三鷹寮十年D昭和30〜33年

田中 新一

 昭和三〇年は荒木君、小中君である。面白いことにはこの期の委員は二期を勤める者が多かつた。荒木君は前期の委員であり次いで委員長、委員と三期やっている。加藤雅君、揖野忍君も二期継続した人々である。この期の委員室は明寮にあつた。荒木君が食堂従業員との労働協約を脱稿したのはこの室からである。寮生相互の健康保険と食堂従業員の健保加入のために想を練ったのは小中君とであると思う。当時は人格のない団体は健保に加入出来なかった。加入出来ないが故に加入を願うということだ。暑い日である。私と小中君、大島君等と立川の保健所へ向った。抱えている帳簿はいやに重い。とにかく加入が出来た。そして掛金も微妙な線で話し合いがついたのだが、この年の下期ともなると食堂の雨漏れは全くお話しにならなくなった。又G・M・Cの補修費は年額四〇万円を要するに至っている。私はこの二件には全く毎日暗い気持であつた。勿論私も動いている。又事務部長や会計主任もこのためによく動いてくれている。私も小中君と共に営繕課長、会計課長を尋ねて要請にこれ努めたのである。

 この要請は次年の渡辺君、駒谷君とともに努力し、食堂の屋根は構造を変更しないで最高の方法で修繕して頂くことが出来た。又ジーゼルは三二年の和田君の時代に入手し得たのである。ここで我々が考えねばならないことは寮がバスを持っということは極めて異例に属すると言ことである。ジーゼルを取得するについても学部の関係者はもとより会計課長の鶴田さん、又実際自ら取得のために努力された器財課長の中川さん、大野さん等の深い理解に感謝を捧げねばならないであろう。このジーゼルがあと何年動き得るか知らない。しかし三鷹寮の寮生活が全くこのバスの運行に結びついて回転していることを知って頂いていることは事実である。

 寮祭が街頭に進出したのは和田君のやった仮装行列である。なかなか多彩な行列で約一〇〇米も続いた。出物は人工衛星ブームに乗ってか宇宙物、女性物が目立った。八頭身美人や歌麿美人の出現には思わずハットオフであつた。街で人気を拍していたのは幼稚園の街頭進出であつた。この寮祭では寮内デコをやった如くであったが見ないのは残念であった。

 三鷹寮には建物と名づける施設を合計すると約二、五〇〇坪ある。だがこの建物を利用するとなると全部を組替えるか手を入れねばならない。驚いたことには改築して三、四年の西、明寮の畳が全部腐ってしまったことである。原因はいろいろ存する如くであるがとにかく困った出来事である。悩みは不思議と後を絶たないものだ。この辺からだとまだまだ記憶が新しい。大日方君、吉田君、石崎君、中前君という一連の名前を連記しただけでも懐しい思い出が胸を突くのである。大日方君には彼の就任早々、我々委員会メンバーも勉強しなければならないから委員室にカウンターを取付けてほしいこと、又土足禁止を厳重に取締らねばならないから下駄箱を作ってくれとのことである。東寮西側下駄箱室にある下駄籍及びカウンターは大日方君等の設計によったものである。大日方君は自らも絵画を好むことからか寮内文化活動にはなかなか積極的でこの時代にあつたサークルは音楽、絵画、数学、合唱、オリーブ会等であったと思う。

 新入寮生を迎える以前に西、明寮の畳の取替え、其他及び食堂従業員の宿直室の畳の取替えも出来たことは全くの幸運であった。私がこの畳の取替えに立会って驚いたことは既存物で補修して利用出来るもの一枚もなかったことである。畳を取替えるということはなかなか困難なことなのである。少しでも長持ちさせるためには晴天の日によく乾してそして丁寧に取扱ってほしいと思う。これでどうやら西、明寮や食堂従業員の悩みも解消しえたと思うし、又腐っていた調理台も新らしい品物を入れ、電気冷蔵庫も根本的な修理を行ったから少しは気を抜いた日夜を送れるであろう。

 開寮十年悩み続けて.いる問題に暖房、衛生、火災予防の問題がある。然し私が一番恐れているのは火災である。殊に東寮は怖い。だから火災予防策については極めて積極的である。私の見た火災発生点で一番必要なものはやはり水の如く思える。身近に水があるということである。寮舎内に水を入れたポンプ、バケツを置いてあるが、これは極めて重要な武器であることを銘記するを要するであろう。東寮内に消火栓を入れたこと、貯水槽を増設したこと、消火器が置いであること等は寧ろ第二の武器である。それから電灯配線については心配がない。配電室には漏電防止機なるものが設備されていることを知る人は少いかも知れない。吉田君の時代に東寮自習室及び廊下を全部螢光灯に、又寝室を四灯クラスターに取替えた。これも防げるものは出来るだけ防いで行きたい努力の一つである。東寮そのものの建物についてもマダマダ計画を練っている。隔壁、非常階段、非常ベル、西、明寮の螢光灯化、揚水ポンプの増設等々である。

 三三年の九月、丁度試験日前日であった。落雷が職員宿舎の屋根裏とトランスにあった。停電である。明日は試験日であるからなんとか応急処置をとらねばと考えテンヤワンヤの末、なんとか点灯したこともあった。又台風二十二号には主として東寮の屋根が相当やられてしまった。台風被害による緊急要請は大蔵省の実情査定があると言うので内心喜んでいたのだが査定は零であった。この零には私も全く呆然としてしまった。だがこの雨漏れをそのまま放置し得ないのである。(筆者は三鷹寮管理主任。昭和34年8月、記)