夢見る頃を過ぎても 9


2000年7月16日
 映画関係が続きますが、マリリン・モンローに比べると、こちらはやや通好みです。
 映画のエキストラになりたい

 これだけだと、えらく平凡ですね。
 特に努力しなくとも、エキストラ派遣会社に登録しておけば簡単に実現しそうです。必要なのは「暇」だけでしょう。

 映画といっても、そんじょそこらの邦画なんかではありません。外国映画です。それだけでもエキストラ出演できる可能性がぐんと下がりますが、さらに限定すると、フランス映画です。もっと絞ると「ゴダールが監督する作品」に限らせていただきたいのです。

  ゴダールの映画にエキストラ出演したい

 これだけだと、ただのヌーベルバーグに憧れる映画好きの夢見る少女のたわごとみたいですが、まあそれもあるのは否定しませんけれど、私の夢はさらに細かい条件を指定しております。

  ゴダールの映画に死体役でエキストラ出演したい

 死体で出演したい。駄洒落ではありません。マジです。
 この先の言及はゴダールの映画をご覧になっていない方には、ややわかりづらいのかも知れませんが、「どこに出しても恥ずかしくない立派なゴダールファン」の友人に話して聞かせたところ、全く理解してもらえなかったというか、相手にされませんでしたので、ゴダール知ってるか知らないかはあまり関係ないようです。

 「カルメンという名の女」という作品の中で、たしか病院内での銃撃シーンがありました。(この作品は後期のゴダール作品の中では最もストーリーがあったのではないでしょうか)
 無機質でがらんとした建物の中で、ままごとのように銃を打ち合っていました。
 誰と誰がなんのために争っていたのか、今となっては憶えていません。
 私の記憶に刻まれたのは、散漫な銃声がする中、清潔で冷たそうなリノリウムの床に、流れ弾に当たったと思しき人物がうつぶせに倒れていて、その側に掃除婦がたたずんでいました。掃除婦がなにをしていたかというと・・・掃除してました・・・倒れた人の首すじから大量に流れ出た血液をモップでせっせと拭いていたのです。バックではまだ銃声も聞こえて、廊下の向こうを銃を持った人達が走り回っているのにもかかわらずです。
 まるで本当の掃除婦が映画の撮影中に紛れ込んでしまい、彼女の仕事をただ淡々とこなしているかのようでした。(死体処理は彼女の仕事ではないので、汚れたところを拭いているだけ)

 当時のゴダールはそんなふうに、「物語」と「役柄」と「演じている人々」などをそれぞれ別の次元に置いて、観ている人を困らせてくれました。そのへんの話は東大学長あたりにおまかせしておいて、とにかく私はその「無名の死体」を観てなんだかとってもそれがやりたくなったのです。

 同じくゴダールの作品で、なかなか上映されないので私も一度だけアテネフランセで観ただけなのですが、「ウィーク・エンド」という作品がありまして、ブルジョワの夫婦が遺産相続できないとわかり、慌てて母親の元に駆けつけようとするのですが、なんだか途中いろいろあって、やっと母親の家に着いて母親を惨殺するという、「こんなに乾いていていいのか?」という変な映画なんですが、(ちなみに一応ロードムービーのようです。デヴィッド・リンチがカンヌで賞をもらった「ワイルド・アット・ハート」はこの映画へのオマージュというか、ほぼパクリでした)主役は車といっていいほど、車が記号的に使われていて、圧巻なのは延々続く渋滞シーンです。

 フランスの典型的な田舎の国道みたいな道で(背景は田園風景。道幅も狭い)大渋滞が起こっていて、主人公夫婦は当然急いでますから脇を通り進んでいきます。
 カメラはその様子を水平に移動してとらえます。映画としては「これでいいんかい!」という、とても単調で不思議なシーンです。何分続いたのかまでは憶えていませんが、体感時間としては20分くらいずっと延々と車の行列だけが映し出されます、観客がうんざりしきったところでやっと渋滞の先頭が現れます。

 数人の警官がいて、その足元には大量の血のり。交通事故だったのがわかります。そしてそれまで水平移動しかしていなかったカメラが、やっと後ろに下がると、血のりの先には数名の死体が道路脇に寄せられています。
 死体を引きずったあとが道路に残っているあたりが不気味。たしか印象では家族の死体という記憶があるのですが、何せ観たのが10年前でそれ以来観る機会がないのでおぼろです。
 そこでも死体たちは「無名」です。顔もわかりません。ただ休日に田舎をドライヴ中に事故を起こし、それだけの渋滞の原因になり、渋滞を処理するために無造作に道端にうち捨てられていました。

 有名な「気狂いピエロ」でも、主人公の女性がハサミを意味ありげにカメラの前で開いたり閉じたりしていたと思ったら、次の瞬間、床にやはりうつぶせで横たわる男性の死体(たしか首にハサミが突き刺さっていた)が映し出されます。その男性はその前のシーンでは一応役柄があったので、厳密には無名ではないのですが、「殺されるシーン」という死体にとっての見せ場は撮ってもらえませんでした。

 印象に残っているのはその3件の死体でしょうか?うつ伏せで血が流れているというのが共通点です。そこに記号論な話をからめるのは苦手(嫌いという意味ではありません)なので、とにかく「私もあの役やりたい!」とそれだけなんです。

 「死体を演じたい」というとよく「シンディ・シャーマン」のことをいわれますが、たしかに彼女の作品も好きでしたが、自分でやるとなるとちょっと派手かなあ、顔も写っているし。
 ゴダールの死体みたいに「飾らない・主張しない」のがいいのです。

 ですからテレビの2時間サスペンスドラマの死体なんかは論外なのです。悲鳴なんて上げたくありません。

 いったい自分が本当は何を目指しているのかは、今のところよくわかりません。別に死にたいわけではありません。(念のため)

 昔、友人と京都旅行をしたときに、けっこう「死体願望」が強まっていて、嵐山散策していたときに、

河原で死んだふりするから写真撮って

と言って、河原にうつぶせになって本当に撮ってもらい「ミヤノ変人伝説」の1ページとして後々まで語られました。ついでに「三年坂で転んでいるところの写真」も撮ってもらい、(三年坂で転ぶと何年後かに死ぬという言い伝えがあるらしい。修学旅行生の間ではよく語られる)まじに心配されたりもしました。

 どうも、記号論は苦手といいながら「死というものの記号」になんだか吸い寄せられる体質のようです。
 ただ単に死んだふりしたいだけの変態趣味とも言えますが。

 しかし、最近のゴダール氏は、なかなか死体が出演するようなわかりやすい映画撮ってくれないようで、彼の気が変わらないと、この夢は実現しそうもありません。


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