きみを希う vol.8



 オルゼグン王国に伺候している魔道師たちが、《学びの塔》からの使者を迎えるのは久方ぶりになる。

「ヴィーさま、アジャ。お待ちしておりました。私はバビギク・ゲイルン、こちらはカーク・トリイと申します」
「トリイでございます。御足労ありがとうございます」
「うん。こちらこそよろしく頼むよ」

 王宮正門で判定者と同行の魔道師を出迎えたかれらの表情は当然のように固い。

 判定者たちがオルゼグンまで足を延ばした理由はひとつしかない。イクミル王国で色好い結果が得られらなかった。それに尽きる。

「本当におふたりだけで周っていらっしゃるのですね」

 《学びの塔》からの使者を見るバビギクの唇は痛々しげに引きつっている。

「ただ見て周るだけだから、本当はぼくひとりでも充分なんだけどねえ」
「そういうわけには参りません。連絡をつけるものがいなければ困ります」
「これだからねえ」

 二十歳ほどの若い判定者の声には露ほどの気負いすら窺えなかった。その分、熟練魔道師アジャマラル・ムキールの沈着な行動がとても余裕がないように見える。ふたりの関係は一見、浮ついた年若い息子の先行きを案じる父親のようであった。

「アジャがこう言い張るもんだからねえ、そんなに言うのならって同行を許したんだよ。本当に人手がいるときはは《学びの塔》にも全面的に協力してもらうつもりだしね。もちろん、きみらも手伝ってくれるのでしょう?」
「もちろんです」
「お任せください」
「ほら、それなら今はふたりでも充分お釣りがくる」

 判定者がへらりと笑う。笑うと石膏のように冷たいくらいに整った容貌が一段と光り輝いた。襟足より短い銀の髪と水面の煌めきのような銀の瞳がその秀逸の美貌にとてもよく映え、同性とわかっていても見惚れるほどの優美さを纏う。オルゼグンの魔道師たちはそのあどけない笑顔に眼を見張った。

「久しぶりだな、バビギク。相変わらず年寄り臭いようだ」

 呆けていた壮年の魔道師を正気に戻したのは知己の友人のぶっきら棒な声だった。

 バビギクははっと気をとりなして慌てたようにアジャマラルに顔を向けた。古い友人は先ほどとは打って変わって、意地悪い微笑みを浮かべている。

 こほんとひとつ咳をし、改めて喉の調子を整えてから、バビギクは言い返す。

「そなたの若作りも相当だぞ、アジャ」
「ははは。口が達者なのは変わらずだ。おまえに沈鬱な顔は似合わんからやめておけ。──トリイは初めてだな。アジャマラル・ムキールだ」
「はじめまして、ムキールどの。カークとお呼び下さい。上級魔道師のあなたのお噂は聞いております。今度お時間ある時にはぜひとも大先輩のご指南をお願いしたいと思います」
「ぜひとも。気概のあるものは大歓迎だ。カーク、これからもバビギクを支えてやってくれ」
「いえ、私なんて。こちらこそ毎日勉強させてもらってます」
「アジャ、大役ご苦労である。例のことがあってから一番長く調査に携わってきたきみだ。このたびのこと、いい人選だと私は思ってる」
「いやいや、私はただヴィーさまという大樹にくっついている蝉のようなものだからな。大したことは何もしていないさ」
「アジャはしっかりと役に立ってるよ、連絡係として。まさに有言実行だよね」
「ははは、これは恐れ入ります」

 アジャのおどけたような受け答えはバビギクとカークの凝り固まった頬を思わず緩ませた。ようやくオルゼグンの魔道師ふたりが朗らかな表情を見せるようになる。

 和やかにひと通りの挨拶を済ませると、
「先触れの風精を送ってくださいましたので、拝謁の取り次ぎを申し込みしてあります。ですが長旅でお疲れでしょうし、まずは旅の埃などを落としてはいかがでしょう。よろしければそれから謁見の間にご案内いたしますが」
 と年かさのバビギクが背高の若き判定者を仰いだ。

「王さまにはすぐに会えるの?」
「はい。やはりお急ぎですか?」
「出来ればね。ここの王さまの顔を見て、ちょっと挨拶したらすぐにウッドローに発つつもりなんだ。下手にゆっくりしちゃうと根っこが生えそうで怖いんだよ。だからさっさと終わらしちゃいたい。もちろんアジャが疲れてなければだけど」
「私なら大丈夫です」
「じゃあ決まりだね」
「わかりました。ではさっそく東雲宮にご案内いたします」

 常識人であれば、旅装束のまま国王に拝謁する愚行などは犯さない。不敬にあたる行為に受け取られてもおかしくないからである。

 だが、魔道師たちがヴィーと呼ぶ判定者は身支度に頓着しなかった。

 王宮正門をくぐると三階建の白亜の宮殿が白い高い壁となってそびえて見えた。判定者は埃まみれの外套を翻しつつ、田舎から出てきたばかりの新参者のようにきょろきょろと眼を泳がしながら、案内人の魔道師のあとに続く。

「もしかして、東雲宮ってこれ全体がそうなの?」
「はい。この東雲宮は上から菱形に見えることで知られています。あちらの鐘楼に登りますと東雲宮の全体を上からご覧いただけます。菱形の中心部分は各翼に面した趣の異なる四つの庭園が楽しめるようになっています。近頃花々があちことで咲きはじめましたので、どのお庭もとても綺麗です。お時間があるならぜひ散策をしていただきたいところなのですが」
「また今度ゆっくりお邪魔するよ。それにしてもホント大きいねえ」

 判定者は足を止めると首を左右に大きく動かして、東西に壁のようにそびえ立つ白亜の宮殿を眺めた。案内を急かしたわりに、悠長に感心している。

 だが、判定者が立ち止まりたくなるのも無理はない。随所に植物や動物の彫刻が施してあり、その細工は実に細かい。現代の著名な彫刻家たちが集まってもこれほどの大作を完成するには数十年かかるだろうと思わせるほどである。その完成度も高く、美術的価値を伺わせた。また建築様式も一貫していない。歴史を感じさせる重要な建築物だというのは誰の眼にも明らかだった。

 昼前の陽の光を浴びて、淡い黄色が宮殿の白壁を綺麗に染めている姿はまさに素晴らしい景観である。東雲宮は空高く澄んだ春の青空に清々しく映える美しい宮殿だった。

「この東雲宮は端から端まで急いで歩いても四半刻かかると言われています。このオルゼグン王国は古代メルダ国やサザ国の侵略から逃れた地であるため、古代イクミラール人の文化遺産がまだ残っているところも多いようです。東雲宮はたびたび増築改修しているようですが、もとは古代イクミラール人の宮殿だったものだと聞いています。歴代の王が頻繁に手を入れてきたお蔭で、今ではそれぞれその年代の建築様式が楽しめ宮殿となっています」
「東雲宮は大きく南面と北面のふたつに分かれてまして、南と北では建物の印象が全然違います。こちらから見える正面部分を我々は南面と呼んでいますが、ご覧のとおり、この南面は高い柱をいくつも立てた神殿様式を用いています。対して北面は曲線をうまくあしらった優美な宮殿となっています」

「つまりは南面と北面では建てた時代が違うんだね」
「その通りです」

 よく見れば、南向きのたくさんの窓には、働く官吏の様子がちらちらとうかがえる。

「政務はこっち側で行われているの?」
「はい。各政務室は南面に集中しています。最高行政機関の宰相府もこちらの東翼にございます」
「じゃあ、王の執務室は?」
「宰相府の奥の北面東翼にございます。閲覧の間もそちら側になります」
「北面への入城許可は南面よりも厳しくなっています。基本的に北奥にゆくほど厳重になっているとお考えください」
「カークの言うとおりです。ここからは見えませんが東雲宮の奥には王の居城である曙宮が、そのまた北奥には後宮にあたる暁宮がございます。暁宮は王以外の男性は入れませんので特にご注意ください。例外は未成年の王子くらいです。もちろん近侍として入れるのも女官や侍女、それに宦官だけです」
「ふうん、じゃああっちは?」

 判定者が西方を指した。

「大神殿への参道にもなっている広場ですね。奥に大神殿がございます」
「南面西翼が騎士隊詰所になっていまして、屋内の鍛錬場もそちらに併設されているのですが、入りきれない下っ端の騎士たちがあちらの参道でよく訓練していますよ」

 オルゼグン王国に赴任して数年経つ魔道師ふたりは判定者が尋ねたことすべてにすらすらと答えていく。王宮の宮殿配置図を頭の中に描いているのか、判定者はうんうんと頷きながら興味深く耳を傾けていた。

「聞けば聞くほどだだっ広い王宮だねえ。湖畔の崖に立っているイクミルの王宮とは全然趣が違うなあ」
「確かに。イクミルのシルヴィ王宮とは立地条件が異なりますからね。こちらはわずかに高台になっているくらいでほとんど平地に建っていますし、景観も建築様式もまったく違うでしょうね」
「だろうねえ。、まあでも違うのはそれだけじゃないみたいだけど」
「ヴィーさま、何か気になることでも?」

 多大な興味を持って東雲宮に見入っている判定者の秀麗な横顔を注意深くうかがいながら、魔道師アジャマラルは尋ねた。この判定者は子どものような無邪気な言動で人の子の緊張感を解くのが上手い。だから話しかけられたものはいろいろしゃべってしまうのだが、判定者のほうはほとんど聞き流しているだけでまともに耳を傾けているわけではない。判定者は無駄にあちこち興味を抱くような多情多感な可愛い性格をしているわけではないし、そのくだけた態度に騙されてはいけないのだと、この数か月の間、イクミル全土をともに巡り周ったアジャマラルは知っていた。

 その判定者が、オルゼグンの王宮に異様な関心を示している。これは今までになかった傾向だった。アジャマラルは強い引っ掛かりを感じていた。

「うーん、気になると言えば気になるかな。地気脈がさー、南面だっけ? 正面側の宮殿のとこが意外に活発なんだよね。普通は王の居城や執務室に集まりそうなもんなんだけど……」
「そう言われてみれば、イクミル王宮の気塊の中心部は王の執務室の真下でしたね」
「ああ、あの地下の文庫室だね。そうなんだよねえ」
「ヴィーさまには地気脈がはっきりと見えるのですか?」
「これ、カーク! 失礼なことを言うのではない!」
「ははは。見えなかったらこうしてあちこち見て周ってないよー」
「し、失礼しました!」
「申し訳ありません。弟子の失言は私の不徳の致すところです」
「いいって。バビギクはアジャの昔馴染みでもあるし、古参の部類に入るからぼくのことをよく知っているみたいだけど、カークはまだ若いし、知らないんでしょ。だったら不思議がるのは当然だよ」

 判定者は東雲宮南面東翼の裏側を見こすように、よっこらせと背伸びした。爪先で立ったところで見えるはずがないのだが賢明に東側を気にしている。

「王の執務室ってあっちだっけ?」
「いえ。北面東翼の一番西にあたりますから、ここからですと丁度この中央奥側になりますが……」
「あれ? 違っちゃったか」
「ヴィーさま、南面東翼の文官の政務所に何か?」
「えっと、そんなに派手じゃないんだけどさ。特にあそこらへんが元気がいいんだよね。ここの地気脈、ちょっと不思議だよ」

 その後もあちこちをきょろきょろ見まわして落ち着きなくふらふら歩いている判定者が転んだりしないように魔道師たちは注意しながら、一行は謁見の間へと進んでいった。

 大きな扉が見えてくると、「私どもはここまでになります」とバビギクとカークは退いた。

「案内、ありがとう」

 判定者は同行の魔道師を前に押し出すと、銀の瞳を閃いて、「面倒なことはよろしくね」とアジャマラルににっこりと微笑み、自分はうしろに控えるように下がる。アジャマラルは慣れたように頷くと、ふたりは前後一列になって進んだ。

 謁見の間の扉の前にはふたりの番人がいた。

「《学びの塔》から参りました」
「伺っております。──《学びの塔》の使者殿が到着いたしました」

 番人が取り次ぎを願うと、「しばし待て」と内側から応えがあり、しばらくしてから「許可する」と返事があった。

 大きく開いた扉をくぐると、謁見の間中央に敷かれた赤い絨毯の道が奥へと続いている。赤い道の上をゆっくりと歩き、最奥の檀上に座する王の前まで進むと、アジャマラルとその後ろに控えた判定者は軽く頭を垂れた。

 魔道師が膝をつくことは滅多にない。特定のひとりの王に信誠を誓い、奉仕している魔道師は極少ないのである、それが実状だった。

 魔道大国イクミルの国王相手であってもその態度は一貫している。どの国、どの王宮に伺候していようが、魔道師が所属するのは本来《学びの塔》であるのだ。

 イクミル王国内に位置しながら、治外法権を持ち、諸国に常に網の目を拡げ、最新の情報を自在に操れる《学びの塔》の影響力は大国イクミルにも比類する。魔道師の本質を知る各国の王や高官たちは、高い能力を保持するわりに低い地位に甘んじている彼らを疎かに扱うことはしない。

 謁見の間には王以外にも宰相や側近たち、そして近衛騎士たちが顔をそろえていた。彼らは魔道師の軽いとも受け取れる儀礼挨拶を眼にしても、眉を潜めるものはほとんどいなかった。

 アジャマラルが「初めておめにかかります」からはじめる長い口上をのべると早速本題に入った。

「私は《学びの塔》より参りましたアジャマラル・ムキールと申します。こちらに控えるは地気脈の判定者ヴィーでございます。我らは諸国の気塊および地気脈の現状を調査しているものです。このたび、貴国オルゼグン王国における現状調査を行うにあたり、ご挨拶に伺いました」

 宰相のそばに控えていた宰相補佐がアジャマラルの言葉に片眉を顰めた。王や宰相も訝しげに遠方からの客人を見つめている。

 魔道師は調査の許可を願い出たのではなく、調査するのは決定事項であり、こそこそしたくないから前もって事前に知らせに来たのだと口にしたのだ。

「頭を上げよ。諸国ということは、このオルゼグン以外にもその調査を行っているということか?」

 オルゼグン王国第七十九代国王テレンツ・テインが尋ねた。

「さようでございます。すでにイクミル王国の調査は済みました。貴国が二国目でございます」

 アジャマラルの淡々と答える声が、判定者の頭の上を滑っていく。

 判定者はオルゼグンの国王をただひたすら見つめていた。緊張に身体を固めたように、表情をまったく変えずに、ただそこに立って前を見つめ続ける。それは退室するまで続いた。

 ようやくアジャマラルに「行きましょう」とうながされたとき、判定者はようやく視線を王から外した。

「あれが王? 王気がほとんどないのに? あれならまだあそこにいる側近のほうがまだ王気があるじゃないか」

 その小さな呟きは謁見の間の扉の閉じる音とともに跡形もなく霧散した。

 オルゼグンで何が起こっているというのか。





 西のイクミル、東のオルゼグン、その両国北部にそびえ立ち、北国ベリュートナラ王国との国境線となっているオルデ山脈は大陸中原の《白い屋根》とも呼ばれ、西から東北に向かってゆっくりと伸びあがる曲線を描いている。その白い尾根の曲がり具合は、片刃の剣の刀の背のような緩やかさで、まさに《峰》と呼ぶに相応しい。

 オルゼグン王国最北の伯爵領であるウッドローは、そのオルデ山脈の壮大な白峰を背後にのぞむ緑豊かな山地にあった。

 《学びの塔》からの使者を久方ぶりに迎えたその日の早朝、陽は地平線からその輝かしい丸い顔をだし、あたりを橙色に燃やした。山の斜面が朝陽を帯びて金色に輝き、その斜面の細い街道を進む小隊六騎の背も金色に照らした。

 朱金の髪を靡かせる先頭騎が足を止めると、あとに続く騎馬もそれにならう。

「下を見てみろよ。絶景だぞ」

 エルウィンが後方を振り返って指差した。

 左手崖下に広がる景色は麓の村ののどかな風景のさらに向こう、昨日食糧補給に寄った隣り町の鐘楼さえも地面から小枝が突き出たようにうっすらと望める。草深い野の新緑の絨毯に白や黄色の花々が刺繍されているかのようにところどころ咲いている。それらが朝陽を浴びて朱色に染まっている。まさに美しい春暁の景色である。

「何、余裕かましてるんですか隊長。そりゃあ見事っちゃ見事ですがねえ、それよりこの上り坂、いい加減勘弁してほしいっすよ」
「ボリス、そんなこと言っていないであなたも堪能したらどうですか。この色合いを楽しめるのも今のうちなんですから」
「ゲザルトの言うとおりだぞ。ここまで澄んだ色合いは俺でさえ滅多に見られない。有難く見とけ」

 崖下を見下ろす景色はそのままでもとても美しい。だが、これほどの見事に朝焼けに染まった色はなかなか拝めない。この時間、この場所であってこその絶景である。すぐにこの焼けた色は消え去ってしまう。その刹那の儚さがまた格別な想いを生むのだろう。

「あなたが言うのならそうなんでしょうけど。ホント、よくそんな余裕ありますねえ。俺はそれよりマジにこの山道、早く終わってほしいっす」

 年がら年中、各地を旅してばかりいるエルウィンでさえも感嘆する勝景だと言われれば、いっそうありがたみを感じるというものだが、いかんせん山間(あまあい)に引かれた街道が半端ない。荷馬車がぎりぎり通れる幅しかないのである。下り坂の急な曲りなど、速度が下がりきれずに体勢を崩した回数は片手では収まらない。

「何にしても、隊長が景色なんかを気にするようになるとはねえ。槍でも降らなきゃいいけど」
「勝手にほざいてろ」
「うそうそ。冗談ですって」
「噂には聞いていましたが、ウッドローがこれほどの山奥だとは……、いやはや想像以上です。ですがこの景色は格別ですよ。ここまで登ってきた苦労が報われる気がします」
「イールは執務室に籠りすぎだ。たまには王都を出るのもいいだろう?」
「……たまにでしたら。確かにこれはそう思わしてくれる美しさですが」

 来た道を振り返れば春の訪れを感じる風景が崖下にある。しかし、行く手を再び仰ぎ見れば、そこには白い雪で覆われた冬景色が広がっている。高地のウッドローにはまだ春は来てないと見えた。

 しばらく進むと残雪がところどころに見えてくる。雪解け水で濡れた岩肌は滑りやすい。坂道を上るのにもますます慎重になった。

 坂を上りきると崖から離れて森に入った。やや下り坂になる。最近、雪が降ったのか、針葉樹の森は綺麗に薄く雪化粧され、白い森と化していた。真っ白な道に黒い蹄跡を残してゆく。

「オルデ山脈の向こう側はもっと雪がすごいぞ。まだウッドローはましだと言うのだから、まったく想像するに難いな」

 一刻かけて山道を進み、森から抜け出た。

「見てみろ、山頂の向こうのあれは雪雲だ。オルデから吹き下りる名残の雪雲をゲルウッドローの山が下の麓に流れるのを防いでいるのがわかるか。ウッドローはまさに冬の砦と言っていい」

 手前足元を見下ろすと谷が広がっている。谷底には雪解けの水が川となって流れていた。

「この先、道がふたつに分かれている。もうひとつは吊り橋に続いてる。こっちが近道だ。で、もうひとつは山肌に沿って谷に下る周り道になってる。行き着く先は一緒だが、俺たちは吊り橋の道を行こう」

 すぐに道はふたつに分かれた。迷うことなく右手を選ぶエルウィンのあとに一行は続く。下り坂なうえに雪があちこちに残っているその上、陽があまり当たらないせいか固く凍っている。足取りは言われるまでもなく慎重になった。

 再び上り坂になった。

「もうすぐだ」

 エルウィンの声に重なって、カタカタと鳴る音が遠くから聴こえてきた。それもひとつではない。

「何の音です?」
「すぐわかる」

 進むごとにカタカタの音がだんだんと大きくなっていく。

 急に視界が広がった。道が突然切れたように見えた。坂を上りきったのだ。下は谷になっていた。道はまっすぐに吊り橋へと続いていた。

 カタカタ音も前より大きくなった。

「ようやく着いたな。あれがウッドローだ」

 エルウィンが吊り橋の向こう岸を指差した。

 吊り橋の対岸にはもうひとつの峡谷景観が広がっていた。渓谷の規模はそれほど大きなものではないとはいえ、左右と前の三方向が渓谷になっているなど滅多に見られない景色である。鋭角に裂かれた谷がこちら側にむかって二等辺三角形をかたどるようにだんだんと広がっている。だが、それは扇状地を呼ぶにはあまりにも狭い。

 正面のウッドロー渓谷の谷底には川が流れ、川は吊り橋の下で主流に合流していた。谷底の川岸には雪が高く積もっているところもある。ところどころ地肌も見えたが、石がごろごろと見えるだけで草はほとんど生えていなかった。

「ウッドローの春は遅い。第一、ここの真冬はこんなもんじゃ済まないぞ」

 エルウィンの脅しは脅しではないのだと誰もが悟った。

 渓谷の背景には高い山が重なりそびえている。とても遠くに見えていたはずのオルデ山脈の雄大な白い峰がごく近くまで迫ってきていた。ウッドローを初めて訪れたものには巨大な白壁はあまりにも壮大すぎた。荘厳な白い景色を間近にして、畏怖に近いうっすらと寒いものを覚える。

 これが最北の伯爵領ウッドローなのかと誰もが眼を見張る。

 息を飲んだのは、迫るように広がる厳しい自然の景色に感動しただけではない。ウッドローの城下町というべき姿にも驚いた。

 吊り橋は正面奥の渓谷の右の崖に繋がっていた。その先には迷路のような通路が崖に沿ってこしらえてある。通路脇には等間隔に穴が掘ってあり、通路には縄の手すりのようなものが道に並行して張ってあった。崖の上部を見れば、奥のほうと真ん中あたりの二カ所に大きな滑車が取り付けられていて、荷物や家畜を荷台に乗せて昇降している様子が見える。穴は貯蔵庫や飼育小屋になっているらしく、通路を使ったり滑車を使ったりして運搬をしているようだ。

 左手の崖にも通路がある。こちらの崖にも穴が掘ってあるが右手の崖と比べると数は少なく、代わりに丸太小屋がいくつも並んでいる。丸太小屋からはそれそれ谷底に降りられるように随所に階段がある。一番上の通路からは何本か綱がぶらりと垂れさがっている。今まさにその綱を伝って下に降りた人の子がいた。どうやらこの縄は緊急降下用の縄のようである。

 渓谷の一番奥、崖と崖が合わさったところに石造りの館が建っている。南方のこちら側に張り出すように石畳の広場が作られ、左手の崖と吊り橋で繋がっている。館の窓はどれも少なくて小さく、敵軍からの攻撃から身を守るように防御を考慮して設計されたもののようだ。要人の館であることは一目瞭然である。のどかな田舎の風情に似合わない、国境沿いの要塞のような厳つい景観の伯爵邸だった。その伯爵邸にも風車がふたつついている。こちらもくるくると勢いよく回転していた。

 ほかの領地では見られない一風変わった領主城と城下町に誰もが眼を見張る。

「こりゃあ、おもちゃ箱みたいだ」
「おもちゃ箱か、そりゃあいい。ボリスもなかなか的を射たことを言うな。まさにあそこはおもちゃ箱だぜ。何しろ領主が率先してあちこち改造して楽しんでやがるからな」
「これがウッドローですか……。驚きました」
「私もです」

 ゲザルトとイールも感嘆を漏らした。

「俺も初めてきたときは驚いたぜ。でもまあ昔はまだこれほどじゃなかったけどな。この七年ちょっとで随分風車も増えてますます派手になったもんだ」
「ここがセシルどのの領地……。予想外です。それにしても──こういう自由な雰囲気な町はあなた好みなのでしょう、エルウィン? 道理で居つくわけだ」
「ガチャガチャしたのが俺好みだって言いたいのかよ。第一、居ついたつもりはねえよ。仕事で来たのがほとんどだしな」
「ご冗談を。たまに顔を出しているらしいじゃないですか」
「そんなことねえって。今回だって二年振りに来たんだぞ。ったく、誰がそんな法螺話をおまえに聞かせたんだよ。セシルか?」
「違いますよ。ヒューとマーシャルです」
「くそっ、あいつらか」
「正真正銘、あなたの直属の部下だった騎士からの情報ですよ。それにどうやって私がセシルどのと接触するって言うんですか。セシルどのはウッドローから滅多に出られないようですし、私は二年前までは王宮勤めで王都に缶詰だったんですよ。田舎の両親のところにすらほとんど帰っていないと言うのに」
「そういやおまえ、セシルと会うのは7年振りって言ってたっけ」
「そうですよ。きっと大きくなられてるでしょうねえ」
「まあなあ、身体もそうだが、態度も充分でかくなってるかな。──あんまり夢を見るのはよせよな、ゲザルト」
「何を言っているのです。あのセシルどのですよ、素晴らしく見栄えにいい品行方正な若者になってらっしゃるに決まってるじゃないですか。お会いするのが楽しみです」
「おい、俺の言うことも少しは聞けよ」

 巡監使エルウィンの専属護衛騎士となって二年目のゲザルトは、ヒュームとマーシャルからセシルについても少し聞いていた。ふたりは前任のエルウィン付きの騎士だった。また、七年前に限らず、何度か一緒に任務を遂行したこともあった。ふたりとは今でも気の合う友人として交流がある。

 初めて顔を合わせた時、エルウィンは隊を率いる巡監使ミッターヒルの一従者でしかなかった。それが今では押しも押されぬ中堅の巡監使である。またこの春からは主管監察官として宰相府所属の要職に就くことになっている。華々しい出世と言っていいだろう。著しく成長したのはセシルだけではないと言える。

「ウッドローは田舎と捨て置けない何かを感じさせますね。宰相補佐官がぜひ伝令を立候補するようにと勧めてくださった意味が何となくわかってきました。この地には王国を変える力を生み出そうとしているのかもしれない。この活気ある風景を見ているだけで私も信じたくなります」
「ほかにハリーは何か言ってたかい、イール書記官?」

 エルウィンがハリーの直属の部下であることを強調する役職名で呼んだのはわざとだ。

「ほかに、ですか? セシルさまのご様子などを見てくるようにとは言われましたが、特には何も。息災でいてくれるといいとおっしゃってましたが」

 探るような朱金の瞬間視の視線を正面から受け止めつつ、イールは飄々と答えた。

「エルウィン、何を突っかかってるんですか。イールどのは宰相府の書記官なのですから、仕事ついでにセシルどのの元気なお姿を自分の代わりに見てきてほしいというのは何もおかしいことはないでしょう?」
「別に突っかかってなんかいないさ。ハリーは何かと細けえんだよ。だからまた俺にもうるさく言ってくるのかと勘ぐっただけだ」
「ハリーさまがエルウィンどのをかわいがっておられるのは知られた話ですしね」 
「うるさいよ、イール」

 ボリスが「隊長ってば照れてやがる」とからかうと、エルウィンは馬を近づけて、部下の後頭部をは軽くはたいた。

「いてっ」
「ボリスのくせしてナマ言うじゃねえよ」
「いや、そんなつもりは……。隊長、すげえ変わったなあって感心してるんですよ。だってあの隊長が、っすよ? この十年の間に何があったのかなあって気になっても仕方ないっしょ?」
「うるせー」

 それでもボリスはエルウィンの成長をいい感じに変わったものだと感慨に思うのだ。ボリスが知っているかつてのエルウィンは貴族と笑って慣れあうような少年では決してなかった。

 エルウィンが手を上げて、前に下した。前進の合図である。

 騎乗したまま吊り橋を渡ろうとするエルウィンに咄嗟に後れを取った三騎だったが、意を決してあとに続いた。イール付きの護衛と従者もそれにならう。

 吊り橋を渡りきる。そこで見張りの番人に呼び止められ、通行書の提示を求められた。ウッドロー伯爵領に入ってくるものはすべてここで一旦せき止められるのだ。

 防衛体制がうまく機能している。エルウィンは思った。

──ウッドローは地の利を生かした要塞だ。背後はオルデ山脈。あれを超えるのは一苦労だろう。吊り橋から大軍を攻め入れることもできない。重さに耐えきれずに谷底に落ちるのはわかりきってる。

 このウッドローへの入口で審査問答を受けるるたびに思い知る。

──ここまで地形を徹底的に利用した要塞は滅多にない。

 一方で不可解に思うこともある。

 ふとエルウィンは渡ってきたばかりの吊り橋を振り返った。

──オルゼグン側に架かっているのが吊り橋というのはどうしてだ? なぜ石橋を築かない? 確かに回り道をすれば川は渡れる。石橋を作る必要がないと言えばないんだろう。だが普通は自国の王都に続く道にもっと配慮するもんだ。これを作り上げた領主は何を考えてた? いったい何を守ろうとしてたんだ。

 門番に催促され、代表してエルウィンが馬から降りて、番人に通行書を提示する。

「王都から来た。巡監使エルウィン・ル・ティモエだ。こちらは宰相府書記官のイール。あとのふたりは俺付きの護衛騎士と書記官付きの護衛と従者だ。我々は領主代行セシル・ル・オトゥールに王からの書状を持ってきた。ここを通してもらいたい」

 こうしてエルウィンは二年振りにして五度目のウッドロー入りを果たしたのだった。





 その同刻の王都では、王との謁見を終えた判定者たちが足早に王宮を去ろうとしていた。

 先を急ぐ若き判定者にバビギクが駆け寄ってくる。

「お尋ねのものの名がわかりました。おそらくヴィーさまがおっしゃっていたのは宰相補佐官のハリー・ハンクス・ハイマイエ・ル・ティモエだと思われます。ゲディス公爵の長子で、ピアジュ侯爵と呼ばれている王妃の異母弟です」

 意外な報告に、判定者はぴたりと歩みを止めた。バビギクを振り返る。

「王妃の異母弟?」
「彼は王族ではないのか?」

 アジャマラルもまた驚いていた。

「ええ。ですが、ティモエ家は王家傍流の大家で、王家との繋がりが深い一族には違いありません。かの一族は現王妃だけでなく、長年王家と姻戚関係を結んでいます。彼は特に王家に近い。ピアジュ侯爵の実母は王妹のアマンディア王女ですので、王にとって侯爵は義弟でもありますが、甥にもあたります」
「そりゃまたものすごく王家に近い血筋だねえ。道理で王気があるはずだ」

 納得したように頷く判定者をアジャマラルは窺い見る。

「何かお考えが?」
「そうだねえ。ちなみにハリーの王位継承順位はどうなってるの?」
「順当に考えるならばヒューイッシュ王子に次いで二位ですが、公爵家のものとはいえ王族ではありませんし、そのあたりは何とも……。それにヒューイッシュ王子もまだ立太子されておられませんので……」

 バビギクは正直に答えた。

「あらら。ここの王さまって悠長なんだねえ。とはいえ、慎重なのは美点だけどいつまでも後継を決めかねてるっていうのは、一王国の統治者としてちょっとまずいんじゃないの? それともヒューイッシュ王子って立太子するには幼なすぎるわけ?」
「いえ、今年で二十二歳になります」
「それはおかしいねえ。よく側近たちが黙っているなあ」
「とんでもございません。貴族たちは王に何度もご注進申し上げております。王太子の問題はここ数年来オルゼグンにとって悩みの種になっているのが現状です」
「ふうん。この国にもいろいろあるってことか」
「ピアジュ侯爵は切れ者の文官ですが、以前は近衛隊第一師団団長を勤め上げた優秀な武官でもありました」
「文武両道とはすごいな。それも王家に近しい大貴族の嫡子とはね、そりゃあ出来すぎだ」
「大きな声では言えませんが、先王は初孫のピアジュ侯爵を大層可愛がっていたようで、いずれ王家に養子に迎えて後継に据えるのではないかという噂もございました。正直申しますと、ヒューイッシュ王子はピアジュ侯爵に比べると何事にもおっとりとした方でいらっしゃいますので」
「おっとりね、ホントうまいこと言うよねえ。ものは言いようだな」

 判定者はゆっくりと歩みはじめた。王宮から出て、北の遠方に凄然と聳えるオルデ山脈の白い峰々が見えてくると、眩しそうに少しだけ眼を細めて見やる。

「優秀な王甥か。だから王は迷っているのかな」
「それは何とも……」

 バビギクは口ごもった。ちらりと昔馴染みの魔道師に眼をやる。その眼は、なぜ判定者はこれほどまでにハリーを気にするのかと問うていた。アジャマラルは、私に聞くなと首を振り、肩を竦めて見せた。

「まあいい、まずはウッドローだ」

 判定者はくるりと古参の魔道師たちを振り返ると、呆気なく決断を下した。

「ピアジュ公爵領はそのあと回ろう」


   


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