苔色が木漏れ日に輝いて、風に揺れる光の移り変わりがとても鮮やかで、疲れた心身を和ませてくれる。

 最近いろんなことに忙殺されているせいか、こうして季節の移り変わりに気を留めるなんてことはしばらくなかった。
四季があるのは日本のいいところだと思う。

──それにしても、ここのホテルは外国人の宿泊客が多いなあ。

 日本人には絶対見えない人たちがあちこちに徘徊しているのは気のせいではないようだ。
チェックインのカウンターにはおそらく到着したばかりなのだろう、大きなスーツケースやボストンバックを持っている人たちが集まっている。
黒髪の人もいるけれど、金髪や明るい栗色をしている人のほうが多く、体格がどっしりとしている人がほとんどだ。
人種的な体格差なのか。そこからして伝わってくる迫力が違う。
ぽつぽつ聞こえてくる会話も日本語ではないのは明らかで、まるで外国に来ているような錯覚を覚えた。

 日本人のカチッとした固いスタイルとは違うラフな服装は、このホテルにそれはちょっと軽装すぎないかと思うほど、いかにも旅慣れたと言わんばかり。
それでもその気軽さがチェックインを待っている間にも笑いが絶えない陽気な彼らにはとても似合っていた。
彼らの布製の鞄はスーツケースくらい荷物が入りそうなくらい大きくて、確かに布製だったら乱暴に扱われても割れたりしないんだろう。
なるほど、あれはすごく実用性に合っている鞄なんだなとつくづく感心する。

 思うに、外国からの旅行客たちは確実に大人が好みそうな清廉さを追求したこのホテルの雰囲気に、遊び心を思わせる冒険的なインパクトを与えている気がする。
そして面白いことに、彼らのラフなスタイルは、一見水と油のように混じらないかに思えてしまいそうなこの豪華なホテルの雰囲気にうまく馴染んでいた。
ホテルスタッフたちが自然な笑顔で陽気なゲストたちを迎えているのがその証拠だ。

 ここのスタッフたちはすごく洗練されていて、きびきびと動き回りながらもゲストひとりひとりへの心遣いが窺(うかが)える。
相手がどんなにボロボロのジーンズを穿いていても、「ようこそお越しくださいました」の歓迎の態度が変わらないから、エントランスでこのホテルの雰囲気に一瞬怯んだ人でさえ勇気をもって一歩先を踏み出せるというものだ。
身体の無用な力が抜けて安心できる、こちらまでつられて口端が緩んでしまう、そんな心温まる笑顔が何とも有難い。
あの笑顔を向けられたら、誰もが「帰ってきた」という気持ちを抱くに違いない。

 現(げん)にぼくがそうだった。
このホテルに足を踏み込んだ途端、目に飛び込んできた煌びやかな豪華さに、一瞬、うわっと足が竦んでしまった。
肌に感じる空気が違う。まさにゴージャスの世界がそこに広がっていて。
氷のようにカチンと固まったぼくを、ベルボーイが「ようこそお越しくださいました」とにこやかに誘導するのがあと五秒遅かったら、おそらく踵を返していた。
とはいえ、待ち合わせに指定された場所がここである以上、もちろんそのまま帰ってしまうわけにはいかなかったわけだけど……。
でも、気持ち的にはまさに「勘弁してくれ」って感じで、正直なところ、約束をしていなかったら確実にあの場で帰っていたと思う。

 完全に自分が浮いている気がしていたし、もともとこういう場所を苦手としているぼくである。
これでほかのゲストやスタッフたちにちらちら見られようものなら、やっぱりぼくはこの場にはそぐわないのかと即座に腰を上げてるところだ。

──けど実際は、誰もぼくになんか気に留めてないようだし。
だからぼくは安心して(?)、こうしてここに座っているわけなんだけど。

 スタッフの対応もさることながら、ホテル自体もすごく素敵なことに間違いはない。
なのに、ぼくのお尻はさっきからむずむずしている。

 高潔さがうかがえるこのロビーの雰囲気に安寧を抱けるようになるにはまだまだ経験が足りないらしい。
それでも、何度も経験を重ねれば、ぼくもいつかはこういう場所でもどんと構えていられるようになるのだろうか。 

──情けないかな、先は長そうだなあ。

 ロビーが見渡せるこのラウンジも豪奢さと高級感にあふれていて、まさに最高級ホテルの名に相応しい造りである。
見上げるほど高い天井には大きなシャンデリアが飾られて、クリスタルの一粒一粒がキラキラと光を反射して輝いて眩しいほどだ。
いかにも西洋というイメージが現実となってそこにあった。

 ウィーンにいた頃、長期休暇などを利用して、国境超えて近隣の国々を回ったことを思い出す。
年代物の建築物や古い美術品など、ホンモノに触れて感性を磨く経験が多少なりとも積めたことは音楽留学の得難い副産物だった。
ヨーロッパの国々は古いものをとても大切にしていて、観光地となっている都市の多くは古い街並みと近代的な地域をはっきりと区分けするなどの工夫をしており、古いものと新しいものを上手に調和させて、それぞれの良さを引き立てている。

 このホテルのロビーもまさにそれだと思った。
ラウンジの一画に置かれている家具には年代の古い趣が重厚感を放つ一方、現代的な幾何学模様の床は未来へ挑戦するかのような冒険を思わせる。
片や、ラウンジから外を望めばそこは一変して和の世界。一面に日本庭園が広がっているのだ。
建設を受け持った人はとてもすごい才能を持った人なのだろう。

 でも、いくら綺麗で素敵であっても、スタッフの笑顔がいくら「お帰りなさい」の雰囲気を醸し出していても、ぼくがここで安らげるかというと別問題となる。
場違いなところに迷い込んでしまった。そんな気持ちでいっぱいになって、どうにもお尻がもぞもぞとしてしまう。
これはどうにもならない。

──こういう時、ぼくってつくづく庶民なんだなあと自覚しちゃうな。

 どんなに立派なところに招かれようが、どんなに裕福な知り合いに囲まれようが、根本たるところは変えられない。
ぼくはぼくでしかないのだと痛感する瞬間でもあった。

 それでも少しでも気分を落ち着かせようと、ぼくなりにここの雰囲気になじむよう努力をした。
絢爛豪華なロビーに背を向け、ラウンジの窓ガラスの向こう側に広がる新緑の景色に視線を泳がし、少しでも居心地がよくなるよう庭園を見渡してみる。
緑色というのは目に良いと聞いたことがあるし、木々の葉は心を和ませてくれる作用があるに違いないと淡い期待を込めつつも。
きっとこれを考えた人は日本の美がもたらす安寧の効果を狙って作ったのだろうから、どうかその効果がぼくにも表れますように。

──よかった。ぼくの願いは半分くらいならどうやら叶いそうだ。

 一仕事終えた疲れが一気に来たのがその証拠だった。

 注文したアイスコーヒーが一気に半分ほど減っていて、結構喉が渇いていたんだなあと溜め息が漏れてしまうがどうしようもない。
やっと一息つけたのだと実感したところなのだ。この際、大目に見てもらおう。

──疲れた……。飲んでも飲んでも喉が渇いて仕方ない。ああ、肩が凝ってるな。力みすぎだよ。

 そこでやっとぼくは悟った。
違う、ぼくが緊張していたのはホテルの豪華さにじゃない。
ここの雰囲気に飲まれたとかではなくて、今、自分が置かれている現状に自分の気持ちがちゃんとついて行ってないから緊張しまくりなんだ、と。

 気づいてしまえば簡単だった。
それでも、覚悟はしていたはずなのにどうしてだろうと自分でもこの緊張に説明がつかなくて。

 この十年、ギイと一緒にいても全然平気だったのに何で今更……、と自分のことなのに自由にならない自分自身にすごくじれったくなった。
そのくせどうにでもなれって自暴自棄な自分もいて。

──これじゃあ図太いのか小心者なのかわからないな。

 ふと、焦点をガラス窓に合わせると、こちらに近づいてくる待ち人の姿が映っているのが見えた。
慌てて振り向くと元気な笑顔が視界いっぱいに飛び込んでくる。

「託生くんっ、久しぶり。元気そうね」
「は、はい。ご無沙汰してます」

 即座に腰を上げて挨拶をすると、「そういうリスみたいなところ相変わらずね。何だかタイムスリップしたみたい。あなた全然変わってないんだもの」と屈託のない言葉がポンポンと飛び跳ねてきた。

「穂乃香さんもお変わりないようで……って、すみません。全然変わってない、とは言えないようですね」

 自然と注いでしまったぼくの視線の先を察して、京古野穂乃香さんは目を細めてふふんと鼻で笑う。

「言うようになったわねえ、託生くん。さすがに少しは成長もしてるみたいで安心したわ。
とりあえず座りましょうよ」

 そうして穂乃香さんはゆっくりと向かいのソファに腰を下し、近づいてきたウェトレスにグレープフルーツジュースを頼むと彼女が遠ざかったところで、
「まあ、このお腹じゃ仕方ないか。託生くんの失礼も許してあげるわ」
口を尖らしながら、穂乃香さんはお腹をぽんと叩いた。

 その仕種がとても楽しげで、それでもってすごく幸せそうで、ぼくはくすぐったい気持ちになる。
さっきまでの力み具合はどこへやら。
こちらまでうきうきとして来るのだった。

「すみません」と口にしながらも、頬が緩んでしまうのがとまらない。

「いいわよ。気にしてないから。
実際、このくらいお腹が大きくなってくると妊婦って目立つみたいで周りの人も気遣ってくれるのよねえ。
結婚する時、あれだけ騒いだ親も今ではすっかりご機嫌だもの。ホントに妊娠さまさま。有難いわ」

 穂乃香さんは今までにもすごくいろいろあった人だというのはちょっとだけギイから聞いている。
きっと穂乃香さんのご両親も何度も婚約破棄を重ねる実の娘に不安を感じていたのかもしれない。

「今、何か月なんですか?」
「八か月に入ったところよ。妊婦が珍しい?」

「えっと、少し。ぼくのまわりにはいないから」
「へえ、そうなの。託生くんって確か二十六だったかしら?」

「いえ。この間の二月で二十七になりました」
「だったら大学の時の同級生とかに妊婦さんとかいそうじゃない? オケのメンバーとかはどうなの?」

「もしかしたらいるのかもしれないけど、わかりません。ぼく、他人に疎いから」
「何を謙遜しているのよ、そんなことはないわよ。託生くんって人を引き付けるところあるもの。
どこか話しやすいというか、ついあなたには話してしまうというか。
実際私はそうだったし。あのマッピーだってそうだったでしょ?」

「そうなのかな。だったらいいんですけど。
それにしても懐かしいな。雅彦さんお元気ですか。
そういえば、初めて穂乃香さんとて九鬼島で会ったのってもう十年前になるんですね」
「ええ〜、もう十年経つの? いやねえ、年ばっかり取っちゃって」

「いいじゃないですか。穂乃香さん、全然変わってないですよ。そのお腹以外は」
「ぐっ、ホントに言うようになったわね。もう、ギイみたいなこと言わないでよ。
託生くん、ギイにだんだん似てきたって言われない?」

「まさか。第一ギイにそんなこと言ったら、ゲロゲロって言われちゃいますよ。
今だって疎いだと鈍いだのってボロクソに言われてるんですから」

 そうなのだ。
ギイはぼくに甘すぎると他人は勝手に言ってくれるが、実はそうでもなくて。
ときどき、これが恋人に対する甘い態度かって言いたくなる時もあるくらい、実際ギイはぼくに対して厳しい顔を見せる時もある。

──まあ、だいたいにしてそういう時って、ギイがぼくを心配してって場合がほとんどだからこっちも受け入れるしかないんだけど……。

 それでも、世間一般の認識がそのまま事実であるわけではないのだと訴えたくなる時がぼくにだってあるのだ。

「ふうん。ギイ、ゲロゲロなんて言うんだ?」
「言いますよ、普通に。何かとすぐにからかってくるし」

「相変わらず仲いいわねえ。そりゃそうか。もうすぐ結婚するんだものねえ」
「……穂乃香さんと京古野さんほどじゃないですよ」

「そりゃそうでしょ」
「言い切りますね」

「まあね。このお腹が明らかな証拠だもの」

 再び、ぽんっと軽くお腹を叩く穂乃香さん。
そんなふうにのろけさえもスパッと言い切るところがすごく彼女らしくて、とうとうぼくはぷっと噴き出してしまった。

「そこ、笑うところじゃないわよ」
「はいはい。すみません」

 穂乃香さんは長年の婚約期間を経て、二年前に京古野耀さんと結婚した。
小学校時代からの知り合いだったふたりは三十年近い付き合いを経て結婚したわけだが、長い付き合いの中でいろんなことがふたりの間にあったのだろう。
初めて穂乃香さんと会った時、彼女は京古野さんという恋人がいながら、ほかの人と婚約したと言って恋人関係を解消したいと言っていたし。
結局、京古野さんとの別れ話は流れて、ふたりは婚約したわけだけど……。
その後、一度婚約破棄をして、再度また婚約したとギイから聞いている。
結婚する時も、ぼくは詳しくは知らないけれど、家族の間で一悶着あったのだとか。

 それでも、結婚式でのふたりはとても幸せそうな新郎新婦だったし、結果的には丸く収まったわけなのだからこれはこれで良しなんだろう。
ぼくはギイと一緒に披露宴に出席させていただいたのだが、ふたりは入場から退場まで始終笑顔で、独身者には眩しいくらいのお披露目になっていたんじゃなかろうか。
西の旧家出身の京古野家だけあってさすがに格式高い結婚式だと来賓の方が挨拶していたのをうっすらとだけど覚えている。

 呼ばれた来客の人数もその顔ぶれもすごかったとしか言えないが、ぼくが特に目を見張ったのは披露宴に出席した音楽界の著名人の豪華さだった。
尊敬する音楽家たちが右を向いても左を向いてもいて、まるでスーパーマンにでも出会ったかのような幸せな気分を味わえた。
憧れの人たちに会えたのだ、気もそぞろになっても仕方ないと思う。
余程興奮状態だったのか、ぼくはあちこちきょろきょろ挙動不審な動きをしていたようで、ギイに何度も窘められてしまった。
少し遅れてやってきた井上佐智さんがぼくたちと同じテーブルについた瞬間が、ぼくの興奮の最高潮で。
「これ以上の幸せはないよ……」と零したら、「悪かったな。今ほど幸せにしてやれなくて」とギイが横でぼやいてた。

 何にしても、長年の交際期間を経て結ばれた京古野さんと穂乃香さんは今、幸せな結婚生活を営んでいるようだ。
ご夫婦とも見知った人たちなので、ふたりが幸せなのはぼくとしてもとても嬉しい。

「今、八か月ってことは予定日は七月くらいですか?」
「そうよ。十五日。安定期に入ってもこの間まで悪阻があって、もう大変だったのよぉ。
できるだけ仕事のほうもしてたんだけど、それ以外はずっと家にいたの。
でもね、確かに家にいると身体は楽なんだけど、部屋の中にばかり籠っていると今度は気がめいるのよねえ。
悪阻だけはもう勘弁してほしいわ。
託生くんには信じられないでしょうけど、ちょっと前じゃこうして外で誰かとお茶してるなんて夢みたいだったのよ。
ホントにねえ。出産を控えてなければ来月、私もアメリカに行くのに。耀クンばっかり、ずるいわ」

「ぼくもびっくりしました。まさか京古野さんがパイプオルガンを弾いてくれるだなんて。
すごいサプライズです。ありがとうございます」
「彼の趣味だもの。お礼なら耀クンに言ってちょうだい。
耀クン、公演で一緒になった佐智さんからあなたたちのこと聞いたのよ。
結婚のこと知らずにいたら、耀クンも私も今頃すごく後悔しているところだったわ。
水臭いわね。私たちにとってあなたとギイは大恩人なのよ。
あの時、耀クンとすれ違っていたら、きっと私は別の人と結婚していたに違いないし、こうして耀くんの赤ちゃんを身籠ることなんてなかったもの。
なのに、どうして連絡くれなかったの?」

「すみません。えっと、結婚が決まっても誰かに知らせるってほどんとしてなくて。
だから穂乃香さんたちだけっていうわけじゃなくて。
知ってる人は知ってるけど、なかなか知らせるにもそれぞれ会ったり連絡する機会がなかったというか。
それじゃあまずいかなって最近思うようになって、これから連絡取ろうかと思ってるんですけど……」
「あらあら、だって来月には式を挙げるんでしょ? お友だちは呼ばないの?」

「ぼくもギイもアメリカでの挙式は内輪で済ますつもりでいたので。
でも、日本に帰ったら友人たちがパーティしてくれることになってます。
誰かしらか結婚のこと伝わったみたいで、同窓会のノリでみんなで会おうってことになったようで……。
すごく有難いです」
「そうなの。たくさんのお友達が祝福してくれるなんて素敵じゃない。
まあ、それはともかく。あなたたち、結婚が決まるの遅すぎよ」

「あー、すみません」
「託生くんが謝ることじゃないわよ。
あの実践躬行のギイにしてはちょっと意外だったのよね。
だって熱烈に託生くんのこと愛しちゃってるあのギイがよ、今まで動かなかったのはホント奇跡と言っていいほどよ。
マゾじゃあるまいし、彼、どこまで我慢できるか自分を試してたってわけじゃないんでしょう?
第一、プロポーズするのを渋るなんてギイらしくないもの。そう思わない?」

 問われても、何と答えたらいいのやら困ってしまった。
思い返せば今までにも何度か、共犯者になってくれとか、アメリカで一緒に暮らそうとか、それらしき言葉をぼくはギイからいただいていたのである。
だからギイがプロポーズするのを渋っていたというわけではないと思うのだけど。

 でも、ちゃんとしたプロポーズということなら答えはひとつだ。

「ギイもいろいろ考えてくれていたんだと思います。
それに、正式にしてもらったのはこの間のお正月なので、半年以内に式を挙げるのってそんなに遅いってわけじゃないと思いますけど……?」

 ギイとぼくは祠堂時代からの付き合いだ。
この十年の間、ぼくたちの気持ちは深く通じて合っていたと思うけれど、ぼくたちの真剣な気持ちが最初から周囲の人たちみんなに認められていたかというとそれは違う。
特にぼくの父は長い間、ギイとのことを認めてくれなかった。
ギイが何度もぼくの実家に足を運んでくれたにも関わらず、父は無理難題をギイに吹っかけるばかりで、ギイのことをほとんど無視していた。

 だけど、今年の正月にやっと認めてくれて……。
そしたらギイはすぐに結婚を申し込んでくれた。

 葉山託生という一個人としてのぼくだけでなく、葉山家の息子としてのぼくをも大事にしてくれていたギイ。
「結婚しよう」と言われた時は、まさにギイ以外見えない恋の盲目状態。
感涙して声が震えたくらい嬉しかった。

 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
この先に続く徒労を思って、はあと溜め息を漏らすと、「あらあら」と興味津々の声が追い打ちをかけてくる。

「何、何、なーに? 溜め息なんてついちゃってどうしたの。託生くん、ちょっと疲れ気味?
それはそうよねえ。
結婚って準備しなければならないことも多いし、それでなくてもふたりとも仕事が忙しいんでしょうしね。
そういえば、この間の電話でも今日どこかに寄ってくるって言ってたわよね」
「あ、はい。実は今日、アメリカ大使館まで行ってきたんです。面接を受けに」

「面接?」
「ええ、面接です」

「どうして面接? ギイと結婚するのにアメリカ大使館で面接って必要なの?」
「あ、はい。ええと、正確には日本人のぼくがアメリカ人のギイと結婚するために、ですけど。
ぼくもまさか結婚するのに面接まで受けなきゃならないなんて思わなかったですよ。
アレですね。結婚ってホントに勢いがないとできないですよね。
この世の中、結婚している人ってたくさんいるのに……。みんなホントにタフだなあ」

「なるほどねえ。そっか、今はそんなふうに結婚するのって大変だって思っちゃってるとこなんだ?
で、面接ってどういうこと?」
「えっと、面接で落ちなかったらフィアンセビザが取得できるんです」

「フィアンセビザ? 聞いたことないわね」
「K-1は? ご存じないですか?」

 穂乃香さんは首を振った。
でもそれが当然だと思う。
だって、穂乃香さんのご主人の京古野さんは純粋な日本人なんだから。
アメリカ人と結婚するのに必要な査証なんて知っていると言われたらそっちのほうが驚いてしまいそうだ。

「ビザにはいろいろあるみたいなんですけど、アメリカで結婚するぼくらの場合、フィアンセビザがあったほうがいいらしくて。
ぼく、今までアメリカに行った時もビザなんていらなかったので、今回も結婚式を挙げるだけだし、別にアメリカに長々といるわけじゃないんだから、当事者のぼくがアメリカに行きさえすれば万事オーケーなんだろうって安易に考えてて、今までと同じ感覚で渡米するつもりでいたんです。
けど、ビザなしで入国してそのまま結婚しちゃったら厳密には違法になるらしくて。
空港で「結婚するために来た」なんて答えたら、ヘタしたら強制送還とか入国拒否とかされるって聞いて、もうびっくりで。
ぼくってすごく甘かったなあって反省しきりで……」

 さすがにギイのほうはそういう諸々の手続きのことをしっかり把握していたようで、ぼくにプロポーズしたあと帰国した際、すぐにフィアンセビザの請願をしていたようだ。
通常受理までに一ヶ月から四か月ほどかかるフィアンセビザ請願だが、INSサービスセンターが混んでいると長ければ半年かかるらしい。
ちなみにぼくらの場合は二か月要した。
その後の流れとしては、アメリカ人のギイの婚約者である日本人のぼくが日本にいるため、日本のアメリカ大使館に転送され……。それにまた一ヶ月ちょっとかかり。
パケットを受け取って、これまたアメリカと日本で書類集めに奔放することになったのが先月の終わりのこと。

 ギイが言うには、フィアンセビザの請願の際に、ふたりが婚約している証拠というものも提出したとのことだったので、ぼくも今日の面接用にそれなりに「証拠」となりそうなものをいくつか用意してきた。
ふたり一緒に映っている写真とか、がそれだ。
特に、この正月に実家で写したものは母が撮った力作だった。

 あの日はいろいろあって、嬉し涙とはいえ泣き腫らした顔を撮られるのは極力遠慮したかったのだけれど、記念になるからとか、いい思い出になるから我慢しなさいとか言われて、ほとんど強制的にフラッシュをたかれてしまったのだった。

 母が嬉々として撮っていたのは、きっとギイがものすごい美男子だからだろう。
カメラを構えてはしゃぐ姿はまるで高校生のノリで、あれは母のミーハーぶりをつくづく思い知らされた瞬間だった。
確かにギイは被写体としては最高の素材に違いない。
母の気持ちもわからないでもない。

 ギイもギイで未来の義理の母には強く出られなかったのか、母が気が済むまで辛抱強くつきあってくれ、そのせいか、恐ろしいことに母が撮った枚数は軽く百枚は超えていた。
母のはしゃぐ姿に笑顔で応えていたギイだけど、ギイの日頃の写真嫌いを知っているぼくとしては、「うわー、破格の扱い」って感心を超えて、そら恐ろしかった。
我が母ながら、なんとツワモノな母だろう。

 当然ながら、母はそんなことなど露知らず。

──ギイにしてみれば、やっと認めてもらったのにこんなことでぼくの両親の機嫌を損ねてたまるか、といったところなんだろうけど。
気のしすぎだってぼくは言ったんだけどなあ。

 写真のほかにも、ギイに会いに行った時の飛行機の半券とかも用意した。
その半券を見つけた時は、自分でもよく残っていたものだと感動してしまった。

 ほかにも婚約している証拠としては、お互いに出し合った手紙やカード、メールなどでもいいらしく、ギイからは、今回のピザの取得についてふたりで相談しあった内容のメールがいいだろうと助言されていたので、それも印刷して持って行った。

 何だかふたりの私生活を覗かれているようでちょっと腑に落ちない気もしないではないけれど、こういうシステムなのだから致し方ない。
それにしてもいくら偽装結婚を防ぐためとはいえ、深いところまで訊いてくるもんなんだなあ、とちょっと複雑な気持ちも拭えない。
世間の個人情報に対する意識を考えると、こんな感じのお役所仕事でこの先大丈夫なのかなと、小さく生まれたわだかまりが喉につかえてどことなくすっきりしないぼくなのだった。

──こういうのってプライバシー侵害にならないのかな。

 自由と責任の国アメリカは、プライバシーの侵害に対しとても厳しい国でもある。
一方、見方を変えれば、ぼくらが直面している結婚への手続きは、人種の坩堝(るつぼ)でもあるアメリカならでのシステムだとも言える。
フィアンセビザ取得の必要性とは、偽装結婚による不法滞在を防止するためにほかならない。
身元をしっかり確認することで違法入国を防ぐ役割を担っているのだ。

 とはいえ、手続きというのは何事においても徒労がついて回る。
書類と一口にいっても複雑で、アメリカで出生証明書というものが必要だとしたら、日本ではそれにあたるのは戸籍抄本(もしくは戸籍謄本)ということになるわけで。
ぼくの場合は静岡に本籍があり、役所経由で手に入れることも可能だったけれど、ぼくは実家の母に連絡して送ってもらうことにした。

「こういうことでもないと、あなたってなかなか電話してくれないんだから。でも頼ってくれて嬉しいわ」

 受話器越しに聞こえた、ある意味嫌味にも聞こえそうな母からの言葉。
ちょっと耳に痛かったが背に腹はかえられない。
ここのところギイとのことで実家にはこまめに連絡しているぼくだけど、ここ数年は年に数回電話すればいいほうだった。
不義理を重ねてきた自分が悪いと諦めよう。

「不精な息子でごめんなさい。よろしくお願いします」と殊勝な態度で頼んだゆえか、三日後には手元に戸籍抄本が届き、今回ばかりはすぐさま、「届いたよ。ありがとう」と実家に電話をかけておいた。
数日のうちに二度も親に電話をするとはぼくにしてはとても珍しいことだ。
これも親孝行になるんだろうか。なってたらいいな。

 そんなこんなでやっと手に入れた戸籍抄本だが、しかしながらそのままでは使えない。
当然ながら戸籍抄本は日本語で書かれていて、ところが提出先はアメリカなので求められるのは英語での証明書……。
翻訳は自分でしてもいいし、不安のある場合は誰かに確認してもらってサインをもらうのでもいいらしい。

 翻訳なんてギイがいれば万事済む。
ぼくは最初、大船に乗ったつもりでいたのだった。
ところが、ギイはとりあえず当事者でもあるし、「オフィスによっては公証が必要と言われる場合があるらしいぜ」とギイがどこからか聞いてきたのもあって、ギイと相談して、あとから何か言われるよりは最初からちゃんとしたものを用意したほうがいいだろうということになった。
結局、翻訳したものを「この翻訳はちゃんとされています」って島岡さんに証明してもらえるよう、ギイから島岡さんにお願いしてもらうことで話はまとまったわけだが……。

 島岡さんはその手の資格を持っていて、翻訳したものに公証をつけることができるらしい。
そういう人が身近にいると本当に助かる。
ああ、島岡さんに本当に感謝だ。

──ギイの周りにはホントにすごい人がばかりなんだよなあ。ちょっと引け目を感じちゃったりして。

 ちなみに翻訳はぼくがした。
それこそ日本語、英語がペラペラのギイや島岡さんがやってくれれば、ぱぱっと短時間で終わってしまうだろうに、だ。

「託生。おまえ、何年学校で英語を学んできたんだ? ここで役立てずにいつ役立てる?」

 ぼくの婚約者はへんなところで手厳しい。
そんなわけで、ギイが全然手伝ってくれないとなると、やっぱりぼくがやるしかなくて。

 ギイがぼくに甘すぎるなんて、どこの誰が言ってるんだ?
絶対みんなの目って曇っている!
まったく理不尽な話だ。

 ほかにも、大使館指定の病院で健康診断を受けたりと、今日の面接までに動かなければなかったことは多くあった。

 本当は弁護士に一連の手続きを依頼することもできたようなのだが……。
ギイの「仕事のことならともかく、ふたりの大切なことだから、できるだけ他人に任せたくないんだ。ちゃんと自分の手で確実に済ませたい」という言葉にほだされたのが間違いだったのかもしれない。

 それでも、ぼくよりも余程時間がなさそうなギイがぼくのフィアンセビザ取得のために走り回ってくれてると思えば、ぼくのほうも自分でできるところは何とか自分でしなければという気にもなるというものだろう。

──まさかここまで大変だとは思わなかったけれどね。

 これは手痛い誤算だった。

──きっとギイ、あの時点でこの手間のかかりようを知っていたんだろうな。

「オレのために頑張るように。オレも託生との未来のために頑張るから」

 ガシッと突然肩を掴んできて、ぼくが逃げられないようにしてから、、「愛してるよ、託生」などと耳元で囁くなんて反則技をしてきた上、「なあ、託生。おまえ、オレのこと愛してるだろう? 愛があったらできるよな? な? な?」と、ほれほれ言ってみろと、それはもうまるで脅迫するかのように返事を催促してきたギイ。

 ギイはいつだって確信犯だ。

 ギイのことだ。もしあの時点でぼくが一連の手続きを自分でする大変さを知っていたら、ぼくのことだからきっと、「弁護士に頼もうよ」って言い出していただろうことを読んでいたのだろう。
今ではもうギイにしてやられたって感じだ。

「なるほどねえ。国際結婚って思ったより大変なのね。それで、面接ってどんなこと聞かれたの?」
「どんなって……いろいろです。
いつどこでどんなふうに婚約者に会ったのかとか。婚約者は何をしてる人だとか。
向こうの両親に会ったことがあるかとか?
そうだ、アメリカに行ったことがあるかとかも聞かれたかなあ。その回数とかも。
知り合ってどのくらいだとか、いつ婚約したかとか。まあそんな感じです」

「ちなみにそれって英語で聞かれるの?」
「そうですよ。だからすごく焦りました。
簡単な英語だったからよかったものの、面接終わるまでずっと冷や汗ものでしたよ」

『What does he do? Have you met his parents?』

 緊張しながら挑んだ面接だったけれど、大使館の人が普通にぼくの婚約者のことを「彼」と呼んでいるのがちょっとだけ恥ずかしくて、ちょっとだけドキドキして、ちょっとだけ後ろめたくて。
そして何よりすごく嬉しかった。

 面接での会話そのものは、中学程度の英語力さえあればなんとかなるレベルで本当に助かったと思う。

 ギイはぼくより流暢な日本語を話す人だから、普段はアメリカ人だなんてあまり意識したことはないけれど、さすがに今日みたいに必要に応じてアメリカ大使館に足を運ばなけれならなくなったりすると、ギイってやっぱりアメリカ人だったんだなあって再認識せざるを得なくなる。

 それに、今回のことで覚悟が必要かなって思ったことがいくつかあった。
そのひとつが英会話だ。
今回のビザ取得についてもそうだが、英語を使う機会がすごく多くて、今更だけどやっぱり英語って大切なんだと身に染みたというか。
本当に今日は自分の脆弱な英語力に反省しきりの一日で、アメリカ人と結婚するからには、この先もっと英語を勉強しなければならないんだろうなあとつくづく思い知ったぼくなのだった。

──ああ、やっぱり逃げてばかりはいられないか。今更英語の勉強しなきゃならないとはなあ……。

「面接官がずら〜と並んでたらそれは緊張するわよね。
それとも、ステージ慣れしている託生くんの場合、それほどでもなかったのかしら?」
「あ、いえ。面接といっても受験とか就職とかの面接みたいにどこかの部屋で椅子に座って面接官と向かい合ってするってのじゃなくて、銀行の窓口みたいなのがたくさんあって、ガラス越しに立ったまま話をするんです。
だから、ちょっとした質問コーナーみたいな雰囲気でした。
そりゃ確かに緊張しましたけど、それはどちらかというと質問される内容がちゃんとわかるといいなあって、そっちのほうの心配の緊張で、周りの雰囲気はピリピリしてるって感じじゃなかったですよ」

 今日の面接さえクリアすれば、あとはフィアンセビザが届くのを待つだけ。
ほっと一息つけるというものだ。

 フィアンセビザが届けば飛行機のチケットの予約もできるから、またひとつ次のステップに進むことができる。

 フィアンセビザはアメリカ人と結婚するためにぼくのような外国人のためのビザで、使えるのは結婚するために入国するその一度きりだ。
このビザを使って入国したら期限までに結婚しなければならないという決まりがある。

 とにかく、これで何とかアメリカに行けそうだ。
と言っても、アメリカに行ったら行ったで結婚の許可を取って、挙式して、結婚の証明をしてもらうなど、まだまだ先は長いのだけれど。
それでも今の時点でぼくが日本でやっておくべき手続きはひと段落したのだから良しとしよう。

 それにアメリカで用意する書類も、ぼくがいなくてもできるところはすでにギイがやってくれているはず。
そうなんだ。ひとりで頑張っているわけではないのだからこれからも頑張れる……いや、頑張らないと!

「結婚かあ。あのギイがねえ。ホント、月日が経つのは早いわ。とにかくおめでとう」
「ありがとうござします」

「お幸せにね。これ、私からのお祝いよ。耀クンとふたりで選んだの。
耀クンはあなたたちの挙式にパイプオルガン奏者とし立ち会えるからいいけれど、耀クンから搭乗禁止令が出てる私は残念だけど日本でお留守番だもの。
できたら直接渡したかったし、今日は託生くんに会えて本当に嬉しかったわ。
忙しいところ時間を作ってくれてありがとう」
「こちらこそ、わざわざありがとうございます。これ開けてもいいですか?
それともギイと一緒のほうがいいのかな」

「今開けてみて。託生くんの幸せそうな顔を見たいもの。
そうそう、それの仕舞い場所はギイには内緒しておいたほうがいいかもよ」

 最後の意味深な言葉にドキッとしてしまった。
プレゼントはちょっと重みがあった。綺麗にラッピングされたそれは正方形をしていた。
わずかに箱に厚みがある。

 リボンを解いて、箱を開けると、本らしきものが入っていた。
表紙は無地のシンプルな紺。
ページををめくるとマイナスイオンがあふれたような幾重にも重なる山間の写真が目に飛び込んできた。
緑樹の世界にあって一際目を惹く、湖畔に浮かぶ黄色いカヌー。

「これ……、ギイ、ですよね?」
「そうよ。かわいいでしょ? ギイが映っている写真ってなかなかないから探したわ。
滅茶苦茶いろんな人からかき集めたのよぉ。気に入ってくれた? それは託生くんへのプレゼントなの」

「ぼくへの?」
「そうよ。これはあなたのよ。
だってギイには私たちからのあげられるものなんてないもの。何かを贈っても喜ぶ人じゃないでしょ?
あなたが喜んでくれることがギイへの一番のプレゼント、そうは思わない?
彼、本気になって手に入らないものはないんですもの。
自由にならないとしたら、託生くんのことくらいかしらね」

「ぼく?」
「だってギイ、あなたには本気の無理強いなんてできないでしょうから」

 写真の中のギイはまだ幼さが抜けていない。
女の子と間違えそうなくらいかわいいギイ。
大人と子供の狭間の、おそらく祠堂に入学する前くらいに撮られたものなのかもしれない。

──入学式であった時のギイに似てる。っていうかコレ、本人なんだけど。

 懐かしく思った。けどその懐かしさも次の瞬間には切なさに変わっていた。
ギイが名付けた人間接触嫌悪症に悩んでいた頃の、片想いしていた当時の記憶がぶり返したせいだ。

──まずいまずい。こんなところで浸るわけにいかないのに。

 ページを捲ると、刹那、真夏の風が吹き抜けた。
青い空に青い海が遠く水平線まで見開きで広がっている。
どこかの外国の海なのだろう。
海水が緑から青にグラデーションしていて、とても澄んだ色調がすごく綺麗だった。
サングラスをかけたギイがビーチを背景に何かを飲んでいる。ギイの顔には特に表情はない。
どちらかというと憮然としている感じだろうか。
ギイの周りにはたくさんの人がいて、みんな色とりどりの飲み物を手にしていた。
果物がグラスに素敵に飾られていて、いかにもトロピカルな感じだ。
もちろん全員が水着を着ていて、ギイもだけど誰もが身体のあちこちに白い砂をつけていた。

「これ、カリブよ。たまにギイと鉢合わせしたのよねえ、ここで。う〜ん、懐かしいわねえ」

 確かに、写真の端に小さく、日付の隣にCriabbean, Bahamaとコメントがついている。

「彼、あの容姿でしょ。黙っててもモテるのよねえ。
ましてやバックにはFグループがついているんだもの。男も女もほおっておかないわ」

 男も女も……。

 胸に痛い言葉だった。

「あの……これ、ありがとうございます。ギイの写真集なんてきっと世界でこれ一冊だろうから嬉しいです」
「貴重よぉ、それ。あとでゆっくり楽しんでね。
あ、そうそう、写真のデータはメモリーに入れて同封しておいたから、そっちはギイに渡しておいてちょうだいな。
私が知っている限りの写真は回収したつもりよ。
それと、コピーはとってないから安心してってギイに伝えてくれる?
自分が映った写真が流出するなんてこと、ギイのことだから絶対見過ごしたりしないでしょうけど、私のほうでも念のためにね」

「ギイ、写真撮られるの嫌いだから……」
「でも、託生くんが持ってる分にはいいんじゃないの?
ギイだってあなたの写真、デスクに飾ってあるって聞いてるわよ?」

「写真? ぼくの? どこのデスクですか?」
「あら、知らないの? 彼のオフィスルームのよ。
私も実際この目で見たわけではないけれど、聞いたところによるとバイオリンを弾いている写真らしいわね。
気になるなら、今度アメリカに行った時でも確かめてきたらどう?」

「あ、じゃあ機会があったら」
「機会なんて自分から作るものよ。ぜひ見てきてちょうだい。それであとでこっそり私にも知らせてね。
そういう情報は貴重なのよ。これからの人生の楽しみのためにもね」

 ぱちりとウインクする穂乃香さんはほんとに昔と全然変わっていなかった。
とにもかくにもバイタリティーのある女性なのだ。
それに何でも楽しみに変えてしまうからこちらもつられてわくわくしてくる。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。
ラウンジからのぞめる日本庭園にいつの間にか夕陽が差し込んでいた。

 そろそろ時間が押し迫って、別れの挨拶かわそうとお互い立ち上がった時だった。
ぼくらに近づいてくる男の人がいた。

「やあ、ホノカ。久しぶりだね。何だい、そのお腹。ボールでも隠し持っているのかい?」

 流暢な日本語で話しかけてきたその人の瞳がぼくを真っ直ぐに射抜く。
その男の人は黒髪をしていたが日本人ではないのは一目見てわかった。
深い青色の瞳。高い鼻。堀の深い顔立ち。
背はギイくらいあるだろうか。肩幅のしっかりした体格からしてどうやら欧米系の人らしい。
キチッとしたスーツからしてぼくでさえも高級品っていうのがわかった。
それにしてもゴージャスな人だ。それにすごく洗練されている。

「アーノルド? あなたなの? どうしてこんなところに……」
「それはこっちの台詞だよ。ねえ、彼を紹介してくれないのかい?」

「え、ああ。こちらアーノルド・ロックフィールド、イギリス人なの。彼は……葉山託生くんよ」
「アーノルド・ロックフィールドです。はじめまして。お会いできて光栄です」
「葉山託生です。はじめまして。こちらこそよろしくお願いします。日本語、お上手ですね」

「ありがとう。ん、Takumi? もしかしてあの? 今一番ホットなニュースの……、噂のギイの婚約者?」
「えっと。はい、そうですが。あなたはギイのお知り合いですか?」
「託生くん。アーノルドは……ギイの昔の友達よ」

「昔のって失礼じゃないか。まあ、ギイと遊びまくっていたのはもう十年以上も前のことだからね。
そう言われても仕方ないが。
今は真面目なお付き合いなんだから、ちゃんとそこのところは理解してくれないと、ホノカ。
しっかし、きみがあのタクミとはねえ。ギイが身持ちを固くした張本人に会えて光栄だよ。
あのギイの変身振りはまさに青天の霹靂だったからね」
「ちょっとアーノルド、やめてちょうだい。この子をいじめないで。第一、失礼よ」

「ホノカ。きみのほうこそ彼に失礼だろう。彼は二十歳を過ぎた立派な大人のはずだ。
だったら、『この子』扱いはないんじゃないのか?」
「あなたこそ。託生くんはギイの列記としたフィアンセよ。そういう態度はないでしょう。
あなたももう子供じゃないんだから大人としてちゃんと礼儀正しく接してちょうだい」

「ギイがタクミ・ハヤマと婚約したことは知ってるよ。これでもニュースはちゃんと拾ってるんでね。
ただ、ギイの婚約者はバイオリニストのタクミ・ハヤマとしか紹介されていなかった。
写真も掲載されなかったし、ギイに頼んでも一切無視されたしね。
きみが紹介してくれなかったら、彼だとは気付かなかったろうな。
ここで知り合えたのはラッキーだったよ。
まあ、この警護は何事かと思ったが。だが、彼がギイの……だとしたら当然か」
「警護?」

「そうだ。あれとあれとあそこにいるのと。ああ、あの男もそうだろうな。何だ、知らなかったのかい?
彼らはきみのSPだろうに」

 SPだなんて聞いていない。
渡米した時は確かに日系の人を紹介されたけど。
でもここは日本なのに。

「これじゃあ逃げるにも逃げられないだろうな」
「逃げるって……。逃げる必要なんかないでしょう?」

 自分の置かれた状況からぼくが逃げたくなるとでも言うのだろうか。

「まあ、普通はないだろうね」

 アーノルドは意味深にちらりを藍色の視線を投げてきた。

「そうだ。ちょっと訊いていいだろうか。
ギイはきみにも駆け落ちを誘ったのかい? 昔、私を唆(そそのか)してきたように」

 ぼくはハッと身構えた。
ゆっくりと顔を上げると、上からきつい顔で見下ろされていた。

「 私の日本語、上手いだろう?
好きな子が日系の子だとやっぱり日本語くらい話せないとまずいからね。
そりゃあもう必死に勉強したんだ。これでも私は純情なんだよ。努力は欠かさないんだ。
大変だったがお蔭で親しい仲になれたから、努力した甲斐もあったというものさ。
……相手にはただの遊びだと長い間、誤解されたままだったのは残念だったが」

 いつの間にか、ぼくの手は小刻みに震えていた。

 ギュッと握り締めて、震えを堪える。

 でも、心の震えはどうにも止まらなかった──。





 いつだったか、穂乃香さんが言っていた。
ぼくと付き合う前のギイは来る者拒まずだったと。
あの時、穂乃香さんは海千山千という言葉で昔のギイを表現していた。

 海千山千──。
海に千年、山に千年住んだ蛇は龍になるということから、経験を多く積み、物事を知り尽くしたしたたかな人を指す言葉。

 付き合いはじめの時からギイには確かにその節はあった。
慣れたように触れてくるから。

 だから。
おそらく……と、ぼくはどこかで覚悟をしていた。

 昔のことをほじくり返すつもりはない。
ぼくと付き合う前に何があったかなんて、ましてや過去を許せないとか、そういうのでもない。

 ギイはぼくの過去も含めて抱きしめてくれた。
だからぼくもそうであるべきなんだ。

 理屈では十分理解している。
それでも、理性に感情がついていくとは限らない。

 ギイが悪いわけでもないし、ほかの誰かが悪いわけでもない。
過去があってこそ、今のギイがある。

 でも、そう思わなきゃいけないんだって必死に自分に言い聞かせているぼくがちょっと情けないだけなんだ──。





「で、おまえさんは尻尾を巻いて逃げてきたってわけだ」
「おちょくらないでよ、赤池くん。ちょうど帰るとこだったんだよ。逃げたわけじゃないさ」

 フィアンセビザを無事に受け取った日のちょうど翌日のこと、ぼくは赤池章三と会う約束をしていた。
その日はたまたま音合わせもリハも入ってなかったので、ぼくは久しぶりのオフを満喫するつもりだった。
だが、章三のほうは仕事が立て込んでいるらしく当然残業もあって、それでもまだ終わらなくて休日出勤も余儀なくされているらしい。

 章三が指定してきた時間はお昼の十二時。それも平日。時間はきっちり一時間。
昼休みくらいしか時間が取れないと言われたら仕方ない。
その忙しさが、アメリカに行くのにまとまった休みを取るためと聞かされてしまったら、「すみません。お世話になります」とこっちも下手に出るしかないだろう?

 章三には飛行機のチケットを渡したかったし、出来たら直に会っていろいろ相談したいと思っていた。
だから約束が取り付けただけでもラッキーだと思うことにした。

 ところが、顔を合わせた途端、近況報告と題してはじまった、結婚式の当日、教会で京古野さんがオルガンを演奏してくれることになったという話から、先日会った穂乃香さんの話題になって。
よせばいいのにその後の鬱憤を含むあれこれまで章三に打ち明けることになってしまった。
相談したかったのは結婚式に関する諸々のことについてであって、こんな嫉妬丸出しの愚痴なんて言うつもりなどなかったのに。

 ちなみに、ぼくの話を聞き終わった章三の第一声は、「ふうん。ギイの昔のオトモダチねえ。偉く意味深なオトモダチみたいだな」だった。

「ふん。他人事だと思って」

 じろっと恨めしそうに睨んでやったのは言うまでもない。
友達が真剣に悩んでるんだぞ。何だよ、そのクールさは。

「まあなあ。結婚決まって、やっと来月挙式って時に今更浮気されちゃあやっぱりクルよな」
「クルって……。全然キテないよ!」

「実際、キタんだろうが。だからこうして僕に当り散らしてる。
ま、想像はつくよ。
葉山の言うとおり、その日おまえは穂乃香さんたちにちゃんと『さよなら』してきたんだだろうさ。
だが、実際はそれで『さよなら』じゃなかったんだろ」
「へ、何でわかるの?」

「問題解決済みなら葉山がそんなにハリネズミみたいになってるわけないからな」
「ハリネズミって……失礼な。ちょっともやもやしてるだけじゃないか」

「もやもやねえ。まあいい。それで? そのアーノルドってのはその後、何を言っきたんだ?」
「う、ん……。
実はうちのオケ、日英友好親善交流を記念して、今度イギリス公演をすることになったんだけどさ。
その関係者だったんだよね、その人」

「関係者? 件のオトモダチがか?」
「そう。打ち合わせの時、イギリス大使館の人に紹介された。びっくりしたよ。彼、伯爵なんだって。
記念演奏会は彼の父親の邸宅で催される予定らしいんだ。大きなお城らしいよ、彼の実家」

「へえ、お貴族様か。そりゃ手強いライバルが現れたもんだな」
「笑いごっちゃないよ」

 その打ち合わせには、Kフィルを代表して事務局長、常任指揮者、そしてコンマスのぼくの三人が参加していた。
大使館の人が、彼のことを「ロード」と紹介してきた時、恥ずかしながら最初ぼくは彼のニックネームがロードなのだと勘違いしてしまった。

──無知で悪かったな。だってロードってアーノルドのニックネームみたいじゃないか。
間違えても仕方ないだろ。

 それにしてもまさか貴族だったとは……。
さすがはイギリス、女王様のお国柄。まるで中世のお伽話の世界のようだ。

 世界には貴族と呼ばれる人たちがいることはさすがにぼくだって知っている。
けれど、自分がそういう人たちと直に会って話をするなんて今まで一度も考えたことなどなかった。
それくらい貴族なんて、ぼくにとって別世界の人という認識しかなくて。

 けれど、ぼくに話しかけてきた伯爵と称するアーノルドはギイの知り合いであることは間違いなく。
付け加えるなら、ほとんど真実に近い事実として昔、ギイと付き合っていた人、らしい。

 つまり、ギイは昔から貴族と交流があったということで……。
ギイが身を置く世界は貴族が当たり前に闊歩している世界なんだとぼくは思い知らされたわけだ。

 ぼくが受けているこのショックは、ギイの昔のコイビトが現れたことになのか。
その彼が貴族だったということになのか。
はたまたギイが生まれ育った世界があまりに別世界すぎて、その迫力にのまれてびびったせいか。

──きっと全部なんだろうな。

「で? その伯爵様が、おまえにギイと別れてくれとでも言ってきたのか?」
「違うよ! ただ……、ギイに甘えるなって。ギイの負担になってるって忠告されたんだ」

 どうして知らない人からそんなことを言われなくちゃならないんだって、ぼくは本気でイラついた。
アーノルドは大使館にも顔が聞いて、確かに偉い人なのかもしれない。
けれど、彼はぼくにとっては明らかに他人で、そんなこと言われる筋合いはない。

 ぼくは憤慨した気持ちを顔に出さないでいるのが精一杯だった。

 ところが、ギイの相棒はぼくとは見解が違うらしい。

「事実を的確に突いてるなあ。ナイスアドバイスじゃないか」

 そんなことを言ってくださる。

「赤池くんってどっちの味方だよ」
「強いて言うならギイの味方かな」

「うっ。裏切り者ぉ」
「聞き捨てならないな。いつ僕が葉山を裏切った?
僕は第三者の中立の立場で客観的な判断をしようとしているだけだ。
おまえがギイに負担をかけているのは昔からだ。それこそ今にはじまったことじゃないだろうが。
まあ、甘えてるって意味ではどっちもどっちだから、その点に関しては痛み分けだと思うがね」

「ギイが甘えてる? ぼくに?」
「だろ。葉山に甘えて挙式はボストン。それもハーバード時代に見つけた教会ときた。
大学帰りにその教会で式を挙げる幸せそうなカップルを見かけていくら羨ましかったからって、わざわざ選ぶかよ普通。
ギイが学生だったのなんて何年も前の話だろが。
それを許すほうも許すほうだ。お蔭で僕はアメリカくんだりまで行くことになってしまった」

 ギイが見つけてきた教会はとても小さな教会で、落ち着いた素朴な感じの温かい雰囲気のあるとてもいいところだった。
この間アメリカに行ってきた時、両親と一緒に案内してもらったが、ぼくも一目見て気に入ってしまった。

 ハーバード大学やMITが近くにあるせいか、学生結婚する学生たちによく利用されている教会だそうで、牧師さんが大らかな人なのか、弊害が多かった時代からずっと、挙式を希望するゲイカップルを笑顔で受け入れ続けてきた教会でもある。

「ギイ、意外にロマンチストだよね」
「根本が超現実主義な分、一度夢見たら実現しなきゃ気が治まらないんだろうな。
そこらへんはとことん完璧主義者だから、あいつ。
巻き込まれるこっちの身にもなってほしいよ」

「ははは。付添い役、お世話になります」

 ぼくは改めて深く頭を下げた。とりあえず、ここにはいないギイの代わりに。

「ああ。あとでギイからも礼のほどはせしめてやるさ。
そういや、葉山のほうは佐智さんになったんだってな。すごいじゃないか」

 そうなのだ。
ギイの付添い役を章三に頼んだことをギイ経由で聞いた佐智さんは、何とぼくの付添い役に立候補してくださったのだ。

『あいつ、無理やりスケジュールに入れ込んだらしいぞ』

 ギイから連絡があった時はびっくりしすぎて声が出なかった。
一瞬、今日は四月一日かと思ったくらい信じられなくて、何度も何度もギイに確認してしまった。

 世界中を飛び回っている人気バイオリニストの井上佐智さん。
よくまあスケジュールの調整がついたと感激してしまう。
神様、ありがとうって、何百回でもこの幸運を拝みたくなるというものだ。

「うん。ホントに嬉しいよ。
結婚式が終わってからする内々の食事会にも出席できるって。
赤池くんともその時ゆっくり話せるかなって、楽しみにしてるって佐智さん言ってたよ」

 佐智さんが直接ぼくに連絡くれた言葉をそのまま章三に伝えると、章三はゲホッと咳き込んだ。
どうやら水を喉を詰まらせたようだ。

「あ、ああ。こちらこそ楽しみだよ」

 うっすらと顔を赤らめる章三にどう突っ込んでいいものか。
いつもの章三らしくない。
鉄壁不動の章三のくせに佐智さんが絡むといつも落ち着かなくなるのはなぜだろう。
奈美子ちゃんには内緒にしとくべきか。ふむ。

──そうだ。奈美子ちゃんと言えば……。

「赤池くん、チケット一枚でホントによかったの? ギイは夫婦での出席でもいいのにって言ってたけど」

 結婚式に出席するのは、当事者のギイとぼく、そして双方の両親とギイの妹の絵利子ちゃん、そして両家の近しい親族たち。
それと、付添い人の章三と佐智さん、あとはオルガン演奏を引き受けてくれた京古野さん。
挙式後の食事会はこのメンバーに島岡さんに加わることになっている。

 ぼくたちの結婚式のコーディネーターは島岡さんの知り合いで、その関係でなのかわからないけれど、島岡さんは挙式関係の裏方に引っ張られていて、式には参列できたらするって感じで、主に式の進行担当を引き受けてくれることになっている。

 挙式して、牧師さんと立会人、そしてぼくたちが結婚証明書にサインして、それを役所に届けて、結婚証明書の写しをもらう。
これでアメリカにおいて、ぼくたちは結婚したことを法律上に認められ、あとは日本側に婚姻届を出せば晴れて日米両国で結婚したことになる。
婚姻届にはすでに章三と島岡さんにサインしてもらってあって、ギイが大事に保管している……はず。
結婚式は来月なのに、もう婚姻届はすべて記入済みってどうなんだろう。
用意周到すぎやしないか?

 そこらへんのギイの考えはよくわからないが、いざ予定が狂ってアメリカでの結婚ができなかった場合、日本で婚姻届を出すってことを視野に入れているってことだろうか。

──もしかしてそれって強行突破? うーん、考えすぎかなあ。

 実際、ギイが日本に来ている時に結婚してしまったほうが手続き自体は簡単に済まされるらしい。
章三が「ギイが甘えてる」と言ったのはきっとボストンの教会云々というだけではなく、そこらへんの手続きのことも含んでのことなんだろう。

 ギイが「アメリカで結婚したい」って言った時、ぼくはどこで結婚してもよかったので、軽い気持ちで「うん。いいよ」と答えたけれど。
もしかしたらギイの中では、ぼくが考える以上にアメリカでの結婚を意識しているのかもしれない。

「誘ってくれてありがたいけど、奈美はいいよ。
実はその週末、奈美のほうも高校時代からの親友の結婚式に呼ばれてるんだ。
だから行きたくても無理なんだよ」
「一日くらいのズレならあとから合流ってのも可能なんじゃないの?」

「呼ばれた先が北海道でもか?」
「北海道? そりゃまた遠いねえ」

「転勤先で相手を見つけたらしいぞ。
それにな、結婚式への出席を口実に久しぶりに会う高校時代の友達同士で延泊して北海道観光してくるって言ってたから、あっちはあっちで充分楽しんでくるんだろ。
六月の北海道は季節柄いいらしいからな。ラベンダーとかも見頃なんだろうさ。
まあ、あいつは花より団子だろうけどな」
「なるほど」

 そういうことならば納得だ。

「そういや、奈美が葉山に渡してくれって、コレ」
「何?」

「DVDらしいな。絶対見てくれってさ。僕も今度、強制的に見ることになってる」

 強制的ってところが奈美子ちゃんらしくて、ぷっと笑ってしまった。

「ふん、勝手に笑ってろ。確かに渡したからな」

 ほんのりだけれど章三の頬はぼくがわかるくらいに赤らんでいた。
どうやら赤池家の夫婦生活は順調そうで何よりだ。
すごく微笑ましくて、ちょっと羨ましかった。





 その夜、いつものようにぼくの携帯が鳴った。

「託生、章三やつれてたか?」

 第一声がこれである。
昨日、ギイには今日章三と会うことになってることは話しておいたのでわからないでもないが、なぜにやつれてた?

「ギイ、赤池くんが今すごく忙しいこと知ってたの?」
「散々愚痴られたからな。託生、今日はチケット渡してくれてありがとな。
章三、あれで意外とアメリカ行きを楽しみにしてるんだぜ。せっかくだから現代建築物を見て回るってさ」

「そっか。ならよかった。ホントに忙しそうでさ、原因がぼくたちの結婚式だと思うとちょっと申し訳なくて」
「そりゃお互い様だ。オレだってちゃんと都合をつけてあいつの結婚式出たんだからな」

「そりゃそうだけど……」
「託生は気にしすぎだ。ま、気にしないところは気にしないからプラマイゼロなんだろうな」

「それってどういう意味? どんなところが気にしないってのさ」
「SPのことだって騒いだのは最初だけだろ。あとは平然と普通の生活してるじゃんか、おまえ。
他人がどうだろうが普段は気にしないくせに、変なとこで拾いすぎるのが面白いよ、託生は」

「それ、褒めてるの、貶(けな)してるの?」
「感心してるんだよ」

「……そうですか」

 穂乃香さんと会った日の夜、ギイとの電話ではプレゼントに貰った写真集やSPのことは話題に出したが、昔のオトモダチのことについては触れずじまいだった。

 ちなみに写真集については、データは回収済みだということ、そして何より世界に一冊だけの写真集はぼく専用というのが功を成したのか、「仕方ないなあ」って苦笑気味ながらギイも了解してくれた。

 SPについては、結納を交わした時点で法的に契約を交わしたことになるから、とりあえず警備を付けたのだとそんなかんじの説明を受けた。
つまり、婚約した時点でぼくは崎家と繋がりを持ってしまったってことで、今後身代金を目的とした誘拐などの危険性が増えたということらしい。
ぼくのSPについてはギイのお父さんからの後押しもあったらしく、「ぜひに」と言われてしまったら文句なんか言えるわけがない。
結局、崎家には崎家の考えもあるだろうし、実際事件に巻き込まれて迷惑をかけるのも何なので、SPの件はそのまま享受することにした。

 確かに何かあってからでは困るし、備えあれば憂いなしだけど。
予防策が必要になるほど今の日本は安全な国ではなくなってしまっていると言うことなのだろうか。
安全な国、日本はどこいった? 交番がこんなにあるのに、悪い人が多すぎだよ。

 いまだにわからないのは、その話に乗じて、なぜかギイが、『託生、最近テレビ見てないだろう』って言ってきたことだ。
それもぼくを出方を伺うような声で。
SPとテレビ、何の関係があると言うんだろう。
防犯をテーマにした番組でもやっていたのだろうか。

「そういや託生。アーノルドに会ったんだって?」

 その名を耳にした途端、どくんっと心臓が高鳴って、ドキドキが止まらなくなった。

「何で知ってるの?」
「穂乃香さんからじゃなくてオレは託生から聞きたかったよ」

「あ、穂乃香さん、か……。うん」
「何で言わなかった? 託生、おまえに聞かれたら、オレはちゃんと話してたぞ。
おまえに隠し事なんかしない」

「ごめん。何となく言いそびれたっていうか。──ギイの昔の友達なんだってね。穂乃香さんが言ってた」
「ああ、今では仕事のことでたまに連絡とるくらいだな……。
お互いどうでもよかったから、いろいろ悪さもしたもんさ。でもそれは昔の話だ。
プライベートじゃここ数年会ってない」

 昔の話。──昔のギイ。
今ぼくと受話器越しで話しているギイとは違うギイ……?

 そうなのかもしれない。
ギイだってぼくだって昔とは違う。

 変わらないものと変わってゆくもの。
きっとどちらも大切なんだ。

「オレが愛してるって言うのは託生だけだから」
「うん。信じるよ、ギイ」

「ああ、とことん信じてくれて構わないぜ。
いいか、託生。今度あいつに会うことになったら……、そんなことはないことを願いたいもんだが、その時は『鍛冶屋の祝福の恩義を忘れたか』とでも言ってやれ」

「鍛冶屋の祝福? 何それ」

 英語でそういう言い回しがあるのかな。

「恩を仇で返すなってことさ」
「ふうん。わかったよ」

「 しかし、アーノルドもアーノルドだ。あいつもまったく馬鹿なことを。
自分の首を絞めてることすらわからないのかよ、あいつは。あの馬鹿さ加減には付き合ってらんねー」

 アーノルドへの罵詈雑言を吐き出すギイ。
否定も肯定もなしだけれど、どうやら今は甘い関係とは違うらしい。

「とにかく、オレは託生だけだから。
おまえは過去、現在問わず、オレの一番大切な最愛の恋人なんだ。誰が何を言おうと気にするなよ」

 それからしばらくたわいない話をして、お決まりの「おやすみ」のキスをもらってから通話を切った。

 現金なことに、ギイからはっきりアーノルドのことを聞いて、ちょっとだけ落ち着いた気がする。

 ギイは信じるに値する人だ。
いつもと変わらずぼくを大切にしてくれている。
これ以上何をギイに求めようと言うのだろう。

「ぼくってすごい欲張りだったんだ……」

 溜め息とともに肩を落とすと、自然と視線が床に落ちた。
すると床に転がっていたテレビのリモコンが目に入って、何も考えずに手に取っていた。

──テレビと言えば、奈美子ちゃんからメールが来てたっけ。

 ギイから電話がかかってくる直前にざっと読んだ奈美子ちゃんからメール。
タイトルは「世界のセレブな王子様」。
すごいタイトルだと最初は思ったけれど、女の子からのメールはこんなものなのかと無理やり納得したぼくは、改めて携帯の受信トレイを開いて「世界のセレブな王子様」を選択し、もう一度じっくりと読んでみた。

『こんにちは。奈美子です。
アメリカへのお誘い、ありがとう。章三くんから聞きました。
行けなくてとても残念です。その分、章三くんにお土産話をいっぱいしてもらいますね。
突然ですが、一昨日テレビで放映していた『世界のセレブな王子様』を見ました?
たぶん、託生さんのことだからまだ見てないだろうなって思いますけど。
今日、章三くん経由で渡したDVDに録画してあるので絶対見てください。ホントに必ず見てね。
もちろん章三くんにも見てもらいますから。
それではまたあとで連絡します。
赤池奈美子』

「『世界のセレブな王子様』って……。奈美子ちゃん、何を考えているんだろう」

 女性の奈美子ちゃんが王子様に興味あるのはわかる気がするけど、どうしてぼくにまで「世界のセレブな王子様」を誘ってくるのか……。

 とりあえず、今日はもうすることがなかったので、あまり気が進まなかったが、奈美子ちゃんにお願いされてしまった「世界のセレブな王子様」を見ることにした。

 DVDを再生すると、
『世界にはセレブな独身の王子様がいます。今宵は皆様に素敵な王子様をご紹介しましょう』
そんな司会者のMCから番組がはじまった。
お蔭で初っ端から見る気が失せてしまった。

「奈美子ちゃんには悪いけど、男がこんなの見ても、『へえ、やっぱり王子ってお金持ちなんだね』くらいにしか思えないよ」

 とはいえ、奈美子ちゃんがわざわざ用意してくれたものだ。見ないわけにはいかない。
ここまで至れり尽くせりで用意されてしまったからにはこのまま無視するには心苦しいというものだ。

──ささっと流して見るだけ見とけばいいか。
あとで奈美子ちゃんに訊かれた時、簡単な感想くらい言えるだろう。

 そんな安易な気持ちで「世界のセレブな王子様」に向き合うことにしたぼくは、せめてもの抵抗として音声が聞き取れるくらいの早送りで見ることにした。

 番組の構成としては、十位からランキング方式でどんどん王子様を紹介していくとてもシンプルなものですごくわかりやかった。
王子様が紹介されるたびにそれぞれの王家の歴史が簡単に紹介され、また、王家が所有する離宮の見学や王宮の憲兵の交代の様子など、その国に訪れた時に楽しめる王家ゆかりの観光名所も合わせて紹介していたので、何だかんだと言って男のぼくが見てもそれなりに楽しめた。

 とはいえ、何と言ってもこの番組のメインは王子様である。
次から次へと紹介される王子様たちはスポーツが万能だったり、事業で成功していたり、慈善事業に力を入れていたりと、さすがに王子様だけあるなあと感心してしまうくらいひとりの人間としてもとても輝いている人たちばかり。

 時々、カメラが切り替わって、スタジオの観覧席にいる女性たちの目を爛々と輝かせている姿が映し出され、王子様たちの魅力に釘付けの黄色い声がスタジオの熱気を仰いだりして、どれほど素敵な王子様であるかをこれでもかってほど後押ししていた。

 世界中から選ばれた王子様たち(一部、国王や首長もいた)は、本人の外見上の魅力もさながら、その資産額もまた世の女性たちにとってものすごく魅力的に映るらしかった。
「世界のセレブな王子様」では、王子様を紹介するごとに彼らの資産額を画面右下に表示するので、下世話な話だが、見ているほうとしてもそれぞれ資産額をつい見比べてしまうことになる。
最初は「億単位なんてすごい」と思っていたのに、王子様が紹介されていくごとにだんだんと一億円なんて少ないほうって金銭感覚が狂っていくから本当に怖い。
中には総資産額が一兆円って王様もいて、世の中にはホントにお金持ちがいるんだなあと、まるで映画を見ている感覚で、ぼくはテレビ画面を眺めていた。

 順位はとうとう三位まで発表され、続けて二位と一位が紹介された。
上位ふたりは某王家の兄弟王子で、兄王子のほうは仕事の関係で他国に滞在しているため、このふたりのツーショットはなかなか見られないというところで締めくくられていた。

 番組も終わりに差し掛かると十位に入らなかった王子を何人か紹介していく。
そうして、ハープ音楽をBGMに、司会者が結びの言葉で番組を締めくくろうとしていた。

『世界にはまだまだたくさんの王子様がいます。そしてどこかにあなただけの王子様がいます。
彼の身分は王子ではないかもしれません。
それでもあなたにとって彼が特別な人だとしたら、その人はまさしく王子様なのです。
最後に、まさに女性の夢である王子様にふさわしい方をご紹介しましょう。
今宵、最後にご紹介するのはアメリカ人の彼です。
アメリカと聞いて、あれっと思われる方も多いと思います。
ご存時の通り、アメリカには王家は存在しません。
したがってもちろんのことに、彼は身分は王子ではありません。一般人です」

 アメリカ人と聞いて、悪い予感がした。
まさかまさかと思いながら、不安な気持ちでテレビを食い入るように見つめた。
早送りをやめ、普通の再生に切り替える。

『テレビの前の皆さんには、肖像権の関係上、彼の写真をお見せすることは残念ながらできません。
スタジオにいらっしゃる観覧席の皆さんの反応を見て、彼がどんなに素敵な男性なのかご想像ください。
……客席の皆さん、あなた方は本当にラッキーです。
男の私から見ても、彼はすごい美形だと断言できます。
それでは、客席にいらっしゃるあなた方だけにお見せしましょう。
お待たせいたしました! この方です!』

 ぼくの胸がどきんと跳ねた。

 瞬間、テレビから悲鳴のような嬌声があがる。
スタジオで観覧している女性軍の心の叫びが声になったものだとしたらものすごい熱狂だ。
「きゃー」や「信じらない〜」ならともかく、「殺して〜」と物騒な声まで聞こえてくる。

 ぼくたち視聴者側にはモザイク写真が放映されており、その画面右下には、十位から一位まで紹介された王子様たち同様、彼の資産額が紹介されていた。
ただしその数字は「?円」。

『期待を裏切らないカッコよさでしょう?
彼はカッコいいだけではなく、すごいお金持ちなんですよ。
資産額がハテナになっているのは、彼が持つ資産が計算しきれないからです。
ははは……、それでは全然わからないじゃないかと思われる方も多いでしょうから……。
強いて言うなら──、実は彼の資産は一兆とも十兆とも言われている、とでも言っておきましょうか。
でも、一兆と十兆では大きな差ですよね。
とはいえ、これが私が皆さんにお答えすることが出来る精一杯のところなのです。
彼の資産には彼が有する多くの会社や不動産などへの投資も含まれ、それらはものすごく多岐にわたるためにすべてを把握することはとても難しいのです。
ですから、無理をして予想を立てるとしたらおそらくこれくらいだろうという予想したところ、出てきた数字が一兆もしくは十兆というわけです。
重ねて申しますが、彼はあくまで一般人であって本当の王子様ではありません。
ですから彼の許可がない放映は我々もこれ以上するお見せすることは叶いません。
そして、これは皆さんの夢を壊してしまう残念なお知らせとなってしまうのですが、実は今、彼は婚約中で、今年中に結婚することが決まっています。
ちなみにお相手の方は何と日本人らしいのです。驚きですよねえ』

 司会者の声が周囲のどこめきで一瞬聞こえなくなった。
両耳に手を当てて、苦笑する様はただのパフォーマンスなのか。

 ぼくの耳も、自分の心臓の音が邪魔して聞き取りにくくなっていた。

『そういうわけなので、一瞬でもあわよくば彼との結婚を夢見た方、どうぞ思いっきり悔しがってください。
出会うのがちょっと遅かったようです』

 ちょっとだけ大げさに声を張り上げて、司会者の彼が最後の閉めの言葉を紡いていく。

『まことに残念ですが、そろそろお別れの時間が近づいて参りました。
あなたの理想の王子様は今日、ご紹介した王子様の中にいましたでしょうか?
今日の王子様……、みんな素敵な方ばかりでしたよね。
ご満足いただけたかと思います。
え〜、もっと見ていたい〜と思ってくださった方、ありがとうございます。
この続きは今宵、夢の世界であなただけの王子様とお会いになってくださいね。
それではお別れしましょう』

 カメラが切り替わり、スタジオの客席の様子を映し出した。
口を大きく開いて唖然とする女性、目をきらきらさせて視線を凝らす女性、両手を握り締めて祈るように叫んでいる女性……。
いろんな女性たちの表情が映っていたが、全員に共通するところは向こう側で紹介されているであろうアメリカ人の某氏の写真に彼女たちの視線は釘付けであるということだ。

 あまりの興奮に頬を上気させる女性たちに対し、一方ぼくは、さぁ〜と頭から血の気が引く思いだった。

「悪い冗談……。まさかこれ、ギイってことはないよね……?」

 ひとりごちる疑問がどこか白々しかった。

 この「世界のセレブな王子様」を奈美子ちゃんがどうしてぼくに見せたかったか。
それを考えれば明白だ。

──資産の単位が兆? そんなのありえない。

 それでも完全に眉唾物とは言い切れないところが怖い。
何せFグループといえば、世界でも有数の大企業なのである。

「もしかしなくても、これって真実……?」

 思い当るところはいくらでもある。
そうなのだ。ギイ本人はあまり使いたくないと言いながらも、以前だって「魔法」を使っていたじゃないか。
ツテとコネと最新技術というギイにしか使えない魔法を。

 ぼくにSPをつけると言った崎家の親子の真意が、今やっとわかった気がした。

「今更だけど、どうしよう。ぼく庶民なのに……」

 思い立ったら指が勝手に携帯を掴んでいた。
何も考えずにギイに電話を掛けていた。

「ギイ? ぼくだけど! 結婚するにあたって条件付けていいっ?
ぼくはギイと同等の立場を望む!
将来、仮にギイからの法的な遺産相続があったとしてもすべて放棄するから!
結婚するのはそれが条件だからね!」

 ぼくの声はほとんど阿鼻叫喚になっていた──。





「へえ、結局託生も見たんだ、例のやつ。章三からもさっきメールが届いてたよ。
まったく人騒がせな番組だよな。
それにしても奈美ちゃん、ああいうのが好きだとはねえ。思ったよりも彼女、ミーハーなのかもな」
「ミーハーって、ギイ……」

「で? 託生くんはオレとの結婚に何らかの不安を抱いちゃったわけだ。
それで『相続放棄』に走るとは、託生らしいっちゃ託生らしいけどな」
「だって、一兆円なんてそんなの論外だよ」

 兆なんて国家予算の単位であって、個人資産を数える単位ではないはずだ。
誰が何と言おうとぼくの感覚ではそうなのだ。

「一兆ね……、まあいいけど。
だったら訊くけどさ、託生はオレがFグループ総帥のの御曹司だから結婚するのか? 違うだろ?
葉山託生という人間が結婚するのは崎義一という個の人間だ。
オレがおまえに遺(のこ)せるものがあるとしても、それはオレ個人の資産であってFグループとは関係ない。
考えてみろ。世間一般的に、先に亡くなった夫の財産を遺された妻が受け取るのは常識だろう?
だからおまえはおれの伴侶として、オレが遺すものを相続する義務があるのさ。
それのどこに不都合がある?」
「そうだとしても……。第一、それは義務じゃなくて権利だろ。ギイ、間違ってるよ」

「いや、義務だね。
仮に……考えたくもないが、オレのほうが長生きしたとして──、これはあくまで仮定の話で、一秒でもオレより長生きするって約束はまだ生きてるんだからな。
その時はオレ、託生が遺してゆくモノはビタ一文、髪毛一本たりとも他人になんか渡さないぜ。
託生のものはすべてオレのものだ。だからオレのものはすべて託生のもの。
だから、おまえが遺産放棄するならすればいい。オレにも考えがある。
オレが死んだら葉山の両親にオレの全財産を受け取ってもらうことにするさ」
「ちょっと待ってよ。だってそんなことしたら……」

「不謹慎だけど、まあ普通は順番から言って、親のほうが子供よりも先に死ぬもんだ。
そして、葉山の家の子供はいまや託生ひとり。
あの実家を含め、葉山家の遺産を相続するのはおまえだけ。
もはや葉山の両親の遺産すらも相続放棄するとは言わないよな」
「ずるいよ、ギイ……」

「第一、おまえが先に言ったんだぜ。
まさか数分前のこと、覚えてないとは言わないよな、託生くん?
オレたちは同等の立場。オレもその意見に大いに賛成だ」

 ずば抜けて記憶力のいい人相手に、言ったか言わないかの押し問答をするのは賢明ではではない。
これは完全にぼくの失態だ。

 第一、相手が悪すぎた。
記憶力がいい上に口がうまいとなると、もうお手上げ状態。
ああ言えばこう言うで、理屈を通り越して、結局すべて屁理屈で押し通されてしまうからだ。

「だからってギイ……」
「まあ待て。例外はどこにでもあるんだ。相続額を減らしたいならいい方法があるぞ。
確かに葉山の両親経由だと贈与税もかかってごっそり減るには違いないが、こっちのほうがもっと効果的だ」

「え、ホント?」
「ホントホント。オレたちにひとりでも子供が出来たらそれこそ半分になるぞ。
どうだ、いいアイデアだろう?」

──ぐっ。

 ぼくは声が出なかった。
まさにぐうの音も出ないっていうのはこのことだ。
 
「オレはいつでもオーケーだから。
子作りするなら結婚後と言わず、今度来日した時だって構わないぜ。
コウノトリ万歳。どしどし協力するからそのつもりでいろよ」

 ぼくは世間を知らなすぎなのかもしれない。
遺産相続を放棄する場合は、自分が相続人になったことを知ってから三ヶ月以内に家庭裁判所に相続放棄申述書を提出しなければ認められないなんてこともこの時は知らなかったし、アメリカの場合は日本より半年長い九ヶ月の猶予があったり、州によっては婚姻期間によって遺産相続の受けると割合が決まっていたり、最初から百パーセント受け取れる州もあったりと、日本とはこれまた違うということにも全然気が回らなかった。
結婚の手続きの際、国が違えば法律も違う。法に基づいた手続きを踏まないと物事は通らないということをあれだけ身に染みて知ったはずなのに、ぼくはこうも抜けているのだろう。

 一方、ギイはぼくとは違い、本当に抜かりがない人だった。悔しいほどに。
その後も遺産放棄からぼくを遠ざけるためにその手の情報をぼくに知らせないようにしたり。
実際、遺言執行人を任命して、「崎義一の配偶者である葉山託生が遺産放棄を希望した場合、崎義一の個人資産のすべては託生の両親に贈与する」という遺言書を渡したり。(まさか本気でそんなことをするとは思わなかった)
この先、あの手この手でギイがイロイロと画策することになろうとは、この時のぼくが知るわけがなく……。
知った時にはすでに遅し。ぼくは完全に身動きとれないようになっていた。
ギイってば、何という悪どさだろう。

 章三、曰はく、「ギイが徹底的に手を打とうもんなら葉山がどんなに騒ごうが無駄ってもんさ」で。
あの日、ぼくが電話口で叫んだ言葉を平然と受け止めたギイのあの態度からして予測できたはずだったのに……と、のちにどんなに後悔したかわからない。

 本当にどうしてあの時、思い出さなかったのだろう。
海千山千には、「物事の表裏を知り抜いていて悪賢いこと。またはその人」という意味もあることを──。

 同等なんて軽々しく言うもんじゃない。
あとからぼくは至極反省する羽目になるのだった。





 椅子を動かす音があちこちから聞こえた。
やっと通しのリハーサルが終わって、それぞれが楽器を手に席を立つ。

──みんなはこれで終わりか。いいなあ。

 今回の客員指揮者はだらだらと時間をかけてリハーサルをするタイプではなく、的確な指示を出して、一気にまとめ上げてしまうタイプの人で、強いて言うなら、あまりにも要望と指示が的確すぎて、グサッ胸が痛くなる団員がいるほどストレートな物言いをする正直な人だった。
最大の利点としては、その分、リハーサルが最短時間で済むということだろうか。
今日みたいなリハーサルを長時間やっていたら精神的なダメージは計りきれない。

 あの指揮者は昔からああだったのだろうか。
中堅どころの日本人指揮者である彼が指揮したオケの音を以前聞いたことがあるが、あの時は大らかさを感じる振り方をする人だと印象を受けたはずなのに。
どうやら音楽性と人間性は完全に一致するわけではないらしい。

 立ち話で指揮者と何か所か確認をし合ったところ、これまた細かい指摘を受けて、その思いを更に強める。

──きっとこれが彼の性格なんだろうな。

 用事を済ませてロビーに向かうと、少数の団員たちがソファで寛いでいて、他の団員たちはすでに解散したあとだった。

「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」

 みんなの声には疲れが滲んでいた。
特にヴィオラは今日のリハ当日になって突然、変更箇所が多く出てすごく大変そうだった。

「お疲れ様です。変更変更で大変でしょうけど、より良いコンサートにするためにもお互い頑張りましょう」

 今年入団したばかりのビオラの女性が力ない声で「はい。よろしくお願いします」と頭を下げるのを見てちょっと気の毒に思ったけれど、こればかりは致し方ない。
音大を卒業したばかりの新人には、きっぱりと意思表示する客員指揮者のあの物言いについていくだけでもすごく労力がいることだろう。
それでも、ぼくが代わってあげることもできないし、これは彼女が自分で乗り越えなければならないことだ。

 ビオラの彼女は懸命に笑みを浮かべようとしていたが、目尻には涙が少し浮かんでいた。
それでも、いくら新人とはいえ、ここでは誰しもがプロなのである。
演奏することでお金を頂く以上、泣き言を言っているだけでは済まされない。

 ぼくは「あなたの気持ちはわかりますよ」という気持ちを大きな頷きにこめつつ、
「次回にはきっと今日よりも素敵な曲に仕上がっていますから。
見に来て下さるお客様に喜んでいただけるようにみんなで頑張って素晴らしいものに仕上げましょうね」
そう励ますと、ロビーから離れた。

 今年、新規採用されたビオラは彼女ひとりだった。
まだ入団して二か月経ってないのだ。慣れるまでにもう少し時間がかかるのかもしれない。
確かにあの指揮者の言い方はちょっとキツイかもしれないけれど、のらりくらりとリハーサルを伸ばして、ぼやけた物言いで方向性をはっきり伝えてくれない指揮者よりはずっとマシである。
頑張れ、とぼくは心の中で応援しておいた。

 リハーサルが終わったからと言ってぼくの今日の仕事が終わりかというとそうではない。
ぼくはこのあと、夏の定期演奏会のパンフレットに載せる原稿について打ち合わせに呼ばれていていて、事務局に寄ることになっていた。

 リハーサル会場から事務局まで行くのに移動時間がかかるのはちょっと難点だったが、今まで室内にいて缶詰状態だったことを思うといい気分転換にもなった。
五月は春のはずなのに今日の天気は夏と言ってもいいくらい暑くて、汗を拭き拭き、事務局まで赴いたところ、ざっと話を聞いて軽く質問をしたら、思ったより短い時間で用が足りたのでほっとした。
あとは資料を持ち帰り家で原稿を書けばいい。
打ち合わせに時間はかからなかった分、まだ夕方の早い時間だというのにぽっかりと身体が空いてしまった。

──さて、どうしよう。まっすぐ帰ろうか。それとも……。

 地球温暖化のせいか、それともこの季節は例年こんなもんだっただろうか。
近頃暑い日が続いて、しきりに水分がほしくなる。
今もすごく喉が乾いていた。

 こんなことなら、事務局で出されたお茶を飲み干してくるんだったと思ってももう遅い。
最寄りの駅まで歩いている間にカフェにでも入って喉を潤してから帰ろうかと逡巡する。
SPの人がどこかにいて、そういうぼくの姿を追っているんだろうなとふと頭に過ぎったが、気にしないことにした。
ぼくはぼくの普段通りの生活を送るだけだ。

 カフェは簡単に見つかった。
事務局を出たちょっと先にあったので、あそこでいいかと入ることを決める。
横断歩道を渡ってカフェのドアに手を添えた。

 その時、視界の端に一台のタクシーが止まったのが入って、何となくそちらを振り向くと、横断歩道の向こう側、タクシーから降りてきたのは今一番会いたくない人だった。
例の伯爵様アーノルドである。

 人一倍背の高い彼はとても目立っていて、通りすがりの人たちが彼に気付いて一瞬ぎょっと見てから通り過ぎてゆく。
向こうはどうやらまだぼくに気付いていないようだ。

 アーノルドはぼくが今来た方向に歩き出していた。
彼もまた事務局に用事があるらしい。

 その彼がちょっと変わった動きをした。
アーノルドとちょうどすれ違った女性がよろめいて、咄嗟に女性の身体を受け止めたのだった。
女性は倒れずに済んだようだが、どうも様子がおかしい。
なぜか立ち上がれないらしく、そのままアスファルトにしゃがみこんでしまった。

 アーノルドが何か女性に言っているようだが、ぼくのところまでは聞こえない。
そのうち彼が周囲を見渡して、何かを探している素振りを見せたので、ぼくも放ってはおけずに信号が青になるのを待たないで急いで駆け寄っていった。

 駆けつけるぼくをアーノルドが見つけて、「タクミ!」と声をかけてくる。

「どうしました? 彼女はいったい……」
「Call an ambulance! ASAP! I don't know the number...」

「え? ambulance…? あ、救急車!」
「ああ…、すまない、日本語で言うべきだった。彼女はもしかしたらheat illnessかもしれない。急いで!」

 ぼくは即座に携帯を取り出して消防署に電話を掛けた。
近くの電信柱に記された現在地を知らせて、現状を説明する。
その間にアーノルドは女性を抱き上げ、日陰のできるだけ涼しい場所にに移動していた。

 それを目に留めつつ、
「すぐに来るそうです。あなたはここにいてください」
そう言い置いて走り出そうとしたところで、アーノルドがぼくの手首を掴んで引き留めた。

「タクミ? きみはどこへ?」

「彼女のために飲み物を。
熱中症だったら、もしかしたら脱水症状を起こしているのかもしれないし。
だとしたら少しでも早く水分を取ったほうがいいですから」

 heat illnessという単語は知らなくても、直訳すれば「熱の病気」ということから、熱中症か熱射病あたりだと何となく想像できる。

 この近辺には自動販売機がないことはわかっていた。
だから再び横断歩道を渡って、反対車線側に見えるカフェで何か飲み物を買ってくるつもりでいた。

 アーノルドは頷いてぼくを解放してくれた。
横断歩道を渡ろうと、左右、車が来ないタイミングを計る。

 そんな時、「何かありましたか?」とスーツ姿の見知らぬ人がぼくに声をかけてきた。
その人はぼくと同じくらいの年の男性で、ぼくはじろじろ見てしまっていたのだろうか。
「王光俊と言います。私はあなたのSPです」と少し癖のある日本語で自己紹介してきた。
名前からしておそらく中国の人なんだろう。
呆気ないくらい簡潔な自己紹介だったけれど、それでもぼくは納得して、事情を説明することにした。

「急病人です。
脱水症状が出てるようなので水分補給させたいんですが、この近くに自動販売機はないんです。
だから、あそこで水か何かもらってこようと思って……」

 そう言って、カフェを指さす。

「それでしたら私が行ってきます。先程のように赤信号で渡るなんて危険です。
あなたはここにいてください」

 王光俊と名乗った男性はぼくの肩越しに視線を向けると大きく頷いてから走り出した。
彼が無事に道路を渡り、カフェの中に消えていくのを見届けてから、ぼくはアーノルドのところに戻って行った。

「いま、水が届きます。SPの人が取りに行ってくれてます」
「見ていたよ。きみは結構無謀な人だね、タクミ。ギイが目が離せない気持ちがわかる」

 ぼくは鞄から楽譜を取り出して、団扇(うちわ)代わりに少しでも風がいくように彼女を扇(あお)いだ。
ほかに何かできることがあるだろうか。

 すると。

「失礼」

 アーノルドが慣れたように女性の背中に腕を回してブラジャーのホックを緩めた。
喉元のボタンもふたつほど外す。

「ちょっと、それは……」

 彼が施す処置で確かに呼吸が楽になるであろうことはぼくにも理解できる。
けれど、そこまで知らない女性に彼が簡単に触れていることにぼくは驚きと戸惑いが混じった。

「大丈夫、これで楽になるでしょう」

 彼が自分のシャツを脱ぎだした。シャツの下は裸だった。

「ぼくが」

 ぼくは彼を止めた。
消化できない戸惑いを誤魔化すように、ぼくは半袖のギンガムシャツをパパっと脱ぐと、即座に女性の上半身にかけた。

「タクミ……」
「ぼくは平気です。このままでも帰れますから」

 アーノルドがぼくのTシャツ姿に納得して頷く。

 それからすぐに王光俊が水を持ってきてくれたのだが、意識が朦朧としている女性に水を飲ませるのはとても大変な作業だった。
少し水が零れてしまったが、まさか口移しで飲ませるわけにもいかない。
それはアーノルドも同じ意見だったようで、彼は女性の口にコップを添えながら時間をかけて飲ませていた。

 一方、ぼくは少しでも彼女に風を送ろうと楽譜で扇ぎ続けた。

 そうこうしているうちに倒れた女性の知り合いという人が現れ、その後、到着した救急車に同乗してくれることになり、そうして彼女はぼくのギンガムシャツと一緒に救急車で病院に運ばれていった。

 夕方にしてはまだ早い、暑い午後の一幕だった。
それもまさに慌ただしい一幕。

──この陽気じゃTシャツ一枚でちょうどいいくらいだ。さ、帰るとしよう。

「よいしょ」と立ち上がるぼくをアーノルドはじっと見つめていた。

「何か?」
「いや……」

 彼は言いよどんでいた。けれど、結局何も言わなかった。
なので、ぼくもちょっとだけ彼を見つめてから、「帰ります。ではお疲れ様でした」と軽く頭を下げ、その場を離れた。

 ギイの昔のオトモダチ……。
あまり会いたくない人だけど、どうやら悪い人ではないようだ。
彼はとても紳士だった。
救急車に同乗してくれた患者の知り合いという女性に、「彼女が気がついたら、緊急時とはいえ失礼なことをしてしまったことを誤っておいてほしい」と頼んでいた。
きっとあの応急処置のことだろう。
さすがに疎いと言われるぼくでも察せた。

──そうなんだ、悪い人ではない、彼は。でも、悪い人ではないから余計気まずい。
いっそ誰が見てもイマイチな人であったほうが素直に妬めたのに。

 溜め息をつくと幸せが逃げていくと言ったのは誰だっただろう。

 もう一度、仕切り直しをするように、ぼくは横断歩道を渡ると、カフェのドアに手を掛けた。
けれど、カフェの中に入る前でぼくの足はピタリと止まった。
ちょっとだけ躊躇して、それから少し離れたところにいた王光俊を見つけて、「ちょっとすみません」と声を張り上げる。

「一緒に何か飲みませんか。もしほかにもSPの人がいるならその方たちも一緒に」

 こんな暑い日は何か飲むに限る。

 相手が少し困った顔をしたが、この際無視することにした。

「ぼくは喉が渇いてからからなんです。先に席を取っておきます。確か全員で四人でしたっけ?」

 四人のSPのことも教えてくれたのはアーノルドだった。

──機転が利くところも洞察力があるところもまるでギイみたいだ。

 口の中がとても苦かった。

 構うものかと思いながら、今だけでいいからこそこそぼくを見張っていてほしくなかった。
どうせ同じ見張られるのならば、目の届く範囲のところでお願いしたかった。

 ギイの昔のオトモダチがぼくとは全然違う人であることに、なぜかムシャクシャしているぼくがいた。





 セックスしてるからってそれが恋人だとは限らない。
実際そうなんだろうとは思うけど、でもそれは幸せなこととは思わない。

「恋人」とは恋する相手の指す言葉であるが、恋する相手ではなくても身体の関係を持てることをぼくは知っている。
商売になるくらいなのだから、てっとり早く欲望を処理するために後腐れない付き合いを望む人たちがこの世の中にはいるのは確かだ。
もしかしたらその数はぼくの想像以上に多いのかもしれない。

『過去現在通して、オレの一番大切な「恋人」だ』

 ずっと前にギイはぼくのことを穂乃香さんにそう紹介してくれたけれど、ギイは同じ口で「そういう関係だからと言って恋人と限らない」とも言っていた。

 今までまったく嫉妬をしたことがないなんて、そんなことは口が裂けても言えない。
身体の関係があるかどうかなんて関係ない。

 祠堂にいた頃はギイと一緒に裏でコソコソしている章三に何度も嫉妬した。
高林泉にだってそうだ。
彼くらい綺麗だったら、ギイと並んでいても遜色はないだろうと思ったことがある。
三洲新くらい頭の回転がずば抜けていたら、いろんな場面でギイを手助けできたかもしれない。
そしたら誰からも「不釣り合い」などとは言われなかっただろうし、「どうしておまえなんだ」とも妬まれもしなかったろう。

 三年の時はギイを独占していた一年生たちにも羨望を抱いていた。
自分の気持ちに素直のままギイに向かって駆け寄って行って、誰が見ていようと関係なくギイに声かけて纏わりついていた後輩たち。
あの時は一緒にいられていいなってつくづく羨ましかった。

 けれど彼らはあくまでギイとそういうツキアイをしていたわけではなかったから、ぼくは嫉妬の炎を抱きながらもどこかで安堵していられた。
彼らは完璧に、友人とか同級生とか下級生とか、そういう繋がりだけなんだって心の底でわかっていたから……。

 でも、アーノルドは違う。
ぼくの知らないギイを知っていて。
かつてとはいえ、深いところまでお互い何もかも曝け出した仲で。

 ぼくには見せないギイの一面を知り尽くしていて、もしかしたらぼくよりもギイの本質に触れていたのかもしれない人──。

 ギイを好きな気持ちは変わりないけれど……。

 正直、ぼくはギイの昔のオトモダチになんか会いたくなかった。
それも、ぼくがどんなに頑張っても成りえない「紳士」なんかには。

「ギイの馬鹿」

 やけくそにアイスティの氷をかみ砕いて、誰にも迷惑をかけないその破壊行為にぼくはしばらくの間、陶酔した。
時々、頭がツーンととしたけれどその痛みさえ大歓迎だった。
彼のことを考えずに済むなら、何でもよかった。

 そのうち幸運なことに、氷の冷たさはどうやら口の中だけでなく嫉妬でいっぱいになっていた頭まで冷してくれたらしい。
少しだけだけどさっきよりは大分気が治まった……気がする。
氷でうまい具合に気持ちの温度調節できてしまうぼくは、すごい単細胞なのだろうか。

 さっきから四人のSPが気まずげにちらちらぼくに視線を送ってきていたけれど、そんなの気にしない。
どうせぼくの行動なんぞモロバレなのだろうし、ある程度こちらの事情は察しているのだろうから、隠したところで今更だ。

「ここのオレンジペコ美味しいですね。お変わりしようかな。皆さんはどうします?」

 にこやかに声を掛けたら、ぶんぶんと四つの首が左右に揺れた。

「そうですか。ではぼくだけ。すみませーん、もうひとつオレンジペコをお願いします」

──ちぇっ。SPなんだったらとことん付き合ってくれればいいのに。

 そんなことを思うぼくは扱いづらいターゲットなのだろうか。
これって高望みなのか?

 そこで「あっ」と声が漏れた。

 ぼくの突然の声にぎょっとしたように八つの視線がぼくに集る。

「言うの忘れた」

 ギイに、今度アーノルドに会ったら言ってみろと言われていた言葉を今更ながら思い出した。

「何だっけ。『鍛冶屋の祝福の恩義を忘れたか』だっけ?」

 ぼくの独り言に王光俊の隣りに座る二十代前半のSPが反応した。

「もしかして、それはスコットランドで有名な街のことですか?」
「え? スコットランド?」

「はい。私の母はイギリス人なのですが、イギリスではとても有名です。
グレトナグリーンってご存知ですか?
スコットランドの端にある街なんですが、そこは恋人たちのメッカなんですよ」

 四人の中では一番愛想がよさそうな彼は岡村と名乗り、嬉しそうに話し出した。
お国自慢はどうやら世界共通のことらしい。

 余程興味深い話題だったのか、もうひとりも加わってきた。

「私も聞いたことがあります。
グレトナグリーンって言えば、駆け落ちする恋人たちが一番に目指す街ですよね」 

「駆け落ち?」
「ええ。グレトナグリーンは駆け落ちする場所として有名なんです」
「今ではイギリスの観光地のひとつになってますよ。興味がおありなんですか?」

「教えてください。お願いします」
「いいですよ」

 彼らの話をまとめるとこのようになる。

 グレトナグリーン(Gretna Green)はイングランドとスコットランドの国境の境の、スコットランド側に入ったところにある街で、かつてイングランドで結婚を許してもらえなかった恋人たちが駆け落ちして目指すのがそこだったらしい。

 駆け落ちのメッカとなった理由は、昔、イギリスはイングランドとスコットランドは別々の国で、それぞれ異なる法律が施行されていたところにあるようだ。

 一七五三年、イングランドで、両親が結婚を許可した二十一歳以上のカップルでなければ結婚できないという法律が可決されたため、二十一歳未満の恋人たちはスコットランドの法に従って結婚する道にすがるしかなかった。
当時のスコットランドでは、両親の承諾がなくても男性は十四歳、女性は十二歳歳以上であれば承諾なしに結婚できた。
イングランドでは結婚の通告をしてから一定の期間を経てからでないと結婚できないことになっていたので、いつ結婚するか事前にわかっていたことも幸いして、親の思い通りに結婚したくない人は恋人と手を取り合ってスコットランドを目指したらしい。
ふたりの証人を揃えて結婚をしてしまえば、いくら親が煩く言ってきてもどうにもならない。
結婚したが勝ちというわけなんだろう。

 ただし、駆け落ち途中で見つかって連れ帰られてしまうこともあったようだ。
だから、邪魔される前に結婚しようと、国境を越えて一番近い村で結婚してしまおうと誰もが考えた。
その村がグレトナグリーンであり、そうしてグレトナグリーンは駆け落ちのメッカと言われるようになったというわけだ。

「なるほど。じゃあ、鍛冶屋の祝福というのは……」
「当時はタクシーなんてなかったわけですから、駆け落ちはだいたい馬車を使ってが多かったんですよ。
遠いところから駆け落ちカップルを運んできた馬車なわけですから馬の蹄鉄をもちろん痛んでいます。
なので、グレトナグリーンでは鍛冶屋が大繁盛。
金属を熱い炎で溶かしてくっ付けるついでに、鍛冶屋は恋人たちの仲もくっ付けたんです」
「当時のスコットランドでは証人がふたりいさえすれば誰でも結婚式を執り行えたんですよ」

「確か、アメリカだと結婚式を執行できる人って決まってたよね。判事とか……」

──もしかしてアメリカで結婚するのに結婚許可証が求められるのは、もともとはヨーロッパ慣習の名残りだったりする?

 嬉しいことに、ギイと結婚するあたって頭に詰め込むことになった知識がここにきて役立った。

「ええ、アメリカで儀式執行者といえば、教会の牧師や神父、裁判官などがそれにあたりますね」
「つまり、特別な人でないと結婚式を執り行うことができないってこと?」

 みんな揃って頷いた。
打ち合わせなしなのに何て息がぴったりなんだろう。

「スコットランドの、ふたり証人がいれば誰でも儀式執行者になれるというのはとても緩い決まりだったってことです」
「グレトナグリーンは今も結婚式を挙げるカップルですごく賑わってるって話ですよ」

 グレトナグリーン──。
どこかで聞いたことがあると思っていた。

──ああ、そうだ。ずっと前にギイが零した街の名がそんな感じだった……。

「じゃあ、『グレトナグリーンに行こう』っていうのは……」
「誰かに言われたことがあるんですか? それは駆け落ちしようって誘い文句ですよ。
そんな話、ボスに聞かれたら大変です。内緒にしておいたほうが無難です。
でないと大事になります」

 おそらく彼の言うボスというのはぼくにSPを付けた人を指すのだろう。
ギイか、もしくはギイのお父さんだ。

 それにしても──。

『グレトナグリーンに行こう』

 あのギイのことだ。
その意味するところを充分知った上で口に出したに違いない。
だとしたら、そんな重要な言葉をギイがひょいひょい誰にでも言うだろうか?
ギイはそういう人じゃない。

 では、ギイがそう言ったのはぼくだけだとしたら……?

──じゃあ、アーノルドは?
「鍛冶屋の祝福の恩義を忘れたか」ってアーノルドの知人の誰かが結婚したってこと?

「うー、わからん」

 胸がドキドキしてきた。
このドキドキがワクワクのドキドキなのか、不安へのドキドキなのかわからなかったけれど、ギイを思い出したら身体がじんわりと熱くなってしまった。

──『グレトナグリーンに行こう』だけで、わかるわけないじゃないか。
ぼくは地理も歴史も苦手なんだ。そんなのギイだって知ってるだろうに。
だいたい、そんな暗号みたいなこと、ぼくにわかれってほうが無謀だよ。

 新しく来たアイスティの氷が崩れて、カランと音が鳴る。
汗をかいたグラスは触る側からひんやりと冷気に包まれていて、火照った身体を冷やしてくれそうだと期待できた。

『グレトナグリーンに行こう』

 脳裏に刻まれたギイの声がリフレインする。

 ギイがそう言ったのは確か祠堂の三年の時だったから、もう十年近く前になるだろうか。
ギイはあの頃から何があってもぼくと将来をともにしたいと望んでくれてたってこと?

──ああ、無性にギイに会いたくなってしまった。

 もしもギイの顔を見たら、まずはどうしよう。
抱きしめる? キスする? それとも問い詰める?

「いや、まずは踏んづけて、次に締め上げる、だな」

 四人のSPたちがわずかに身体をぼくから退いた。
どうやら、彼らは彼らなりにいろんな想像で頭を悩ましているようだ。

 彼らにとって、ぼくはどんな「婚約者」に見えるのだろうと考えたら、ちょっと笑えた。
Fグループ総帥の御曹司の相手にしては、ぼくはきっと規格外なんだろうな。

 それでも、ギイがぼくがいいと言うのなら、ぼくはギイと寄り添ってこれからの未来を共に歩いていきたいと思う。

「これからもお世話になります」

 ぼくは四人のSPたちに頭を下げ、とりあえず「迷惑かけたらすみません」と誤っておいた。
今日だって迷惑かけてしまったようだし、おそらくこの先も何もないとは言えないだろうから。

 すると、慌てたように四人がこれまた頭を下げてきた。

「こちらことよろしくお願いします」
「いや、迷惑かけるかもしれないのはわかりきったことだと思うので……」

「いえ、こちらこそ。できる限り、ご迷惑にならないよう守らせていただきます」

 あっちもペコペコ、こっちもペコペコ。

 カフェにいたほかのお客さんたちの視線がとても痛かった──。





 翌週、ぼくはイギリス大使館主催の日英友好親善交流事業の一環として開催されたパーティに出席していた。
オケ代表の一人として招待に応じたのだが、正装はとても窮屈で、知り合いもまったくと言っていいほどいなかったので、ぼくはここに来たことに早くも後悔をしはじめていた。

 とはいえ、これも仕事の一環である。
事務局長と一緒に交流事業担当者やオケ関係での知り合った人たちへの挨拶回りは欠かせなかったし、退屈だなんて顔に出すなんて論外。
一通り挨拶が済むまでひたすら笑みを張り付けていた。

 慣れないことはしないことに限る。
時々、ぐうとお腹の音が鳴って、ものすごく恥ずかしかった。
「こんなところでやめてくれ〜」と眉間をピクピク震わせながら、何度腹筋に力を入れてやりすごしたことか。

 ところが、やっと解放された時には精神的にも肉体的にも疲労困憊していて、空腹感もどこかに飛んで行ってしまっていた。
タイミングが悪すぎだ。

 それでも一応の役目を果たし、ほっと胸を撫で下ろした途端、再びぐうぐうとお腹の音が鳴りだして。

 フロアで談笑する人々を見やれば、正装とはいえ立食パーティだからか、みんな飲み物を片手にざっくばらんに談笑しているように見える。
テーブルの上には美味しそうなお皿の数々がずらりと並び、彩どりの料理がぼくの食欲をこれでもかってくらいくすぐってくる。

──ああ、もう限界かも。

 お腹もすいたし、ちょっと摘んでもいいかなあと、あとの時間はもっぱら料理の置いてあるテーブルの近くに身を置くことにした。

 仕事から解放された気分を噛みしめようと、まずは冷たいウーロン茶をもらって、ローストビーフに舌鼓を打つことにする。

「うーん、美味しい。お肉、やわらかい……」

 エビのパテもなかなかイケた。

 どれ、今度は何を食べようかな、と大皿に盛られた料理をざっと流して見ていたところに──。

「たーくみ」
「うわあ!」

 突然、後ろから抱きつかれておののいた。
途端、嗅ぎ慣れた甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「ギイ! 何で? 帰国は明日だって言ってたはずじゃあ……」

 ああ、危なかった。もう少しでウーロン茶を零すところだったじゃないか。

「仕事が早めに片付いたから飛んできた。お、まさに『飛んできた』じゃん。我ながらうまいな。
あー、やっと託生に会えた。託生の匂い、久し振りだ」
「ちょ、ちょっと待って。ぼくもギイに会いたかったけど。ギイ、ここでは勘弁……」

 抗っている間にも、当然のようにギイはぼくの顔にキスの嵐を浴びせてきた。
右手に飲み物、左手に取り皿を持っているぼくはどうにも逃げようがない。

 とはいえぼくも現金なもので、ギイの唇が触れるごとに胸はドキドキ、心はポカポカとしてきて、キスするのをやめてほしくないなんて思うようになってしまうから困りものだ。

 それに、さっきまでの緊張はどこへやら。
ギイに会えただけでここが楽園のように思えてしまうのだから、ホント重症だ。

 ギイがそばにいる。
それだけで、身体からすうっと余分な力が抜けて、息をするのがすごく楽になっているのがわかった。

「はあああ、やっと託生不足がちょっとだけ解消した」
「まったく、神出鬼没すぎなんだよ、ギイは。
今日着くなら着くで昨日の電話で言ってくれればよかったのに」

 何となく照れが先んじて、つっけんどんな言い方になってしまった。

──だって、ギイが来た途端に元気になるなんて情けないじゃないか。

 ギイの存在にすごく頼り切っているなんて今更かもしれないけれど、正直なところ、成人したひとりの男としてこれでいいのかと思うところもあって、ちょっと恥ずかしかった。

 だが、そんなぼくの微妙な男心をギイはさらりと流してくださった。

「悪い悪い。
オレのところにも招待状は来ていたし、もともと間に合うようなら出席しようと思ってたんだ。
今日、託生がここにいるのはわかっていたしな。
お、託生。こいつはうまそうだぞ。取ってやろうか。託生の好きなステーキもあるぞ」

 ひとしきりキスとハグを繰り返して満足したのか、ギイの意識がぼくから逸れた。
さすがに驚異の胃袋の持ち主、食欲魔人のギイである。
こんな場所でも、食べる気満々とは。
とはいえ、ぼくのほうも心身ともに絶好調になっていて、花より団子に大賛成だった。

「もう、そんなに食べれないってば。ギイじゃないんだから」

 ぼくのお皿にこんもりと料理を取り分けてゆくギイは、ものすごく楽しそうだった。

「ちゃんと食べとけよ。それでなくても託生、最近体重減ってるんだろ。一目で痩せたのわかるぞ」

 ギイはフンフンと鼻歌交じりに、次々と新しい料理を攻略してゆく。
ギイの取り皿はぼくの以上に山盛りに盛ってある。
その自分の功績にことのほかギイは満足そうだった。

「ほら、食おうぜ」

 ギイは本気で食べることに集中するつもりらしい。
ぼくは自分のことを棚に上げ、ほとほとぼくは呆れかえってしまった。

「そこまでがっつかなくてもいいんじゃない?」
「食える時に食う。ソレ基本だろ? 
──おおっと。大使に見つかっちまった。ほら、やっぱり食っときゃよかったじゃないか。
仕方ない、ちょっと挨拶して来るか。それともオレと一緒に来る? 紹介するぜ?」

「紹介?」
「ああ」

──もしかして、ギイは婚約者としてぼくを紹介したいって誘ってる?

 今回のパーティも招待客のほとんどが婦人連れだ。
外国のパーティでは通常、夫婦で出席するものだと聞いているし、今日の大使館主催のパーティも多聞に漏れず、これがおそらく彼らにとって「普通」の世界なのだろう。
社交パーティの中にはどうしてもパートナーが必要なものもあって、そういう場合、ギイは妹の絵利子ちゃんや秘書の女性に相手を務めてもらっていると本人から聞いているが、今日はギイはひとりで出席しているようだ。

──パーティか……。

 ぼくは結婚してもオケを続けていきたいし、今回はたまたま別件でお互い同じパーティに出席しているけれど、ぼくが毎回ギイに付き添うなんてことは土台不可能だ。

 ギイは頻繁に来日しているが、それでも彼の活動の中心地はやっぱりアメリカだから、招待されるパーティやイベント関連ももちろんアメリカでの開催が多いのだろうし。
対して、ぼくは今、日本が生活拠点になっていて、身体がふたつない限りどうしたってぼくがギイの相手を務めるのは無理がある。

 そうこうしているうちに目聡い人たちがギイを見つけて、ちらちらとこちらを伺う視線を投げてくる。

 こういう場に限らず、ギイの周りには人が集まりやすい。
ギイの外見上の美貌もさることながら、彼のバックグラウンドにそびえるFグループはだいたいの人にとって至極魅力的で、ギイがたくさんの人に囲まれるのは仕方ないことなんだろう。
ましてや、黒のタキシードに身を包んだギイはすごくカッコよくて、男性たちは羨望の眼差しを、女性たちは甘い視線をガンガンと注いできている。

「ははあ、託生は料理にご執心か。じゃあ、デザートも取ってやるよ」

 慣れたもので、ギイはどんなに周囲から注目されていても軽くスルーしてしまう。
でも、ぼくにしてみれば、ギイがアレコレぼくの皿に料理を盛っているのを不思議そうに見る人も多くて(中には睨んでくる人もいる)、視線が痛くて困りものだった。

 そんな中、ギイと連れだって大使に挨拶に行くということは、今以上に目立つ行為であることは明らかで、ましてやギイの婚約者として正式に挨拶することになれば注目度は三倍増しなること間違いなし。
それ相当の覚悟が必要となると考えていい。

「これくらいでいいか。食べ物の恨みは恐ろしいからな、今のうちにしっかり食っとけよ。
その間、オレはちょっと挨拶してくるから──」

 ぼくがあれこれ思案して黙っていると、ギイがすかさずフォローしてきた。
ぼくの心配や不安をギイはいつだって掬い上げようとしてくれる。

 でもそれじゃあ駄目なんだ。
これからは今までと同じではいけないんだ。

「……行く」
「は?」

 ぼくはギイのパートナーなんだから。

「だから、行く」

 ギイは訝しげに眉を寄せた。

「行くってどこへ?」
「だから! ぼくも大使のところに行くって言ってるの。ギイ、紹介してくれるんだろ?
行くんだったら早く行って来ようよ。食べるのはそれからでいいから」

 ぼくは近くのテーブルに取り皿を置くと、ギイの袖を摘んで引っ張った。
ぼくにしては一大決心したつもりだった。
なのに、そのまま大使のところに向かおうとするぼくの腕をギイは咄嗟に掴んで、引き留めてきた。

「ちょっと待てよ、託生。
紹介って……、おまえはそれでいいのか? 第一、オレと一緒に挨拶するってことは──」
「わかってるよ。だから行くって言ってるんじゃないか。
結婚するんだ、ギイと。だからいつまでも逃げてはいられないんだ」

「託生、無理しなくてもいいんだぞ」
「無理なんてしてない。でも無理してでも行かないと。だって少しずつでも受け入れていかなきゃ。
ぼくと一緒にいるギイも、仕事をしているギイも、ギイはギイなんだから。
毎回パーティに一緒にってのは無理だけど、付き合えるところは付き合うようにするよ?
もしかしたら、ギイだっていつかぼくに付き合わないといけなくなる時があるかもしれないし」

 おそらくそんなことはほとんどないと思うけど。

「託生、おまえ──」
「だからお互い様だよ。ぼくとギイは共犯者で同等の立場。そうだろ?」

「はあ……、参った。そうなんだよな。おまえ、昔から思いっきりだけはよかったんだよな。
オレが知る葉山託生はいざとなったらひとりで敵陣に突っ込んでいくような奴なんだった」
「敵陣って……ギイ。戦国武将じゃないんだから」

「いや、まあそうだけど。……じゃ、行くか」

 ギイが、くいっと腕を差し出してきた。

「せっかくだから腕組もうか」
「調子に乗らないの! ほら、行くよ。……で、どの人が大使?」

「託生ぃ。詰めの甘いところも変わらないな、おまえ」
「ふん、失礼な」

「いてっ」
「あ、ごめん。こんなところにギイの足が」

 ギイがジロリと睨んできた。

「おまえ、わざとだろ」
「ご想像にお任せします」 

 ぼくはベーと舌を出してやった。

「どうせならその舌舐めてやろうか?」
「遠慮しときます」

 ギイが紹介してくれた人はまさにサンタクロースのような立派な白い顎鬚のおじいさんだった。
ギイが近づいてゆくと青い目を細めて、「Hello, Gyee. Long time no see. How have you been?」と握手を求めてくる。

 ギイも手を握り返しながら、軽くハグを繰り返して、
「ご無沙汰しています。大使。大使もお元気そうで何よりです。
すみません、今日は日本語でお願いします」
そうして、ぼくのほうをちらりと見る。

 そのギイの様子に何かを察した大使は、
「構わないよ、ギイ。よく間に合ったね。会えて嬉しいよ」
即座に日本語に切り替えてくださった。

 ギイが、「葉山託生です。オレの婚約者です」とぼくを大使に紹介してくれた時、ぼくの胸はドキンと高鳴った。

「託生。エドモンド・ブリキューズ英国大使だ。彼はオレの祖父のチェス仲間なんだよ。
在日五年だけど若い頃にも数年日本に滞在していたことがあるから、日本語は得意なのさ」
「はじめまして、葉山託生さん。お噂はかねがね聞いてますよ。
ギイの言うとおり、私は日本語ペラペラですよ。内緒話してもわかってしまうから気をつけるようにね。
それにしてもあの小さなギイが伴侶を得る年齢になったとは。年はとるものだね」
「はじめまして。ブリキューズ大使。ご招待いただいて光栄です。
今度、お国のほうで演奏させていただきます。
素晴らしいコンサートにしようと精一杯努力いたしますのでよろしくお願いします」

「託生はKフィルのコンサートマスターなんです」
「おお、それはそれは。あなたの演奏が楽しみですね。
確か会場は、キャリック侯爵のカントリーハウスでしたか。
あそこは湖畔が素晴らしい。いい場所です。
我が国の貴族の領地での楽しみを知っていただくには打ってつけの城ですよ。
これを機会に日本の方にも大いに英国式田舎をご紹介できればと思います。
コリングウッド伯爵アーノルド・ロックフィールドとはもうお会いになりましたか?
キャリック侯爵の息子でこのパーティにも来ているはずなのですが……」

「はい、今日はまだですが、先日お会いしました」
「ギイは? きみは彼と知り合いだったか?」
「ええ。アーノルドに会うのは数年ぶりになりますね。このあと探してみます」

「それがいい。それで、結婚式はいつ挙げるのかね?」
「来月です。アメリカで」

「そうか。いつかふたりで我が国にも来てくれたまえ」
「ありがとうございます」
「ぜひ。楽しみにしています」、

 大使館主催のパーティだけあって、大使目当ての人が多いのだろう。
大使は引っ張りだこで、ぼくたちの隣りや後ろにも大使に一言挨拶をしようと順番を待っている人たちがわんさかと集まっていた。
大使はもっとギイと話しをしていたそうだったけれど、長居ができる雰囲気ではなかった。

 挨拶が済み、大使から離れて脇にずれると、すかさず招待客たちが大使に声をかけてゆく。
それぞれいろんな団体の代表者なのだろう。
大使は挨拶を受けるたび、英語や日本語、ほかにもいくつかの言語で対応していているようだった。

「すごいね。大使って、何か国語しゃべれるの?」
「日本語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語……。イタリア語はどうだったかな。
ロシア語と中国語は少しだけってかじったって言ってた気がするな」

「へえ、それだけ話せたら世界中どこに行っても苦労しないね。でも、気さくな人でよかったよ」
「まあ、この場ではね。あんなふうでも大使だからな。
それに彼はイギリスに帰れば上院議員のお偉いさんになることになるだろうと言われている人だ。
気さくなだけじゃないんだよ、彼は」

「そっか。そうだよね。一国の大使なんだもんね」
「そういうこと」

 ぼくたちはテーブルのところに戻って食事を再開しはじめた。
取り皿に盛られた料理が半分も減らないうちに、「悪いな、ちょっと行ってくる」とギイが一言断ってきた。
どうやら知り合いを見つけたらしい。

「ぼくも行こうか?」
「いや、今日はもう十分さ。これから会うのは仕事関係。
託生は顔出さなくてもいい相手だよ。
託生、オレさ。あまり託生をオレの仕事に関わらせたくないんだ。……おまえが傷つきそうで」

「ぼくが傷つく?」
「祠堂の時の一年、覚えてるか。ああいうのがザラなのさ。
オレはおまえを利用されたくない。だから紹介したい相手は選びたい。わかった?」

「わかった。だったら了解。ぼくはしばらくここにいるよ。
事務局長とかプロジェクトの担当者とかにはもう挨拶が終わってるから、ゆっくりしてる」
「オーケー。早めに切り上げてくるから。食べ過ぎない程度にしとけよ」

 じゃあな、と手を挙げてギイは離れて行った。
人が集まるほうへ歩いていくギイの背中に向かって、「ギイじゃないんだから。そんなに食べないよ」と文句を呟いたところで聞こえるはずがない。

──まったく。ぼくがどれだけ食べると思ってるんだ?

 それにしても改めてギイを見ていて感嘆してしまった。
ギイが移動すると、密集度がこれまた移動するのだ。
まるで磁石に集まる砂鉄みたいだった。
もしくは砂糖に群がる蟻の大群。
見ていて怖いくらいに、蟻そっくりな黒タキシード姿の男性たちがギイに向かって集まっていく。
そして、男性たちに添うように華やかな女性のイブニングドレスがこれまたひらひら移動している。
さながら地面に散った花びらのように、黒蟻の間を揺れていた。

 外交は祠堂の頃からギイの仕事だと聞いている。
実際、これまでだってぼくといる時でもギイのところへ、社長とか専務とか年配のお偉方が挨拶にきたことがあった。
そういう相手に対し、時には断りながらも、ギイがそつなく対応してきたのをぼくはずっと見てきている。

 そうなのだ。
ぼくが知っているだけでもギイはかれこれ十年はああいう世界に身をおいて、今までずっとうまく立ち回ってきた。
ギイとともに歩いていくと言うことは、こういう場所にも慣れなければいけないのかもしれない。

 いくつか料理を堪能しつつ、ぼくはしばらくの間、ギイの立ち回る姿をぼおっと眺めていた。

 そんなぼくに声をかけてくる男が一名。

「こんばんは、タクミ。この間は助かったよ」
「……ロード。あなたこそ、その節は大変でしたね。お疲れ様でした」

「ロードはやめてくれないか。アーノルドと呼んでくれ。ああ、今日はギイ、間に合ったんだな」
「は…い?」

──アーノルドはギイががここに来るかもしれないって知っていた?
ああ、彼は主催者側の関係者だから知っていて当然なのか。……だからって、面白くない。

「それにしても、意外だった」
「意外って、何がですか?」

「きみがギイの靴を踏んでいくところが」
「は? 見てたんですか。あれはその……」

「最初は目を疑った。
きみを抱きしめて顔中にキスしているギイも、きみに料理を取ってあげているギイも、私の知らないギイだったから」
「え? だってアーノルド…さんって、ギイのオトモダチ……ですよね?」

 章三相手でもギイは料理を取り分けそうだけど。

──取り分けるというか、もしかして取り合いになるかも?

 章三は自分の領域を侵す相手には容赦ないような気がした。
例え相手がギイだとしても。

──祠堂時代、ギイが章三のおかずをくすねたことなんてなかったし……。

 逸(そ)れてしまった思考を、アーノルドの冷たい視線が引き戻した。

「私の知っているギイは、誰かにキスをしまくるなんてあり得なかったし、他人の世話をかいがいしく焼くなんて論外だった。
第一、彼は世話する立場じゃない。される立場だ。
ギイが使用人のような真似をする必要などないだろう?」

「だったら、おまえはどうなんだ、アーノルド? セイジのために飲み物を取ったりはしないのか?」

 振り返るとそこにギイがいた。

「ギイ!」

 ギイは笑顔を浮かべてはいるが、目はまっすぐアーノルドを射抜いていた。

「相変わらず突然沸いて出てくるんだな、ギイ。このパーティだって欠席のはずじゃなかったのか?」
「おまえが頓珍漢なことしなければ、今日ここには来なかったよ。
で、セイジはどうした? 一緒じゃないのか?」

──セイジ? 誰だろう。

 ギイはぼくの背後に張り付いて、後ろから両腕を前に回してきた。
腕を胸の前で交差させるこの恰好。
これではいかにも抱きしめているようじゃないか。

「ちょっとギイ」

 ぼくが抗おうにもギイはお構いなしに、「託生に何でちょっかい出した?」とアーノルドに質問を投げ続けた。

 アーノルドもアーノルドで、ギイの質問に答えないまま、
「ギイ。今、ほぼ二週間ごとに日本とアメリカを行ったり来たりしてるそうだな。
この話を聞いた時、私は耳を疑ったよ」
別の質問で返していた。

 このふたりは会話を成立しようという心づもりはないのだろうか。

 ぼくの「ちょっと放して」の抵抗を仕方なく受け入れたギイが、今度は腕をぼくの腰に回してきた。

──もう、どっちもどっちなんだから。

 溜め息が出てしまう。

「甘いな。託生が学生だった頃は毎週来てた。それに比べたら今はまだましだ」
「来てたってどこに」

「日本に決まってる。ああ、こいつが留学していた二年間はウィーンにだけど。
大西洋横断は楽だったなあ」
「まさか。アメリカから?」

「それ以外のどこだっていうんだ。オレのホームグラウンドは今も昔もニューヨークだぜ。
まあ、数年はボストンにもいたがね」

 ギイの体力と気力には本当に頭が下がる。
今はだいたい半月ごとにアメリカと日本を行ったり来たりしているギイだけど、学生時代は毎週のように会いに来てくれていた。
遠距離恋愛には違いなかったけれど、ギイとは頻繁に会えてたから、ぼくは必要以上に不安になったりすることなく、音楽に身を入れることができたのかもしれない。
昔から、ギイはぼくの精神安定剤だった。
ギイがいると安心できて、ぼくはぼくらしくいられるのだ。

──そういや、赤池くんが言っていたっけ。ギイは驚異の恋人だって。
付きあい当初からこのテンションをずっと持続してるなんて信じられないって。

 ギイは十年前からずっとこんなふうだったからぼくには違和感が感じられないけれど、どうやら世間一般的には尋常ではないらしい。
まあ、どういう意味であれ、ギイのことだ、規格外なのはわからないでもない。

「I couldn't imagine such a feat was humanly possible. (まったく化け物か)」
「Who cares? You may not believe me, but I met Takumi every week. There is no doubt.
(言ってろ。信じないかもしれないが、託生とは毎週会ってたぜ。間違いない)」
「Really? (本当か?)」

「Sure. Nothing is as great as love. (ああ。愛に勝るものはないのさ).
……アーノルド、いい加減、日本語で話さないか? ここには託生がいるんだ」
「Hum……、もしかしてタクミは英語を話せないのか」

「日本の英語教育は会話に重きをおいてないのさ」
「使えないな」

「そんなことより、アーノルド。おまえはオレを買い被りすぎだ。もう託生に構うのはやめてくれ」
「買い被りなど、そんなことはない。
それにきみの恋人は言っては何だが、自分がどれほどの恩恵を受けているか全然自覚がない。
私にはそれが我慢できない。
二週間ごとにアメリカと日本を往復しているなんて、ギイらしくない。
ましてや毎週通っていたなんて。そんな無謀なこと……。まさかタクミがそう望んだからか?」

「オレの意思だ。オレが託生に会いたかった。だから会いに行った。それのどこが悪い?」
「ギイ、きみは私の恩人だ。だからきみが蔑ろにされてるのが我慢できない」

「蔑ろ? 何を誤解して……。
いいか、アーノルド。これだけははっきり言っておく。
託生はオレの最愛の恋人だ。今までも、これからも。
オレが無謀を通したというならそうなんだろう。でも恋は盲目と言うだろう?
おまえだってそうだったじゃないか。セイジを得る時のこと、忘れたのか?」

「忘れてはいない。だからこそギイの幸せを心から望んでいるんだ」

 そこで新たな邪魔が入った。

「お話し中よろしいですか? 崎さん、大使がお呼びです」

 ギイは仕方なさげにぼくに肩を竦めて、「わかりました」と相手に頷くと、ビシッとアーノルドの胸元を人差し指でトントンと突きながら、「オレの恋路を邪魔するな」の忠告をしてからその場を離れた。
去り間際に、「すぐ戻るから。アーノルドの言うことは真に受けるなよ」とぼくに言いおいてゆくのを忘れずに。

 その場にアーノルドと残されたぼくは、何と切り出したものか考えてしまった。

──アーノルドはギイに幸せになってほしいと思ってて。ギイは余計なお世話だと思ってる?
昔のオトモダチ同士にしては、何だかずれているような……。

 黙っていたぼくをアーノルドはじっと見下ろしてきた。
そして、しばらくしてから目をつぶり、はあ、と深く息を吐き出すと、またじろりと見てきて……。
そのうち、何かを諦めたかのような、納得したくないけれど仕方ないとでも言いたそうな、心中複雑そうな顔をぼくに向け、肩を竦めた。

「私はずっとBlack sheepだった」

──ブラックシープって黒い羊? 急になんだ?

 話が飛びすぎてて、ついていけなかった。

「その分では本当に英語が苦手なようだな。
A black sheep in my family、厄介者という意味だ。
だが、ギイのお蔭で私は未来を掴めたんだ。だからギイにはどうしても幸せになってほしかった。
穿ちすぎたのかもしれないな。私は思い違いをしていたようだ。
ギイは今までもずっと幸せだったんだな。…きみがいたおかげで。
タクミ、Born with a silver spoon in one's mouthはどうだ? 聞いたことがあるかね」
「いえ」

「もともとヨーロッパでは子供が生まれると、名付け親が洗礼式にイエスの十二人の使徒の柄のスプーン十二本を贈る風習があった。
普通は木製のスプーン、だが、裕福な家では銀製のスプーンを贈っていた。
そのことから、裕福な家に生まれた者、もしくは生まれながらにして恵まれた者をこう言うんだ── Born with a silver spoon in one's mouth……。
私は銀のスプーンを咥えて生まれた。そしてギイは金のスプーンを咥えて生まれてきた。わかるか?」

 銀よりも尊い金。

 アーノルドの声は凪いでいて、彼の言葉はぼくの耳にしっとりと染みていった。

「私はね、タクミ。最初、きみがギイを振り回しているのとばかり思っていた。
けれど、よくよく考えればそれが間違いだとわかるはずだったんだ。
あのギイが、他人にそう簡単に振り回されるような人間ではないことくらいわかっていたはずなのに……。
余りにも私が知る彼とは違いすぎて、それで判断をし間違えてしまった……。すまなかった」
「そんな……。ぼくにはあなたに誤ってもらう謂(いわ)れなどないです」

「いや、どうか私の謝罪を受け取ってほしい。
私はギイに大きな借りがある。
私は真性のゲイだ。だから侯爵家の跡取りには相応しくなかった。
フランス語にnoblesse obligeという言葉がある。
貴族には果たすべき責任と義務があり──、民を守るために自らを犠牲にするのも厭わない、そういう貴族に生まれた者に課された精神を指す言葉なのだが、責任や義務は民を守るためだけではない。
我々貴族は次代を繋ぐために後継者を持たなくてはならないんだ」

 貴族は血筋によって繋がれ、爵位は世襲制であることから、侯爵家の跡取りとして生まれたアーノルドは妻をめとり、子を成すことを当然のように求められてきたのだろう。

「私にとって次代への期待は重責と苦痛以外の何ものでもなかった。
本気の恋をした時、私は一度、家を捨てる覚悟をしたんだ」
「もしかして、それを助けたのがギイ……?」

「そうだ。仮腹の実用化に私は救われた。
相手が男でも子供が生まれる可能性があるならばと私たちは一族に認められ、正式に結婚することができた。
あと一年でも仮腹の完成が遅かったら、私は家を出ていただろう」

 仮腹の実用化はぼくの父からギイへの挑戦状のひとつだった。
ギイとの結婚を許すために父が挙げてきた条件はほかにもいろいろあったけれど、最後に出された条件がそれだった。

 冗談だったのかもしれないけれど、「託生が恋人じゃなかったら、今でも仮腹は完成してなかっただろうな」と、いつだったかギイが零したことがある。
少なくとも父の言葉がギイに大きな影響を与えたのは確かなようだ。

「ギイは私の恩人だ。それに、もし仮腹が完成してなくても、恩人には違いなかっただろう」
「それはどうしてですか?」

「ギイは本気で好きなら諦めるなと言ってくれた。
味方のいないあの時の私にとってギイの言葉は勇気の塊となった。
好きなら諦めずに貫けばいい。一緒になりたければグレトナグリーンにでも行けばいいんだと言われて目が覚めたんだ」
「グレトナグリーン? もしかして、ギイ、駆け落ちを唆したんですか?」

「ああ」と微笑んだアーノルドの笑顔はとても優しげで、それはぼくまで切なくなるほど温かい表情だった。

「唆したというより、私の想いを試したとでも言うべきか。
駆け落ちする気概があるなら、簡単に諦めないで頑張れと発破をかけてくれたのさ。
それと、他言無用の約束のもと、仮腹が完成間近だという情報も与えてくれた。
だから私とセイジ──私の配偶者の名なんだが──は希望を捨てずに頑張れた。
数か月後に仮腹が完成して実用化になれば私たちにとって突破口になる。
それは間違いなかったからね。
私が今、幸せていられるのもギイのお蔭だ。だから、ギイには絶対、幸せになってほしかった」
「ぼくが相手ではギイは幸せになれないと?」

「ああ、思った」
「そうですか。……あ、もしかして、セイジさんって日系の方だったりしますか?」

「ああ。父親がイギリス人、母親が日本人のハーフだ。
父親の仕事の関係で日本で生まれ育ったんだが、オックスフォードに留学してきて、それで知り合った。
最初は英語が下手でね。まあ、きみほどひどくはなかったが。
彼が英語を流暢に話せるようになるのと私が日本語をマスターするのとどちらが早いか賭けをしたんだ。
お蔭で日本相手の仕事が来るようになったのだから、何が幸いとなるかわからないものだな」

 アーノルドがぼくの肩越しに何かを見つけたようだった。
彼はそれを感慨深く見ている──そんな気がした。
何を見ているのか気になって振り返ると、ギイがこちらに歩いて来るのが見えた。

「ギイは何かに執着するタイプではなかったのだが、私が知らないだけだったんだな。
ギイがあんなに生き生きとして、すごく楽しそうなのはきっときみがいるからなんだろう。
何を幸せに思うかはその者が決める。私は自分がそうだったくせにずっと忘れていたのだな」

 アーノイルドは視線をぼくに向けた。
ぼくをじっと見つめて、いつかのように何かを告げようとしていた。
違うのは、あの時の彼が言葉を飲み込んだの対し、目の前の彼は望みを言葉にしたことだ。

「タクミ、ひとつ頼みがある」
「あなたがぼくに頼み…ですか?」

「セイジが私の銀のスプーンであるように、きみはギイの金のスプーンのひとつだ。
ギイにとって最高の得難いものであることをどうか忘れないでくれ」

 ぽんとひとつ、ぼくの肩を叩いて、アーノルドはぼくから離れてゆく。
数歩歩いてから、思い出したかのように振り返って、「今度はイギリスで会おう。その時はセイジを紹介するよ」と軽く片手を挙げて、彼は再びギイのほうに歩いていった。

 ふたりは互いの前に立つと、二、三、言葉を交わしたあと、軽く抱き合い、互いの背中を叩きあった。
友人同士が友愛を確かめるその抱擁はとてもさっぱりとしたもので、パーティという場所では有り触れた仕種だったが、いかにも貴族といわんばかりの高潔な雰囲気のアーノルドと華やかさでは誰にも負けないギイのふたりの抱擁である。
わあっと周囲から歓声が沸いた。

 ギイはぼくのところに戻ってくると、「アーノルドと何を話してた?」と気がかりだと言わんばかりに訊いてきた。

「ギイ、駆け落ちを唆したんだって?」とぼくが返すと、ギイは片方の眉を器用にあげて、「アーノルドが話したのか?」と確認してくる。

「唆したなんて人聞き悪いな。
駆け落ちする覚悟があるなら一度くらい正面からぶつかってみろってそう言っただけさ。
ちょうど仮腹がうまく実用化の波に乗った時期で、相手が男でも問題がなくなって晴れてゴールイン。
たいしたことしてないのにたまに会うたびに何かとうるさいんだ、あいつは」

 たいしたことないなんてきっと嘘だ。
アーノルドのあの態度からして、ギイは相当無理を通したに違いない。
「仮腹」は不妊治療の特効薬であることから、開発を待ち望んでいる人が世界中にいたことは事実で、新薬開発の完成および実用化の折には、「仮腹」開発に携わった関連会社すべての株が上昇することは、ギイのことだから当然予測していたはずなんだ。

 開発進行の情報をを第三者に流すということはインサイダー取引を疑われても仕方なかったのに。
ギイは何も言わないけれど、そのギリギリの行為をしたんじゃないだろうか。

「アーノルドは運が良かった。そしてヤツの幸運は託生が呼び込んだんだ。
あいつは託生に感謝するならまだしも蔑ろにする資格なんかない」
「蔑ろなんて、そんなことなかったよ。
彼、ぼくはギイの金のスプーンだって言ってくれたんだ」

「金のスプーン?」

 アーノルドはが話してくれたスプーンの話をすると、「金のスプーンなんて大げさな」とギイは笑った。

「金はさておき、託生はオレの幸せのスプーンには違いないけどな。
幸せを一匙、一匙、いつだって掬ってくれるんだ。それをオレはアーンと口にする」
「またふざけて」

「真面目な話さ。
オレが金のスプーンを咥えて生まれてきたというなら、託生との出会いは運命だったんだよ。
オレの幸せは託生なくては成り立たないんだから。
オレはおまえを絶対手放さない。絶対にだ」

 ギイの「愛してる」は吐息だけの熱い声になった。

「ぼくも好きだよ、ギイ」

 ギイの「愛してる」がぼくの世界を色鮮やかに変えたように、ぼくの「好きだよ」がギイの世界に潤いを与えたらいい。

 でも世界が円滑に回る前にこれだけは訊いておきたい。
いや、訊いてみたかった。そしてぜひとも知りたかった。

「ギイ。ぼくと駆け落ちしようと思ったこと、ある?」

 胸をドキドキときめかせながら、勇気を出してぼくは訊いた。

 なのにギイはイジワルして、笑ってばかりでうんともすんとも答えてくれなかった。

──ギイのイケズ! ぼくの純情を笑ってごまかすなよ!





 ぼくは昔から噂に疎いとよく言われる。
章三にも、自分の恋人のこと全然知らないんだな、と驚かれたことがある。
ギイとの付き合いがそこそこ続いた頃には、「ギイの何もかもを知りたいとは思ったことはないのか?」とも訊かれた。
それに対し、ぼくは、「いつかは知れることだから」と答えた記憶がある。

『いつかは知れることだから』

 それはギイの受け売りだった。

 いつかは知れることなんだから今知らなくてもいいんだと、先にギイが言ってきたから、ぼくからは何も訊けなくなった。

 だから、少しずつギイを知っていけばいいとぼくはずっと思っていたし、ずっとそうしてきたつもりだ。

 けれど、時には知りたくないことでも自然と耳に入ってしまうこともある。
だから、「知る」ということは少し怖くて、少しだけ勇気がいった。

 ぼくはそれが普通になっていたから、今ではいっぺんにいろんなことを知ろうという気は起らなくなっていた。

 結婚話を円滑に進める、もしくは結婚生活を円満にする、そのコツのひとつが「何もかも知りすぎないこと」だとしたら、ギイはうまいことぼくに魔法をかけたと思う。
とりわけ自分を戒めてきたわけではないけれど、極力知ろうと思わないようにしていた節はぼくにはあるから。

 それでも、知りたいという欲求は誰にでもあって、ぼくだって至極望んでしまう時だってあるのだ。

 すべてを捨ててでも手に入れたいと願う。
そんな一途な恋がこの世界に存在するのだとどのくらいの人が本気で信じているだろう。

 ぼくはその「信じる人」のひとりであり、また、小説の中の出来すぎたラブストーリーのような夢みたいな恋が実在するのだと、くしくもアーノルドによって明かされて、その存在を知る者のひとりとなった。

 けれど、ぼくが本当に知りたかったのはアーノルドの想いではない。

 ぼくが知りたいのは……。

──ギイだって一度は考えたんじゃないの?

 ぼくの問いに答えは返ってこなかった。

── 十年前、ギイがあの時すでに、ぼくと生きることを心に誓ってくれていたのだとしたら、ぼくは──。

 ギイの一笑がぼくを置き去りにした。

 行き場を失くしてしまったぼくの決心。

 ぼくは知りたいという欲求に蓋をした。





 ギイと一緒にいても胸の奥底に巣食うもやもやが消えないまま、月は替わり、ぼくはフィアンセピザでアメリカに入国した。
葉山の両親と章三は数日後の飛行機で追ってくることになっている。

 一足早いギイとの渡米。
当たり前だけど、アメリカに着いてからは周囲が英語で溢れかえっていて、ぼくは言いたいことが言えないまま伝えたいことが伝えきれずに、何かが喉につっかえる感覚がどんどん強くなっていった。
そのうちこのもどかしさが最高潮まで達してしまったらどうしようと憂いつつも、自分でもこのもやもやをどうすることもできなくて。

「託生、もしかして怒ってる?」
「怒ってなんかない」

「じゃあ、何でイラついてる?」
「イラついてなんかない」

 八つ当たりしているのが丸わかりなくらい、ギイに当り散らして。
それでも一向に気分は晴れず。

 こんな調子で結婚式に臨んでしまっていいのだろうか。
こんなんで本当に結婚してもうまくいくんだろうか、とこの先を思って不安になってしまう。

 崎家の所有する広いアパートメントの一室で、ぼくは十人は余裕に座れるであろう横幅も奥行きも半端じゃない大きなソファに膝を抱えて座っていた。
そのうち、コロンと横に転がって、猫のように身体を丸めてソファを陣取った。

「たーくーみ。今頃マリッジブルーか?」
「違う」

「言いたいことがあるなら話せよ。喉の奥底につっかえてるもの、この際だから吐き出してしまえって」
「そんなものなんかないよ」

「嘘つけ」

 確かに喉につかえるものはある。
でも、言いたいことは言ってるつもりだし、訊きたいことはすでに訊いている。
これ以上、ぼくに何を言えと言うのだろう。

「おまえがおかしくなったの、あのパーティからだよな。オレ、何かヘマしたか?」
「ギイは何もしていない。ついでに何も言ってない」

 そう、ギイは何も言ってくれなかった。だから、切なくて悲しい。

──わかってよ、ギイ。ぼくは訊きたかったことはもう訊いたんだ。

 でもギイは、知らなくてもいいのだと捨て置いた。

「お、おい…、泣くなよ。託生、言いたいことがあるんだったら……」
「ぼくはもう訊いた! これ以上、訊きたいことはないよ!」

 自分でもどうしてしまったんだろうと思う。
子供みたいに癇癪起こして、我まま言って、こんなことしてもよくないだけでどうにもならないのに……。

 バイオリンもアメリカに来てから全然触っていない。
自分で自分がコントロールできないなんて、二十七の男がやることじゃない。

 ギイのせいでも誰のせいでもない。
ただ、自分の背中を押してくれるきっかけとか、ちょっとした勇気がほしいだけ……。

 ぼくの頭を撫でながら、ギイが何やら考え込んでいるのはわかっていたけれど、ぼくはギイじゃからギイが何を考えているなんてわかるはずがなかった。

「ぼくはギイじゃないんだから、ギイが言ってくれないとギイの気持ちなんかわからない」

 そのぼくの言葉は何かしらギイに閃きを与えたようだった。

「なあ、もしかして、おまえが訊きたいことってあのパーティでのアレか?」
「アレと言われてもぼくには通じない。アレだけじゃわからないよ」

 ギイがガシガシと頭を掻いた。
ギイらしくなく、「参ったな」とか「マジかよ」とかブツブツ唱えていたけれど、そのうち意を決したようで、ぼくの頬を両の掌で包み込んで、ぼくと正面から視線を合わせてきた。

 鼻と鼻がいまにもくっつきそうなくらい間近に綺麗なギイの顔がある。
その淡い茶色の瞳はとても澄んでいて、見つめているだけで胸が苦しくなった。

 寂しいとか。悲しいとか。
よくわからない感情が渦巻いて、目尻にじわっと涙が溜まるのが自分でも止められない。

「ごめん。オレがあの時、誤魔化したから……なんだよな」

 そう言って、つうと頬に流れた涙をギイが唇で吸う。

「おまえ、訊いたよな。駆け落ちしようって思ったことあるかって。
あるよ、当然だろ。でもそんなことできないって思ったよ」
「訊いていい? どうして?」

「託生には葉山の両親を捨てるなんてできなかっただろ?
オレだって、オレの勝手でおまえを振り回したくなかったしな」
「でも、言ってくれたらぼくだって──」

「ああ、わかってる。
オレが本気で駆け落ちを考えてるなんて知ったら、託生のことだ、絶対『行こう』って言ってくれたんだろうな。
でもさ、駆け落ちするのは簡単にできてもその後を考えたら、やっぱり無理だろう?
託生は幸せになれない、苦しめるだけだってわかってたから。だから本気だなんて言えなかった。
一度だけその場のノリでフライングしちまったけど、託生の真ん丸の目を見たら、もう冗談にするしかなかった」
「ギイ……」

 やっぱりあの時の言葉は本気だった。
真実がわかると喜びが身体の奥底から熱いマグマのようにどんどん湧き出てきて。
嬉しくて、嬉しすぎて、目が潤んで視界がぼやけてゆく。

「十八なんてまだまだ子供くせに自分ではいっちょ前に大人のつもりでいてさ。
ガキの考えしか思いつかなかったくせに大層な野望だけは持ってたりするんだよな、これが。
青臭い、考えなしの甘さに浸っていたあの頃の自分を思い出すと、すげーみっともなくてさ。
だから、託生に訊かれた時、あるともないとも言えなかった。──ごめん」

 ぼくはふるふると首を左右に振った。
ギイは、ふっと優しく笑って、触れるだけのキスをしてきた。

「託生。オレはずっと本気だったよ。託生とずっと一緒にいたかった。
十年前から。いや、その前からずっと。
望んで望んで。今までだって一緒にいられる手段は何でもしてきたつもりだよ」

 ギイがぼくの頭を抱え込むように、頬と頬を擦り合わせる。
すると、好きな人の声が振動となってぼくの中で響きわたった。

 耳に、頬に、腕に、胸に、身体の奥底に。そして、心の隅々へ。
ギイの声で満ちてゆく。

「子供でも本気で誰かを愛せるんだ。
本気の恋をして、ずっと寄り添っていたいって考えて、どうしたら一緒にいられるか悩んで悩んで。
手に入れるためならどんなことでも平気でやれちまう。
なのにやっぱりガキだから、一人前のつもりで後先容赦なく動こうとしてして行き詰まっちまう。
先を読むのが得意だったはずのオレが行き当たりばったりで行動しちまいそうになるなんて、あの時は自分でもマジに怖かった。
オレのこの手で、託生の居場所や未来を含め、すべてを壊してしまってもいいと独りよがりな考えに取りつかれそうになって……。
なあ、駆け落ちってのはそういうもんだって思わないか?
だから、アーノルドに言ったんだ。駆け落ちする気概があるなら何でもできる。だから諦めるなってさ」
「じゃあ、アーノルドへの助言って……」

「もとはといえばオレの苦い経験が言わせた言葉だったってこと。
情けないところなんか、託生に見せられないだろ」
「そんなことない……、情けないなんてことないよ……。
ぼくは嬉しかったよ。だって、ギイが本気でぼくのこと十年前から考えてくれてたんだって知れたから。
それに、もしもギイが情けないとか若気の至りとか思ってたんだとしても、ぼくはそうは思わない。
本気の恋、なんだろ? だから駆け落ち、だったんだろ?
だったら、今度はぼくがギイを誘うよ。
誰も許してくれなくても、ふたりが納得してたらいいじゃないか。
恋はふたりでするものなんだから。他人なんて関係ない。
ふたりでグレトナグリーンに行こうよ。それくらい、ギイが好きだ」

「託生……」

 ギイの腕がぼくの身体をぎゅっと抱き締める。
痛いくらいに、締め付ける。
身体だけでなく、心もぎゅっと──。

「おまえからのプロポーズ、確かに受け取ったぞ」

 ギイが真実を語ってくれたから、ぼくもずっと考えてきたことに気持ちが固まった。

 一世一代のぼくの決心をどうか笑顔で受け取って。

「ねえ、ギイ。
本当にグレトナグリーンに行かなくてもいいように、ぼく、いずれグリーンカードを取得するね」

──このアメリカで、ぼくはギイと生きてゆく。そう覚悟を決めたんだ。

 恋人の耳元で囁けば、ぼくを抱き締める腕がピクリと振るえ……。

 ギイはぼくの首筋に顔を埋めて、何度も何度も頷いた。

 ぼくはギイの頭を掻き抱いて、頬をこすりあわせ、幾度となく唇を押し付けた。

「今すぐは無理かもしれないけれど、いつか必ず。約束するよ」





 例えば、お呼ばれに出かける夜。
こんな夜は、ギイは洗練された貴公子になる。
どう見ても既製品には見えない上等なスーツや大きな真珠のカフス。
手首に纏うシンプルながらも洒落たデザインの時計。
ギイの優れた容姿も伴って、まさに王侯貴族に引けを取らない気品さを醸し出すギイ。
財界のお偉方にも一目置かれ、ギイに対して彼らは必要以上に気を遣っているとも聞いている。
まさに財界のプリンスである。

 けれど休日になれば、穿き古したジーンズにセーターのラフな姿でソファに寝こび、雑誌をめくりつつ欠伸を繰り返す。
これもギイである。

 あの遠い日、すべてをおいてでもふたりで生きたいと望んでくれたあの時よりも、今のギイはずっとたくさんのものを抱えている。

 それでも、ギイの本質は祠堂の頃のまま、差し出してくれるその手も同じ。
根本は何も変わっていない。

 だからこそ、ぼくは安心して、その手に手を重ねられるのだろう。





 結婚に関する手続きする過程で気付いたことがある。

 仮に、将来をともに生きることを決めた日本人とアメリカ人のカップルがいるとする。
アメリカで結婚しようと決め、結婚許可書の発行してもらい、結婚証明書にサインを入れて夫婦となり、結婚生活をはじめる。
ふたりが結婚後アメリカで暮らす場合、在留資格認定証明書で外国人配偶者ビザを申請することも可能だが、多くのカップルが目指すのはやっぱり永住権の取得である。

 アメリカの永住権は俗にグリーンカードと呼ばれ親しまれていて、これは永住者カードが昔、緑色をしていた所以らしい。

「ギイ、もしかしてぼくを試した?」
「いや、そんなつもりはなかったよ」

「でも、ぼくがいつかグリーンカードにたどり着くってわかってたんだろ? 違う?
今みたいにギイがアメリカと日本の二重生活をこの先ずっと続けるのはどこかで難しくなるって、ぼくが気づくの待っててくれたんだよね」
「託生が望まないなら今のままでいいさ。これは本心だぜ」

「でも、そうなると結婚しても月の半分以上は別居状態になっちゃうし。
今はちょっと考えられないけれど、この先本当に子供とか…ってことになったら、行ったり来たりするのなんてよくないよね。
ぼく、考えたんだ。
すると、考えれば考えるだけ今後きっと無理が出てくるって、どうしてもそこに行きついてしまうんだ」
「オレは無理強いはしないよ」

「うん、わかってる。
でもお互いの仕事のことを考えると、ギイが日本で生活するよりもぼくがアメリカに行くほうがたぶんいいんだろうな。
アメリカでオケのオーデションとか受けてさ。
また一からの出発で大変になるかもしれないけれど、ギイがアメリカを出るよりも断然現実的だしね」

 アメリカで暮らすことになれば、言葉の問題をはじめ、いろんな壁にぶちあたるに違いない。
その度に悩んで苦しんで悔しい気持ちになって、ギイに当り散らすかもしれない。

 でもきっとギイはその都度ぼくのそばにいて。
いつだって慰めてくれたり、助言や意見をしてくれるに違いないから。

 それにもしもぼくがどうしても挫けそうになったら、ギイのことだ、ぼくの知らないところで暗躍して強引に解決してしまうのかもしれない。

「ギイって、外堀埋めるのウマすぎ。結局、ぼく、ギイの思惑に嵌っちゃったじゃないか」

 アメリカで式を挙げることにしたのも、ぼくに結婚関連の手続きをさせたのも、すべて現実的な未来へぼくを導くため。

「嵌まっちゃいましたか。……ごめんな、託生。お蔭でオレ的には大満足の結果になった。
だからと言って、グリーンカードのことは急がないから。託生のペースでいいからさ」

「まあ、そのくらいは大目に見てもらわないとね、ぼくもさすがにキレちゃうよ?」
「スミマセン。この貸しは一生かけて償わせていただきマス」

「期待してマス」

 現在、再びその名に相応しいようにカードの色を緑色に変更したらしいグリーンカード。
ぼくは一度も本物を見たことがないのでその真偽は定かではない。

 でも、いつかぼくはグリーンカードをこの手にするだろうから、その真偽のほどはその時、確かめられるだろう。
ギイもまだ本物を見たことがないようだし、楽しみはあとにとっておこうと思う。





 目の前に大きな木製の扉がそびえている。

 ぼくとギイはお揃いのオフホワイトのフロックコート姿でその彫刻が施された扉の前に立っていた。
フロックコートは中世より伝わる伝統的な男子の正礼装で、膝まで伸びる長い着丈が特徴だ。
ぼくはともかく、背の高いギイが着るとすごく様になっていて、滅茶苦茶かっこいい。

 ぼくの目の高さにあるギイのは藤色のアスコットタイがギイの気品さを引き立てて、猫のようにゴロゴロ喉を鳴らしながら身体をすりすり擦りつけたいくらい、それはもう掛け値なしの美男子ぶりだ。

 一方、ぼくには普通に結ばれているように見えるギイのアスコットタイに対し、ぼくのはリボン結び──いや、これは蝶結びか?──の白いタイ。
ぼくもギイと一緒でよかったのにとか、衣装に関して「お任せします」なんて言わなければよかったとか、後悔しても今更遅い。

 ギイは「よく似合ってるよ」と言ってくれたけど、ぼくはこのヒラヒラはないんじゃないのかと思っている。
それでもブーケを渡されなかっただけ助かったとここは感謝すべきなのか。

 今、ぼくのうしろには佐智さんが、ギイのうしろには章三が立ち、ふたりはスタッフから最終確認を受けていた。
佐智さんと章三は付添い人として、これからぼくとギイのあとに続いて祭壇まで歩くことになっている。

「クソッ、緊張するな」
「思いとどまるなら今のうちだぞ。まだ間に合う」

「ばーか。誰がやめるか」

 ギイと章三が軽くジョブを繰り返し、ピンと張りつめた空気を少しだけ和らげた。

「葉山、顔色悪いぞ。だから早く寝とけって言っただろうが。
いくらバチュラーパーティだからって少しは後先考えろよ」
「すみません、返す言葉もありません」
「託生、気にするな。
ったく。おい、章三。どの口が言ってるんだ? もうちょっとって引き留めたのはどこの誰だっけ?」

「自分から飲みまくっていた奴には言われたくないね」

 相変わらず仲がいいと言うか、容赦ないと言うか。

「第一、パーティを主催したのは僕じゃないぞ。おまえのハーバード時代の友人たちだろが。
文句を言うなら、お開きの時間を考えなかった奴らに言え」

 いまだに無二の相棒が健在で何よりだと思う。

「託生くん、本当に大丈夫?」
「あ、平気です。何とか頑張ります」

──とはいえ、正直、徹夜はキツイ。
徹夜といっても、飲んで騒いだのは正確には午前四時くらいまでで、その後、二時間ばかり睡眠を取ったわけだけど……。

 緊張と眠不足で今にも胸やけを起こしそうだった。

 心配げにぼくを見つめてくる佐智さんは章三とお揃いの黒のテイルコートを身にまとっている。
ステンドガラスから漏れる光が幻想的な雰囲気を醸し出す中、佐智さんはいつにも増して清純で気高く見え、ギイとは違った輝きを放っていた。

 佐智さんがそこにいるだけで大丈夫な気がしてくるから不思議なものだ。
佐智さんがぼくの付添い人で本当によかった。

 ちなみにテイルコート姿の章三もそこそこキマッテル。
友人としての欲目かもしれないケド。

──何だかんだ言って、赤池くんだってそれなり……だし?

 それでもダントツに後光が差して見えるのはぼくの右隣りに佇むギイだろう。
カッコ良すぎて、気を抜いてしまうと、今にも「うわあ……」と声が漏れてしまいそうになる。
やばいやばい。

 このままじっくりと鑑賞していたいくらい、ぼくは心から感動していた。

──ぼくがこの人と結婚するなんて信じられないよ……。

「よろしいですか? そろそろお時間です。皆様お待ちですよ」

 先程から携帯を耳に当てていた日本人女性スタッフが、笑いを堪えながら合図をしてきた。

 緊張が再びその場を支配する。
顔の筋肉が引き攣っているのわかった。

 すると、カチンコチンのぼくをフォローするかのように、ギイが「繋ごうか」と手を握り締めてきた。
「うん」とぼくも強く握り返す。

 ぼくらはこれからふたりで歩いてゆく。
もしもウェディングドレス姿の新婦であれば、このタイミングで父親の腕に手を添えるところだろうが、ギイもぼくもどちらも男だから、どちらかがどちらかのところまで歩いていくということはせずにふたりで祭壇まで一緒に入場することを選んだ。

 この大きな木製の扉の向こう側で、それぞれの両親たちや近しい親族たちが式が始まるのを心待ちにしてくれているはずだ。

 重厚でありながらも清浄に澄んだパイプオルガンの音色が扉の向こうからかすかに聞こえてきた。
京古野さんが奏でるバッハの「主よ人の望みよ喜びよ」が教会の隅々まで厳かに響き渡り、ぼくたちの結びつきを祝福してくれているようで、もっとちゃんと聞きたくて目を瞑って耳を澄ます。

──心が洗われるかの落ち着いた音色。すごく心地いい……。

 それでも、刻々と近づく時間に胸がドキドキするのは止まらない。
まさに今、ギイとぼくの結婚式が執り行われようとしていた。

「ギイ?」

 ギイの手は少し冷たかった。そして少し汗ばんでいた。
右手がギイの緊張を伝えてくる。

 ぼくは英語が得意ではない。
でも、誓いの言葉をはじめとする今日の挙式中の台詞はすべて英語で通そうと心に決めていた。
これはぼくの決意の表れだ。

 心に決めていることはほかにもある。
結婚証明書には、「Takumi Hayama Saki」とサインしようと思っているし……。

──あ、その前にバージンロードで転ばないようにしないと。

 実はさっきから足ががくがくしてて、ちゃんと歩けるか心配だった。

──どうしよう、震えが止まらない。頭もはっきりしなくて、考えがまとまらない。

 世界が白く霞んで見えた。

「託生、大丈夫だから」
「う、ん……」

──そうだった。緊張してるのはぼくだけじゃないんだ。

 これはふたりの結婚式なのだ。
一生に一度の晴れ舞台だ、緊張しないほうがおかしいんだと自分で自分をを慰める。

──えっと、まずは誓いの言葉を言うんだっけ。あとは指環の交換をして……。
そうそう、サインだけは絶対間違えちゃまずいんだった。ミドルネーム、ミドルネーム……と。

 結婚後の名前についてはさすがにぼくもいろいろと悩んだ。
両親にとってぼくは今では一人息子だから、やっぱり葉山の姓は残しておきたかったし。
崎と葉山のふたつの姓をくっつけてひとつの姓とする複合姓(ダブルネーム)という方法もあったが、そこまでする必要性は感じられなかったのでやめておいた。
名家同士の子供が結婚する場合、複合姓を使う場合もあるらしいけれど、崎の家はともかく、葉山の家は名家でも何でもない。ただの一般家庭だ。
結局、ミドルネームに旧姓として葉山の姓を残すことを決めた。

 その代わりと言ってはなんだが、日本側に婚姻届を提出する際、ぼくは葉山託生のままでいようと思っている。

 これにはちゃんとしたぼくなりの理由があった。

 婚姻届を提出すると、ぼくは父の戸籍から離脱することになる。
日本人同士の場合、夫か妻かの姓を選んで、選ばれた姓の持ち主が戸籍筆頭者となるわけだけれど。
ぼくとギイの場合はギイが日本人ではないため戸籍はなく、戸籍の筆頭者はぼくとなる。
それにぼくがアメリカ人のギイと結婚したことが記載されるだけで、ギイがぼくの戸籍に入るわけではないのだ。

 それに、アメリカでの結婚後の姓は崎を選んだわけだし。
日本のほうも結婚後の姓は葉山でも崎でも構わないと言いたいところだったけれど、新しい戸籍はどうせぼくひとりだけだもの、だったら葉山のままでもいいんじゃないか、というのがぼくの見解だ。
何よりも、崎の姓でぼくが戸籍筆頭者になるのはどうも気が引けるというか。

 パスポートも名字の併記などの手続きすれば、葉山託生でも何ら問題はないらしいし、そのほうがぼくもいちいち改名した連絡を知り合いにしなくても済む。
ギイも賛成してくれたし。ほら、一石二鳥だ!

 名前を変えないことにしたと両親に知らせた時、はっきりとは言葉にしてはいなかったけれど、ナニゲに喜んでいるみたいだった。

 ギイとの仲を許してくれた両親だけど、わだかまりが全然ないというわけではないのだろう。
男同士の結婚が世間的に認められてきたといっても偏見を持っている人はいまだに多い。
男の伴侶を得ることでこの先ぼくが苦労しないだろうかと心配する両親の気持ちもわからないでもない。

──でも、きっと一番の心配事は、相手がギイだってとこにあるんだろうけど……。

 ギイが大財閥の御曹司でなかったら、両親の胃痛も今よりずっと少なくなっていただろうに。

 それでも、この良き日、両親をはじめとするみんながこの大きな木の扉の向こう側で、ぼくたちの入場を心待ちにしていてくれる。

 こうしてみんなに祝福されて、ギイとこの日を迎えられたことに、ぼくは心から感謝をしたい。

「幸せになろうな」

 至極の喜びがぼくの胸に満ち溢れ、ぼくは嗚咽しそうになるのを堪えなければならなかった。

 ギイの唇がが頬を掠(かす)めて、どんどん湧き出るぼくの想いを掬い上げる。
幸せが胸を焦がして、とても痛かった。

 ギギギ、と運命の扉が開き、清浄な教会の空気が流れてきたのが肌で感じられた。

 一気にパイプオルガンの音が大きく響く。

 高い天井がすべての音を幻想的に反響させていた。

 ステンドガラスの色鮮やかな光に混じって、ライスシャワーのような淡い日の光が教会の中に注がれているのが見える。

「託生、行こう」
「うん!」

 手を繋いだまま、ギイに倣って一歩を踏み出す。

 ギイの手に、またもやギュッと力が入る。

「大丈夫。いつまでも一緒だ」

 赤いバージンロードがひたすらに真っ直ぐ、ぼくたちの未来へと繋がっていた──。

                                                         おしまい


material * Sweety



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの222,222hits記念作品「駆け落ちは金のスプーンを咥えて」はいかがでしたでしょうか?

結婚式の準備に勤しみながら託生がギイとの未来を思案してゆく──。
その過程を私なりに楽しく書かせていただきました。

このお話のタイトルを決めるにあたって、少し迷いました(笑)。
例えば、英語のタイトルにするなら、「an eloper with a golden spoon in his mouth」って感じになるので、
雰囲気がガラって変わります。
ちなみに書きはじめた当初は「Runaway lovers」というタイトルをつけてました(笑)。
でも、Run awayは結婚を意識してない駆け落ちらしく、
結婚するつもりで駆け落ちするなら、elopeのほうが相応しいとのことだったのでボツ決定〜(笑)。
「駆け落ちは金のスプーンを咥えて」のほうが優しい印象を受けたのもあってこちらに決めました♪
私なりに気に入っているタイトルです。

このプロットを考えている時、ある日、テレビで世界各国の王子様を紹介する番組がやっていたのを見て、
このネタでギイをどうしても出したくてこの場面を入れてみました。
ギイだったら規格外(条件外とも言う(笑)?)で一位確実さって鼻息荒くしたのは私だけでしょうか?
楽しんでいただけたら何よりです♪

222,222hitsをゲットしたよしの。さま、素敵なリクエストをありがとうございました。
少しでも気に入ってくださると嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

最後に、このお話は、
原作「タクミくん」シリーズの文庫本「プロローグ」までの設定での未来編となっていることを明記しておきます。

by moro



moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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