足立信順『ユラヌス表』にある天王星の軌道要素の
典拠 上 原 貞 治 1.はじめに この『ユラヌス表』には、西洋書から参照したと見られる天王星の軌道要素が載っているが、今 回、その典拠がほぼ明らかになった。本件は、幕府天文方グループが、比較的近年に出版され た西洋の天文書を参照し、観測や研究に利用していたという彼らの努力を示す例として注目に値する。
『ユラヌス表』のテキストには天王星の軌道要素が明確に書かれている。それらは、以下の通りである。 平均日々運動 42."231692 公転周期に換算すると 30687.854日 軌道半長径 19.1834750 a.u. 両心差 0.8955422 a.u. 離心率に換算すると 0.046683 軌道傾斜角 46'16" 平均日々運動と軌道半長径は独立の数値で、ケプラーの第3法則で結びつけられてはいない。また、昇交点黄経と「遠日点黄経」(あるいは「遠日点引数」)、「遠日点通過日時」(あるいは 元期における平均遠点離角)は、与えられていない。 これらの軌道要素の数値のうち、軌道半長径と離心率については19世紀はじめの西洋書に広 く現れる値と一致していて、例えば、Jacob de Gelder の著書“Algemeene aardrijksbeschrijving” (1803) [4](蘭書。以下 de Gelder )に記述があることを指摘したが、平均日々運動(または公転 周期)と軌道傾斜角については、明瞭な出典を見つけられていなかった。今回、これらの数値に ついても彼らが利用できたとみられる典拠を見つけた。結論から述べると、『ユラヌス表』の平均 日々運動は、同じく de Gelder のデータから付加的な計算操作で得られた数値と見られる。また、軌道傾斜角については、de Gelder に記載はあるものの『ユラヌス表』の値とは違っており、こちらは別の西洋書であるJ.A.Oostkampの“Proeve ten betooge dat ook de planeten,…”(1815)[5] (蘭書。以下 Oostkamp)所載の数値を引用したものと推定できる。
de Gelder の同じ表に、地球の公転周期(恒星年)として、365.256日が掲げられている。これから、天王星が太陽から見て恒星天を周回する角速度は、地球のそれより(30689÷365.256=) 8402052259…倍遅いことがわかる。さて、当時の日本の暦法(寛政暦)では、1年の長さとして麻田剛立(1734-99)の消長法に基づく太陽年365.24235578日(時代とともに変動する。ここでは1822 年に対応する値を使う)を採用していたので、地球の平均日々運動は(360°÷ 365.24235578× 3600=)3548."328882… である。よって、天王星の平均日々運動は、(3548."328882÷ 84. 02052259 =)42."2316925… となり、『ユラヌス表』の値と有効数字で一致する。これは偶然とは 考えにくいので、この計算方法で算出されたことは間違いないであろう。なお、一連の計算で、恒星年と太陽年の両方が使われ、結局それらの比率で天王星の公転周期が補正されていることになるのは、天文学的に見て妥当か大いに疑問がある。この点は、かつて高橋至時(1764-1804) が惑星の編暦法『新修五星法』の構築の際に検討をしたところで、日本の暦学との整合性のためにはこの操作を行うのが筋が良いと判断したのであろう。 最後に、de Gelderの軌道傾斜角は、0°46' 25" となっていて、『ユラヌス表』の値とは合わない。 Oostkampに、巻末に太陽系に関する折り込み付表がついていて、そこに天王星の軌道傾 斜として0°46' 16"の数値が載っている。これは、『ユラヌス表』の値と一致する。
この2冊の西洋書は、いずれもオランダ書であるが、現在、ともに扉ページに「蕃書調所」の蔵 書印のあるものが1冊ずつ国会図書館に保管されている[4,5]。de Gelderのほうには「求己堂記」 の印もあり、もとは天文方の高橋景保(1785-1829)の蔵書であったことがわかる。Oostkampには、「ヲヲストカンプ惑星同種辯 天文十九 楓山 一冊」と記した付箋があり、もとは楓山文庫の蔵書であったらしい[6](楓山文庫は紅葉山文庫の江戸時代の呼称で、江戸城内にあった将軍のための文庫。蔵書印を押さないことになっていたという)。従って、2冊とも1828年まで天文方と書物奉行を兼務していた高橋景保の管理下にあったと考えられ、幕府天文方は自由にこれらを閲覧することができたであろう。そもそもこれらの購入を決定したのは景保かもしれない。Oostkamp の付表には、朱筆で訳語の書き込みがある。その筆跡は渋川景佑(1787-1856)のものであるよう に見えるが、文字数が少ないため確定は保留する。 これら2冊が天文方グループの研究のために初めて参照されたのはいつのことであろうか。これらが本当に『ユラヌス表』の数値の典拠であるならば、その下限は『ユラヌス表』の計算が行われた時のことになる。それははっきりしないが、足立信順と間重新が天王星観測を始めた1824 〜1826年頃とするのが妥当であろう。また、上限については、de Gelderについては、同じ「惑星の表」に、ケレス、パラスの2小惑星のデータがあることから1813年ということになる。この年に、 足立信頭(1769-1845、足立信順の父)らが幽閉中のロシア人ゴロヴニンらを訪問し、ロシア側の記録(ゴロヴニン『日本幽囚記』(1816))に足立らが天王星については知っていたが小惑星については知らなかったとあるからである[3]。いっぽう、Oostkampのほうの上限はその発行年の1815 年まで遡れる。常識的に考えて、蘭書が幕府に届くまでには1年以上かかったことであろう。 なぜ軌道傾斜だけOostkampの値が使われたかという疑問がある。うまい説明は思いつかないが、天王星の楕円軌道上の運動の計算に軌道傾斜は必要ないので、まず、『ユラヌス表』の初めのほうの部分([2]の2節@〜B)の計算がde Gelderに基づいて行われ、そのあと少し間を置いて、残りの軌道傾斜が影響する部分([同CD)が新たな文献(Oostkamp)を参照して計算されたとすると、一応のつじつまは合うかもしれない。
今回、『ユラヌス表』の天王星の軌道要素の典拠の探索を通して、1813〜24年頃の幕府天文方グループの惑星研究の努力を探ることができた。この間、彼らはオランダから新しい天文学書を購入するだけでなく、そこから新惑星についての知識を仕入れ、それを実地に活かす努力をしたようである。それは、新惑星を自分たちの力で観測したいという天文学研究の純粋な興味があったであろうし、また、うまくいけば編暦に新惑星を組み入れたいという暦学者のプロ意識もあったのであろう。
[2] 上原貞治「足立信順の『ユラヌス表』と日本初の天王星観測」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2011) [3] 上原貞治「日本における天王星の受容(増訂版)」日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2018) [4] Jacob de Gelder“Algemeene aardrijksbeschrijving”1803-08, Amsterdam 2巻2冊、第1巻(1803) に「惑星の表」 [5] J.A.Oostkamp “Proeve ten betooge dat ook de planeten, even als onze aardbol, door levende en redelijke [6] 大崎正次 編「天文方関係資料」, 巻末書目pp. 23-35 (1971), 非売品. |