認識について考えるときに私が思うこと


 2000/3/24
  何年か前にNHKの海外ドキュメンタリーで「失読症」について取り上げていまいした。 「失読症」というのは、字が読めない書けないという障害で、アメリカでは成績不良などで学校を中退していまう生徒がかなりの割合でこの障害を持っているらしいという報告もあり、その対策が進んでいるらしいということは前に何かで読んで知っていたのですがそもそも「失読症」というもの自体がよくわからなかったので、興味深く観ていました。
 
 その番組での失読症の説明は、脳での映像の捉え方が通常と違っているというものでした。教師向けに行われていたセミナーでは、鏡に写した紙に星印を書いて(これは実際にやってみると、線をどっち方向に書いたらいいのか混乱して上手く書くことができません)失読症を体験するということをやっていました。

 でも、その時に思ったのですが、そもそも生まれつきの症状なわけですから、たとえば「A」という文字の認識が通常とは違っていても、それが「B」や「C」と区別できるのであれば、それほど問題にはならないような気がしました。色盲の人だって、多少の不自由はあるかもしれませんが、日常ではそれほど困ることは少ないと思います。でも色盲によっては、赤と緑の区別がつかないとかで「どうやって信号がわかるのだろう?並び順?」ということもあるのだろうしなあ、と漠然と考えていました。

 そのあとしばらくして、知人と話していたら、彼女のいとこが2人とも失読症だという話になり、いろいろ聞いたのですが、2人とも小学校低学年のころは成績が良かったようなのですが、高学年になってなぜか国語の成績が悪くなり、特に漢字の書き取りがあまりにも苦手だったので、教員だった母親が「これはもしかして?」と思い専門家に相談に行ったら「失読症」と診断されたのだそうです。漢字の左右や上下が判断できなくて、なかなか苦労したようです。
 結局姉はなんとか大学まで進学したようですが、弟のほうは「英語の方がアルファベットだけだからなんとかなる」ということで、アメリカに留学したということです。
 まあ、この姉弟のケースは母親にそういう知識があったので、早期に発見された幸運な例ですが、それにしても日本ではあまりこの症状は問題として取り上げられませんね。それはそうとしても、この弟のほうが「アルファベットならOK」という話は「アメリカでは失読症が多い」ということからすると、なんかよくわからなかったのですが、直接本人と話しをしたわけでもなく細かいことはわからなかったので、「ふーん、日本でもあるんだ」という程度で終わりました。

 昨年(1999年)に、図書館の雑誌コーナーで「日本版ニューズウィーク」を手にとったら、なんと「失読症」が特集されていました。その中での失読症の説明が、数年前に観たテレビとはかなり違っていて、この症例の研究がまだまだ途上であることを知ったのですが、ともかく数年前まではどちらかというと「視覚認識の障害」ということのようだったのですが、最近では「聴覚認識の障害」とされているようなのです。もちろん「視覚」タイプの人もいるようで、多分知人のいとこはこちらのタイプだったのではないでしょうか。だから、構造が複雑な漢字に苦労したのでしょう。
 
 ですが、最近の研究では失読症の主流は「聴覚タイプ」のようで、これは具体的にどういうことかというと、例えば「CAT」という単語は発音記号でいう「k」と「ae」と「t」いう音を組み合わせたものです。普通の人なら、こういうふうにどんな単語でもある程度分解できるみたいですが、失読症の人はそれができないようなのです。だから、道端にいる猫を見れば「CAT」だとわかっているのに「CAT」という文字を見ても、それが「キャット」のことを現しているとわからないようなのです。
 
 たしかに、日本人にしても英語のスペルを考えるときには「ネイションはnationだから、コミュニケイションの後ろのほうは
−ation だな」なんて考えますよね。
 失読症の人にはそういう考え方ができないようなのです。だから本を読んでもらえれば、内容をちゃんと理解できるのに、自分では読めないし、スペルを綴ることもできないみたいで、学校では頭が悪いのだと思われて勉強嫌いになってしまい、ますます勉強から遠ざかるという悪循環を起こします。これが早めに発見されれば、苦労はするようですが、訓練プログラムを組んでもらうことはできるようですし、「字も読めないばかなやつ」と言われるよりは、病気であるときちんと認められれば、本人も精神的には楽だと思います。(アインシュタインも失読症だったらしいという説もあり、かの天才と同じということで、多くの人達が励まされたというエピソードも載っていました。)
 「ニューズウィーク」の記事には、そうやって困難を乗り越えてきた人達のコメントもならんでいて、「大学のときには、担当教授にいちいち論文のスペルミスも採点基準になるかどうかを問い合わせ、不問にしている講座だけとった」とかの苦労話が載っていました。

 まあそういうわけで、なるほどと思いながらその記事は読んだのですが、でもやはりその「音を分解できない」という感覚がいまひとつわかりません。目が見えないとか耳が聞こえないというのはなんとなく理解できても、そういう「認識の違い」ってなかなか実感しにくいですよね。そんなことをぼんやりと電車の中で考えていたら、思わず下車駅通りすぎちゃって、「別にそれで論文書こうとしているわけでもないのに、こんな他人にはどうでもいいことを真剣に考えてしまう感覚も普通の人には理解不能だぜ」と失笑してしまいましたが、そのくらい没頭して考えていた甲斐があって、ちょっと「近い感覚」を探し出しました。

 小学校や中学校のとき音楽の授業で必ずやって、みんなが超苦手だった「聴音」です。あの、ピアノの鍵盤3つくらいいっぺんに「ジャーン」と先生が叩いて、それを「ドミソ」だの「ドファラ」だの言い当てるやつ。
 昔「イントロクイズ」というのが流行っていて、流行歌の出だしの「ジャ!」とかいうほんのちょっとで皆答えていましたが、まあそこまでいかなくても、ビートルズの「ハード デイズ ナイト」の出だしの変なギターの「じゃーん」というコードを聞けばみな「ああ、あの曲」とわかるでしょうし、ベートーベンの第5の「ジャジャジャジャーン」だって最初の「ジャ」だけで判別できるでしょう。でも、それを音符で表せっていわれたら、よほどのプロでないとできないと思います。ましてや、そのコードを音符で表したものを渡されてもさっぱりでしょう。
 
 つまり、キャットとドッグが違う音だとはわかっていても、「CAT」と「DOG」と書かれている紙を見て、どっちがどっちかわからないということは、先生の出した音が違うということがわかっていても、とっちが「ドミソ」でどっちが「ドファラ」なのかわからないのと同じ気分ですよね。
 まあそのくらいなら、がんばればなんとかなるでしょうけど、「INTERNATIONAL MONETARY FUND」(IMF 国際通貨基金)なんていったら、先生が鍵盤10個くらい叩いて「さあ、これは何?」なんていわれているようなもんでしょうし、そんな単語が並んでいる文章を読むのは交響曲の譜面を読むようなものなのではないでしょうか。そりゃあ、大変だあ。
 と、ちょっと違うのかもしれないけど、失読症の人の気分を私なりには理解できたような満足感がありました。

 蛇足ですが、失読症についてインターネットでも調べてみようと思ったのですが、日本語で書かれたものはほとんど発見できず、英語の論文ばかりズラーっと出て来て「ひいーこんなの読めない」と泣きそうになりました。
 
 さて、話は変わりますが、つい最近、派遣社員をしている親しい友人が1年間勤務した派遣先を辞めることになり、後任に20代前半の女の子が来て、引き継ぎをしなくてはならなかったのですが、その子が友人の理解を超える「物覚えの悪い人」で、その苦労話をさんざん聞かされました。印象に残ったのはこんなエピソードです。

 という感じで、それほど煩雑な業務ではないのに一時が万事その調子で、責任感の強い友人は「ちゃんと引き継がないと社員の人達に迷惑がかかってしまう」とななりナーバスになっていましたが、もうそうなると、誰が教えてもそんなもんだろうし、「私は物覚えが悪いから」と自覚する人ならメモをとるなりするだろうけど、たぶんその子にメモをとらせても「メモをとったこと自体」を忘却するという「モズの早贄」状態になるのは目に見えているし、だいたい毎回聞いてくるにしても、自覚のある人だったら「何回も聞いて申し訳ないのですが・・・」くらい言いそうなもんだが、そういう発言はしないところからして、友人は「絶対に3回は教えてる」と自信を持っていても、教わったはずの本人にそういう記憶が欠落しているのだから「これはどうするんですか?」と平然と質問してくるらしい。

 もうそこまでいくと、「この人、日常生活は普通に送れるのだろうか?トイレの後流し忘れたり、友達の待ち合わせをすっぽかしたりしないんだろうか?」と心配になりますが、まあ生活していくための最低の記憶はあるみたいですし(ちゃんと毎日出勤しているのですから、会社に行くことや会社の場所は憶えているわけです)、そういう最低限のこと以外に対応するメモリがかなり不足しているのは事実ですけど、うらやましいことに、「どうして、憶えてくれないの!」と友人がとうとうキレて怒っても、怒られたこともきれいさっぱり忘れてしまうようなので、一緒に仕事する人間にとってはたまりませんが、彼女自身の認識としては「なんか今日はこの人ピリピリしててコワーイ」くらいのもんなのではないでしょうか?

 そういうババを引き当ててしまった友人にはいたく同情しましたが、「そこまで記憶能力が欠落しているっていうのは、どういう気分なんだろう」とまたまた私は考えてしまいました。
 
 私もあまり記憶力に自信のある人間ではなく、「なんとなく流れでつかむタイプ」なので、仕事でも自分なりにメモを整理するのは得意になってはいるものの、いざというときに「それはアレですよ」(?)とはなかなか言えないのですが、「なんか同じことが以前にもあって、あとでまた出てくると思ったからこの辺にファイルしておいたような気がする・・・」くらいのことはできます。

 前に働いていた会社の上司が、多忙と年齢的な要因で物忘れがけっこうあって、「私、今日の午後だれかと会う約束していたような気がするけど・・・誰だったけ?」なんて言い出すことが多くて、そんなときには「そういえば、午前中そんな電話してましたよねえ。口調からして、けっこう親しい方相手だと思いましたけど・・・なんか、食べ物持ってくるけど、甘いものよりせんべいにしろとか言ってたような・・・誰かがせんべい持って来てくれるんだ、ありがたやーと思ったもんで・・・」「思い出した!○○さんだ、ありがとう」とかいうことがよくありました。
 そういうわりと「どうでもいいこと」は憶えられるし、特に「単語」や「数字」よりは「ストーリー的なもの」の方が憶え易いみたいです。そうなんです、経理のお姉さんのくせに、数字を憶えるのが超苦手なんです。自分の会社の銀行口座番号も憶えられません。電話番号もよほどの語呂合わせがないと憶えられなくて、5年前に引っ越した実家に電話かけるときには今でもアドレス帳を見ている始末で、何か事故があっても親族に連絡がつけられないんじゃないかと心配です。

 話はいきなり戻りますが、その記憶力のない女の子の「仕事のやり方」に対する記憶認識って、私の電話番号と同じなのかもしれません。「この書類はここにファイリングする」という事柄があったとして、普通の物忘れだと「この書類はどこにしまえばよかったんだっけ?」という程度ですが、多分彼女の記憶方法は「3366は2281」とかになっているのではないでしょうか?だとすれば、私の友人がいくら丁寧に「2941はね、3405で、2962は、6835にしてね」と何回も説明したところで、右から左でしょう。
 そういうふうに考えると、その彼女にもちょっと親近感がわきますが、一緒に働きたくはないですよね。早いところOL以外の適職を見つけてほしいところです。

 それにしても、そういう「理解不能な他人の認識」というものをどうして私はこんなにむきになって理解しようとするのか、その謎のほうははなかなか解明されそうにもありません。
 
 
 

表紙に戻る / 目録に戻る