彼が生まれたのは1837年10月29日。すぐ上の兄(Alexander Stewart)と同様に、南アフリカ滞在中でした。翌年、父母らと共に母国イギリスへ、そして学校を終えて早々に John は長兄の William James とともに、インドで政府の仕事に就き、1856年にベンガル地方の地理調査の実施を任務とした王立ベンガル技術団 Royal Bengal Engineering Corps の技官となり、『大三角測量』に従事しました。
1867年に Mary Cornwallis Power と結婚。彼は官職の傍ら天文学にも深い関心を持ち、南天の星と星雲のスペクトル測定などに力を注ぎ、多くの論文を書いています。1868年と1871年には王立学会の委嘱を受けて皆既日食を観測し、太陽のプロミネンスのスペクトル中に3本の輝線を同定した John は、太陽成分研究の基礎を築いたと評価されました。インド滞在中の1871年に王立天文学会の会員に選ばれ、またカルカッタ大学の評議員 Senate に加わりました。さらに祖父 William の偉業『恒星の比較光度の改訂』“Revision of the Comparative Brightness of the Stars”を、1世紀前に着手した同じ部屋で完成しました。1859年1866年の退官まで大三角測量局 Great Trigonometrical Survey の副長官 Deputy Superintendent でした。
1888年、すでに妻に先立たれていた John は Alexander, Isabella それに Fransisca〔転載者註:いずれもきょうだい〕と一緒に、ケント州(Hawkhurst)から Slough の古巣 Observatory House に戻り、晩年は身体を痛め、献身的な妹 Fransisca の世話になりながら、1921年に亡くなりました。
奇遇ですね。ちょうど先週、私はATS(Antique Telescope Society)のメンバー数人と会う機会があり、その中にマイケル・クロウさんもいました。彼は A Calender of the
Correspondence of Sir John Herschel (Cambridge 1998) の監修者です(同書は残部僅少なので、新本で購入を希望の方はお早くとのことでした)。この大冊は、ジョン・ハーシェルの文通相手の詳細なリスト、彼に関連するあらゆる書物の書誌情報、さらに膨大な索引も付いており、研究者のみならずハーシェルのファンならば、ぜひとも手元に置きたい本です。
Sydney Ross の The Catalog of the Herschel Library (私家版, 2001) の中でも、JとHを組み合わせたスタンプは、ジョン卿の蔵書印として特に言及されていません。私自身、ジョン卿の蔵書は何冊か目にしたことがありますが、"Herschel Library" のスタンプはあっても、「JとH」のスタンプは見たことがありません。後者は、彼の三男で同名のジョンが使ったものではないでしょうか。
この本には、見返しの上部に“Captain John Herschel, R.E.”という肉筆書名があります。これはハーシェルの三男のものと見て間違いないでしょう。さらに、1874年10月29日の日付があり、これはジョン卿が亡くなった3年後に当り、MBHというイニシャルの人物から、息子であるジョンに贈られたものであることが明らかです。このイニシャルの持ち主で、彼に近しい人物といえば、その母親であるマーガレット・ブロディー・(スチュアート・)ハーシェルしかおりません。