こいずみちょう
地図

郵便番号:639-1042   世帯数・男女別人口
小泉町の歴史
歴史事典より

小泉は歴史的価値の高い町です。すなわち歴史事典によれば小泉藩であったころのこの村は大和国内の9カ村・河内の1カ村・和泉の7カ村・摂津の2カ村・山城の2カ村を治めていました。廃藩置県のおりには小泉県を名乗ったほどでした。明治4年11月25日に、大和一円を管轄する奈良県が設置され、わずか4ヵ月間で小泉県の名も消え、小泉には奈良県小泉出張所が置かれたということです。

小泉城(こいずみじょう)
小泉庄に地侍の小泉氏がいた。『額安寺文書』の貞和6年(839)3月に小泉出雲とみえるのが初見で、南北争乱のころ、すでに頭角をあらわしていた。大和永享の乱に、小泉氏は越智党に組し、永享11年(1439)3月、畠山持国の軍によって小泉以下の越智党は熊野の奥に追いやられ、小泉の所領も欠所とカなっている。その後、小泉重栄・今力丸などが繁栄を遂げていた。長禄3年(1459)に筒井順永が小泉城を攻めたので、重栄・今カ丸は切腹し、順永は小泉城を破却するために、奈良中の郷民を動員したと記録されている。そして小泉城の用材を筒井城の柱に使用している。その後、十市氏のはからいで筒井と小泉の和解ができ、小泉重裕が小泉を相続するが、越智党の衰退により完全に筒井の傘下にはいり、その独立性を失い、記録の上にもあまり出てこないようになる。
ところが小泉の善福寺に「小泉庄城主宝岸院殿縁誉重順大信士位永禄四辛酉年五月二十九日」の位牌と「小泉宝岸院殿」の墓と伝えられる五輸塔がある。また市場の安養寺にも「小泉城主宝岸院縁誉長順大居士永禄四歳次辛酉五月二十九目」の墓石がある。この宝岸院殿とは、小泉四郎左衛門重順のことで、壮烈な戦死をとげたとする伝承が、小泉の地に根強く伝わっている。永禄4年(1561)2月26日、松永久秀は小泉城に向かって発向、激戦3ヵ月の末、5月29日未刻、小泉城はついに陥ちた。このとき18歳であった城主小泉四郎左衛門重順をはじめ市原正弘・丹後庄舜英房・竜田道春・小南政祐・目安祷弘など17人が切腹し壮烈な最期を遂げた。家老の河本宗円・弟の宗左衛門は自害しているが、宗円の後は市場に定住し、片桐氏入部後は大庄屋を務めていた。この戦いは、筒井順慶が信長に従い越前出陣中である時を見定めて、松永勢が小泉城に押しよせたのである。そのあと、四郎左衛門の伯父長慶を小泉に連れ戻し、小泉を相続させた。この長慶の一子小泉四郎が、のちに順慶の養子となり、伊賀守を受領した筒井定次であるといわれている。いま残っている薙刀池をはじめ、一連の外堀は、豊臣秀長に仕 えた羽田長門守(4万石)が、この地にはいったとき造ったものといわれ、古い時代の小泉氏の館跡を拡大したものと思われる。慶長6年(1601)に片桐且元の弟貞隆が小泉周辺を含めて1万5,OOO石余を与えられて大名に列し、しぱらく茨木城に本拠を置いていたが、知行地支配の関係上、陣屋構築にふさわしい小泉の地を選び、この地に住んでいた農民を街道筋に屋敷替えを命じた。これが小泉町を形成するもととなった。陣屋の地は、台地の先端部で、急崖の東は湿田、その東に富雄川が流れる要害の地であり、地形から考えて、その内郭が中世の小泉城の跡地とわかる。内郭は西側に屈曲があり、長辺150mの長方形の堀で囲まれ、東の崖下と西甫の谷に堀池が残っている。陣屋をとりまいたこの内堀は、50年後の延宝元年(1673)に完成したといわれ、その費用は銀4貫目であったと『旧記』にある。このころになると陣屋としての景観も整ったようである。幕末の小泉域地復元地図によると、外堀・薙刀池・お庭池で陣屋はとり巻かれ、その中に家中屋敷があり、さらに内堀を巡らす藩主の居館があった。北ノ町から大手道によって内に通じ、調練場も陣屋外につくられた。陣屋と呼ぱれるが、城郭としての構えを 十分に傭えた大規模なもので、城下町は東の富雄川沿いの南北の並びに、北ノ町・中ノ町が、東西の並びに本町が整然とできあがり、今日の地割りに、そのまま残っている。大手門は、北ノ町の南端に突き出した形で開き、東西80mほどの区域が3回屈曲する桝形になっていた。ただし石垣構えでたく塀囲いであったようである。他に、北・西北・南の3カ所に門があり、門の1つは現在小泉神杜の山門として残らている。門は冠木の上に切妻をつげて両方の門柱後方に控柱を設け、その控柱と扉とを雨露から守るため切妻の小屋根をつけた彫式で、冠木門と呼ぱれるが通常高麗門といわれ、城郭では桝形の外方に用いられる門の型式とされている。

小泉村(こいずみむら)
富雄川左岸の集落。中世小泉氏がこの地に館を設け、豊臣秀長の家臣羽田長門守(4万8,000石)が館を構えるなどの要害かつ景勝の地で、片桐且元の弟、貞隆が慶長6年(1601)1万5,O00石に列し、しぱらく本拠を摂津国茨木においていたが、知行地支配の関係上、陣屋構築にふさわしい小泉の丘陵台地の尖端に眼をつけ、台地上の農民を街道筋におろした。それが今の小泉町のはじまりである。陣屋を構えたのが元和9年(1623)で、陣屋をとりまく内堀は、50年後の延宝元年(1673)にでき上がっている。このときから小泉の町は、北ノ町と本町・中之町に分かれた。この町方に対し市場集落は村方として残った。延宝2年6月14日、富雄川が氾濫し、小泉町は大被害を蒙った。小泉藩は流家の20軒へは1軒につき金2両宛、潰家40軒へは金1両ずつの割合で救済している。このため藩は大坂の持屋敷を20貫で売り払っている。庚申堂で名高い金輸院も流れるという大洪水であった。・文化12年(1815)6月15目も、暮れ六ツから降り出した大雨に、富雄川の水が溢れ「小泉水八九尺」の記録がある。この村の石高1,597石のすぺてが小泉藩領であった。明治21年の町村制施行によって池之内村・満願寺村など10村落で片桐村と なっている。
戻る