ラブ・パレード97


2000年10月15日
 ラブ・パレードというお祭りが毎年7月初旬にベルリンで行われています。
 
 ご存知では無い方のために簡単に説明すると、ベルリンの中心地(観光のために訪れたかたは必ず行ったはずの、ブランデンブルグ門のあたり)で、スピーカーを載せた車がテクノ・ミュージックを大音響で鳴らしながら何台も通り過ぎていくという、御輿のかわりに「音楽車」だと考えればわかりやすい、派手なお祭りです。
 例年、ドイツ各地やヨーロッパなど海外からもあわせて100万人くらいの人々が集まり、日本のニュースでもその映像が流さるくらい有名です。

 私のようなテクノ・ファンにとっては「テクノの祭典」として憧れのお祭りであり、昼間のパレードはもちろん、その前後は夜のクラブも世界中から大物アーチストがDJの腕を競い合い、「きゃー!あれも行きたい、これも行きたい!」と嬉しい悲鳴を上げてしまうほど充実したプログラムが数十ヶ所で行われるのです。


 私が行ったのは、3年前の97年です。
 その2年前から、友人達もツアーや個人で大量に押しかけていて、いろいろ話は聞いていました。
 おおむね「楽しかった!」という話でしたので、私も一度は行ってみたいと思っていました。たまたま友人らと、6月下旬にイギリスで開かれるグラストンベリー(Glastonbury)というロックのお祭りにテント持って行こうということになりました。
 そこで、時期的にもいいので、そのままラブ・パレードにも行こうということになったのです。ヨーロッパ大陸横断、音楽の旅になりました。


●電車でベルリン入り

 ベルリンにはアムステルダムからの寝台車で向かいました。丁度、金曜日の朝に到着する列車でしたので、車内はオランダからベルリン入りする若者で溢れかえっていて、夜通し「前夜祭」状態でした。

 旧西側のZOO駅(ツォーと発音)に到着。駅前に、半分崩壊したカイザー教会(第2時世界大戦の遺物らしい)が聳え立ち、「なんか不気味っつうか・・・さすがベルリンだぜ!」と気分は盛り上がります。
 早速、宿を確保するために、駅からほど近いツーリスト・インフォメーションに向かいました。

 広々としたオフィスは、同じ夜行電車で到着したと思しき若者が行列を作っていました。係員がドイツなまりの英語でなにやら叫んでいます。

「ラブ・パレードのため、沢山の人がベルリンに集まっているので、安い宿はもう満室で紹介できません!一人5000円以上(当時のレートは忘れてしまったので、以降おおまかな日本円で表記します)の宿しか空いていません!」

 そういう状況は覚悟の上で、友人と「ベルリンでは多少高いところになっても仕方ないね」と話していたので、そのまま並んでいました。
 やっと私たちの番になりました。
 
 ヨーロッパのツーリスト・インフォメーションには珍しく、ニコリともしない無愛想な係員が「5000円以上になるが、いいのか?」と言ってきました。その前に滞在したアムステルダムが「観光客に優しい街」で、インフォメーションの係員も「そんなに親切じゃなくてもいいのよ?」と言いたくなるくたい笑顔を振り撒いていたので、「東側諸国は鉄のカーテンの向こう側」という名残を残すベルリンのスタッフの無愛想さ(以下補足)はちょっと新鮮でした。

 「オフ・コース!でも二人で20、000円以下にしてください。プリーズ」
 という私に、ちらりと目線を飛ばしてから、彼女はパソコンをカタカタ打って「2人で1万5千円。OK?」もちろん予算内でしたのでOK。「だんけ、しぇ〜ん」とお礼を言って(ちなみに私の知っているドイツ語はこれとグーテン モルゲンとイッヒ リーベ ディッヒだけである)、手渡されたバウチャーを手にホテルに向かいました。


●宿は快適

 ZOO駅から、地下鉄で15分くらい行った駅にそのホテルはありました。やや中心街からは外れるものの、移動するのには何の問題もない距離です。ZOO駅から乗り換えもないし、パレードは翌日の土曜日にZOO駅から歩いていける距離にあるので、足の便はいいと思いました。

 駅に到着して、ホテルを探したのですが、そこはけっこう広い通りのある繁華街で、なかなかホテルが見つかりません。うろうろして、とうとう人に聞いたら、「もっとあっちだ」と歩いてきた道を指し示します。「あれえ?通り過ぎたのかなあ?でも、ホテルなんてなかったよなあ」と戻ってみると、駅の出口からすぐのところにあった大きな建て物に旗が建てられているのが目に留まりました。「あれ?もしかして?」と、その建て物の入り口をよくよく見ると、バウチャーに書いてあるのと同じ名前でした。

 ドイツによく旅行する友人から「ドイツって、何かメッセとかの催しがあるとホテル代が跳ね上がるんだよ」と聞いていました。
 なので、100万人もの人が集まるラブ・パレードでも、通常料金以上をとられることを覚悟していたので、「二人で15000円の宿」というのは、せいぜいが中級ホテルだと思っていました。
 ところが、目の前に現れたホテルはけっこう上級そうな雰囲気でした。ロビーも広くて東京のシティホテルをややこじんまりさせたという感じです。

 チェックインをして部屋のキーを貰い、部屋に案内されました。広々とした部屋は、立派なバスタブ付きのバスルームもついていて、それまで「バス共同」の安宿に甘んじていた私たちを狂喜させました。大きなベッドが二つあって、「これで一人7500円は安すぎる!」と思いました。

 クローゼットを開くと、そこには「正規の料金表」がパリのホテルみたいに貼ってありました。なんとその部屋は通常25000円でシングルユースで15000円だったのです。随分とディスカウントされてました。

 これは、私の勝手な憶測ですが、「ドイツでは催しがあるとホテル代が高騰する」のですが、ラブ・パレードに関しては「その時期、まともなビジネスマンはベルリン滞在を避ける」ようで、高級ホテルの値段は下がるみたいです。
 そして、ツーリスト・インフォメーションが「ラブ・パレード目的ではないようなお上品な旅行者」をそういう部屋に案内しているのかもしれません。(私たちは、傍から見れば「何も知らずに来てしまった日本人女性2人組み。テクノって何?」でしたから)


●さっそく金曜日の夜

 ホテルでゆっくりくつろいでから、買ってきた情報誌(ぴあやTimeOutみたいなかんじ)をめくり、夜遊び計画を練りました。
 金曜日は「前夜祭」状態で、いろいろパーティーが行われているようで、旧西側中心地(ちなみに、その当時のベルリンは、旧東側に有名クラブが多く存在していました。壁崩壊後、そっちの家賃の方が安かったし、空きビルも多かったのはないかと想像できます)に、設営されたテントでのダレン・エマーソン(元アンダーワールドのメンバーでもある英国の超人気DJ)が出演するイベントに行くことにしました。

 実は事前情報として、日本での知人が「金曜日に日本人DJでイベントをやる」と聴いていて、知人も回すということだったのでそっちにもちょっと心を引かれていたのですが、「でもダレンも観たいしなあ〜」というのと、同行した友人のことも考えてそちらを選びました。

 結局、テントでのイベントにダレンは来ませんでした。がっかり。パーティー自体も客はみな明日のパレードのために体力温存しているという感じで、まあ体慣らしにはなったという程度でした。


●朝ご飯

 朝になってホテルに戻ったのですが、その宿は「朝食付き」だったので、頑張って朝ご飯を食べに行きました。なんとブュッフェ式で、おいしいハムなども食べ放題です。貧乏旅行ゆえ、食生活はかなり圧迫されていたので、がんばって食べまくりました。
 美しいダイニング・ルームではテクノとは無縁な上品そうな老夫婦などが朝食をとっていました。「このホテルで、ラブ・パレ目的は私らだけなのかもしれない」と思いました。


●いざパレードへ!

 昼過ぎに目が覚め、はやる気持ちを押さえ切れず、私は支度し始めました。
 友人は昨晩の疲れが残っているらしく「まだ寝てる」というので、一人で出掛けました。パレードは2時くらいから始まる予定です。3時過ぎにはZOO駅に着いていました

 ZOO駅周辺はすでに人でごった返していました。ZOO駅に向かう地下鉄の中でもすでに「世界最大級のお祭りに向かう女の子たちと付き添いのお母さん」という、ベルリン近郊からやってくる人達がいましたので、気持ちはかなり盛り上がっています。
 もっと遠くからZOO駅に到着したドイツ人たちも、ぞくぞくと流れ出てきます。

わりと日本人は少なかった

 と、以前ラブパレに参加した友人が言っていましたが、たしかに100万人のうちのほとんどが、「ドイツの普通の人々」のようでした。家族連れも多かった。テクノなど普段は聴かないけど、「お祭りだから、子供に見せてやるか」という感じです。
 地方からやってくる若者達は、なんとなく垢抜けない外見ですぐにわかりました。数人のグループでやってきています。多分、パレードに参加したあと、そのまま夜はクラブに流れ込み、翌朝の電車で帰っていくのではないのでしょうか?

 あとで、会った日本人が「ユースホステルはがらがらだよ」と言っていたので、ドイツ人らは宿泊すらしないのではと思いました。公園などで野宿する人も多いようです。

 とにもかくにも、「年末の明治神宮」のような雑踏をのろのろ進んでいき、やっと、6月17日通りに出ました。
 通りは、真っ直ぐブランデンブルグ門まで続いています。その途中に「ベルリン天使の詩」で有名なブルーノ・ガンツが座っていた女神の像もあります。通りの両側は広大な森のような公園(ティアガルテン)になっていて、雰囲気としてはやはり「代々木公園」。その日は晴天で日差しも強く、人々が木陰で思い思いにくつろいでいました。

「寒くてダウンジャケットを着ている人もいた」
と、前々年に行った友人が言っていたのですが、ベルリンの天候はかなり不安定のようです。97年は好天に恵まれて、日焼け止めが必要なくらい太陽が照り付けて、ゲルマン民族の肌を赤く染めていました。

 森の中や、通りでは、もぐりのビール売りがたくさんいました。さすがビールの国ドイツです。あまり冷えていませんでしたが、とにかく暑いので、水分補給のために、シロウトが小遣い稼ぎで売っている缶ビールをすすりながら歩きました。

 トイレの心配もあったのですが、さすがに1989年から続いたイベントです。仮設トイレのコンテナが道の両端に50メートルおきに並んでいて、上によじ登って踊っている人達の振動で落ち着きませんが、気持ち良く用は足せました。

 さて、89年に地元のDJだったドクター・モッテがベルリンの壁崩壊を祝ってはじめたのが、このお祭りの始まりです。その当時は「愛と平和」っぽいメッセージ性があったようですが、だんだんと参加者も増え、一時は「治安に不安を与える」ということで、当局から中止命令も出たようなのですが、10年たった今では世界的に有名なお祭りになってしまい、かなりオーガナイズされた形で運営されているようです。

 良識ある市民からは煙たがられているようですが、経済効果としてはかなりのお金が動くようです。それは、ゴミが散乱して足の踏み場もなくなっているZOO駅前のマクドナルドの惨状を見れば、シロウト目にも推測できます。開催中のあの店の売上はもの凄いと思います。店員もくたびれはてていましたが、ゴミをよけたわずかな隙間に腰を下ろしてコーラを飲んでいる私を見て「あ〜ら、あなたったら、いい場所見つけられてよかったわねえ」と英語で話しかけてくれました。

 ラブ・パレードに批判的なのは「良識ある市民」ばかりではありません。ベルリン名物である「パンクス」たちも、その時期にはおもしろくないので、ベルリンから離れるようです。パンクスにとって、テクノ系は「あっぱらぱー」以外の何物でもないのは想像に難くないです。(傍からみれば、目クソ鼻クソですがね)
 
 有名どころでは、日本でも人気のあるATARI TEENAGE RIOTのリーダー、アレック・エンパイヤも「アンチ・レイブ、アンチ・ラブパレ派」のようです。でもATRも「ですとろ〜い!!!」とか叫ぶ、高速ハードコア・テクノで、知的なアレックが冗談でやっているとしか思えないんですが・・・・・ともかく、暗黒系の方々には「いえーい!」と叫んで、ドンドコ踊っているだけのテクノ系のメッセージの無さ加減が我慢ならないらしいです。

 さて、張り切りすぎて、早くに到着してしまったのか、山車(フロートと呼ばれる、音楽車)はまだ走っていませんでした。それでも通りを埋め尽くした人々は、ときおり盛り上がりすぎて「イエーイ!」と大きな歓声を上げています。質実剛健なドイツでは、こういうお馬鹿なお祭りも珍しいのか、多くの人々が単純に人込みを満喫しているのがよくわかります。

 私はひたすら人込みを縫って、遥か先(約2キロ)のブランデンブルク門前の広場を目指しました。
 やがて、ドンドコとテクノ・ビートがきこえてきました。いよいよ、フロートが動き出したのです。

 仮設トイレの屋根に登った人達が激しく足踏みを始め「トイレ壊れないんだろうか」と心配になります。

 のろのろとした速度で最初の車が通過していきました。バスを改造したような大きな車には大勢の若者が乗っています。缶ビールを沿道の客に向かって投げている人もいました。着飾ったおねーさんたちが、踊っています。
 車に搭載されたスピーカーからは、ドンドコと音楽が流れていますが、それは別にたいしたもんでもありませんでした。音も大観衆の前には、それほど大音量に響きません。

 それでも続々と似たような車がやってくる様子は、日本のお祭りで御神輿が通りすぎていくのを眺めているのと同じで、それなりに楽しいものでした。
 観衆たちも、その音に合わせて踊るというよりは、わあわあと騒ぎながらお互いを励ましあって盛り上げているという雰囲気で
「これは、三社祭のようだ・・・・」
 と思いました。違うのは、運んでいるのは神様ではなくて、ただの「テクノ好きのバカもの」なだけです。振り付けの無い「よさこい」という表現もできると思いました。

 さて、フロートを眺めつつ、人込みを避けて公園の中を通りながら、ブランデンブルク門を目指したのですが、パレードの最後にはそこで有名DJがプレイするので、そのあたりの人込みはもの凄くて、そうこうしているうちに日も落ちてきたので、その夜も遊びに行く予定の私は、「ここいらで退散して部屋で休憩しよう」とホテルへ戻りました。
 きっと、体力のあるドイツ人たちは、そのままクラブへ繰り出すのでしょう。


●超巨大工場跡ARENA

 ベルリンの地下鉄(Uバーン)や市電(Sバーン)の終電時刻がわからなかったし、夜中に女性だけで乗っていいもんか疑問でしたので、その夜の12時過ぎにホテルから、街の東側の川ぞいにあるARENAというハコにはタクシーで向かいました。(あとで、聞いたら、地下鉄も市電もラブパレの夜は午前3時くらいまで運行していて、みんなゾロゾロ乗っていたのでまったく安全だったそうです)

 ARENAでは、世界でも屈指のDJであるCarl Coxがプレイしますし、卓球もプレイすることになっていました。(あと、なぜかアフリカン・バンバータの名前も挙がっていました)
 入り口は行列ができていました。並んでいる途中で、友人が「やっぱり私は、Goldieに行くから」と、その会場から程近いドラムン・ベース系のイベントに一人で行ってしまいました。あとで、ARENAに戻ってくるというのです。

 さて、30分くらいかかってやっと(ヨーロッパでは入場時にボディチェックがあるのでやたらと時間がかかる)一人で中に入りました。エントランスは屋外で、屋外スペースは川沿いでなかなかオシャレでした。芝浦や天王洲あたりを思い出します。川沿いの巨大な倉庫を改造したのがクラブになっていました。
 大きな入り口から屋内に入って驚きました。

 「で、でかい。みたこともないくらい、でかい!」

 そこで、いきなりベルリンには何度も行っていた友人の話を思い出しました。

「ベルリンに、もの凄いクラブがあってね、元倉庫らしいんだけど、むちゃくちゃ天井が高くて、そこに入ったとたん、意識がすこーんと天井まで突き抜けるような衝撃があるんですよ」

 あれは、ここの話だったのだ!と、すぐにわかりました。
 倉庫というよりは、自動車工場のようなものの跡地だと思いました。天井が高いので換気もよく、息苦しさはないのですが、ともかくこんな広いアリーナなんて、うらやましすぎる!すごいすごいすごーい!と、独逸帝国万歳な気分でいっぱいです。
 あとで聞いたら、この場所は普段はコンサートも行われていて、案内によると「収容人数1万6千人」なんだそうです。

 客は1万人弱くらい入っているようですが、ともかく広いので歩き回るのに支障はなくて、逆になんだか物足らないくらい。(いつも日本ではぎゅうぎゅう詰めのフロアを横切ってますから)フロアの後ろの方では、くたびれ果てた人々がごろごろ寝転んで休んでました。
 舞台を観ると、ちょうど卓球がプレイしています。ラブパレの夜に夜中の1時といういい時間に回しているというのが驚きですが、客のうけも良くて、日本では卓球なんてそれほど評価していなかったのですが(当時の私の評価「ジェフ・ミルズの甥っ子」けっこう誉め言葉のつもり)同郷人が大舞台で堂々とプレイしている様はそれなりに感動的でした。

 卓球のあとが、大御所Carl Coxでした。
 それなりに歓声があがりましたが、ヨーロッパではけっこう普通ですが「皆、あまり、今だれがプレイしているのか気にしていない」ようでした。大物がたまにしか来日しない日本では、かなりありがたがられるのですが、むこうの客にとってはあまり関心事ではないみたいです。(クラブに行って「今だれがプレイしているの?」と聞いてみても、知っている人はほとんどいなかったりする)

 CarlのDJはそれなりに良かったのですが、明け方になってきて、昼間はパレード見物にも行ってますから疲れてきてしまい、「そうだ、友達を探さなきゃ。そろそろこっちに戻っているかも」と屋外スペースに出て、混雑しているバーで飲み物を買い、薄明るくなっていく中で美しい川を眺めながらうろうろしていました。

 すると、友達発見。いや、同行していた友人ではなくて、他の知人です。(前日に私が行かなかった日本人イベントに係わっていた人物)

 「うわあ、ミヤノちゃん!来てたんだあ〜」

 彼も驚いてました。
 そこで、もう一人、彼がたまたまそこで会ったという「フランクフルトからベルリンまで一人でヒッチハイクしてきた」という日本人の女の子ともいろいろ情報交換しました。

 「明日、トレゾアに行くんだけど、一緒に行かない?」
 「トレゾア!行きたい!」
 「スベンが朝の10時から12時間プレイするんだってさ」
 「絶対に行く!」

 Toresorとは同名のレーベルでも有名なベルリン・テクノの牙城のような有名クラブで、スベン・バースは世界各国のレイブ・パーティに引っ張りダコの超有名DJです。それに行かずしてラブ・パレは終わらないというパーティーでしょう。 

 そんな話で1時間くらい3人で立ち話していたのですが、「戻ってくる」と言っていた友人も現れず、「そろそろ帰ろうか?」ということになり、市電に乗って地下鉄に乗り換えホテルに戻りました。
 フロントに鍵をもらおうとすると、「あなたの友達もさっき帰ってきたばかりよ」と言われ、部屋に行くと、友人も疲れきって戻っていました。

 「今日は、トレゾアでスベンだって!」
 と、知らせても、友人はあまり乗り気ではないようで、一人で行くことにしました。



●トレゾアTorezor

 待ち合わせは、ZOO駅前のマクドナルドでした。その隣にはオフィシャル・グッズの仮店舗があります。
 女の子がちょっと遅れてきましたが、「外国の街で友達と待ち合わせてクラブに行くなんて、なんか変な気分だよね〜」などと話して盛り上がっていました。

 トレゾアは旧ベルリンの中心街MItte地区にある、古い建物まるまる一つを改造して作ったクラブでした。昼間見ても退廃的な雰囲気が漂う建て物で、さすがベルリンを代表するクラブだけのことはあると思いました。地下室もあると聞いていたのですが、日曜日の昼間の特別営業なので、中の部屋はメインフロアも含めて全ては開けていなくて、バーだけ開けていました。しかし、隣接する庭が会場になっていて、ちょっとした庭園も造ってあって、その日も暑かったので、たまに庭の木陰で休んだりできました。 

「庭のあるクラブなんてうらやましいなあ」
と、日本ではいつもガス室のような酸欠状態のクラブに閉じ込められていたので、感激しました。

 駐車場のような砂利がまかれた広いオープンスペースでは、すでに大勢の人が集まって盛り上がっています。とにかく日差しが強く、日射病防止のためか、ホースで水が撒かれていました。濡れてもあっという間に乾いてしまいます。
 観衆は水が自分のほうに向けられるたびに「うおおおお!」と騒ぐので「水と音楽の競演」状態で、屋外ならではの楽しい雰囲気でした。

 喉が渇き、屋外にある、CMでみかけるようなリゾート・ビーチのバーみたいなところで人を掻き分けながら、やっとドリンクを注文していると、カウンターの向こうから女性の声で「ミヤノさ〜ん」と呼びかけられました。そっちを向くと、東京でよく会う子が手を振ってます。「ユキちゃ〜ん、久しぶり〜」なんか東京のクラブでの挨拶そのままで、お互いに笑ってしまいました。

 「スベンだし、トレゾアだから絶対に誰かに会うと思っていたよ」

と、彼女のいつもの連れたちとも挨拶を交わしました。

 「ところで、スベンはどこで回してるの?DJブースがどこにあるのかわからない」
 「あそこみたいだよ」

 彼女が指差す方には、たしかに舞台がありましたが、びっしりと人が登っていて「お立ち台」状態になっていたので、その後ろにDJブースがあるらしいのですが、DJの姿は見ることができません。

 「でも、見えなくても、音がもう完璧にスベンだよね」

 スベンは、古典的なジャーマン・トランスを信じられないような集中力できっちりプレイしていました。その音に合わせて、半裸の若者たちが、延々と踊りつづける様子は見ごたえ充分でした。
 その日のトレゾアは4000円くらいの入場料をとっていたので、客はけっこう中流以上という雰囲気で、日本の客の雰囲気とあまり変わりはありませんでした。


●観光

 翌日の月曜日の夜行でパリに向かう予定でしたので、朝ごはんを食べ(朝が弱い不眠症の友人に「ここの朝ご飯はぜったいにお勧めだし、もうこの旅行では2度とこんな朝食たべられないよ!」となだめすかして連れていきました)チェックアウトしてから荷物をZOO駅のコインロッカーに預けて、ベルリン観光に繰り出しました。

 お約束の壁をみてから、デパートなどもある中心街(アレキサンダー広場)をうろうろしていると、そこではじめてパンクス君たちと遭遇。ラブパレも終了したので、街に出てきたのでしょう。犬を連れていました。犬がおりこうさんで、思わずなでなでしてしまったのですが、パンクス君らはすかさず、つたない英語で話しかけてきました。

「犬のエサ代ちょうだいよ」

 ううむ。観光パンクスめ!でも、犬がかわいかったので、500円くらい寄付しちゃいました。(君たちのエサ代ではないのだよ)

 高いところにも昇りました。テレビ・タワーの展望台に「回転レストラン」があって、飲み物を飲みながらベルリン市内を一望できます。2周もしてしまいました。
 ベルリン市街は想像よりも小さく、郊外には豊かな濃い緑が広がっていて団地が点在していました。すぐ下では、東側の街中を縫うトラムがチョロチョロと走っています。そして、街中をバスやタクシーなどで移動しているときも思ったのですが、とにかく建築ラッシュです。そこら中にクレーンが立っています。壁が壊され東西統一されたときに、ドイツの首都をベルリンに戻すということになりましたが、97年の時点では「必死で入れ物を作っている」ような状態でした。
 中央駅も大規模に工事をしていました。いずれ、西からやってくる長距離電車が中央駅まで乗り入れられるようになるのでしょうか。また数年後に訪れたら、かなり街が変貌しているのではないかと思いました。

 その後、パレードの行われたあたりも散策しました。
 驚いたのはブランデンブルグ門や6月17日通りは完璧にキレイになっていました。私がクラブに行ったり、寝ていたりしていた間にスタッフが清掃したのでしょう。ゴミひとつ落ちていませんでした。

 「なんか、ここでパレードしていたのがウソのようだ」
 
と、しんみりしてしまいました。

 女神の像にも昇りたかったのですが、残念ながら夕方だったので営業時間が終了していました。そのときに気がついたのですが「女神ちゃんは、金色だったのか?」なんか銀色のイメージがあったので「東西統一のときにおめでたいから金色に塗ったのか?」とバカなこと考えてしまったのですが、よくよく考えてみると「ベルリン天使の詩」ってほとんどモノクロだったんですよね。

 6月17日通りをZOO駅まで歩いている途中で、通りの向こうから

「おーい!」

 と声がしました。また知合いかしらんと、目をこらすと、日本人の男の子が二人、こちらに向かって手を振っています。「日本人ですか〜」と言うので、「そ〜で〜す!」と答えると、こちらに向かって走ってきました。

 「やっと日本人に会えたよ〜」
 「え?やっぱり?私も知合い以外には見かけなかったんで、思ったよりいないんだなと思ってたんだ」
 「どこに泊まってるんすか?」
 「わりとちゃんとしたホテルだけど・・・・」
 「ぼくら野宿してたんです!」

 おお野宿組!どうやら主催者も、野宿している人たちをあるていど管理していたようで、テントを張ってもOKエリアも用意されていたらしい。

 「そんで、朝になると朝ご飯配ってくれたんですよ〜」
 「ソーセージ挟んだパンとか、むっちゃうまかったです〜」

 難民キャンプか?ずいぶんといたれりつくせりではないですか?
 物事を勝手に憶測する私は「主催者側も、野宿組が散らばって、周辺住民を脅かすことは避けたいのだろう。無料で朝ご飯が出るようなところだったら、まともな人はそういうところで寝たいだろうしね。ドイツ人の管理方法はなかなか賢くて好きだなあ」などと感心してしまいました。
 
 でも普通の大学生風の彼らが、やけにうれしそうに野宿について語るので(きっとその話を自慢できる人に会えてうれしかったのであろう。気持ちはとてもわかる)そんな日本人の姿もない、ドイツ各地からやってきた若者に囲まれても嫌な思いもしなかったんだ、すごく楽しかったんだ、と、こちらまでなんかうれしくなってきました。


●ベルリンの印象

 ベルリンの夜は暗い。街灯の明かりが弱いのです。「空襲でもあるのか?」と思ったくらいでした。他のドイツの街がどうだったか思い出せないので比較できませんが。
 市電や地下鉄の車両には、たいてい警備の警官がいて(ラブパレ中だったので特にだったのかもしれませんが)口に籠をかぶせられた、でっかいドイツ・シェパードを従えていて、さすがの「大きい犬だいすき」な私もあれをなでなでする勇気はありませんでした。

 95年に友人たちが大挙して乗り込んだときには、グループの中に髪を青く染めた20歳の男の子がいて、「なんか、髪をそんな色に染めた東洋人が珍しいらしくて、話し掛けてきたり、写真撮られたりして大人気だった」と言っていました。
 ベルリンには日本人旅行者もそこそこ行っているはずですが、ラブパレに集まってくる旧東側の人々にとっては東洋人はまだものめずらしかったのかもしれません。

 95、96、99年と3回行っている友人が、最後に行ったときには「なんか英語もあまり通じなくて、それになんか東洋人に対する当たりが冷たくなったような気がした」と言っていたのが少し気になります。
 ドイツ統一の夢も醒めて、残されたのはあいも変わらぬ厳しい生活というような話は新聞などでも書かれています。そんな雰囲気がラブパレに集う若者たちにもあったのでしょうか?

 もっとも私や友人たちは、ラブ・パレード開催中だけ滞在しているので、普段のベルリンについてはよくわかりません。
 かつて、退廃的といわれた街の雰囲気も、その片鱗を垣間みるだけになっていましたが、それでもこの街が暗い歴史を持つということは感じられます。
 そいういう重苦しい雰囲気の中、かつては軍隊もパレードしたのであろう大通りで、なんのイデオロギーもない群集が無機質な音楽に合わせて大騒ぎするという、なんか空虚さもありますが、「ドーナツは穴が一番うまい」といいますし、そういう真空状態が繰り広げられるのには、素晴らしすぎるロケーションだと思いました。
 パレードをぼんやり眺めながら、「ヒトラーがこれ観たら、どう思うんだろうなあ・・・」なんて想像しちゃいました。


●ベルリンを後にして

 すでに、祭りの跡形もない普通の月曜日夜のZOO駅で、ドイツマルクの小銭を使い果たし、夜行電車でパリに向かいました。
 駅で買ったお魚をマリネにしたものをパンに挟んだスナックを食べたら、それが甘酸っぱくて、下品なくらい油ののった「しめさば」のような味で「しまった!超うまい!もっと買えばよかった!」と嘆きながら、ドイツの暗い森林地帯を抜けていきました。

 翌朝、到着した10年ぶりのパリには、やわらかな空気が流れていました。駅構内に「ぶじゅぶじゅ」と響き渡るフランス語が耳に優しかった。やはりベルリンでは、それなりの威圧感を感じていたということが、そこでわかしました。


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【補足】

ベルリンのスタッフの無愛想さ

 あとで本を読んだら、「多くの旅行者は西ドイツ各地を旅したあと、ベルリンに入るととまどいを感じる」と書いてあり、ベルリナーの気難しさは名物のようです。でも、別にイジワルするわけでもなく、お願いしたことが真っ当ならきちんと無表情でやってくれたので気にもしませんでした。南欧のラテン気質が肌に合わないらしい友人が度々ベルリンには旅行している理由が少しわかりました。
 

情報誌

 駅の売店でも売られていて、ラブパレード特集一色だった。クラブ情報も当然充実していて、場所も地図付きで住所もきちんと掲載されていた。事前情報などまったく必要なしだった。ただ、クラブは軒並みラブパレ料金になっていて、(それでも高くて4000円くらいだったけど)あちこちハシゴするのにはお金がかかりそう。どこも混雑していて、入場に時間がかかるので、3ヶ所以上回るのは難しいのではないかと思われる。

旧西側中心地

 ベンツの社屋が建設中のポツダム広場のそばで、文化センターがすでに建っていました。その辺りは、「未来の繁華街」になる予定らしく、がらんとした敷地には建設中の建て物が点在していて、特設テントが設けられていたのは、その隙間で広場用地だったのではないでしょうか?2000年に発行されたガイドブックを見たら、すでに建て物はおおむね出来上がっていて、「日々変化していくベルリン」の象徴のようなエリアのようです。

日本人によるDJイベント

 WMFというクラブで行われた。在ベルリンの日本人とTOBYさん(イエローなどでも回している、中堅DJ。ドイツ好きで有名。気さくないい人である)という日本人DJの共同企画だったようだ。もちろん石野卓球くんも参加。

ZOO駅に着いた

 6月17日通りの真上には、ZOO駅の次の駅Tiegartenティアガルテンがあり、最寄り駅なのですが、そこは相当混雑しているだろうと考えZOO駅から歩きました。ZOO駅から6月17日通りは約1キロくらい。

日本人はわりと少ない

 人込みを掻き分けつつ耳を清ましていましたが、英語で話す人も少なかった。「アメリカから来たんだ!」という人を一人みかけたくらい。「世界中から人が集まる」というのが誇張なのか、それとも海外からの客を圧倒するくらいドイツ中から大勢詰め掛けるのか・・・・バッキンガム宮殿前のようには多彩な言語を拾えませんでした。

大物がたまにしか来日しない日本

 なので、たまに来た大物DJは大歓迎されます。皆、その人のためにお金を払って来るので「音のひとつも聞き漏らすまい」と必死です。なので、多くのDJは手抜きどころか、「すげえ盛り上がってるぜ!」と機嫌が良くなり実力を存分に発揮してくれることが多いです。これは聞いた話ですが、あるNYの大物DJはNYでちょっと冷遇されていたときに日本に来て、日本のオーディエンスのあまりの熱狂ぶりに感激してDJブースで泣きながらプレイしたそうです。

トレゾアの地下室

 前に行った知人から「トレゾアの地下は売人大集合ですごいことになっていた」と聞いていたのですが、私がベルリン滞在中にはそういう方々は見かけませんでした。女の子はあまり声を掛けられないようですが、男の子の話でも「そんなの寄ってこなかった。でもオレ、どうもベルリンでは有名な東洋系の売人に似てるらしくて、もう3人くらいに声かけられちゃった。持ってねーって!」同じ時期に滞在していた鶴見済の本を読んでいたら「声かけられまくり」だったようです。やはり向こうも人を選ぶのでしょうか?

パンクスの犬

 あとで本を読んだら「過激そうな若者の連れた大型犬は、命令によって人を襲うように訓練されているので要注意」と書かれていました。知りませんでした。「犬を連れた人に悪い人はいない」と思いこんでいました。でも、向こうだって自慢の犬を羨ましげに見られたら悪い気はしないはずです。

ドイツ人の管理方法

 ゴミの管理とかどういうふうにしていたのか、全く記憶にないのはなんでなんだろう?
 最近の巨大イベントでは「リサイクル」などが高らかに謳われていることが多いのだが、そういう印象がなかった。
 そういえば、「フジ・ロック」では空きペット・ボトルを回収所に持っていくとお金に換えてくれたそうだ。
 「個人の良識」なんてもんをあてにしないで、そういう物や金でつる方法が私はけっこう好きなのである。

旧東側の人々にとって東洋人はめずらしい

 あとで本を読んだら「旧東では、東洋系や中近東系の労働者もいたが、ドイツ人とは隔離されて生活していたので、旧東の人々は東洋系移民に免疫がなく、その無理解が移民差別感情の原因のひとつでもある」と書かれていました。

軍隊もパレードした大通り

 歴史上、本当にパレードしていたのは6月17日通りではなくて、そこからブランデンブルグ門を通り抜けた旧ベルリンの中心街の中央通りであるウンター・デン・リンデンらしいです。そう考えると、6月17日通りはパレード前の「楽屋」として利用されていたのではないでしょうか?
 でも、かのナポレオンも凱旋した通りでお祭り騒ぎをしてると思うとなかなか感慨深いものがあります。
 東京で「皇居前広場でテクノのお祭り」なんて考えられませんよね。
 


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