普通のOLのコンピュータ史


2000/3/18
    「歴史の生き証人」という言葉に憧れています。
  とは言っても、私の想定する「歴史」とは、太平洋戦争やケネディ暗殺とかではなくて、「ウッドストック」とか「パンガン島」なんですけど・・・まあ、それはかなり偏った趣味なんですが、知人でそういう「伝説を体験したい」という方がいて、伝説になりそうなところを飛び回っていましたが、「いつも一歩遅くて、伝説になかなか追いつけない」とこぼしていました。そういう欲求を描いた小説が「ビーチ」(ディカプリオ主演映画にもなりました。まだ見ていないけど。2000年3月現在)だったのだと私は解釈しています。

  ともかく「歴史の生き証人」になるのはなかなか難しいですよね。でも長く生きていると、いろいろあるもので、例えば今は亡き「ジュリアナ」のお立ち台で踊ったなんていうのは「生き証人度」としてはまあまあなんじゃないでしょうか。私は「ジュリアナ」は行かなかったけど、御近所の「ゴールド」にはよく通いましたので、あそこももはや「伝説のクラブ」になっています。もっとマニアックな方面だと「現・小澤健二」が封印してしまった「フリッパーズ・ギター」なんかもすっかり伝説化していて、何年か前にライターの知人から「ある雑誌で、フリッパーズ特集を組むのだが、当時の下北沢のZOOの様子とかを聞かせてほしい」なんて電話があり、ZOO(その昔は「下北ナイトクラブ」という名前でそれを知っている人はさらにすごい下北沢に存在した小さなクラブ)っていうのももはや「伝説」になっちゃったなあなんて感慨深かったりして、私もそういう狭い世界では「生き証人」ぶることも可能です。

  おっと、あまり世間には通用しない自慢話になってしまいましたが、とにかく平凡な人生を歩んできた私ごときにも「いやあ、あのころはさあ・・・」なんて若者に語ったりする機会がないわけでもないわけで、これがもっと年配の方になれば「過去の日常=現在の伝説」なことに気が付く瞬間は多いのではないでしょうか。
  これは一歩間違えると「わしらの子供の時代には・・・」とか「私が入社したころは・・・」などの年寄りの説教になりがちですが、私が職場の年配の方によく振る話題で、こちらも聞いていて楽しいのは「昔のOA機器」というか「OAのない時代はどうやって仕事をしていたのか?」というものです。この話題はけっこう使えるので、「窓際のおっさんと何話していいかわかんない」と嘆くOLの方にはお勧めです。
  
 パソコンがない時代というのは記憶に新しいし、今でも全くOA化しないでいる会社は残っていると思いますが、FAXがない会社なんて想像できません。いったいどうやって仕事してたんでしょうか?ね、聞きたいでしょう?でも、おじさまたちも、記憶があいまいなんですよねえ。コピーだって私が中学生のころにはなにやら紫にけぶる紙を使ってました。(同世代以上の方、憶えていますか?)あれが20年前かあ、すると30年前はどうしてたんでしょうか?知りたいでしょう?今の50代のおじさん達は、まさに「そういう時代を生き抜いてきた」わけです。知りたいなあ、会社でも黒電話(その存在自体を知らない若者も多いと思うが)使ってた時代って、どうやってたんだろう?そうか、交換手がいたんだ。ワープロはなかったけどタイピストはいたんですよね。

  やっと本題に入れそうです。
  こういうOA機器の進歩も面白いですが、私がそれを語るのには若すぎるようです。せめて50代にならないと資格がない。私が働き始めたころには、ワープロはかなり浸透してましたからね。(でも画面が5行くらいしかなかった)
  そこであえて、「コンピュータの歴史」について語ろうと思います。
  これはかなり無謀な企画(?)です。なぜって私はいわゆる「文系の女の子」だったので、コンピュータについてはかなり無知でした。(今もあまり進歩していないが・・・)しかし、世の中にあまたある「コンピュータの歴史」は、開発者やマニアなユーザーの視点で描かれたものはあっても、私のような「どシロウト」の書いたものは少ないというか見たことないので、こういうのもありなんじゃないかと思い立ち、馬鹿にされるの覚悟で記憶を辿ってみます。きっと私と同じような立場の方は楽しく読んでいただけると思います。
 

  あんまり宣伝したくありませんが、私は1966年生まれでございます。
  幼少のころは白黒テレビでした。白黒パンダも初来日のときに(ランラン&カンカン)上野動物園で御対面しました。

 コンピュータ的なものを現実(アニメやSF小説などを省くという意味)に意識したのは、テレビゲームでしょうか、インベーダーゲーム流行りましたね。中学校でも問題になったような・・・非行化の温床と攻撃されてましたね。
  でも、あれがコンピュータだとは意識してませんでした。ゲームはゲームでしょう。ゲームがコンピュータで動いているのだと認識したのはやはり任天堂が「ファミリーコンピュータ」を発売したころではないでしょうか。
  私はゲームに興味がなかったので、そのあたりの記憶があいまいなのですが、あのころのゲームっていかにも「点のかたまり」な画像でしたよね。手先の早い動きと反射神経がものをいうゲームばかりで、そういえば「高橋名人」は今はどうしているのでしょうか?
 
 さて、私の高校時代はテレビゲームがかなり一般的になったころだと思います。
 そのころ私はどんな高校生だったかというと、都心からほどよく離れた(電車で2時間弱くらいのギリギリ通勤圏)歴史のある町の歴史のある高校で理科室に入り浸ってました。
 普通のクラスがある「本館」とは渡り廊下で繋がれた「理科棟」は4階建ての建物で地学・生物・化学・物理の教室があり、理科担当教師は各フロアに教官室があって主にそこに棲息していました。講義をする部屋と、教官室と、実験室があり、実験室と教官室の間には「準備室」というスペースが設けられていて、保管に注意を要する器具や薬品が格納されていましたが、同時にそこは「理科系クラブ」の部室になったいました。
 フロアは違っても同じ理系魂を持ったもの同士で各クラブはけっこう仲が良かったように記憶しています。
 生物部の飼育していたイモリだかヤモリだかに、正面玄関前の池で捕獲したおたまじゃくしを与えたりしていた私は、天文部に所属していました。ここはさらに雑多な人達が集っていました。なぜならテレビが置いてあったのです。
 
 こんなふうに思い起こすと、あのころの雰囲気って高校というよりは大学の研究室とかに近かったような気もします。とにかくテレビがあるために、放課後はよくみんなで集まってアニメの再放送なんかを見たような気がしますが、そんなことよりも、そのテレビには「コンピュータ」がしばしば接続されておりました。
 マイコン好きが持ちこんだのです。そうです、あのころは「マイクロ・コンピュータ」という名称でしたよね。私は最初、「マイ・コンピュータ」かと思ってましたが・・・機種はいったい何だったのでしょうか?PCなんたらとか、MXなんたらとかそんな名前だったような・・・4桁の番号がついていたような・・・そんで上級機種になるとその番号が増えていったような気もしますが、あいまいです。とにかく、キーボードがあって、テレビに接続して、音も出て、記録保存はカセットテープでした!

 それを見るまでに私がコンピュータに抱いていたイメージは、テレビで観るNASAのスーパーコンピュータやアニメで観る宇宙船やロボットを制御するようなご立派なやつで、それが「マイコン」として目の前に置かれても「こんなもんで君たちなにをやりたいの?」と疑問に思いました。
 実際に理系少年たちが嬉々としてやっていたのは
 


コンパス使えば10秒でできるのに      と思いました。
 


 1980年代初頭は私にとってはこんなもんでした。
 しかし、このころの体験が災いして、私は全くコンピュータの進歩からは目をつむってしまったのです。その状態はなんとこの先10年続くことになります。
 

 入学したした年に大学の視聴覚室がリニューアルされていて、けっこう穴場でした。ビデオやLDが置かれていて自由にブースで区切られたところで閲覧できました。そこの資料検索にはコンピュータが導入されてましたが、これが今から考えるとえらくトロくて、当時も「カード検索の方が速いぜ」と思いました。
 他にあんまり大学在学中はコンピュータ関係の記憶がありません。文系学部しかなかったし、だれもそんな話してなかったような・・・そういえば、だれかが「第○世代のコンピュータ」について語っていたけど、よく理解できませんでした。私の知らないところで進化しているんだなというカンジ。ビッグバン論争くらい現実味がなかった。(宇宙の始まりよりも大事なことはいくらでもあった。恋愛とか・・・)
 蛇足ですが留守番電話が普及しはじめたのってこのころだと思います。80年代後半。一人暮らしの大学生は、まず就職活動のために導入していました。携帯電話は「スタートレック」でしか知りませんでした。
   実は私、ちゃんと大学卒業せずに、アルバイトをしていた会社の社員になってしまったので、バブル景気が意識される直前には社会人になっていました。
 
 テレビ番組やCMを制作する、いわゆるプロダクションに入ったのですが、そういえば90年になるかならないころ、某大物俳優を起用したIBMのCMを作りました。「AS800」とかそんな数字の機種だったと記憶しています。CMの内容は「この器械は大企業にも中小企業にも使えます」みたいなことでしたが、「商品」はただのでかい箱でした。人間の腰くらいになるやつ。IBMが世界でも有数のコンピュータメーカーだという知識はありましたが、CMで紹介されている「箱」がいったい何をするものなのか今一つわかりませんでした。多分、製作者レベルであまりそういう知識のある人はいなかったと思います。
 
 コンピュータが賢い機械であるという漠然をしたイメージはあっても「では、あなたはそれを使って何をするか」というと何も思い付かないという状況です。ただ、大企業なんかはそういうの使って「何か」をしているんだろう。大学なんかもやはり「何か」をしているんだろう。一般人のコンピュータに対するイメージってそんなもんだったのではないでしょうか。
 ただ、そのころ「マックはすごい」という情報はちらほら入ってきていました。何がどうすごいのか知らないけど「マック欲しいなあ」とつぶやくのは「ティファニーのオープンハートが欲しいなあ」というより、やや上等なかんじではあると漠然と考えていました。

 そのころのコンピュータに関する知識というと「コンピュータを操るには《コマンド》という特別な言葉を習得しなければならない」というものでした。英語もろくに話せないのに、機械語を習得せよとは何たる傲慢!なんだか「銀河鉄道999」が停車する変な星の話のようでした。
 それを、実感する出来事もありました。
 
 いきなり話は、私の得意分野になりますが、80年代ってポップミュージック(つまり洋楽)にとっては「暗黒時代」でした。特に中盤は本当に盛り下がっていて、インダストリアルノイズ(ノイバウンテンなんかがメジャーだったが、鉄鋼業の工場の音をそのまま録音したような音楽とは呼べないような物凄いのもけっこう出回っていた)や、ゴス系(ゴシックロック、おどろおどろしかった暗くて重い音楽)なんかがばっこしてました。スミスが活躍していたのはそんな時代です。イギリスの若者は全員失業中かと思いました。
 しかし、80年後半になると光明が射してきました。電子音楽の復活です。ハウス系の音楽がちらほら出現してきて、打ち込みを上手く使ったロックも台頭してきました。アシッド・ハウスにマンチェスター系(ストーン・ローゼスが代表格)と目が離せない状況です。そんな中「ブリープ・サウンド」もしくは「ブリープ・ハウス」と呼ばれた音楽も登場しました。
 ブリープ=信号、今でいうとミニマルの軽いのというところですが、かの英国では若者がみな貧乏なため、日本製の古いシンセを多用していたので、そういう懐かしいテクノの音を有効に生かす音楽が量産されていたのです。
 ブリープ・ハウスと呼ばれたジャンルのものは、黒人音楽を基調としたハウスと違って、あまりグルーブ感を感じさせないため、機械オンチの私にも「このくらいだったら私にもつくれるのでは?」という気を起こさせました。
 
 丁度そのころ、友人の職場の同僚がミュージシャンでコンピュータオタクだったので、さっそく彼の家に遊びに行きました。そこで、シンセをピコピコいじっていたのですが、なにせ今まであまり真剣に触わったことがないので、「ビヨーン」とか「プオーン ピッピ」とか音出しているだけで、だんだんつまらなくなってきました。
 私と友人が遊んでいる横で、家主の彼は、ノートパソコンで遊んでいました。何をやっているのかと尋ねると、
「パソコン通信」
 たしかに文字がだーっと書いてありました。おお、これがあのうわさの!と思いましたが、内容的には「あんまり積極的にやりたいとも思わないなあ」というものでした。
 何が楽しくて、文字でお喋りしているのか理解不能でした。(多分NIFTYのフォーラムだったと思います)
 しばらく彼が操作しているのを眺めていましたが、いちいちコマンドを入力しなくてはならず、とても面倒くさそうでした。興味を持った様子の私たちに、他にもなにかいろいろ見せてくれたのですが、どれも「フーン」という感じでした。彼もどうしたらいいのか困ったようで、
「じゃあ、ゲームでもしますか」
 と言い出しました。
「シム・シティっていう、自分が市長になって、町を作るゲームなんだけど、これがはまるんだよ」
 そうです。いまやファミコンだかスーファミでお馴染みのあの「シム・シティ」です。
 ノート・パソコンの画面は当時のワープロと同じくモノクロで、もちろん3D画像ではなく、平らな線描でした。それでも私は試しに触わらせてもらったのですが、これが生まれて初めてゲームに没頭した体験になりました。
 今までやったことのあるゲームはどれも時間との戦いでしたが(テトリスも「ウギャー」とか叫んでいる間にゲームオーバーになり嫌になった)どうやらこの「シミュレーション・ゲーム」というやつは実に私向きのようだと気がつきましたが同時に徹夜でゲームに勤しむ我が姿を想像してぞっとしました。
「ゲームはやばいし、パソコン通信はあまり面白そうじゃないし・・・やめとこ」
と、賢明な私はそう判断したのでした。

 その後、「コマンド不要」が騒がれて、多分マックが今の「猿でも使える」方式(のちにウィンドウズに受け継がれていくというかパクられることになるのでしょう?)を広めて、デザイナーさんや、ミュージシャンさんらが飛びつきましたが、絵描きにも音楽家にもなるつもりのない私には、高い金出してまで買う必要のあるものには思えませんでした。

 そんな中、ワープロしかなかった会社に、初めてのパソコンが導入されました。銀行とオンラインで繋がって、振込みや残高照会のできるマシンです。本来なら小さな端末器で充分だったのですが、なにせ振込み件数が多かったので登録データ量を考えてパソコンを入れました。でも、振込み以外に使うことはありませんでした。あんな原始的なマシンでも今にして思えばもうちょっと何かできたんだろうけど、そんなこと思い付きませんでしたし、そんな労力も惜しむほど忙しかったのです。
 ただ、そのころ印象に残っている話としては、OSという概念を教わりました。会社にそういう方面にやや明るいオジサンがいて、やはりパソコン通信とかやっていたのですが、
「今度またすごいのが出るらしいからねえ」
とか話していたので、詳しく聞くと、パソコンというのは、それを動かすための基本的なプログラムが必要だそうです。そのころ私が使っていた「振込みマシン」は「MS DOS」というものが動かしていて、それに「振込みするためのソフト」が乗っかっている。なるほど、立ち上がりの画面をみるとそうなってます。この「DOS」というのを作ったのがマイクロ・ソフトという会社で、今度は「DOS/V」ってのが出るらしい。という話でした。

 このころから話の密度は濃くなっているので、時系列はあいまいになっているかもしれませんが、なにせ漠然と記憶をたどっているだけなので勘弁してください。

 さて、ここでやっと「マイクロソフト」登場です。この話を聞いた時点で株買ってたら、儲かってたんですかねえ?
 だとしたら、私は間違った選択をしたことになります。
 
 DOS/Vが出たころは、「コンピュータネットワーク」が一般的に語られるようになった時代だと記憶しています。それ以前にも、アップルのコンピュータとIBMのものでは互換性がなく、このままだと「VHS対ベータ」みたいな事態になるのではないかと、OLレベルでは懸念していました。(自分は当時は使用する気もなく機会もありませんでいたが、近い将来普及するということは理解していました)それが「ネットワーク」を介在させることによって少なくとも文書のやりとりは可能になるわけで、そうなれば「ネットワーク」の本来の目的である「リアルタイムでの情報交換」を可能にするのだろうということは、実状とはずれてはいたかもしれないけれど、当時の私個人の認識でした。
 近い将来、パソコンは一家に一台、電話のように普及するだろう(まだ携帯電話は、ショルダーバック型よりやや小さくなったころ)とは確信していました。そして、そのパソコンには必ず「MSなんとか」が搭載されることになるわけです。そのことに気がついた私と友人は

ビル・ゲイツと結婚したいよねー

 と、話していました。いやあ、今から考えると、普通のOLにしては目の付け所が良かったのではないかと自負しています。でも、株買うとかは思い付いてなかったし、金もないし、だいたいあのころはどんな株買っても上がるもんだという風潮でしたでしょ?
 それからが速かった。「どうすれば、ビルとお近づきになれるのかなあ?」なんて、ばか話で盛り上がっている間に、WINDOWS95が発売されてしまいました。ビルもいつのまにやら結婚していました。

 それでも私、パソコンなんて必要なかったのです。

 経理でしたから会計ソフト導入の話は何度も浮上しましたが、マスター登録を全部やるかと思うと、かえって忙しくなりそうで嫌だったし、それを乗り越えると楽になることはわかっていましたが、上司は「パソコンなら、なんでもできる」くらいに思っているのがわかっていたので、逆にそういうメンテナンスでも苦労しそうだったので、石橋を叩いて渡る性格の私としてはしり込みをしていました。

 そのころ、まわりでマック買う人が続出しました。(パワーマックが出たころだったかな?)
 会社でも同僚達がさっそくはまっていて「残業続きで放ったらかしてたら、魚が死んでしまったー!!!」などと真面目に悲しんでいました。魚飼うの流行ってましたねえ。当時のマックって「金のかかる女」によく例えられてました。
「なんか次々とアクセサリーを欲しがるんだよねえ。こっちも可愛いもんだから、ついつい買ってあげちゃって」
などという話はよく聞きましたが、そういう話を聞くにつけ守銭奴の私はますます頑なに「そんなもんいらない」と思ったものです。

 インターネットもかなり普及してきて、「メールアドレスは?」なんて聞かれることもありましたが、別に用があれば電話すれば済むし、そういうネット系の友人達の会話には耳を傾けてはいましたが何十万も払ってまで参加しようとは思いませんでした。

 そうこうしているうちに、当時勤めていた会社を辞めることになりました。一応円満退社。私はかねてからの夢だった「長期の海外旅行」に勇んで出かけました。退職金と貯金を合わせれば1年間は遊んで暮らせるくらい溜め込んでいました。ちょうど30歳になったので、これを人生の節目として、とことん遊んで気が済めば、また社会復帰しようという堅実な計画でした。
 
 さて、思惑通りに、かなり気が済んだので、「さあ、働こう!」と意気込んだはいいのですが、時は1998年、景気はすっかり後退し、「就職氷河期」「リストラ」等々、雇用情勢は私が想像していた以上に厳しかったのです。一応、長年経理の仕事をしていたので、それなりにニーズはあるかと楽観していたのですが、もう箸にも棒にもかからない状態。これは私の想像ですが、ちょうど中小企業でも経理にパソコンを導入した時期なのではないでしょうか。おかげで経理部門の人数が減ったのではないかと思います。しかも30過ぎの、簿記も持っていない身では厳しいことこの上ありません。それよりも驚いたのが、運良く面接までたどり着いても(ほとんど履歴書審査の段階で落とされていた)必ず「パソコンは使えますか?」と聞かれたことです。
 確かに求人誌を眺めても「ワード・エクセルできる方」と掲げているものが圧倒的に多かったのですが、今までワープロなどで苦労したことのない私は「多分、そんなもんやればすぐにできるようになるだろう」と自信を持ってはいましたが、実際に使ったことないのは事実なので、実直な私は「仕事で使ったことはないのですが、すぐにおぼえられると思います」とか答えてしまい、そのせいかどうなのか知らないけど、どこも雇ってくれませんでした。

 だんだん貯金も底をついてきて、焦りだしたころ、私よりも先に会社を辞めていた友人が同じく転職で苦労していて早々と派遣社員をやっていました。「派遣会社でパソコンも教えてくれるよ」というので、さっそく登録に行きました。
 今でこそ、派遣もかなりレベルが上がっているし、買い手市場になっているようですが、当時はまだ一般事務に関してはあまり「パソコンスキル」を持った人は少ないようでした。なぜなら、ちょうど某大企業への短期の仕事が入り、当然基本的なパソコン操作を求められていたのですが、派遣会社は私に2日間でワードとエクセルの基本操作を叩き込み(合計で4時間くらい個人講習してくれました)、そこに送り込んだのです。

 虎ノ門に燦然と輝くインテリジェントビル(近隣にお勤めの方はこの表現でだいたいどこだかおわかりだと思います)で、2ヶ月弱の短期契約でお仕事することになりました。パソコンは一人一台。その全てにウィンドウズが走っている光景を目の当たりにして、初めて私は「マイクロソフト帝国」の御威光を現実のものとして受け止めたのです。

 パソコンスキルが皆無ということで、多少は警戒していたのですが、その会社はちょうどウィンドウズ3.1を95に移行している最中で(だいたい95の前に、3.1なんてもんがあったのを知ったのはその時がはじめて)、私のマシンは3.1でしたので、何か操作でわからないことがあっても「95しかわからないんでー」とごまかしていました。社員の方々は95を使ったことがないので、それで疑問にも思われなかったようですし、それに適当にやってれば、なんとなくわかってきました。
 結局、会計ソフトに伝票を入力するのが主な仕事だったので、エクセルも元々作ってある表に数字を入力するだけだったし、ワードなんて全く使わなかったので、暇なときにいじりまわして遊んでました。メールを使ったのも初めてでしたが、別にどうというもんでもなく、外部にも送ることができたので、浮かれて友人と「来週の鍋パーティーの相談」などのやりとりをしていました。

 おかげですっかり「私ってもの覚えいいみたいだから、パソコンもけっこう使えそうだわい」と自信を持ったのと同時に、メールが楽しかったので、これは更なるスキルアップと娯楽を兼ねて自宅にも導入しようと思い立ちました。「自己投資」が建前、「遊び」が本音といったところです。

  その後、派遣の仕事を転々としましたが、だいたいどこに行っても「パソコンの操作」に困ることはありませんでした。(なんじゃNTって?とかいうこともあったが、フリーズしたときには95よりはましな対応をしてくれるのだと気がついた程度)
 「この表の続き作って」と渡されたエクセルの表が「どひゃー」なもんでも、ゆっくり観察すれば仕組みはだいたい理解できましたし、それでいろいろな操作を覚えてきましたので、「別に、パソコンスクールに通うほどのもんでもないな」と達観。安上がりな人間です。
 そういう意味では、時期的には良かったと思います。もう少し、転職するのが遅かったらどうなっていたんでしょうか?

 というわけで、今や毎日メールチェックしないと気が済まない人間になりましたが、ここに至るまではこうして長い歴史があるわけです。
 いまだに、プログラミングとかに関しては全く無知で、「ソースコード」というものの存在を知ったのは最近のことです。LINUXが騒がれたということは知っていても、具体的なことは何もわからないけど、リーナス君の娘の名前は知ってたりする(笑)今後もコンピュータに関してはドシロウトであるということは変わらないでしょう。でも、今後もこの世界はまだまだ沢山の歴史を積み重ねてくれることと期待しています。ソ連があれよあれよという間に崩壊してししまったように「マイクロソフト帝国の崩壊」も近い将来起こりうるでしょうし、ここ10年の興亡の激しさをかんがみれば、この先10年はどんな時代になるのか楽しみです。

 以前深夜テレビで藤井フミヤがDA PAMPの面々に向かって
「君たちには想像がつかないかもしれないけど、俺が高校生くらいのときには、友達と遊びたいなあと思ったら、まずそいつんちに電話するわけ、そうするとそいつのカーチャンが電話に出て『○○は外出しています』とかいわれると、もうそれでおしまいだったわけよ」
なんて、語っていて「そうだよなあ。今はまず本人の携帯に電話して、たとえ外出先でも連絡とれるもんなあ」と思いました。(でも私はいまだに携帯電話は持っていないのですが・・・いらないんだもーん)
 そんな、与太話のひとつとして、ここまで書きましたが・・・なんか長いだけで、あんまり内容がなかったかも・・・・・とまたまた弱気になってしまうのであった。
 
 

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