朱里の一歳の誕生日から一ヶ月過ぎた夕暮れの美しい日、オーウェンは朱里を抱いて、宇宙港の出発ロビーに立っていた。

「養子にしたんだって?」
「きみらしくない勘違いだな。私は自分の子を認知しただけだよ」

「まさか実子にしたのか……?」

 上司でもあり、悪友でもあるボットナムが咎めるような目でオーウェンを見た。
鋭い視線は、目が少し潤んでいるためか、その威力は半減している。
いくら強張った顔を向けられても、相手が自分を案じているのがわかってしまう。

──隠しているつもりだろうがバレバレだよ。きみってば、意外に顔に出る性質なんだよねえ。
本人知らずにいるようだけど、そんなんでこれから先、うまくやっていけるのかい?
仮にも同期の中では一番の出世頭だろうに。そんな調子じゃ「仏被りの鬼」の異名が泣くぞ。

 顔を合わせれば嫌味のひとつやふたつ自然と出てしまう。
なのに突かず離れずの関係でいられたのは、こんなにゴツイ男のくせしてどこか憎めないかわいらしさがあるからだろうか。
オーウェンは心の中で溜め息をつきながら、小さく了承の頷きを返した。

「当然だろう? この子は私の子だよ。私には交際していた女性がいた。
女性は私に黙って子供を産んだ。だが、育てきれずに父親のところに子供を預けて忽然と消えた。
当時私も若かったからねえ。付き合っていたのが生憎ひとりじゃなかったのはまずかったなあ」

 子供の年齢からすると当時というのはおよそ二年前のことだな、とボットナムはざっと計算した。
目の前のオーウェンは自分と同じ年である。
自分もそうだが、孫がいても不思議はない年齢に二年を差し引いても、当時のオーウェンが若かったというのは土台無理がある話だ。
だが、そんなふうにボットナムが突っ込めば、「たかが二年されど二年だよ。思った以上に二年の差は大きいよ」と返されるに決まっている。
いつだったか八十歳で人の母親となった女性がニュースで騒がれた例もある。
オーウェンが父親となっても科学的には不可能な話ではない。

「突然赤ん坊を預けられたことも困ったものだが、母親を探すにもどの女性が私のところに預けていったのかわからないのにはさすがに参ったねえ。
それでも母親が特定できないとはいえ、この子はどうやら私の子に間違いないのだから、正式に認知するのは人道的にも当然だろう?
……まあ、そういうことだよ」
「何が『そういうことだよ』だ。その棒読みのような説明で俺が納得すると思ったら大間違いだぞ」

「きみが納得しようがしまいが関係ないさ。この子が私の子だという事実さえあればそれでいいんだ。
この歳になって言うのも何だが、子育てというものはしたことがなくてね。
結構これからが楽しみなんだよ。何しろ『我が子』だからねえ。特別かわいいよ。
そうそう、この子は朱里と名付けたよ。親友のところの子供の名に因んでね。
あの子の分までこの子には幸せになってほしいからねえ。
いいかい、ボットナム。これだけは覚えておいてくれ。
今後この子はフォースとして生きることになる。私は朱里に幸せになってほしいんだ」

「フォース? ああ、そうなるのか。だがなあ……、本当にそれでよかったのか?」
「それが朱里にとって一番いいんだよ。この子は未来なんだ。未来は絶対守らないといけない」

──生きる喜びも悲しみも、きみの息子が伝えていく……。そうだろう、仁?



『朱里はさ、未来なんだよ。
告知されたあの日、夢見ることをやめてしまった俺に、朱里はもう一度夢見させてくれるんだ。
生きてるってのは存在するだけじゃ駄目なんだぜ。わかるか、オーウェン。
ちゃんと明日を思えねえと無意味なんだ──』



──きみの言葉が今、支えになっている。

 ぎゅっと縋(すが)るように抱き締めてくる小さな身体に、オーウェンは心地よい重さを感じていた。
触れるところから伝わる体温が心まで温めてくれるのがありがたい。

──大丈夫。きみの息子は元気にしてるよ。約束する。この子だけは命にかえても守ってみせる。

 オーウェンはわずかばかり目を閉じて、無二の相棒に向けて心を届けた。

(とうさん)

 腕の中の子供ががオーウェンを呼んだ。

「ああ、そうだね、朱里。そろそろ時間だ。もう行かないと。──それじゃ、ボットナム。見送り、ありがとう」
「約束だぞ、定時連絡だけは欠かすなよ」

「わかってる。そっちもくれぐれも私たちのことは内密に頼むぞ」
「ああ。セリーア人とコンタクトとれたらすぐに知らせるから」

「頼むよ。──さあ、朱里、行こうか。きみも彼に挨拶しなさい」
(……ばいばい)
「また会おうな、朱里。元気でな。オーウェンの言うことをちゃんと聞くんだぞ。
待ってるからな。絶対いつか、このショルナに戻ってくるんだぞぅ!
おまえにはELGの親父の血が流れてるんだからな!」

 小さな男の子を抱いたオーウェンの背中がだんだんと小さくなっていくのをボットナムの目は追い続けた。
ふたりの姿がだんだんとぼやけてくる。
けれど大きく手を振り続けることはやめなかった。

 そして、完全にふたりがいなくなってひとり残された。
振り続けていたその手を下したボットナムは、「仁、おまえの息子が旅立っていくぞ。これでいいんだよな……」と破天荒で生意気な、でもどうしても憎めなかった部下を想って呟いた。

 この日、惑星ショルナの中央宇宙港の管理システムのデータに、レトマン姓を持つ親子の出国記録が残った。

 そして再び、朱里・レトマンが惑星ショルナの大地に降り立つまでに、七年の歳月を要することになる──。


きみが片翼 -You're my better half- vol.14



 朱里の一歳の誕生日を一週間後に控えて、初めての愛息の誕生祝いに相良家は活気づいた。
当然のごとく陣頭指揮を執ったのは、一番口達者なリリアだった。

「さあ、とことん料理をしてちょうだいな! 思い残すことないくらいにおいしく豪華に仕上げるのよ!」
「おいおい。誕生日はまだ一週間も先なんだぜ。今から料理してどうしろってんだよ」

「だぁって朱里の初めての誕生日なのよ。失敗は許されないんだからぁ。
ケーキだって、練習用に何回か焼いてくれたっていいじゃない」
「なあ、自分で焼いてみようとは思わないねえのか? かわいい息子のためによお」

「何のために父親がいるのよ。それにこういうときこそ点数を稼がないでどうするのよ!。
父親の愛情をケーキの出来具合で表現しようって気はないの?
だいたい先の短いあんたのためを思って言ってるのよ、わかる?」
「あーはいはい」

 あくまでも準備はすべて人任せ。リリアらしいと言えばリリアらしかった。
仁がリリアの徹底ぶりに感心しながら諦め気分で肩を竦めると、愛妻に見とがめられてギロッと睨まれた。

「うわ、こえっ」
「フン! お誕生日、楽しみだねえ、朱里ぃ。豪勢で完璧な美しいケーキでお祝いしようねー。
でもケーキは何度食べてもおいしいわよねえ?」
「まぁま」

 我が子をあやすリリアは天使のように愛らしい。
朱里はそんな母に手を差し伸べて、もっと高く抱き上げてくれるよう愛くるしい笑顔でねだった。

「そうそう。パパがすっごくおっきくてほっぺた落ちちゃうくらい美味しいケーキを腕によりをかけてこれから作ってくれるからね〜。楽しみにしてようね」
「ぱぁぱ」

 リリア似でもある朱里に笑顔を向けられてはいつまでもごねていられるわけがない。
仁は早々に手をあげて降参の手振りを示した。

「……わかったって。今日のおやつは苺のケーキでいいんだろ?」
「そうよぉ。最初から素直に作ればいいのよ。ほらあ、朱里。パパは何でも作れちゃうのよ、すごいでしょ。
さっすがはわたしの夫よね。さあ、朱里とママはパパの邪魔をしなように向こうで遊んでましょ。
──それじゃ、あとはよろしくお願いします」

 最後の言葉は介護士に向けてのものだった。
二か月ほど前から相良家には看護師と、家政婦を兼ねた介護士が三交代制で常駐している。

「はいはい。お任せください。きっと旦那様は素晴らしいケーキを作って下さいますわ。楽しみですわね」

 仁の容態は今のところ大きな変化はなかった。
だが、以前に比べて風邪をひきやすくなった。そして一度風邪をひくとなかなか治りにくかった。
体調が悪い時は家事も満足に出来ないありさまだ。
介護士は朱里の世話に加え、そんな仁の補助も合わせて引き受けてくれた。
お蔭で仁の負担は随分減った。

 仁の料理の腕はみんなの知るところであり、体調がすぐれない日以外は毎日台所に立っている。
そういうところは以前の生活と何も変わらない。

 だが、そんな相良家の日常は平穏であってどこか不自然で、オーウェンには、仁もリリアも少しの変化すら避けているように見えた。
実際、オーウェンはこの特殊な家庭の幸せな日々をつぶさに見守ってきた人物だった。
「研究所のほうは大丈夫か?」と仁が心配するほど頻繁に顔を出すので、常に食事は、大人五人分と朱里の分が毎回用意してあるくらいだ。

 相良家一番の人気者の朱里はしばらく前に離乳食を卒業していた。
香辛料の効いた料理は極力与えないようにしているが、今では基本的には大人と同じ食事を食べている。

「これで飯作るのがメッチャ楽になったぜ」

 朱里の離乳食卒業を一番喜んだのは仁だった。
当然である。台所という最前線で常に奮闘していたのは仁だったからだ。
離乳食を作る手間がなくなることは調理に拘束される時間が短縮されるということだ。
介護士には主に掃除や洗濯を頼み、趣味と実益を兼ねて仁が台所に率先して立つのが現在の相良家の日常であり、介護士に食事の支度を任せなかったのは、ひとつにリリアの希望があったからだった。

 リリアが一番おいしいと感じる料理は仁が作るものだった。
介護士が作った料理がまずいわけではないが、リリアの好みではないため、「どうしてもチビのがいい」とリリアは我がままを通した。
それはリリアなりの甘えだった。

 仁としては台所に立つのはあまり苦ではなかったのだが、朱里の離乳食と同時進行では使用できる食材や料理法に制限が多くなり、離乳食を基準にメニューを考えるとどうしてもリリアの舌を唸らせられるほどの料理に挑戦することもできない。
仁の作る離乳食は看護師や介護士たちの尊敬を一身に集めたが、仁にしてみれば自由気ままに作る楽しみが半減していたは確かで、ここしばらくは腕を振るいたくても振るえない歯がゆさを時々ストレスに感じていた。
朱里が大人とほぼ同じものを食べられるようになるということは、そのストレスから解放されるということである。
仁は知らず知らず腕まくりしていた。

 相良家に常駐するようになった当初、介護士たちは仁が料理を担当することに戸惑っていた。
だが、次第にリリアの性格と仁の料理人として腕前を理解すると、心から納得して、喜んで食事関連の仕事を完全に放棄してしまった。
その代りと言ってはなんだが、彼女たちは食事の後片付け全般をすべて引き受けてくれた。
それだけでも仁の負担は大きく減ったのだった。

 相良家に介護士だけでなく看護師が常駐しているのは、仁だけでなく、リリアの調子が最近思わしくないからだ。
二度目の流産はリリアの体力を想像以上に削いだ。
その後の体調もあまりよくなく、先日から普通に起きて生活できるようになったリリアだが、以前に比べると少し動くだけで疲れやすくなったようで、ウトウトと浅い眠りを繰り返したり、ぼんやりしている時間が増えていた。

 そんな相良家の日常の中で朱里のあどけなさは一条の光となって大人たちの心を和ませた。
両親の努力の賜物か、一歳を間近に迎えた朱里は銀河標準語を片言ながらしゃべるようになり、α類でのテレパシー・コミュニケーションも仁と少しずつ交わせるようになっていた。





 その夜もオーウェンが夕方から相良家を訪れ、当然のように一緒に夕食のテーブルに着いた。
いつもは宵のうちに寝てしまう朱里がその日は珍しく遅くまで起きていて、とても賑やかな夕べとなった。
夜が更け、朱里が遊び疲れたのを見計らって仁が寝かしつけようとしたのだが、ベッドに横たえると朱里は目をあけてしまい、途端にぐずって泣き出す始末。
その繰り返しで、その日、仁はかれこれ三時間ほど朱里と格闘する羽目に陥っていた。

 看護師と介護士がおやすみの挨拶をして夜勤の者と交代して帰っていく。
基本的に夜の間は緊急時に備えての待機状態となり、彼女たちは交代後は朝まで自室で休憩するのが慣習化していた。

 オーウェンが居間でお茶を飲んでいると、リリアがやってきて、そっと向かいのソファに腰と下ろした。

「今日の朱里はなかなか寝ないねえ。どうしたのかな」

 いまだ寝室から戻ってこない仁を思って、オーウェンが廊下へと続くドアを見て言うと、
「きっと興奮してるのよ。すっごくおいしくて立派なケーキだったもの。
三段ケーキなんて、わたしも初めて見たわ。チビってばホントに何でも作れるわよねえ」
リリアは今夜のデザートに出てきたケーキを思い出したのか、幸せそうに笑った。

 リリアが美味しいとおかわりするほど美味しかった仁特製ケーキは一見したところ、リリアのリクエスト通りの、苺と生クリームをふんだんに使ったケーキ屋でよくみる、いわゆる苺のケーキだった。
だが、ケーキ作りの基本をばっちりと押さえて作ったと言わんばかりのそのケーキは、フォークで切り目を入れた瞬間、薄くスライスした新鮮な苺と甘酸っぱい苺クリームと苺ムースがふんわりと焼かれたピンク色のシフォンのスポンジの上に重ねられ、仁らしい工夫が凝らされた特製ケーキだとわかる。
その赤とピンクの濃淡でできた縞模様の層はプロの製菓職人も真っ青の美しい出来栄えで、味見する前から美味しいと思わしめる完成度の高さを見せた。

「仁はあれで完璧主義者だからねえ。それにきみに我がまま言われるの、意外と好きだから」
「そりゃあ、わたしはチビの奥さんだもの。大切にしてもらわなくっちゃっね♪」

「……朱里よりも?」
「朱里よりもよ! 当然でしょ? ……あなたって時々いじわるになるわよね、オーウェン」

「そうだよ、私は基本的に優しくないからね。気に入ったものだけ大切にする性質なんだ」
「そうよねえ。そういうところ、わたしと似てるわね」

「う〜ん、きみに似てるのは勘弁かなあ」
「あら、どうして?」

「いや、きみには負けるって思ってるから。っていうか、思っていたいから、かな」
「ほーんとナニゲに失礼よねえ」

 リリアが口を尖らせて拗ねると、ははは、とオーウェンは声を立てて笑った。
その笑いがおさまると、渇いた喉を潤しにかかった。

 会話が一時途切れて静寂が満ちた部屋にオーウェンが立てる茶器の音がほのかに響いた。

「──ねえ、オーウェン。私、絶対帰らないからね」
「え?」

「チビが話したんでしょう? 朱里のこと。私、絶対朱里と離れないから。
だってチビの子なのよ。手放せるわけないじゃない……っ」

「リリア……」
「オーウェン、わたしね。つくづくチビと結婚してよかったって思ってるの。
あの時、諦めないでよかったって」

「うん。仁もすごく幸せそうだ」
「……でも、幸せすぎて時々怖くなるのよ。
いつかはチビがいなくなってしまう……。それがわかってて今の幸せを手に入れたけど……。
あの時だって本当はわかってたようでわかってなかったのよ。
怖いわ、オーウェン。わたし……、まだ覚悟ができてないの……」

「うん。わかるよ。私だって同じだからね。でもこれから私たちは徐々にでも覚悟をしなければならない。
それはわかるよね?」
「……ええ」

「少しずつでいいんだ。そんなに急がなくてもいいんだよ。
仁はまだ元気なんだし、本人、まだまだ簡単にはくたばらねえって吠えてるしね。
実際、まだ時間はあるんだ。だから、きみも私もこれから少しずつ気持ちを整理していこう。
仁はきみのことよくわかってるよ。きっと誰よりもね。
だから、リリアの気持ちが固まるのだって手伝ってくれるさ。
仁が愛妻家なのは誰もが認めるところだからね」
「……そう、よね。チビはわたしにゾッコンですもんね」

「そうそう、その意気だよ」

 相良家は、一見、順風満帆に見え、実際、毎日が美味しいご飯と楽しそうな笑い声に満ちていた。
だが、その実、いずれ訪れる別れの日が忍び寄る足音に怯えている。
どうか今日と変わりない明日が来ますように。
そう願う夫婦の想いがオーウェンにはひしひしと伝わってくるのだった。

 日付が変わる前に仁が「やっと寝てくれた」と言いながら戻ってきた。
相当疲れたのか肩を拳でとんとん叩いている。

「お疲れ、仁。じゃあ、私もそろそろ失礼するよ」

 オーウェンは帰る前に朱里の寝顔を覗き込むと、「おやすみ。朱里、いい夢を」と桃色のぽっちゃりとした頬をほんの軽く突いてから玄関に向かった。

「おやすみ、仁。リリア」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「おやすみなさい」

 オーウェンを見送って、自分たちもベッドに入ろうと仁はリリアと一緒に朱里が眠っている寝室に向かった。

 明日の朝は何を作ろうかと頭をめぐらしながら着替えようとした時、聞きなれない物音が耳に入って、パジャマを持つ手がはたと止まる。

「何か聞こえなかったか?」
「梟の鳴き声か何かじゃないの?」

「いや、そういうんじゃ──」

 仁は最後まで言えなかった。
仁が言い終わらないうちに来訪者を知らせるセキュリティアラームが鳴り響いたからだ。
瞬間、朱里もむずって泣き出した。
その大音響にまるで合奏するかのように泣く朱里は手足をバタつかせて、何かを追い払おうとするかのような仕種を繰り返した。

 すぐさま、「失礼します」と慌てた声で看護師が顔を出してきて、「こんな時間にお客様でしょうか?」とこんな夜分に不謹慎な、と憤慨する気持ちを隠すように眉を寄せた。

「どうやらおたくの恋人が夜這いに来たってわけでもなさそうだな。
……ほら、朱里、落ち着け。大丈夫だ」
「当たり前です。相手もいないのにそんなことあるわけありません」

 朱里をあやしながらの仁なりの軽い冗談はどうやら不発に終わったようだった。

「もしかして誰か道に迷ったのでしょうか」
「こんな郊外にわざわざ来る人なんている? 夜行性の野生動物が防犯センサーに引っかかったとか?」
「小動物程度じゃセンサーは反応しねえよ」

 だとしたら、この非常音は何事だろう。

「セキュリティを確認するぞ」

 敷地内のカメラ画像はすぐに出た。不審人物のシルエットを映し出している。
暗視カメラに切り替えると、長髪長身の人物が浮かび上がった。
身体の線からしてどうやら男のように見えた。

「知った顔かどうかはこれじゃわかんねえなあ」
「映りが悪いわね。もっとよく見れないのしら」

 ところが、すぐさまそんな悠長なことは言ってはいられなくなった。
すぐに別のセンサーが鳴り出したのだ。

「何ッ! 向こうは生体反応センサーを持ってるってか? マジかよ」

 生体反応センサーは生物の心音を察知して反応する、闇の中であろうと生きているモノの位置を特定できる分析装置である。
死んだばかりの遺体にいくら人肌の体温が残っていようが、「生存反応」を認めなければ反応しないところが、物体の温度分布を色分けして表示するサーモグフラフィーと大きく違うところだった。
生体反応センサーは主に軍事や防犯を目的に使われており、現在主流に流出している型は一部改良の余地があると言われている。

 生体反応センサーから発信されるセンサー信号は、一度に複数の時間差がある超音波で形成されており、対象物に反射して返ってきたこの信号を受信するときに生まれる雑音にあたるものが特殊な超音波を生み出すのだった。
侵入者がセンサーの保持の有無は、その微量に発信される特殊な超音波を調べればわかることである。

「あれは一般市民が持ってるようなもんじゃねえ。
使用目的は、特定人物の生存確認か、標的者もしくは監視者の位置確認か。
どっちにしろ穏やかじゃなさそうだな」

 仁は環境庁に緊急連絡を送ろうとした。
するとその時、「チビ、あの人セリーア人だわ」とリリアが仁の腕を握ってきた。

「セリーア人? おまえの知り合いか?」
「いいえ。知らない人だわ。それに何だか様子がおかしいみたい。
β類でさっきから同じことを繰り返しているの。
こちらからも声をかけているんだけど全然反応しないし……。どうしたのかしら」

 リリアはセリーア人の男の<声>の内容を仁に伝えた。

<追え。捕まえろ。攫え。セリーア人の女と子供。邪魔する者は排除。
力の制御。殺してはならぬ、女と子供。傷つけるな、女と子供……。
追え。捕まえろ。攫え。セリーア人の女と子供。邪魔する者は排除。
力の制御。殺してはならぬ、女と子供。傷つけるな、女と子供……。──>

 意味するところはそんな感じらしい。

「何だそりゃ」

 仁はリリアを見て、それから腕の中の朱里を見た。

「捕まえろ? 攫え? だから生体反応センサーってか? クソッ、冗談じゃねえぞ」

 相手がセリーア人ではどんな武器で対抗してもほとんど効果は得られないかもしれない。
咄嗟に判断した仁は、看護師と介護士に素早く指示した。

「最優先はここからの避難だ。とにかく人の多いところに逃げろ!」

 仁は突然起こされてぐずる朱里をリリアに預け、いくつか看護師たちに指示を出しながら、自分は緊急回線を開いた。
謎のセリーア人の出現について環境庁に連絡しおえると、短い時間で必要最小限の荷物をまとめてからリリアの手首を掴んで「逃げるぞ!」と叫ぶ。

「逃げる? わたしたちも?」
「当然だ。あいつが狙っているのはおまえと朱里だ。
この家はレーザー系の武器の使用は無効になるが、セリーア人にはそんなの効かねえ。
だからまずは生体反応センサーから逃げる。
あの手のセンサーは生存反応だけで個別判別までは不可能のはずだ。
街に入ればおまえたちの特定なんかできねえよ。街には女も子供も大勢いるからな。
あのセリーア人がどんな目的でおまえたちを狙っているかはわからねえが、様子がおかしいことには変わりねえ。
おまえは本調子じゃねえし、応戦するのは無理だ。だから逃げる。行くぞッ!」

 朱里を抱いたリリアを背後に庇いながら、仁は裏口から出た。
周囲の緊張が伝わったのか朱里が再び泣き出したので、仕方なくリリアに、「このままじゃまずい」と囁く。
人の多い場所に逃げ隠れても、朱里のβ類の<声>を拾われたら、セリーア人の子供の位置が特定されてしまう。

 リリアは仁の言いたいところを察して頷いた。
リリアが朱里の胸に手を当てると、一瞬のうちに朱里は静かになった。
ぐったりと眠るように小さな身体から力が抜けている。

 どんなに不憫な処置だろうが、この際、そんなことなど言っていられない。

「少しの辛抱だ。急げ」

 看護師たちはすでに先に逃げ出したようだった。
惑星ショルナのふたつの衛星の月明かりに照らされた彼女女たちの背中が菜園の向こう側に小さく見える。

 何が何だかわからないまま、とにかくここにいては危険だと訴えてくる本能に従うように、仁はリリアの手を握り締めて月夜の中を駆け出した。

 だが、走り出した途端、目の前およそ三歩先に、長い槍のようなものがヒュンと大きな音を立てて飛んできて地面にズブリと突き刺さった。
三人の行き手を阻むもの──それはよく見ると園芸用の支柱パイプだった。
深々としっかりと地面に突き刺さるそれを見て、先端が丸みが帯びていていても、尋常でない速さで投射されれば武器となることを改めて知らされた思いだった。

 地面に突き刺さった支柱パイプを避けて先を進もうとすると、別の支柱パイプがまた飛んできた。
どうやら敵はあくまでも行く手を遮(さえぎ)るつもりのようだ。

 支柱パイプの威嚇攻撃は二度三度繰り返えされた。
仁たちは攻撃を避けるためにジグザグに走った。
だが、四度目のそれを避けるのは間に合わなかった。
咄嗟に仁は妻子を庇うように覆う。

「ぐはっ」

 仁の大腿部に支柱パイプが突き刺さった。
仁は地面に倒れ、苦痛に声を殺して呻いた。一瞬、頭の中が白く霞む。

「いやぁー!!!」

 リリアが悲鳴をあげた。
その夜を切り裂くような声に仁は意識を取り戻して、痛みを堪えながら覚悟を決めて振り返ると、セリーア人の男は裏口からゆっくりと姿を現すところだった。

 貫通した支柱パイプが邪魔で立ち上がるのが辛い。
月明かりが、右の大腿部から流れる血を黒く見せていた。

 油汗が仁の額をすべり落ちた。激痛に身体中が悲鳴を上げていた。
頭がどうにかなりそうだった。
ふらつきながらやっとの思いで男に向き合うと、仁は言い放った。

「俺たちに何の用がある……? なぜ俺の妻と子供を狙う……?」

 だが、セリーア人の男からの返事はなかった。仁はα類に切り替えた。

(おまえの目的は何だ。どうしてふたりを狙う?)

 すると、男は反応した。

(女と子供を渡せ。渡せ……渡せ……渡せ……。邪魔をすれば殺す……)

 リリアがぐっと喉を鳴らした。

「どうして! こんなことっ! わたしはあなたなんか知らない!」

 見るとリリアは泣いていた。

「許さない! 正気じゃないわ!
いい、チビ。わたしがあいつを拘束する。その間に朱里を連れて逃げて」
「馬鹿言うな。おまえこそ逃げろ。瞬間移動できるか? 俺が時間を稼ぐから、朱里を連れて先に行──」

 裏口にいた男の姿が消えた。次の瞬間、リリアのすぐそばに立っていた。
男の手がゴムのように朱里に伸びる。リリアが身体を捻って逃げを打った。
仁は荷物の中からレーザー銃を取り出すと安全装置を外し、セリーア人の男に向けて躊躇なくトリガーを引いた。

 バーンッと大きな射撃音が周囲の樹林に響いた。
バサバサと鳥の羽音が空に消えてゆく。

 肩を打ち抜かれた男はゆらりと体制を崩した。
仁はその間に大腿部を貫通している支柱パイプをレーザーナイフで短く切った。
仁の医学知識が引き抜くことを諦めさせたのだ。
パイプを抜いた途端、血が噴水のように湧き出るのが目に見えていた。

 セリーア人の男が立ち上がった。ぎろりと仁を睨みつけてくる。

「逃げろ、リリア! 朱里を抱いてじゃこっちが不利だッ!」
「いやよ、あんたをおいて行けるわけないでしょ!」

 セリーア人の男が再びリリアを狙ってしきりに手を伸ばそうとしてくる。

 男のその様子を見て、仁は思った。

──こいつ、リリアを掴んだら、そのまま瞬間移動するつもりかッ!?

 仁はレーザー銃でセリーア人の頭を狙った。
この時ばかりは、ELG失格と言われようが、相手がどんなに貴重種だろうが関係ねえっと心が叫んでいた。

──即死させる! こいつには渡さねえッ!

 だが、レーザー光線は湾曲を描いて男を避けた。

 仁は一瞬、驚きで呆けた。
だが、相手はセリーア人だったと思いだし、シールドを張ったのだと理解した。
レーザーが駄目ならばと仁はサバイバルナイフを取り出した。

 その間も朱里を抱くリリアにセリーア人の男の手が伸びていた。
男の腕を叩ききるつもりで仁はナイフを振り下げる。
だが、男は仁の殺気を感じたのか咄嗟に手を引き、方向を変え、仁のナイフを握る右手首を掴んできた。
瞬間、肉片と血が飛び散った。
サバイバルナイフが音を立てて地面に落ち、仁の叫び声が辺り一面に響く。

「んがぁっっ!!!」

 仁が右手首を庇うようにして、もがくように地面に転げ回る。
すでに右手首の先は原型を留めていなかった。
腕が真っ赤に血に染まっていた。
右大腿部からの出血も増して、仁はまさに血だるまだった。

「チビッ、チビッ、チビ……、いやあ、ジンーーーーーーッ!」

 リリアの瞳に映ったのは、粉々に砕け散った仁の右手首だった。ほとんど手首から先がない。

 仁が叫んだ。

「リリアぁっ、飛べッ! 朱里を連れて移動しろ! 俺に構うなッ!」
「いやっ、いやよ! あんたと離れるのはいやぁっ! まだ大丈夫って言ったじゃない!
わたし、まだ覚悟なんてできてないッ!」

 男がリリアに近づいた。
リリアの腕の中の朱里に視線を向けて手を伸ばす。
膝立ちした仁は気力でもって男の足にしがみついた。
男が前のめりに倒れたのを見計らって、仁はリリアに近づこうと力の限り地面を蹴った。

「チビッ!」

 仁の身体がどさりと地面に崩れ落ちた。

「リリアっ! 朱里を連れて移動しろ!」
「無理よ! ふたりいっぺんには今のわたしには……」

「だったら先に朱里を飛ばせッ! 早くッ!」
「チ、ビ……」

 リリアと仁の視線が絡まった。
まっすぐ自分を見てくる仁にリリアは大きく頷いて、
「朱里、無事で……」
一度だけぎゅっと朱里を抱きしめると、高々と夜空に向けて掲げた。

「行けぇぇぇぇっ! 朱里ぃーーーーっ!」

 朱里が消える瞬間、仁は叫んでいた。それは身を切るような叫びになった。

 リリアがはっと息を飲んで目を見張った。
リリアの視線の先で、男は立ち上がり、地面に落ちたレーザー銃を拾っていたのだ。

 銃口が仁を狙う。

「やめてぇぇぇぇぇっ!」
「ぐぁはっ」

 リリアの声に振り返った瞬間には、仁はすでに撃たれていた。
反動で仁の上半身が仰け反った。
腹部を抱え込むようにくの字に曲がった身体から血が滴り落ちるのが感覚でわかった。
心臓の音がいやに大きく聞こえる。

──腹、イテぇ……。ってっか、イテぇのは身体中か……。くっそ……。

「畜生……っ! 俺はなあ、先がねえってわかっちゃいるが……。
そンでも! こんなところで死ぬわけにはいかねえんだよっ!」

 仁は腹部を抱えながらじりじりと片足で地面を移動し、近くに落ちていたサバイバルナイフとレーザーナイフを左手で掴み拾った。
片方は腰に差す。

「リリア、俺が隙をついたら……、今度はおまえが飛べ。わかったな!」
「いや、いやよ……」

 頭(かぶり)を振るリリアに、仁が仕方なさそうに笑った。

「頼むから俺の言うことを聞いてくれ。最後の願いだ。いいな、我がまま言うな……」
「そんな願い事なんて聞かないッ! 私がシールドを張るから……、だからお願い。
救援が来るまで我慢して……」

 リリアの提案は仁にとってもとても魅力的な提案だった。

 だが、仁にはわかっていた。
近頃のリリアの体調を考えると、長時間シールドを張れる体力はおそらくないだろうということは。
仁は賭けに出るしかなかった。

 セリーア人の男がレーザー銃を構えた瞬間、仁は打たれるのを覚悟でサバイバルナイフを男の眉間に向かって投げた。
仁は両利きだった。本来ならば左手でも十分狙えたはずだった。
だが、右手首から先の粉砕、右大腿部の負傷が影響してか、狙ったところにナイフは飛ばなかった。
それでもナイフはセリーア人の男に向かって風を切って飛んでいった。

 男は大型ナイフの加速を念動力で強制的に停めた。──が、仁が狙っていたのはその瞬間だった。
引き摺る足を大きく前に踏み出して、腰に挟んでおいたレーザーナイフを振り上げ、男の肩から胸に向かって切り裂いた。

「ぐがぁぁぁぁぁぁっ」

 形相を崩した男は二度三度ふらつきながら後退した。
痛みに呻きながら、手で目を擦っている。血しぶきが目に入ったのだろうか。
あの目に視線を集中されたらおしまいだと仁の本能が告げていた。

 仁は男の視線を避けるようと身体をよじったが足の自由が利かなかった。

 仁が躓いて地面に伏す。男の狙いが仁に集中した。
仁は殺気が自分に向けられているのを察して、痛みを我慢しながらゴロゴロと地面を転がる作戦に出た。
だが、突然、その回転の勢いは見えない力でもって強制的に止められた。
途端、左足に火がついたような痛みが走る。

「ぐあっはぁ……」

 見れば支柱パイプが、今度は左の脹脛を貫いて、地面に突き刺さっていた。

「チビっ!」 

 リリアが仁を求めて手を伸ばした。

「来るなっ!」

 男が仁のそばまできていた。

 仁はリリアを一瞥すると、「チッ」と舌打ちして、痛みを堪えながら腹筋で起き上がった。
途端、穴の開いた腹部から血が噴き出てくる。

「ああ、チビ! お願い、死なないで!」

 我慢の限界を超えたリリアが仁の背中に縋り付いた。

 血の匂いで蒸せる夜、緊張の糸を張りつめながら、仁は妻が寄り添い触れた場所に熱がこもるのがわかった。
その接触した身体に意識を集中して、もしかしたらこれで最後になるかもしれない、そう覚悟して言葉を伝えた。

(いいか、リリア。よく聞け。俺が囮になる。だから頼む、今度こそ逃げてくれ……。
朱里を頼んだからな。いいな!)

 男がリリアに伸ばした手を仁は乱暴に振り払った。痛みを振り切って力いっぱい片足を蹴る。

「こんの、やろうぉぉぉぉぉっ!」

 セリーア人の男が放つ見えない凶器によって、仁の頬は切り裂かれ、血が噴き出た。
腕や足の皮膚も切り刻まれ、赤い飛沫(しぶき)が地面を赤黒く染める。
だが、仁の特攻の勢いは止めなかった。
仁はほとんど男の胸にぶつかるように飛び込んでいった。

 ぶすりと肉を突き刺す音がリリアの耳に届いた。
目を凝らせば、男の背中からレーザーの刃が付き出ているのが見えた。

 傷ついた際、地面に転がりながらもレーザーナイフを手にした仁はレーザーのスイッチを切って柄を男から隠すように握り締めて、一千一隅のチャンスを狙っていたのだ。

 男はふらりとよろけ、呆けたような顔をした刹那、ギャーと叫んでまるで手品のように姿を消した。
一瞬のことだった。

 瞬間移動したのだと、自分たちは助かったのだと仁が認識できるまで数秒かかった。

 気持ちが落ち着いたと同時にぐらりと身体が崩れ落ちる。

「チビ、チビ、大丈夫……?」
「……正直、あんまり大丈夫じゃねえな……」

 地面に仰いで倒れた仁は痛みを耐えながらも、愛妻に笑い返した。
リリアが頬に手を当ててくる。

──ああ、あたたかい……。

 これこそが、生きている証だ。
仁は胸の奥底から湧き出る力強い幸福感に眩暈がしそうだった。

「俺、おまえを守り…抜けたのか……? 馬鹿女……、逃げろっつった、のに……」
「もうしゃべらないで。すぐ救助が来るから。さっきオーウェンとも連絡が着いたの。
だから安心してこのまま動かないでじっとしてて。じゃないと血が……」

 仁は自分の身体の状態をほぼ完全に把握していた。
どれだけ血が流れ出たのかも、今の自分がどれだけ厳しい瀬戸際にいるのかも、医学知識のある仁にはわかっていた。

 リリアに声を掛けようとしたが、口が動かないことに気が付いた。
どうやら唾すら飲むのも難しそうだ。

 声はもう出せない。
だから、仁は気持ちを集中させて心を飛ばすことにした。

 本当は本人に会って、もう一度直接頼みたかった。
だが、それはもう儚い夢だ。
それでもせめて、言葉だけでも、伝えたい──。

(あの約束、守ってくれよな……。朱里を頼んだぜ……。オーウェン……)

 瞑っていた目を開けると、髪を乱したリリアの顔がすぐ近くにあった。
きめ細かい肌が輝いて見える。
リリアの身体はまるで内側から光を溢れさせているかのように綺麗に輝いて見えた。

 抱きしめられているのだと気づいたのは、自分の頬が温かいもので濡れているのがわかったからだ。
リリアは泣いていた。次から次へと泉のように湧き出る涙が、とめどめもなく頬を、顎を伝っている。
ぽたぽたと、仁の頬へと落ちてくる。

(泣くなよ……。かわいい顔が台無しだぜ……。おまえにはいつだって笑っててほしんだ……)

 抱きしめ返したくてももう腕に力が入らない。
乱れたその髪、撫でてやりてえ。そう思っても、身体が言うことをきかない。

 聞こえるのはざわざわした音。
そして、自分の名前を呼び続けるリリアの声。

 最後に見たのは、涙に濡れた乳白色の瞳に宿る自分の笑顔だった──。





 緊急の呼び出しがかかったのは、入浴の準備を整えようとした時だった。

 直属の上司にあたるボットナムからの通信に、ふいに沸いた嫌な予感を振り払いながら、オーウェンは飛びつくように出た。

「私だ。こんな夜更けに何の用だ?」
「オーウェン、落ち着いて聞いてくれ。さっき仁から緊急連絡が入った」

「仁から? まさか……」
「いや、体調が急変したとかではないようだ。
信じられないことだが、あいつが言うには、どうやら正体不明のセリーア人の男が現れたらしい」

「セリーア人?」
「ああ、そうだ。それにそのセリーア人だが、生体反応センサーを保持してるんだそうだ。
なあ、オーウェン。それだけでもきな臭い話だと思わないか?」

「生体反応センサーだなんて、きな臭いどころの半歳じゃないだろう!」
「当然だな。軍はすでに動き出した。おまえも大至急、仁のところに向かってくれ」

「了解した。ところできみはその後も仁には呼びかけているのか?」
「もちろんだ。だが自宅に連絡しても梨のつぶてだ。連絡は最初の一度きりのみ。
心話で呼びかけてもうんともすんとも言ってこない。
どうやら意識を解放していられる状態ではないのかもしれん」

「それは……、仁が極度の緊張状態にあるということだな?」
「そうだ。私もこれから現場に向かう。どちらにしろ、向こうに行けば何が起こっているのかわかるだろう」

「私も急ごう。では向こうで会おう」
「ああ。では切るぞ」

 部屋を出て、オーウェンは一目散に車に向かった。
だがその時、(オーウェン)とリリアの声が頭に響いた。

「リリア?」

(助けて、オーウェン! 救援を呼んで! 早くっ!)

 雷が降ってきたかのようなリリアの声の中に、『空』のイメージがこめられていた。
それに誘われるように視線を上げる。その瞬間、目の前に何かが発現した。
一瞬の間をおいて、宙に浮かんでいたそれは重力に従って落ちてくる。

「うわっ」

 条件反射でもってオーウェンは両手で掬い上げるようにしてそれをしっかりと受け止めた。
突然の未知の物体の出現にも驚いたが、もっと驚くべきはその正体だった。

「え……、朱里? なぜここに……」

 朱里はぐっすりと眠っているようだった。
突如現れた親友の愛息を見つめながら、オーウェンは信じられない気持ちで自問自答をした。
そして、なぜか違和感がひしひしとオーウェンを付きまとっていた。
不安がどうしても拭えない。

 ざっと確かめた感じでは朱里に怪我はないようだった。
リリアが瞬間移動で送ってきたのだろうか。

 オーウェンは朱里をじっと見つめた。

──なぜだ? 朱里を送ってくる理由がわからない。

 朱里を受け止めてからそのおよそ一分という短い時間は、オーウェンにはとても長く感じられる一分間だった。

 だが、自分の感じた違和感の原因に気づいた時、オーウェンの顔からは完全に血の気が引いていた。

「朱里、朱里。起きなさい。ほら、朱里、目を開けて。起きるんだ」

 肩を叩いても、揺さぶっても、いくら声をかけても朱里は目を覚まさないのだ。
手首や首筋に指を当てて脈動を確認しようとするのだが、幼児の身体は小さすぎて脈管の場所がずれているのか脈が取れない。
これまで培ってきた経験すら小さな身体相手では勝手が違う。
小さな胸に耳を当てても、鼓動の音がまったく聞こえない。
オーウェンは息をするのを忘れるくらい慌てた。

 まず頭に浮かんだのはリリアが出産するときに世話になった女医の顔だった。

──落ち着け、落ち着くんだ。あそこには朱里のデータがどこよりもそろっている。
とりあえず朱里の症状を確認するのが優先だ。

 その後、オーウェンは自動操縦で車を第一官庁メディカルセンターに向かわせた。
移動中、朱里に気道確保の処置を施し、心臓マッサージを繰り返しながら、α類の心話で自分の行先をボットナムに知らせるために意識を集中する。
離れた場所にいる特定に対象者に向けて話しかける心話は、ベテランのELGでも容易なことではない。
心が揺れ、集中力が乱れてしまうと心の声はまず届かない。
あれもこれもいっぺんに襲ってくる緊急事態に焦りを覚えながらも、オーウェンは自分にできる最善なことを選び間違えないように心を強く持とうと踏ん張るのだった。

 朱里のことを知らせると、さすがに長年の腐れ縁の相手も予想以上に慌てていた。

(何だと? 朱里がおまえのところに? わかった。そっちはおまえに頼む。
俺のほうはもう少しで現場に着くところだ。何かあったらまた連絡してくれ)

 意識不明の子供を連れてゆくとあらかじめ第一官庁メディカルセンターに連絡をしておいたので、オーウェンの車が到着した時にはすでに急患用の通行口には数人の医師と看護師たちが待機していた。

「こちらです」
「子供の容態は?」
「心音が確認できない。脈もとれない。とにかく呼びかけても目を覚まさないんだ」

 朱里をあまり揺らさないようにストレッチャーに移動させている間も、オーウェンは心臓マッサージを続けていた。
額は汗でびっしょり濡れている。ほとんどが緊張による冷や汗だった。

「代わります。お気持ちはわかりますがあとはお任せください」
「いや、この子の後継人は私だ。私はこの子の親から頼まれているんだ」

 朱里は医師たちに囲まれながら廊下を移動し、集中治療室に運ばれていった。
当然のようにオーウェンもついてゆく。

「私も付き添わせてもらう」
「こちらでお待ちください。治療の邪魔になりかねません」

 治療室の中にまで強引に入ろうとしたオーウェンを医師や看護師たちが強く引き留めた。

「あの子は特別なんだ。きみたちの手におえない場合だってあるんだぞ! 私も入れてくれ!」

 そんな頑固として引かないオーウェンの前に、見知った顔が現れた。
朱里の出産の時に感動を共感し合った女医アンジーだった。
オーウェンはほっとしたような安堵の表情をアンジーに向けた。

「ドクター・アンジー……」
「ミスター・オーウェン。朱里に何かあったそうですね。私も緊急の呼び出しを受けました」

「朱里の生死が確認できないんだ」
「朱里の? まさか……」

「あの子の身体はこちら側の常識でははかれない。
だから治療をすると言われても、どこまであの子にとって正確な治療が行われるか気が気でないんだ。
ここの医者を信用していないわけじゃない。ただ、私はあの子のことが心配なだけなんだ。
私はこれでもサードだ。
ファーストほどに使徒星には近くはないが、ほかの地球人種よりは余程朱里に近い。
頼む、私が中に入ることを許可してほしい」
「……わかりました。許可しましょう」
「ドクター! 本当によろしいのですか?」

「いいのです。あの子に我々の常識が通じないのは身に染みてわかっています。
よくぞあの子をここに連れてきてくれました。さあ、朱里のところに急ぎましょう」

 治療室の寝台の上に寝かされた朱里の身体にはたくさんの計器がつけられていた。
朱里の身体に何が起こっているのかを医師たちが詳細に検査しようとしているのだとオーウェンは理解した。
検査の間にも当然、心肺蘇生は続けられている。

 壮年の医師がアンジーを振り向いた。

「アンジー、心臓が動いていない」
「どのくらい止まってるの」

 これはオーウェンに向かって発せられた質問だった。

「私が朱里を受け取ってから二十分。朱里の異変に気付くのにおよそ二分だったと思う。
ここに来るまではずっと心臓マッサージだけは続けていた。
脳への酸素供給維持が最優先だと思って……。それではまずかったかい?」
「いいえ、上等よ。とにかく心臓が動かなければどうしようもないわ。
さあ、みんな下がって。ショックを与えるわよ。小児用パッドの用意を!」

 アンジーが取り出したのは自動体外式除細動器だった。
電気ショックを与えて、通電作用によって心臓を動かすものである。

 だが、その医療機器を目にした時、オーウェンの頭に何かの記憶が横切った。
急に胸を強く掴まれたような感じに陥り、はっと我に返る。

「ドクター! ドクター! それはやめてくれぇっ!」

 嘆願するかのような悲鳴がオーウェンの口から出ていた。
オーウェンは叫ぶと同時にアンジーの両手を掴んで、彼女の行動を拘束していた。

「ミスター、やめてください。これでは治療が……」
「頼む。それを使う前に調べてもらいたいことがあるんだ。
もしかしたらこの子には何もしてはいけないのかもしれない……」

 オーウェンの説明は脈略のないものだった。
ほかの医師たちも理解できずに、はやり治療室を出て行ってもらったほうがいいのではないかという声も上がった。

 心臓が止まっていたがゆえに急患で運ばれてきた子供。
付き添う間中、心肺蘇生をずっと施していたオーウェンの姿はここにいる医師や看護師たちの記憶に新しい。
だからこそ、オーウェンのこの行動はみんな不可解に思った。
あれほど案じていたのにどうして今になって治療を拒否するのかと。

 そうして、オーウェンの誠心誠意をこめた懇親の説得により、医師たちは検査をやり直すことにした。
特に心電図を中心に検査結果は見直された。
結果、およそ一時間後、医師たちは驚愕の思いで朱里を見つめることになった。

「心電図が……」
「確かに動いています……」

 朱里の心臓は信じられないくらいゆっくりと鼓動を繰り返していたのだった。

「どうして……」
「どうしてわかったって? 
それは、前にリリアが小鳥を仮死状態にしたのを見たことがあるんだ。それを思い出したんだよ。
その時は出血を抑えるためにした処置だったんだが……。
もしかしたら朱里もそうなのかもと思って。──よかった、朱里は元気なんだ。本当によかった……」

 オーウェンは思わずあふれて出てしまった涙を袖で拭った。

「では、あなたは彼女が我が子を仮死状態にしたっておっしゃるのですか?」
「ああ、そうとしか考えられない。とにかく朱里が無事ならこうしてはいられない。
私も仁のところに行かないと! 朱里を頼みます」

 オーウェンは慌てて踵を返すと治療室をでて廊下を小走りに進んだ。
非常口から外に出ると、空の一方向がわずかに朱色に染まっていた。

──もうすぐ夜明けか……。

 オーウェンは車に乗り込んで第一官庁メディカルセンターの駐車場をあとにした。
だが、大通りに出た途端、頭の中にまたもや声が響いた。今度は男の声だった。

(あの約束、守ってくれよな……。朱里を頼んだぜ……。オーウェン……)
(仁?)

 瞬間、オーウェンが問うのに重なって轟くリリアの悲鳴。

(いやあああああ──ッ)

──まさか……まさか、嘘だろう……?

(仁! リリア! 返事をしてくれ! 仁! 仁! ジーーーーーーンッ!)

 オーウェンは茫然としながらも車を急がせた。
途中、メッシーナ記念公園の標高低い山の向こう側で光の柱が天向かって伸びたのを見た。
光の柱はパアッと光ると、そのうち天から光が地面に落ちていくかのように消えていった。
あれは何だと疑問に思う傍らで、もしかしたら仁やリリアに関係する光なのかと疑わずにいられなかった。

──頼む。ふたりとも無事だと言ってくれっ。

 不吉な予感に心が騒めた。

 ハンドルを握る手は緊張で細かく震えていた。





 オーウェンが相良家に到着すると、すでに多くの人が集まっていた。
環境庁関係者の見知った顔もちらほらいたが、目を引いたのは軍関係者の制服だった。

 人の流れが裏庭に向かっているのを知って、オーウェンもそちらに足を向ける。
周囲は持ち込まれた照明器具によって、夜明け前と思えないほど明るく照らされていた。

 仁が丹精込めて綺麗に整えていた家庭菜園は無残なほど踏み荒らされていた。
特に支柱パイプがいくつも無造作に倒れている。

 人の話し声が聞こえるほうに向かうと、雑草地に行きついた。

 最初に目に入ったのは、大きな透明な石のような何かを取り囲むように立つ男たちの後ろ姿だった。
そのひとつがボットナムだと知って、オーウェンは彼に声を掛けようとした。
しかし、目の前に突然飛び込んできた現状に身体が凍りついたように固まってしまった。

 無意識のまま、ソレの近くまで歩いてきていたらしい。

 いつの間にかソレは目の前にあった。

「仁……? リリア……? おい、何をしてるんだ、ふたりとも……。こんなモノの中で……」

 リリアは地面に座り込んで仁の頭をしっかりと抱きしめていた。
目を見開いたまま、涙で頬を濡らしている。そして、その背には翼を拡げていた。

 一方、仁は愛する妻の膝を枕にして、穏やかな顔で気持ちよさそうに目を閉じていた。
だが、その幸せそうな表情とは一変して、仁の身体は無残なほど傷つけられているのが見て取れた。
視線を外したくなるほどの一目瞭然の負傷の数々に誰もが息を飲む。

 仁の左の脹脛には支柱パイプが突き刺さり、身体を地面に縫いつけている。
右大腿部には切り取られた支柱パイプが貫通しており、右手首の先はない。
腹部にはレーザー銃に打たれたのであろう穴が開き、その周囲には赤黒く血が広がっていた。

 何よりも、誰もが信じられなかったのは、ふたりを取り囲むソレの存在だった。
仁とリリアは虫を閉じ込めた琥珀のように、薄く色のついた透明の石のようなモノの中にいたのだった。

「危ない、オーウェン……」

 ふらつくオーウェンの身体を、ボットナムが二の腕を掴んで支えた。
自分に触れた相手を認めた途端、オーウェンはギロリと厳しい眼差しを向けた。

「……おまえ! どういうことだ、これは! 何じっとしてるんだ!
早くふたりをここから出してあげないと!」

 オーウェンの苛立った声が草の青臭い香りに取って代わる。
オーウェンは、ドンと拳でソレを叩いた。
傷ひとりつけられないのを見て取ると、オーウェンは周囲を見渡した。

 ふと足元を見ると、石が目についた。
拳程度の大きさの石をひとつ握り締めると、力を込めてソレにぶつける。
ガンガン叩いていたら、ソレが少しだけ欠けた。
だが、すぐに傷ついたそこは最初から傷がなかったかようにすぐさま元に戻ってしまった。
二度繰り返したが同じだった。不可解なことに傷はすべて修復されてしまうのだ。
オーウェンは唖然とした。

 理解できない。理解したくない。
オーウェンの頭はそう叫んでいた。

 茫然とソレを見つめるオーウェンの後方から声がかかった。
ボットナムだった。

「俺たちだって、何もただ指をくわえて黙って見ていたわけじゃないんだ。
中のふたりを救出しようにも、この水晶みたいなのを叩き割ろうとした途端、傷つけたそばから元に戻っちまうんだよ。
おまえにだってわかるだろう。どうやらこれはただの物質ではないようだ」

 ボッドナムの言葉はオーウェンの耳には届かなかった。
オーウェンはソレにむかって再び石を叩きつけた。ナイフを見つければナイフを握って刺した。
だが、固いはずのソレはオーウェンが傷つけたそばからすぐに、液状のものを流し込むようにして修復を繰り返してしまう。
何度繰り返しても同じだった。どうやっても元の形に戻ってしまう。

 だが、それでもオーウェンは諦めなかった。

「待ってろ。仁、リリア。今、助けてやるからな!」

 周囲から、あの傷では男のほうは生きていないだろうという声がちらほらあがった。

「黙れ! 無責任なことを言うな!」

 鬼の形相でオーウェンは一喝した。
戯言は一切受け付けなかった。

 息が上がるほどオーウェンは何度も腕を振り上げ続け、一方、ソレは何度も何度も修復を繰り返した。
ナイフの刃先が欠けるとオーウェンは別のナイフを見つけてきて突き刺した。
腕が痺れて力が入らなくなるまで何度もソレに挑んでいった。

 誰もオーウェンを止めることができなかった。

 時間が経ち、はあはあと息を整えるオーウェンに小さく声をかけたのは、相良家に通っていた看護師と介護士だった。

「オーウェンさん。もうおやめください……。
これはきっと奥様が旦那様を守ろうとなさっているんだと思います」
「よく見てください。コレはまるで生きているようじゃないですか……」

 何度傷つけても自己修復を繰り返す水晶のような物体。

「きみたちはリリアが仁を守ってるって言うのかい……?」
「はい。男が……セリーア人の男がやってきた時、旦那様は私たちに逃げろと言ってくださいました……。男は奥様と朱里様を狙っていたようで……」
「旦那様は奥様にも逃げろとおっしゃってましたが、奥様は……。
先に行けと言われて、後ろを振り返ったら、男の人がリリア様を捕まえようとしていて……。
旦那様が男を止めようとなさっているのが見えました……」

 仁がリリアや朱里を守ろうとしていた様子がふたりの口から語られている間、オーウェンの視界はだんだんとぼやけて歪んでいった。
ついに何も見えなくなり──。

「うっ、くっ……」

 涙が目に染みて、痛くて痛くてどうにも開けられなくなっていた。

「彼女たちからは一連の証言をもらっている。セリーア人の男の行方についても捜索中だ。
詳しいことはあちらで話そう。今、ふたりを移動させる手配が調った。
さあ、オーウェン、ここにいては邪魔になる。行こう」

 だが、オーウェンは涙を流したまま膝をつき、ソレを抱きしめるように縋り付いて動かなかった。
どうしても離れられないのだ、とオーウェンは鳴き声を零す。

「しっかりしろ、オーウェン。さあ、立ち上がるんだ。このままふたりをここに置いておくわけにもいくまい?」
「ここに置いて……?」

「そうだ。こんなとろこに置いてはおけない。調べるにも移動させるしかないんだ。
作業の邪魔になる。俺の言っている意味がわかるか? わかったらそこをどくんだ」

 とうとう、オーウェンはボッドナムに抱えられるようにして立ち上がった。
そんなオーウェンのところに介護士がやってきて、「オーウェンさん、朱里様の姿が見えないんです」と心配そうに訪ねた。

 すると、朱里の名前を聞いたオーウェンは瞬時に我に返った。

「朱里?」
「そうです、朱里様です」

「朱里は無事だよ。今は病院にいる」
「ああ、よかった。ご無事なんですね? 神様……、感謝します」

 介護士と看護師はやっとほっとできたのか、涙を流しながら抱き合った。
リリアと仁の異様な現状からは先が見えなくて不安ばかりだったのだろう。
朱里の無事の知らせはふたりにとっても明るい光となったようだ。

 その後、環境庁は軍と協力して、仁とリリアを包みこむ塊を移動することにした。
ボットナムが現場の指揮を取った。

「銀河連邦政府をあげて調査することになった。何にしてもコレが何なのか調べてみるしかないだろう」

 そして、自分を取り戻したオーウェンから朱里についての報告も受け取ったボットナムは、部下である悪友の肩を叩いて言った。

「そうか。朱里が無事なのは幸いだったな。本当によかった。
オーウェン、おまえはしばらく朱里についていてくれ。こっちも何かわかったらすぐに知らせるから」
「わかった。そっちもしっかり調べろよ。仁とリリアを頼んだぞ」

「ああ。おまえこそ朱里を頼んだぞ。……それにしても、何でこんなことになっちまったんだろうなあ。
まだあんなに小さいってのにな、かわいそうに。
両親がこんな状態ではなあ、あの子の未来はとてもじゃないが平穏とは言えなんだろう」
「おい、不吉なことを言うなよ」

「ああ、そうだな。すまん。──とはいえ、朱里が無事だと聞いて安心したぞ」
「まったくだ」





 その後、第一官庁メディカルセンターでオーウェンを待っていたのは、泣きわめく朱里に手を焼く医療従事者たちの困り切った顔だった。
アンジーを含む医師たちや看護師たちがどんなに宥めても朱里は泣き止まないのだと言う。
朱里の泣き声は泣きすぎてすでに掠れていた。

「気が付いたのはよかったのだけど、このまま泣き続けていたら喉を切ってしまうかもしれないわ」

 オーウェンが近づくと、顔見知りを見つけた朱里は泣きながらも手を伸ばしてきた。
抱っこをねだるその仕種にオーウェンは即座に応じて、朱里を抱き上げる。
アンジーたちは今まで拒絶してばかりだった朱里の変化にほっと胸を撫で下ろした。

「パァパ? マァマ?」

 ひっくひっくと息を吸い込みながら朱里は銀河連邦標準語でそう口にする。
同時にα類で、(パパとママはどこ? いないの?)と尋ねてきた。

「きみのパパとママはここには来れないんだ。でもその代り、私がずっときみのそばにいるから」
「パァパ! マァマ!」

 朱里が再び手足をバタつかせて喚きだした。

(パパとママのところにいく!)
(ごめん、朱里。ふたりはきみのところには来れないんだよ……)

 音声言語の銀河標準語に比べ、心が正確に伝わるα類精神感応力は感情の機微が伝わりやすい。
オーウェンの言葉の奥にわずかに潜む憂いな気持ちさえも正直に朱里に伝えてしまったようだった。
オーウェンの悲しみに触れた途端、朱里はギャーと泣きわめいて上へ上へと天井を目指すように身体を捩った。

「危ない!」

 あまりにも激しく暴れるので、オーウェンはもう少しで朱里を落としてしまうところだった。

「朱里、落ち着いて。大丈夫だから。朱里、朱里……」

 何度もあやしてみるのだが、朱里は全然大人しくならなかった。
とうとうアンジーが精神安定剤を投薬して、やっと朱里を静かにさせるといった具合だった。

「あまり小さい子にこんなことしたくないのだけれど……」
「ああ、助かったよ。私の失敗だ。朱里が共鳴能力者だということをうっかり忘れていたよ」

「共鳴能力?」
「ファーストだけが持つ力だよ。朱里は他人の気持ちに感化されやすいんだ」





 数時間後、朱里は目覚めた。
だが、朱里は眠る前とは打って変わって、泣くことも暴れることもなかった。

 ただじっと架空を見続けるかのように、一点に視線を集中している。

「朱里くん。朱里くん。ご飯よ」

 看護師が声をかけてもまったく反応しない。
オーウェン相手だと辛うじてわずかに反応があったくらいか。
そんな様子がしばらく続いた。

(朱里。ご飯が来たよ。お腹がへったろう? さあ食べよう?)
(ごはん?)

(そう。ご飯だ。食べよう)
(う、ん……)

 朱里はα類の呼びかけだけに返事を返した。
その朱里の様子から、オーウェンは、普段朱里がじっと架空を見つめているのは、きっとβ類でリリアを呼びかけているのかもしれないと推測した。

 朱里は食事をしようとする姿勢を見せるようにはなったが、毎回ほとんど残していた。
少しだけ食べて、すぐに首を横に振ってしまうのだ。
あまりにも食べない朱里に周囲は殊の外心配していた。
そしてその心配は的中した。

 数日後、朱里は口を開けようとしなくなってしまった。
仮に無理に口に入れたとしても、その後すぐにもどしてしまうのだ。
とうとう栄養失調と診断された朱里は細い腕に点滴の管を通すことになった。

 ポタリ、ポタリ、と栄養が詰まった滴が落ちるごとに朱里が生き延びているのだとオーウェンは感じていた。
だが、これでは元気に生きているとは到底言えない。

──これじゃあ駄目なんだ。これじゃあ!
自分からちゃんとご飯を食べて元気に動き回れるような生活に戻らないと!

(なぜ食べないんだい? これ好きじゃないのかい?)
(食べたくない。……パパのごはんがいい)

(じゃあ、私が作ってあげよう。料理に関してはきみのパパは私の師匠なんだ。
だからパパほどじゃないけど近い味は出せると思うよ)
(パパじゃなきゃやだ)

(でも試しに食べてみてくれないか。これでも仁に褒められたこともあるんだよ)
(パパに……?)

(そうだよ。だから、ね、朱里。一口だけでも食べてみないかい?)
(……ちょっとだけなら)

(ありがとう)

 オーウェンは病院側に許可を得て、朱里のために料理をした。
その言葉通り、それは仁譲りの料理の味だった。それには朱里もびっくりしていた。

(パパの同じご飯……。おいしい……)

 朱里はオーウェンが作った粥を噛みしめるように飲み込むと、一歳の子供と思えないような、涙だけ流す静かな泣き方をした。
その孤独な小さな泣き姿にオーウェンはもらい泣きした。

(さあ、もう少し食べよう。いくらでも朱里の好きなものを作ってあげるから。
でも、まずはお腹の調子をもどさないとね)
(パパのケーキも食べられる?)

(……頑張ってみるよ)

 朱里が静かに泣きながら食べたのは最初の時だけだった。
次の食事からは普通の子供のように目を輝かせてオーウェンが作る食事を心待ちするようになった。

 毎回、オーウェンの作ったご飯を、(おいしい)と言って大きく口を開けて食べる姿は、楽しそうに仁の料理を食べていたリリアの姿を彷彿させ、思わずオーウェンの目が潤んだ。

──ホント、仁のご飯にぞっこんなところはきみにそっくりだね、リリア。

 入院中、朱里の食事はすべてオーウェンが作るようになり、数日過ぎてオーウェンと朱里のふたりがお互いの存在に慣れはじめた頃、
(パパみたい)
オーウェンの食事を堪能している時、朱里がそう言った。

(確かに私の料理はきみにパパ仕込みだからね。この味はとても似ているんだろう。
けれど私はきみのパパじゃないよ。きみのパパは仁ひとりだけだ。
でも、私はきみのパパの代わりに、きみの父親になろうと思うんだ。どうかな。
だからよかったら、私のことは『お父さん』って呼んでくれないか?
朱里、これから私がきみを守ってゆくよ。命にかけて絶対守り抜くから。約束だ)
(……お、とうさん? ……とうさん?)

(ああ、父さんでもいいよ。嬉しいよ、朱里。さあ、しっかり食べて早く元気になろうね)





 朱里の体調も回復の見通しが立ち、退院予定日が決まったその日、オーウェンはボットナムからいくつか報告を受けていた。
中でも調査途中の仁とリリアを閉じ込め水晶のような塊がごっそりそのまま盗難にあったという知らせにはオーウェンは激怒を隠さなかった。

「何だって? それはどういうことだ!」
「完全な管理部門の落ち度だ。どうやら盗まれたらしい。
盗難後、職員がふたり退職していることからしても計画的な組織的犯行であることは間違いないだろう。
それに相良家急襲の事件に関連するかはまだ未確認だが、軍からセリーア人の行方不明事件が二件発生したと連絡が来ている。どちらも最近のことだ。
事件発生の星系はどちらもこの惑星ショルナとは遠く離れているが……、どうやらどちらも同胞に襲われた可能性が高いらしいぞ。
なあ、状況が似てると思わないか?」
「つまり、何か? 今後も朱里は狙われる可能性があるってことか?」

「はっきり言えばそういうことだ。一概には言えないがな……。
これまでファーストが狙われたという報告はないが、だからと言って今後もまったくないとは言い切れん。
あくまで現時点ではセリーア人だけが被害対象なのだとしても、実際、仁のところでは狙われたのはリリアと朱里のふたりだったんだ。
そう証言する者がいる限り、油断するわけにはいかないだろう。
こう短期間のうちに連続的に狙ってきてることからも、今後も相手は精力的に動く可能性が高い。
再度朱里が襲撃される可能性がないとは言い切れん」
「確かに……。セリーア人相手では私たちでは朱里を守りきれない。だったらどうすればいい……?」

「対策を練らねばならんだろうな」

 ボットナムが帰ったあと、オーウェンはしばらく考え込んでいた。

(とうさん、なにかんがえてるの?)
(……なあ、朱里。父さんとしばらく旅行をしてみないかい?)

(りょこう? おさんぽみたいなの?)
(そうだ。お散歩を遠くまでするようなもんだ。
いろんなところに行って、いろんなものを見たり知ったりするのはきっと楽しいと思うんだ。
星によっては料理もそれぞれだから、もしかしたらすごくおいしいものが食べられるかもしれないし、こんなものを食べてるのかって納得できない星もあるだろうけど、その星、その場所によって文化や習慣の違いを知ることはこれから朱里が成長するのにいい影響を与えてくれると思うんだ。
きっと今までにない経験ができるよ。どうかな?)

(……とおくにおさんぽいっちゃったら、パパたちとはぐれちゃうよ?)
(……そうだね。じゃあ、こうしようか。
もしパパとママから連絡がきたらすぐに会えるようにボットナムおじちゃんに頼んでおこう。
旅行先からときどきボットナムおじちゃんに連絡を入れるようにしとけば朱里も安心だろう?)

 一歳になる子供は世間では乳幼児と呼ばれ、その行動には保護者の意思が優先される年齢だった。
だが、朱里は一歳児とは思えないほどの精神的成長を見せていた。
セリーア人の血筋なのだろう。
オーウェンは朱里の成長を異常とは考えなかった。

 事件以降、朱里はオーウェン以外の人間と会話しなくなっていた。
オーウェンとの交流も朱里はα類での会話を好んだ。
そのほうが正確な意思確認が可能なのだと朱里は本能で悟っていたようだった。

 オーウェンは朱里に音声での通話を強要するつもりはなかった。
現時点では、まずは朱里が心を開くことが先決だと理解していたからだ。

 朱里の入院は一部の医療従事者たちにしか知らされておらず、セリーア人が関与することについては慣例的にすべて最高機密扱いとなるため、朱里に関するすべてのデータもまた極秘事項に含まれた。
朱里と接触する医師や看護師は特定の人物に限られ、朱里の入院中はすべて偽名で処理されていた。
徹底的に朱里の存在が外部に漏れないよう秘密にされたのは銀河連邦政府から直接的な指示があったこともある。
再度、朱里が狙われることがあれは使徒星との外交問題に発展してしまうかもしれない。
すでにセリーア人のリリアは異常な状況で発見され、その後もセリーア人が二名行方不明となっている。
一連の犯行には銀河連邦内に協力者がいることはわかっているがまだ犯人の特定には至っていない。
これ以上、使徒星に連なる者に害なす者が現れることは許されなかった。

 ボットナムから受けた一連の報告が、オーウェンの心を決心させた。
即座にアンジーを含む朱里担当の医療関係者全員に集まってもらい、オーウェンは床に額をつけるほどに頭を下げて、真摯に協力を願い乞うた。

──第一にすべきことは朱里の生存。そして安全確保。それが最も優先されるべきことだ。
いかなることでもしてみせる。自尊心や体面などは二の次だ。そんなものなくても生きていける。

 外交問題に発展するかもしれない大勝負に出ることにしたオーウェンがまずしたことは、相良朱里の死亡診断証明の発行手続きを行うことだった。

 相良家を襲撃したセリーア人は正常な状態ではなかったという報告を受け取ったときから、オーウェンはずっと考えていたことがある。
狂ったセリーア人から朱里を完全に守り抜くことは、自分にも、いや、おそらく銀河連邦政府内のどんな地球人種であっても無理だろう。
そう、仁が成したことこそが奇跡なのだ。

 十年来の相棒はすごい男だ。
まさに底が見えない、未知数の可能性を隠していた相棒だった。
オーウェンも負けてはいられない。
仁の倍を生きているのだから、その経験をぜひ活かさなければ。
いつかどこかで再び仁に出会う時、中途半端な生き様は見せれらない。
たとえその邂逅がこの世の理(ことわり)では無理だとしても、「いつか」の可能性がわずかでも残されているのなら、胸を張って向き合える自分でいたかった。





「退院したら、おいしいものを食べに行こう」

 オーウェンが朱里とそんな約束をしたと聞いて、ボットナムも朱里の退院日は早めに仕事を切り上げて快気祝いに便乗しようと計画していた。

 ところが、喜ばしい一日となるはずだった退院日のその朝早く、突如朱里の容態が急変したとオーウェンから緊急連絡が入って耳を疑った。
慌てて職場を後にして、車に乗り込んだ時、今度は朱里が緊急処置室に運ばれたと知らせが入った。

──まさかだろう? 元気になったんじゃなかったのか!

 ボットナムが最速で第一官庁メディカルセンターに駆け付けた時には、相良朱里は一歳の短い一生を終えていた。
何が起きたのかわからなかった。
あまりにも突然すぎて驚愕と怒りでボットナムの顔は赤く染まったままだった。
気が付けばボットナムはオーウェンによって密かに遺体保管室に案内されていて、目の前には子供用の小さな棺桶が用意されていた。
オーウェンが茫然と棺桶を見つめるボットナムの肩にそっと手を置いて言った。

「忙しいだろうに、よく来てくれた。この子の葬式を出してやりたいんだ。もちろん協力してくれるね」

 ボットナムはオーウェンが掴んだ肩に痛みが走るのを感じていた。

「これから忙しくなるぞ」

 葬式業者が置いて行ったのだろうパンフレットで棺桶を太鼓のように叩くオーウェンからは、朱里の葬儀への意気込みが感じられた。
そんなオーウェンの現金さに、どうしてそんなに早く気持ちが切り替えられるんだとオーウェンを詰りたくなった。

 だが、肩を掴んだ手から音なき声が聞こえてきて、
(退院祝いはもちろんきみのおごりでいいよね。朱里はアイスが食べたいらしい。デザートは決まりだね)
ボットナムは顎が外れるかと思うほどに驚いた。

 オーウェンがあざけて、「さあ、とっとと終わらしてご飯にしよう」と片目を瞑る。

 翌日、相良朱里の死亡が個体登録指標に登録されるとともに、環境庁にひとりのファーストの死亡の知らせが届けられた。
その日流れた絶滅危惧種の子供の死亡のニュースに銀河連邦政府全体がおののき呻いたという。

 それは相良朱里の一歳の誕生日の三週間後のことだった──。








 その日の夕方、アンジーは息を切らせつつ、宇宙港の出発ロビーにたどり着いた。

「残念、どうやら間に合わなかったみたいね」
「ドクター・アンジー。どうしてここに?」

 ボットナムの驚いた顔に、「オーウェンに内緒で教えてもらったの。だってあの子はわたしにとっても特別な子だから」とアンジーは笑った。

「そうですか。オーウェンが……」
「ええ」

 あの家族に何かしらの影響を与えられた人間がここにもひとりいる。
ボットナムは心嬉しく思った。

「それにしても、あなたも大層なことをしてくださった」
「そうね。死亡証明の偽造がバレたら医師免許は当然はく奪ですものね。
それでも……、私の医師免許なんてファーストの命には代えられないわ。
あなたもそう思ったからこそ、こんなところで黙って見送ってらしたんじゃないのかしら。ボットナムさん?」

 オーウェンは、親友の息子である相良朱里の死亡届けが受理された後、児童福祉士や児童指導員にのところに赴いた。
不特定多数の付き合いのあった女性のうちの誰かが密かに子供を産んで姿を眩ましたので困っていると相談しに行ったのだ。
自宅前に置き去りにされていた子供の母親を特定することができないが、どうやら自分の子供に間違いがないらしい。
自分の子ならば自分が育てるのが義務である。
それに何より子供には親が必要だと、オーウェンは突然親になった男がするであろう困り顔で専門家たちに説明した。

「私の子ですから。責任持ってこれからは自分の手で頑張って育てていきたいと思っています。
例え母親がいなくても、心優しい子に育ってくれれば嬉しいです。
母親が特定できないなんて異常な事態はすべて私の責任であってこの子には何の責任もありません。
すべて私の不徳の致すところです。
私は以前結婚していましたが、結婚生活はうまく行きませんでした。
ですが生活はちゃんとしています。仕事も安定した職業にも就いています。
どうか私がこの子を育てるために必要な手続きを取っていただけませんでしょうか?」

 相談を受けた専門家たちはオーウェンの腕の中の子供を見て不審を抱いた。
検査すると、身長や体重からで推測される月齢を考慮しても、語彙も豊富すぎるほどであり、話の内容も深く、高度な精神的成長が顕著に窺える。
行動や生活面から見ても一部の身体的成長が著しい。
何よりも、テレパシー・コミュニケーションを自由自在に使うようなのである。
地球人種の子供を見慣れている目には一目瞭然の異常な成長と映った。

 児童養育の専門家たちがそう指摘すると、オーウェンはしたり顔で、「それこそ私の子だという証拠です」と飄々と受け入れて見せた。
実はオーウェンが朱里の年齢や朱里がα類の心話を駆使することを偽装しなかったのには理由があった。

「これを見てください」

 オーウェンは自らの個体登録指標認証を提示し、「実は私はセリーア人の血を引くサードなんです」と明かしたのだった。

「セリーア人の血を引く者にとってこの子の成長具合こそが正常なんです」

 いかにも当然の結果とばかりに堂々とオーウェンは胸を張った。

 仰天したのは専門家たちだった。
まさかあの有名な天使の末裔がふたりも目の前にいるなんて、と大層感激し、地球人種の子供の扱いしか知らない専門家たちは、そういう事情ならばとオーウェンに理解を示したのだった。

 とはいえ彼らとて職業柄、オーウェン側の言い分ばかりを鵜呑みにするわけにもいかない。
念のため赤ん坊のDNA鑑定をしたらどうかとオーウェンに持ちかけた。

「あなたのおっしゃりたいことはわかりますが、もしかしたらあなたのお子さんでお子さんでないかもしれませんよ?
確実性を高めるためにも検査を受けてみませんか?」
「その必要はありません。
第一、この子の成長が地球人種としては異常なことはあなたがたもお認めになったはずです。
ならば私の子でないほうがおかしいでしょう?
それに私はあなたがたを信頼して自分がサードだと打ち明けたのですよ。
それだけでも本来はセリーア人の個人情報漏洩に引っかかる可能性があるのに、この上DNA鑑定をして詳細な個人情報が漏れたらどうしてくれます?
情報が完全に守られるとあなたがたが保障してくれるのですか?
とてもじゃないが、完全に情報の漏えいを防ぐことは軍の情報部ですらとても難しいのが現実ですよ。
私はあなたがたの仕事を邪魔したいわけではないんです。でも私たちの事情も理解してください。
保障を約束していただけない限りは申し訳ありませんが鑑定は断固拒否します。
無理にと言うのであれば、使徒星の関係者として治外法権の権利を行使します。
それでもよろしいですか?」

 使徒星は銀河連邦に属してはいない。
銀河連邦非加盟国のすべて人間に言えることだが、彼らに銀河連邦憲法を守る義務はないのである。

 銀河連邦憲法の前文にて、「この法に従うべきは連邦政府に属するすべての者である」と記載されている以上、銀河連邦政府が定めたすべての権力作用に服さない資格を保持する者の心身は常に自由であり、その権利が侵されることはあってはならないのだ。

 また、使徒星の住人たちの能力は計り知れず、こちらの憶測で枠にはめて考えることはとても危険だと言われている。
銀河連邦非加盟国の中でも特に使徒星の情報がどんなささいなことであってもすべて銀河連邦政府の重要機密扱いとなっているのは、その未知数の能力がネックになっていると断言してもいいほどだ。
絶滅危惧種に指定されている貴重種であることを差し引いても、安易に個人情報を扱うわけにはいかない第一の理由はそこにある。
使徒星関連の情報が連邦政府が定める重要機密ランクの上位を占めていることは、政府関係者ならば誰でも知っている基本中の基本の一般常識だった。

 そして、公僕の立場にある彼らは常に権利や義務を相手にしている専門家であった。
引き際を見極めるのにも慣れていた。

 オーウェンたちふたりの間には確かに親子関係があるらしいと認めた専門家たちの次の視点は、オーウェン・レトマンという人物が子供を養育する者として相応しいかどうかの判断に移った。

「調査をいたしますので、数日間お待ちください。後日結果をお知らせします」

 その手の専属部署に操作を依頼して二日後、専門家たちはその報告結果を受け取っていた。

 父親を名乗るオーウェンは現在ELGという信用・実績のある、子供を養育するにあたって不測のない職業に就いている。
本人が自分の子供だと証言しており、養育する意志もあり、自己申告によるものだが共通する遺伝的特徴も現れている。
話を聞く限り、以前は女性問題もいろいろあったらしいが、現在は交際相手もなく、真面目な生活を送っているようだ。
オーウェンの人間性は上司も認めるところで、周囲の評判もいい。
結果、親として相応しくない点はどこにも見られず、オーウェンは十分子供を養育できると判断された。

 連絡を受けて、オーウェンは、専門家たちが全員常識人だったことに、してやったりとほくそ笑んだ。
DNA鑑定を呆気なく諦めてくれて本当によかった。
それにしても彼らは大きな思い違いをしている、とオーウェンはおかしく思った。
オーウェンは治外法権の権利について嘘を言ってはいないが、権利の主張についてすべてを語っていたわけではなかった。

 実際は、非加盟国の関係者として正式に承認され、治外法権の権利を行使できるのはその星の住人とその住人を親に持つその子供までであり、孫世代以降にはその権利は認められていないのだ。
もちろん、セリーア人を曽祖父に持つオーウェンも含まれる。
オーウェンはその権利を行使することは自分には認められていないことを最初から知っていた。

 一方で、オーウェンたちは治外法権の権利を正式に行使するできることもオーウェンは知っていた。
だから、オーウェンははったりをかましたのだった。

 専門家たちがオーウェンの言葉を信じず、こちらの言い分を退けて強引にDNA鑑定を行うようなことになればその時はその時だ。
DNA鑑定はふたりの関係を親子ではなく、とても遠い血縁同士だと証明するだろうが、その時は改めて大げさに驚いて見せて、「私の子でなかったにしても、もう情が移ってしまって今ではこの子がとてもかわいくて仕方ないのです。身寄りのないこの子をぜひ養子に迎えて私のこの手で育てたいと思います」とでも言えばいいとオーウェンは思っていた。

 仮に 鑑定結果により子供が何者なのかが明らかになった場合は誰がくだんの権利を保持しているかももれなく明らかになるわけで。
朱里がオーウェンを「とうさん」と慕う限り、子供の養育権についてはオーウェンの主張が認められるはずだとオーウェンはまったく疑っていなかったのである。

 治外法権という関門が立ちはだかる以上、専門家たちがふたりに手を出す権利などない。
それは銀河連邦政府でさえ到底入り込めない領域となりうるのだから。

 どちらにしても最終的にはオーウェンが子供の養育権を手にすることに決まっていたのだった。

──それでも無難に話が運べるならそのほうがいい。
計画の狂いがないことに越したことがない。これ幸いだ。

 そして、養育の専門家たちから承認を取ったオーウェンが次に行ったのは、赤ん坊を正式に認知することだった。
ついでに実子の記載手続きもしっかりと済ませておく。

 本来、赤ん坊とは母親のお腹から出てくるものだ。
当然ながら、母親が自分で産んだ子供を認知しないわけにはいかないのが普通である。
代理母であっても遺伝子上の実母と同様、子供の親権が認められているほど、出産というものはこれ以上もない親子関係の確定的な証明となっている。

 だが、オーウェンが届け出した個体登録指標は、母親の項目が空欄のまま受理された。
母親が特定できないのだから仕方がない。
手続きを担当した者は胡散臭げにオーウェンを見たが、オーウェンは「若気の至りですよ」と苦笑いして見せただけに納めた。
こうして出来上がった朱里・レトマンの個体登録指標は、司法の抜け穴を突いた見事な完成度だとオーウェンは自負している。
とても満足な出来栄えになった。

 そうしてオーウェンは子供の父親と正式に認められた。

「道理に反することは何もしてはいない。私は法律的に有効な手段を取ったまでだよ」

 そう開き直るオーウェンの赤ん坊に対する子煩悩振りは周囲が呆れるほどで、同僚の中には「まるででろでろだな」とからかう者も出てくるほどだった。
そんな輩には、「この歳で初めて子供に恵まれてごらんよ。誰もが私のようになるさ」とオーウェンは顔をでれんと崩してあっけらかんと返し、子供の名前について聞かれれば、「親友の忘れ形見と同じ名前をつけたんだ。あの子の分まで幸せになってほしいってそう願いを込めたね」とオーウェンは語って、知人友人たちの涙を誘うのだった。

 オーウェンの巧妙な画策はそれだけでは終わらなかった。
オーウェンは朱里を連れて、惑星ショルナを出ることも考えていた。

──自分たちの居場所を点々と移動することで、朱里の居場所を特定できないようにするんだ。
自分たちを追うのも苦労するくらいに移動しまくってやる。私を舐めるなよ!

 この先何が起こるかわからない以上、どんなに周到に準備をしても足りないくらいだった。
狂ったセリーア人による再襲撃から朱里を守るためにオーウェンが張り巡らす守備陣はこれからもきっと増えてゆくだろう。

 オーウェンはどんな手を使っても朱里を守ると決めていた。
それは決して曲げないと自分の心に刻んだ一世一代の絶対の決心だった──。





 宇宙港の出発ロビーから見えるショルナの空は薄紫色に染まりつつあった。
夕暮れは終わりつつあり、その名残は地平線に近いところに残っている赤みくらいだ。

 空高く、ぽつん、ぽつんと薄い雲が点在している。
すでに夕焼け色から青紫色に変わった空に浮かぶ雲の形は独特だった。

「ああ、そうか。どこかで見たと思ったら、朱里が持っていた毛布に描かれてた動物の形に似てるのか」

 落日後の出発ロビーの床の上にボットナムの声が落ちる。
置いてきぼりされたも者の寂しさがひんやりと身に染みた。

 一連の騒動の後、はからずも結果的には仁が願ったとおり、朱里はオーウェンが育てることになった。

 オーウェンから朱里を引き取りたいと相談を受けたボットナムが、「あの馬鹿野郎、まさかここまで計算してたわけじゃないよな」と疑ったのは一度や二度ではない。

「使徒星に帰りたいのなら自分で何とかしろって朱里を放任したアレも息子を信頼してのことってか?」

 呟きがまたよや床に落ちて弾けた。
自問自答してもボットナムにはわからない。
どこからどこまで想定していたのか、答えを持っている本人がここにはいない以上、いくら考えても正解は得られない。

 そうなのだ。相良仁はもうここにはいないのだから答えはないのだ。
自分たちは真っ先にその事実を受け入れなければならない。

『もしセリーア人と接触する機会が巡ってきたら必ず連絡をくれ。
朱里が望むなら使徒星に帰してやりたいんだ』

 朱里を引き取ってから口癖のようになっていたオーウェンの言葉がボットナムの脳裏を過ぎる。

「それもおまえの願いなんだよな、仁……」

 ぽつりと零れた元部下の名前にもの哀しさを覚える。

「ホントにおまえは上司の俺たちをどこまでも扱き使う馬鹿野郎だ」

 言霊は未来へと繋がれ、真実となる。

 七年後、約束を果たすために本当に扱き使われる羽目になろうとは、この時のボットナムはまだ知らない──。








 オーウェンが朱里の父親になって四年の歳月が流れた。

──きみと一緒に昔見た星空を、今、きみの息子と見上げているよ。

 全天に無数の星々が命を燃やして精一杯瞬いていた。

「父さん、ガリオに行きたいの?」

 かつて相棒と呼んだ男と同じ、夜に溶ける黒い髪が夜風になびく。

「どうしてそう思うんだい?」
「だって父さん、いつも星空を見る時、ガリオ星系を探してるんだもん。
でも、父さんがそう思っちゃうのはしょうがないよね」

「ほお、そりゃまたどうしてだい?」
「あのね、父さん。ぼくだってELGの本部があそこにあることくらいもう知ってるんだよ?
それに、第四惑星ショルナにはすごく大切な人との思い出が詰まってるんだって、父さんこの前言ってたじゃないか」

──きみがいなくなって。

「ねえ、父さん。ELGに戻りたいの?」

 落ちた星の大きさに──。

「戻るも何も、私は今でも歴(れっき)としたELGだよ。今までも、これからもね」
「でも、ELGはふたり一組が原則なのに、父さんいつもひとりじゃないか」

 今更ながらに気付かされる。

「そうだね。でも、本当に私には最高の相棒がちゃんといるんだよ」

 埋めきれぬこの喪失感を、どうしたらいいのだろう。

「ねえ、朱里。そんなに私はショルナに行きたそうに見えるかい?」
「うん。すごく」

「そう、だね……。そうかもしれない。いつだって私は彼に会いたいのかもしれないな……」

──仁、見えるかい?

「朱里、いつか一緒にショルナに行こうか」

──きみたちの息子は元気にしているよ。

「ホント? 約束だよ」
「ああ、約束だ」

 この星空のどこかにいるはずの片翼に願おう。

 いつも。いつまでも。

 いつかこの子が使徒星に帰るその日まで、ちゃんと見守ってておくれ、と──。


                                                         おしまい


illustration * えみこ



えみこのおまけ


*** あとがき ***

最後まで、お付き合いしていただき、ありがとうございます。
天使を呼ばれるセリーア人リリアと出会い、娶り、息子に恵まれる仁のお話はいかがでしたでしょうか?

この「きみが片翼」は、「朱里の出生」と「朱里のレトマン姓の名乗り」についてを語っています。

ちなみに「片翼」というテーマはふたつのふたりの関係を指します♪
恋情として、リリア(妻)と仁(夫)。
友情として、親友(相棒)同士のオーウェンと仁。
タイトルの「きみ」は仁、リリア、オーウェンの三人すべてに当てはまります♪

ちなみに相良仁というキャラは、すっごく書きやすかったキャラでした。
えみこさんとふたり、仁パパ同盟を結ぶほど仁にのめり込むとは予想外でした♪
「使徒星の住人たち」本編のファラと朱里を食ってしまうほどの傾倒ぶりとでも言いましょうか…(笑)。
そんなわけで、「きみが片翼」が完結した今、
ほっとした気持ち半分、寂しい気持ち半分ってところです。

とはいえ、オーウェンと朱里のその後は「ただひとつのすべてのもの」に続きます。
(「ただひとつのすべてのもの」は「使徒星の住人たち」本編の続きにもなってます。)
そちらもどうぞお楽しみください♪

最後に、ご感想などお聞かせいただけるととても嬉しいです。

by moro



moro*on presents




この作品の著作権は、文・moro、イラスト・えみこにあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。