ハーシェル紀行
ケープタウンでのハーシェル・シンポジウム
石田五郎
南アフリカ共和国のケープタウン大学で、天文学者ジョン・ハーシェル生誕200年を記念するシンポジウムが誕生日の3月7日をはさんで開催され、私も日本ハーシェル協会の会長として、これに参加し小論文を英語で発表した。ケープタウンは南緯34度、東京との時差は7時間、距離は約17,000km。成田からの直行便はなく、台北・香港又はシンガポール乗換でSAA(南ア航空)の便が使える。我々は台北乗換の便を選んだが、台北空港では「南非航空」、行先は約翰尼斯堡(ヨハネスブルグ)、掲示には略して約堡と出るし、開普敦(ケープタウン)という字もなかなか読めない。南アフリカへは台湾からの出稼者が多く、乗客の大部分は中国人である。機内の拘束は合計20時間をこえるが、椅子に座ってうつらうつらしているのは、この4半世紀つづけた天体観測の基本動作であり、あまり苦にならなかった。
ケープタウンの風景の中心は、市街地の南方にそびえるテーブル山である。花崗岩の隆起した平坦な大地で、左には尖ったデビルズ・ロック(悪魔の岩)右にはライオンズ・ヘッド(獅子の頭)が並ぶ。そして喜望峰の突端で大西洋とインド洋とがぶつかるので特に山頂での雲の去来がはげしい。山に薄い白雲が流れる時はテーブル・クロスとよばれる。ケープタウンで最初に観測したのは、フランスの科学アカデミーのニコラス・ルイ・ド・ラカイユで1751年〜53年のことであった。ここで南天の星の精密位置を観測、新たに9,450個の星の位置を追加し、望遠鏡、顕微鏡、時計、ポンプなど15個の南天星座を新設したが、その中にテーブル山座(Mensa)という星座をケープタウン遠征の記念につくり、星空では大マゼラン雲を山頂にただようテーブルクロス雲に擬している。
ケープタウンの市内では、すべての人が大きく立派である。白人はみなショーン・コネリイやジーン・ハックマンのような偉丈夫で、老人は大抵あごひげをはやしている。黒人はというと女性はみなジョセフィン・ベーカーのようになまめかしく、男性はかつて尾上松緑が扮したシェイクスピアの「オセロ将軍」さながらで、たまにはミキー・デビス二世のイミテーションもみかける。
ケープタウンの市内には、かつて英領時代の王立天文台をうけついだ国立ケープタウン天文台がある.台長は変光星研究で有名なフィースト博士で、あごひげの濃いリンカーンに似た風貌だが、3月末で定年退職だという。国立ケープタウン大学の天文学科主任教授ブライアン・ウォーナー博士が今回のシンポジウムの主催者ですべてを準備した。ウォーナー博士は変光星、特に激変星観測の大家であるが、ケープに移ってからは、ケープに残されたジョン・ハーシェルの書簡を整理し、「ケープ王立天文台の天文学者たち」「ハーシェルとマクレアとの往復書簡」「ハーシェル夫人書簡集」など精力的に数冊の本を出版している。眼光炯々、しかし目くばりはやさしく、一寸と鼻にかかった早口の言葉、そして丸くつき出したオナカまでが故人の畑中武夫さんそっくりで、思わず涙がこぼれた。
ケープには日本人の天文学者がいた。関口和寛さんという若い学者で、国際基督教大学の物理学科を卒業、アメリカのサンディエゴで天文学の学位をとり、生物学専攻の圭子夫人と二人で、ここにがんばっている。奥さんはここの南ア博物館に勤務、鯨の研究で時々新聞にも出るという。二人ともこのケープタウンに根づいて生き生きと活躍している。
日曜日に希望者がサザランド天文台を見学した。これはケープタウンから北東300kmの2,000mほどの高さにある総合天文台である。プレトリアから移設した74インチ、それに40インチ、30インチ、20インチ、12インチ等6個のドームが荒地の項上に林立する。特に74インチは、グラブパーソンズ社製、ケープタウンはプレトリアよりは南によっているので、イギリス式赤道儀の北側の軸受けは三角形でななめにかさあげしてある。我が岡山観測所のものとは姉妹機でボデーは赤く塗られているが「別れた女房」に再会したようでこれも涙がこぼれた。夜はドーミトリーに泊まったが、寝るのが惜しくて月の沈んだあとの快晴の南天星座を満喫した。月といえば夕方西に沈んだ三日月が日本とは反対に左に反りを見せるのを確認した。翌日は弁護士でアマチュア天文家のデュプレさんの車に乗せてもらった。BMWが時速160kmで疾駆し、3時間でケープに帰ることができた。
「学鐙」1992年7月号(丸善)より要約転載された、
日本ハーシェル協会ニューズレター第51号より再転載