三鷹寮十年C 昭和29年

田中 新一

 昭和二九年は黒田君、野口君による三鷹寮建設第二期コースであったが、我々職員仲間の小笠原君の逝去した年であった。小笠原君の三鷹寮に残した足跡は極めて多大である。只管冥福を祈って止みません。

 この期までの三鷹寮はなんとか生活に必要な諸施設の充実改善のために我々も又委員会もその大部分のエネルギーを消耗して来たと言い得る。然し野口君が委員会を組織するやその着眼も漸次寮生相互の寮生活そのものに注がれて来た如くである。電気洗濯機、ピンポン台、図書室、音楽室、特に図書室の開室に際しては矢内原先生を始めいろいろの諸先生から多数の本が寄贈されたこと、又これを祝して職員が本棚を作って喜びを分ち会ったものである。

 ここで忘れてはならないことは諸先生の寄贈本のために努力して下さつた学生部の諸先生及び第八委員会の諸先生のことである。

 ここで三鷹寮としては最初であり又最後であるかも知れない三鷹寮々債のことについて思い出してみよう。これを思索し実施したのは野口委員長である。目標は素晴らしい音楽室と電蓄を備えることであった。私は野口君からこのプランと資金の調達方法を聞いた。私は彼がこのプランを真剣に考え実施しようとするならば寮債の引受けについても又其他の事項についても全面的な協力をする旨を約した。彼等の活動は始まった。現在の音楽室は彼等が一睡もせず塗装したものであるが、この室内デザインを心に期するまでには私も高円寺のある喫茶店にお伴をしたことがある。電蓄は寮生の誰かの手になったものと思うが、テーブル、椅子は全て彼のデザインによる注文製品である。母の会のお母さん方はこの椅子に蒲団を、そして窓には赤いカーテン、人形と絵画の寄贈をしてくれたのである。又彼はLP盤の借入れを何処かへ交渉に行き成功したらしかった。ここまでは寮内は平静であった。次いで彼はバーのカウンターと角瓶棚、高椅子を作るに及んで総代会のブレーキに引っかかった。問題は寮生大会に持ち込まれ、彼等の総辞職は慰留されカウンターは取除かれて結着したのである。この問題については我々は批判しない。自治寮の問題であるからだ。我々は協力する。この種の委員会の行為に対する批判は寮生のみがなし得ることである。いづれにしても彼等は自らの足と手、そして考え行った人々である。三鷹寮の寮祭にタキシード姿で寮生及び招待者にハイボールをふるまったのが寮祭にハイボールの出現した嚆矢である。

 彼等がもう一つ重要な変革を加えたのは食堂の定食制の実施である。この年も台風何号とやらにトランス柱が倒壊寸前にまで傾斜し大騒ぎしたことがある。三、六〇〇ボルトの高圧電線の配線替、浴場に上り湯のボイラー、食堂にプロパンガス、テニスコート、バレーコートそれから火鉢から練炭ストーブにしたのもこの時期であったと思う。勿論雪でも降ると道路に溝が出来てバスが動かなくて泣いたり、又暑くなると蚊や蝿、ポンプの故障に頭を痛めねばならないが、この田舎臭い風情も都会生活とミックスした味のある三鷹寮という田園生活に移行していることも事実である。(昭和34年8月、記)