ゴキブリのちょっといい話
2000年2月22日ゴキブリが怖くない自慢として、昔あったある事件のことを思い出しました。私が実家を出て独り暮らしを始めたのは、今を去ること10年ほど前になりますが、そのころのエピソードです。
住んでいたアパートは、井の頭線の下北沢の次の駅「新代田」でした。新築のアパートでしたが、ロフト付きでやたらと狭く、西日が入って夏にはエアコンつけてもさっぱり温度が下がらないという物件で一年くらいで逃げ出してしまったのですが、その事件が起こったのはたぶん初夏だったのではないかと記憶しています。エアコン付けるほど暑くはなくて、住人たちが窓を開けていたからです。夜、テレビでも観ながらくつろいでいると、下の階の部屋から女の子の声が聞こえてきました。防音がなっていないアパートだったので、となりの部屋の音などは筒抜けだったのですが、よくよく耳を清ましてみると、その声はどうもななめ下の部屋の住民の声のようでした。私も彼女も窓を開けていたので、となりの家に音が反射して、声ははっきりと聞き取れました。
どうも彼女は友達と電話しているようです。会話はこんな感じでした。「そうなの、さっき見つけて、雑誌で叩こうとしたんだけど、ベッドの下に入っちゃたみたいなの!外からつついても出てこないし・・・どうしよう、このままじゃ眠れないよ!寝ている間に出てきたらと思うと怖くて・・・ねえ、これから来てくれない?え?そういわないでさあ・・・ああ、もう、お願いだから話し相手になってよー、怖くて一人じゃいられないよー」
興奮のためか、彼女はとても大きな声で話しているので、最初はなんのことを話しているのかわかりませんでいたが、だんだんと内容が分かってきました。別に盗み聴きしていたわけじゃなくて、聴きたくなくても聞えちゃうのです。
どうやら彼女の部屋にゴキブリが出て、怖くてどうしていいのかわからないので、親しい女友達に救いを求めているようなのですが、友達も来てくれる様子はなく、会話は延々とその調子のまま続いていました。
そうこうしているうちにまた、「あ!また出てきた!やーん・・・えい!・・・・あーん、また逃げられちゃった・・・今度はテレビの裏だ・・・どうしよう・・・・」
などとやっていて、なかなか解決しそうにもありません。
そうこうしているうちに、1時間以上たち、12時を過ぎてしまいましたが、会話の調子は落ちなくて、「わたし、そろそろ寝たいんですけど、それにしてもうるさいなあ」などと思っていましたが、ゴキブリが退治されない以上、静寂が訪れる見込もありません。早くなんとかしてもらわないと、翌日は平日なので困ります。
しかし、私のそんな思いも知らずに、彼女は大声での電話を止めようとはしませんし、友達もこんな深夜に助けに来てはくれないでしょう。
そうこうしているうちに12時半をまわり、私はもう耐えられなくなって、部屋を飛び出し下の階に降りて、彼女の部屋の呼び鈴を押しました。中からはまだ電話している声が聞えます。「あれ?だれか来た。だれだろう、こんな夜中に・・・ちょっと、電話切らないでよね、怖いから、そのままにしておいてね、ちょっと待ってね・・・」
ドアが開きました。彼女は当然、不審そうです。私は努めてにこやかに、
「すいませんが、上の階に住んでいるものですが、お話している内容が聞えちゃったもので・・・」
と、語り掛けました。
「はあ・・・・・」
彼女はきっと、なにか文句言われるのかと思ったことでしょう。
「それで、どうやらお困りのご様子なので、もしよろしかったらお手伝いしようかと思いまして・・・」
彼女はポカンとしていましたが、一応私が悪い人ではないのが伝わったか、わらをもつかむ心境だったのか、私の言っている意味を即座に理解したようで、
「そうなんです、ゴキブリが出て、困っているんです・・・」
「よかったら、私が退治するから、中に入ってもいい?」
「本当ですか?じゃあ、お願いします」
と、見知らぬ他人の私を部屋の中に入れてくれました。「どのへんにいそうなの?」
「さっき、テレビの裏に入っちゃたんです」
「じゃあ、テレビを動かしてもらえるかな。あ、その前に雑誌か何かある?」
「え?」
「いや、なんでもいいんだけど、叩くものが・・・」
彼女はその辺に転がっていた雑誌を手渡してくれました。そして、おそるおそるテレビを動かすと、いました!私はすばやく丸めた雑誌でヤツを叩き、見事仕留めました。そして、
「ティッシュあります?」
と、言って御遺体をティッシュで掴みとり、
「じゃあ、これは私が処分しておきますから」
と、かっこよく(?)部屋を去っていきました。彼女はその様子をぼうぜんと見ていましたが、私が帰る際に正気に戻ったのか、慌てたように「ありがとうございました、本当にありがとうございました」と繰返し、私は我ながら「私ってかっこいー!」と酔っていたので、
「また出たら、いつでも声かけてください。2階の202号室です」
と、爽やかに告げて立ち去りました。
ああ、これでやっと静かに眠れる、と部屋に戻ると、彼女がさらに興奮した声で、「今、聴いてた?上の階の女の人が来て、退治してくれたの!びっくりしちゃった!」
などと、しばらく友達と語っていましたが、そのうち静かになって、私も安眠できそうでしたが、そのときはたと気がついたのは、そういうやりとりをこのアパートの他の住人も固唾を飲んで聴いていたに違いないということです。他の部屋の人達も「うるせえな」と彼女の電話の内容は聞えていたはずです。そこに、突然私が現れて鮮やかに退治していったわけです。そういううやりとりも全部筒抜けだったはずです。
そう考えると、恥ずかしくなってなかなか寝付けませんでした。その後、彼女から退治依頼はなかったのですが、今でも窮地を救ってくれた謎の女性のことを憶えていてくれているでしょうか?
ちなみに、そんなことしたのはそれっきりですが、あの時のカタルシスは今でもよく憶えているので、機会があったらまたか弱き女性を救うヒーローを演じたいところです。