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Re: 大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月10日(木)21時36分56秒
返信・引用
  上原さま、続報をありがとうございました。
失われた星座の正体が徐々に明らかとなってきましたね。
当方でも、この件は今少し気にかけてみます。
他の方も情報をぜひお願いします。
(WEBだよりに掲載したら、また反響があるかもしれませんね。)

それにしても、ラテン語が読めたらなあ…と思うことしきりです。
 
 

Re:  大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について(3)

 投稿者:上原 貞治  投稿日:2009年12月10日(木)18時35分21秒
返信・引用
  管理人様、 「ハーシェルの望遠鏡座」の「その後」をお調べ下さりありがとうございます。星図に限らず、1928年(星座が88に限られ、「ハーシェルの望遠鏡座」が「公式に廃止」された年)以前に刊行された星座名のリストなどに載っているとおもしろいと思いますが、そういうものはありませんでしょうか。

 さて、私は少し古い方に向けてのコメントです。すぐに消えてしまったヘルの「ハーシェルの小望遠鏡座」の星図ですが、ヘルがこれらの星座を書き込んだ Monumenta aere perenniora(1789)の星図のおおもとは、フラムスティード星図のようです。ここには、フラムスティードが1690年にそれと知らずに観測した天王星が記入されています。

http://www.omikk.bme.hu/tudtort/28/full/kepek_fejezet/80.205_k3.jpg

の"TAURUS"の"T"の上に黄道のすぐそばにある星です。
いっぽう、フラムスティード星図の1795年版は、こんどはヘルに影響されたものか、ハーシェルの小望遠鏡座を採用しています。 また、フラムスティードの観測した天王星には"Herschel"と添えられています。以下の、新旧のフラムスティード星図と比較してみてください。

http://www.lindahall.org/events_exhib/exhibit/exhibits/stars/lal_for.htm

フラムスティード星図1795年版のハーシェルの小望遠鏡はヘルとは前後が逆になっていて、牡牛が対物レンズ側からのぞいているように見えます。ファインダーと接眼部の位置から見てハーシェルの反射望遠鏡を屈折望遠鏡と混同してしまったようにも見えます。ラランドがこんな素人っぽい間違いをするとも思えませんが、いかがでしょうか。

 次に、なぜ、オーストリアのヘルがジョージ3世に星座を献呈したかですが、原恵著「星座の文化史」(玉川選書 147, 玉川大学出版部、1982)には、同時に献呈された「ジョージのこと座」のところに次のように書かれています。
「このジョージは英国のジョージ二世王のことである。ジョージ二世は、ドイツのハノーヴァーの選挙侯で英国のアン女王の死後、英国にわたって王位をついだジョージ一世の子である。三十歳のとき父とともに英国にわたり、父の死後ジョージ二世となった。一七四〇年から四八年にかけ、オーストリアの女王マリア・テレージアがオーストリアの王位を争ったとき、ジョージ二世治下の英国が後援したので、ウィーンの天文台長だったヘルがこれを感謝して作ったものと思われる。」
 オーストリア継承戦争と天王星発見とでは30~40年の時代差があるので、これだけで即座に得心できる理由なのか私にはわかりませんが、これと同様の理由でハーシェルの望遠鏡も星座として提唱されたということなのかもしれません。
 

Re:  大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 9日(水)22時23分52秒
返信・引用
  > No.184[元記事へ]

ハーシェルの望遠鏡座について、もう少しメモ書きしておきます。

日本語版ウィキ等に出てくる「1781年」という設定年の出所は、たぶん Allen の STAR NAMES:Their Lore and Meaning ではないかと思います(管理人が参照しているのは、1963年に復刊されたドーヴァー版)。

そこには、この星座が「ウィリアム・ハーシェル卿を顕彰するために、ヘル神父によって1781年に設定され、ボーデによって1800年に公刊された。やまねこ座とふたご座の間に位置し、BurrittのAtlasには載っているが、彼の時代以降は星図・星表から消え去った」云々とあります。ここには、その典拠がなく、また小望遠鏡座のことが触れられていません。したがって、事の当否はにわかに判定できません。

大小の望遠鏡座の由来は、上原さんが挙げられた Monumenta aere perenniora(1789)の24~25ページで、ヘル自身が詳述しています。が、やっぱりラテン語が読めないので、詳細は不明。どなたかご教示いただければ幸いです。ただし、小望遠鏡座は7フィート望遠鏡、大望遠鏡座は20フィート望遠鏡がモデルだと書かれているのは、辛うじて分かりました(septem pedum, viginti pedumというのがそれでしょう)。


また、ハーシェルの望遠鏡座の下限について、上記のようにアレンもバリット星図を挙げていますが、それよりもさらに新しい(一応ちゃんとした)星図を見つけました。

上図は、バリットよりも10年ほど時代が下る、E. Otis Kendall の ATLAS OF THE HEAVENS(Butler & Williams, Philadelphia, 1845)から取りました。ただし、この星図帳では、星座名が単に「Telescope」となっていて、ハーシェルの名前が落ちています。(が、この八角形の鏡筒は、ハーシェル望遠鏡の名残でしょう。ちなみに南天の「ぼうえんきょう座」も「Telescope」となっていて、結局この星図帳には同名の星座が2つ載っています。南天の方は、普通の円筒形の鏡筒に描かれています。)

こうして見ると、何だかアメリカの星図ばかりなので、イギリスの出版物からも1つ例を挙げておきます。下図は、1832年に出た有名な『ウラニアの鏡 Urania’s Mirror』より。ハーシェルのお膝元のわりに、望遠鏡の描写がいい加減で、これでは天王星も見つかりそうにありません。。。
 

Re:  大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について

 投稿者:管理人  投稿日:2009年12月 8日(火)22時37分28秒
返信・引用
  興味深いご投稿をありがとうございました。
蛇足ながら、便乗して投稿させていただきます。

> なお、ヘルの原著は〔…〕この星図が世に出たのは1789年で、Wikipediaの1781年(天王星の発見年!)というのは誤りのようです。

英語版ウィキでも「1789年」となっているので、多分これは日本語版のミスなのでしょう。ところで、英語版ウィキからリンクされている、Ian Ridpath's Star Talesというサイト(http://www.ianridpath.com/startales/telher.htm)には、日本語版ウィキと同じように、大望遠鏡座は20フィート、小望遠鏡座は7フィート望遠鏡がモデル…と書かれています。そして、「ヘルが描いた大小いずれの望遠鏡も、現物とはかけ離れた姿をしていることから、ヘルはいずれも見たことがなかったのだろう」云々とあって、まあ恐らくそうなのでしょうね。で、後にボーデが、ヘルの言う「大望遠鏡座」の位置に7フィート望遠鏡を描き込んだので、話がややこしくなってしまったと。

さて、このハーシェルの望遠鏡座、いったいいつまで使われたのか?という下限の問題も気になります。一応“きちんとした星図”という条件を付けると、1835年にアメリカで出たBurrittの星図には(望遠鏡がハーシェルっぽくないですが)載っているのを見つけました(上図)。

さらに、ちょっと制限を緩めると、何と1892年に同じくアメリカで出たH.F.Reddall編のTHE WORLD WE LIVE IN という地図帳に収録されている星図にも出ているのを発見(下図)。これは学問的な星図では全くありませんが、一部では100年以上命脈を保っていたことは確かのようです。

なお、いずれも載っているのはボーデと同じく(ヘルのいう)大望遠鏡座のみです。小望遠鏡座は驚くほど短命だったようですね。絵柄的には、牡牛が望遠鏡でオリオンを覗いているみたいで、面白いのですが…
 

訂正:大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について

 投稿者:上原 貞治  投稿日:2009年12月 7日(月)21時04分49秒
返信・引用
  > No.182[元記事へ]

下の記事で、

>下の星図に"Uranus"と書かれているところ

よく見ると、"Uranus"ではなく"URANIA"と書かれていますので、訂正します。
 

 大小の「ハーシェルの望遠鏡座」について

 投稿者:上原 貞治  投稿日:2009年12月 7日(月)20時59分16秒
返信・引用
  かつて星空に設定された星座でありながら、廃れてしまった、あるいは、現行の88星座のうちに残してもらえなかった星座というのは、なんとなくあわれで、また歴史的興趣のあるものです。それらのなかに「ハーシェルのぼうえんきょう座」というのがあります。(なお、「ハーシェルのぼうえんきょう座」は過去に北天にあった星座で、南天にある現行の「ぼうえんきょう座」とはまったくの別物ですので混同しないでください。)

 この「ハーシェルのぼうえんきょう座」をネット上のWikipediaで引いてみますと、次のような事が書かれています。(以下、こちらで箇条書きに一部を要約しました)

1. オーストリアの天文学者マクシミリアン・ヘルが1781年に作った。
2.2m級の望遠鏡と6m級の望遠鏡の大小2つのぼうえんきょう座が、それぞれ(ふたご座、やまねこ座、ぎょしゃ座)の間、と(おうし座、オリオン座)の間にあった。が、その後、一方だけが残った。現在は両方ともない。
3. ボーデの星図には「ハーシェルのぼうえんきょう座」が描かれている。(画像付き)

 これを読むとなかなか謎を秘めているようです。

 ところで、このハーシェルの望遠鏡座を設定したのはボーデであるとしている文献もあります。ボーデの星図には、ハーシェルの(天王星の発見に使った)7フィート望遠鏡らしきもの(つまり2メートル級)が描かれていて、場所は(ふたご座、やまねこ座、ぎょしゃ座)の間です。いっぽう、ボーデの星座には、おうし座、オリオン座)の間に望遠鏡座はありません。つまり、ボーデはひとつの「ハーシェルのぼうえんきょう座」しか採用していません。

 さて、ヘルの大小どちらの「ハーシェルのぼうえんきょう座」が残ったのかといいますと、この謎はネット時代の現在では案外簡単に解くことができました。出典は(「攻撃サイト」の警告が出るので)あえて紹介しませんが、その情報をたどると、ヘルの作った3星座の図へのリンクがあり、そのうち大小のハーシェルの望遠鏡座の図は
http://www.omikk.bme.hu/tudtort/28/full/kepek_fejezet/80.205_k2.jpg
http://www.omikk.bme.hu/tudtort/28/full/kepek_fejezet/80.205_k3.jpg
です。鏡筒だけしか描かれていませんが、書かれている星座名からして、上のものが大望遠鏡で、下のものが小望遠鏡です。小望遠鏡が7ftだとしますと、7ft鏡の星座は(おうし座、オリオン座)の間にあったのが、ボーデの星座ではもともとの20ft鏡の場所である(ふたご座、やまねこ座、ぎょしゃ座)の間に移動させられたことになります。大小のハーシェルの望遠鏡座は、天王星が発見された方向(ふたご座、オリオン座、おうし座の境界付近)、下の星図に"Uranus"と書かれているところ)を挟みこむように設定されていたことがわかります。

なお、ヘルの原著はグーグルブックで見ることもできます。「Monumenta aere perenniora  Maximilian Hell 1789」で検索してみてください。ラテン語で書いてあって私には読めませんが、大小のハーシェルの望遠鏡座は、「ジョージのこと座」と同時にヘルによって英国王ジョージ3世に捧げられた3星座のうちの2つであったことがわかります。なお、この星図が世に出たのは1789年で、Wikipediaの1781年(天王星の発見年!)というのは誤りのようです。
 

年会が終了しました

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月22日(日)09時39分34秒
返信・引用
  会員各位

昨日、虎ノ門天文会館で、協会の創立25周年を記念する年会が無事終了しました。
今年新たに会員としてお迎えした、上原氏、後藤氏も交え、議論と歓談のひと時を持つことができました。具体的な決定事項もいくつかありましたが、議事詳細については、おって「WEBだより」を通じてご報告いたしますので、しばらくお待ちください。
 

Re: 『博物新編』の「長さ四丈の天文鏡」は「ハーシェル40フィート鏡」か?

 投稿者:上原 貞治  投稿日:2009年11月 7日(土)19時12分52秒
返信・引用
  > No.179[元記事へ]

管理人様、 早速の謎解きありがとうございました。ロス伯の望遠鏡がモデル(というか間違いの元)になっていたのですね。ロス伯の時代にも枠組みのやぐらの望遠鏡が作られていたのですね。なかなか忠実に模写されているように思います。

 ホブソンの間違いなのでしょうが、彼が中国で限られた資料で広い分野を適度にカバーした著書を出したことを考えると、まあよく健闘したものだと感じます。

 それから、『博物新編』の漢語・訓点版(国会図書館の近代デジタルライブラリー)には、『談天』の引用が多く頭註にあります。初版同士で比べると『博物新編』のほうが古いようなのでどの版で始まった頭註か分かりませんが、『博物新編』はハーシェルと微妙な機縁を持つ書だと思いました。
 

Re: 『博物新編』の「長さ四丈の天文鏡」は「ハーシェル40フィート鏡」か?

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月 7日(土)17時23分46秒
返信・引用
  > No.178[元記事へ]

いつもながら細やかな観察!
『博物新編』を目にしながら、管理人は全く見過ごしていました。

これはサイズからすれば(40ft望遠鏡は、後にも先にもあれ1台しかなかったはずなので)、明らかにハーシェルの40ft望遠鏡だと思いますが、架台は全然違いますね。

この挿絵には、はっきりとした元絵があります。描かれているのは、1840年にロス伯が作った口径36インチ、鏡筒長26フィートの望遠鏡です。(通称「3フィート望遠鏡」とあり、この頃には既に望遠鏡を焦点距離ではなく、口径で呼ぶ習慣に改まっていたのでしょう。なお、下の画像は、H.C.King の The History of the Telescope(1955)からスキャンしましたが、大元は1840年の Philosophical Transactions のようです。)

それにしても、何故こんなミスが生じたのでしょうか?
ホブソンはロンドンで医学士(M.B.)の称号を得た後、すぐ中国に渡り、その後長く中国で医療宣教師として活動した人だそうです。したがって、その天文学の知識も一般教養レベルを超えるものではなかったと思われ、彼の単純な勘違いなのかもしれませんが、あるいは、当時ホブソンの手元に、他に挿絵に使えそうな適当な資料がなかったこと、すなわち『博物新編』の書かれた情報環境を物語るエピソード…という可能性もあるかもしれませんね。
 

『博物新編』の「長さ四丈の天文鏡」は「ハーシェル40フィート鏡」か?

 投稿者:上原 貞治  投稿日:2009年11月 7日(土)11時26分40秒
返信・引用
  こんにちは。会員の 上原 貞治です。

 ちょっと気づいたことがありまして、西洋の大望遠鏡の歴史に詳しい方にお尋ね致します。価値があることでしたら、どうか発展させていただければと存じます。よろしくお願い致します。

  明治の初めごろに自然科学の入門書として重宝された『博物新編』に長さ四丈という望遠鏡の図が出ています。これは、ウィリアム・ハーシェルの40フィート鏡でしょうか。

 『博物新編』は、もともとは、英国人のホブソン(Benjamin Hobson, 1816-1873, 中国名 合信)という人が、1855年に中国で中国語で刊行した自然科学の入門書です。そして、この本は、江戸末期~明治初期に日本で訓点版や訳解版が出版され、広く読まれました。ここに挙げる写真は、大森惟中による訳解版(『大森惟中 博物新編訳解』増訂再版 第三巻)からとりました。中国版原本は見ていませんが、図は合信のものを忠実に模写しているものと思います。

 さて、「四丈」ですが、1丈=10尺 (日本でも中国でも同じ。ただし長さは10%くらい違う)、尺はフィートの訳だとしますと、これは40フィート望遠鏡であることになります。ちょっと見では、ハーシェルの40フィート鏡を描いたもののように思われます。しかし、細かいところをよく見るとかなり違います。まず、やぐらのてっぺんが四角い塔状になっています。また、鏡筒の根元付近に小屋がありません。これらの点で、よく見るハーシェルの40フィートの画とは異なっています。筒先に人が入って観測する籠がついているところは、ハーシェルのものに近いです。

 これは、ハーシェル鏡を描いたものでしょうか。そうであるならば、なぜ、形状が少し違うのでしょうか。もし、ハーシェル鏡でないならば、どの望遠鏡を描いたものでしょうか。どなたか調べていただければ面白いことが分かるかもしれません。

 私の考えでは、四丈=40フィートであるとすると、このような枠組みのやぐらを組んだ40フィート望遠鏡は、ハーシェルのものしかなかったのではないかと思います。ハーシェルの40フィートは1839年に解体されるまでは世界最大でしたし、その後作られた大望遠鏡は、もっとメカを駆使した架台を持っていてこのような三角形のやぐら構造をしていなかったのではないかと思います。また、別の可能性として、長さは40フィートだが口径がハーシェルのもの(4フィート)よりも小さいものがあったのかもしれません。そうならば、今度は、なぜ名高いハーシェル鏡を差しおいてマイナーな望遠鏡を描いたのか、という問題が起こります。ありそうなのは、著者が混乱して別の望遠鏡の図をハーシェルの40フィートだと勘違いした可能性です。

 なお、この巻の本文を見ますと、天王星の発見について触れられていますが、けしからんことにハーシェルの名前は出てきません。「西洋国ノ天文師」となっています。また、「ウラニュス」と「テンワウセイ」の二つの呼び名がともに出ており、当時の日本で西洋名と漢名の両方の呼び名が行われていたことが分かります。
 

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