三鷹寮十年A 昭和27年まで

田中 新一

 昭和二五年の日誌をみるとなかなか珍らしい人々が本寮を往返している。財務局、立川財務局、大蔵省、文部省、会計検査院、運輸技研といったお歴歴である。私の全精力は道路用地の買収と、この諸施設の獲得に傾注されていたわけだ。この事業が修了したのは昭和二七年末であり、これによって我が三鷹寮は実質的にも大学の施設となったのである。

 この年の駒場祭であったと思うが、三鷹寮寮生生活という展示を発表した。この展示に紹介した写真の一枚に若い医師が、ある寮生を診断しているのがある。この若い医師はわが三鷹寮の寮医上野先生である。温和な上野先生の御多幸を祈って止みません。  戦後で私にはタマラナク嬉しかったことに甘諸の配給中止がある。甘諸を喰い、これに生命を支えられていたのであるが、又これがたまらなく憎らしく、怨めしくもあった。だが、食糧事情はマダマダ悪い、食堂経営は極めてピンチである。食堂は定食制の実施を要請して来た。だが寮生大会はこれを拒否した。これは外食食堂の形態を意味する。寮生が畑のトマトを頂戴に及ぶとかどうとか、事務所で喚く親父の顔にも時代を連想し得る。いづれにしても寮生活が安定すればするほど委員会のサンドイッチ的悩みは多大であったと思う。この時代を背負った委員長は鎌倉節君と吉原泰助君とである。日誌に“九月十六日寮生の野球大会”とあるからこの種の催物はこれが嚆矢かも知れない。

 昭和二七年は新寮舎改築工事の実施で年を迎えている。職員は新川への裏道路を作っている。寒さは厳しい。ポンプの故障続出、台風でやられた爪の跡は寒さとともに、貧弱さが身にしみる。ここで新寮舎について一寸と述べて見よう。新しい寮舎を作るということは素晴らしい魅力であった。しかし古い建物を解体してこの材料を主とし、又古い建物の基礎をそのまま用いるところに、相当のリミットがあった。だが、この制限内で出来る限り明るい理想的な寮舎を作ろうと努めたものである。先ず畳にするか、ベットにするか、又一室を何人の室とするのが理想的であるか、議論百出して設計したのが、西、明寮である。残念なことは技術的、予算的に床の低いこと、襖が入らないことである。

 この年の三月に汲田君が委員長となった。ある盗難事件が発生した。悪いことに捕えてみれば我が子であって、この子の処置に本当に困ったものである。私の求められた助言は極めて甘いもので、汲田君としては全く不本意であったであろう。しかしこのことはいづれも処置の問題であって、出発点は総て善意である。

 私が東大生の無反省を信じられなかったことに、この人は否の解答を与えてくれた。だからといって我々が人を信ずるそのことに少しの反省を与えるものではない。我々は人を信ずる。少くともこの小さな三鷹寮の社会では人を信じつつ生活してよい。

 この年を一覧に表示してみよう。(一)委員長汲田君、吉原君(二)西寮の誕生及び南寮建物の改築(三)馬場の出現(四)食堂の破産改組(五)下痢患者三〇名発生(六)野村病院を寮医病院として契約(七)高木谷夫君の自殺(第一期委員)(八)山村暢洋君の谷川岳での事故(九)池田さん(職員)の逝去(十)売店の開業肖(十一)第一回三鷹寮祭

 以上十一項目を掲げたが、一番困ったのは食堂の破産であった。協組は三木君個人にこの厄介な荷物を預けるつもりであったらしい。協組の組織をバックにしてかつ破産するものを、個人の方でどうして維持し、かつ寮生のための食堂たり得られようか。私の絶対承服しなかった事由はここにある。学生さんは勉学が主である。しかし寮食堂の運営のためには寮生の絶対的協力が必要である。今日の自治寮食堂を見るまでにはかかる犠牲と辛酸を舐めているのである。私はここで協組の責任者として苦労きされた鈴木君並びに三木君に感謝の意を表したい。私の見たところでは、食堂の経営管理部面ではある程度の基礎が築かれていると思える。問題は食生活の管理運用部面に将来への研究が待たれているのではないであろうか。(昭和34年8月、記)