第19期委員会の感想

石崎 勝義

 第8回寮祭についてはその大きな企画に対して「形式主義におちいっている」との声が早くからでており、協力を拒む人が出ていた。これが晩餐会の席で問題となり、寮生相互のつながりを賛美する先輩の前で腹をさいて、はらわたを見せる格好になってしまった。 たしかに覇気に欠ける寮生がふえて来た。自分の勉強に精を出し標準的な学生生活を送るような人が殖えてきたのはたしかだろう。

 夜半のストームは翌日の授業にさしつかえるからいけない、土曜日ならよかろう。建物がいたむから水をつかってはいけない−−。このような中し合せが総代会でなされた。ストームのようにもともと合法も非合法もないようなものが総代会の規制をうける、たしかにこれはインポテと一言われても仕方のないことだ。だが一方寮のいわゆる伝統に対し、自分の現在の生活との違和感を鋭く感じ、より合理的に生活しようとする知恵が働き出しているものも事実である。

 盗難事件が相続いで起ったとき、これが一高の寮であったなら寮内の問題はすべて寮内だけで片づけるのが寮自治と考えて委員が交代で張りこんで、いつくるかわからない次の盗難に備えるという方法がとられたかも知れないが我々は寮生大会を開いて委員会の捜査の力を卒直に申し出、警察力介入にどれだけ期待してもよいのか、自治がおかされる恐れはないのか等を、討議して寮としての方針、即ち警察力介入を含む一切の捜査権を委員長に委任する、という事が決められた。決して警察力介入はいけないとの伝統だけで片づけはしなかった。

 朝日が社会面のトップにのせた例の「東京女子大に男女交際のルール提案」の件もやはり新しい傾向だと思う。世に流された報道は誤りを含んでいる。あのとき学生側はちゃんと主体性をもっていた。大人は学生の要請によって出席した。

 もう一つ、まるで三鷹寮生が東京女子大に「お願いして」体よく「必要ないから」と断わられた如くだが、これらの乗気は十年以前と同じとしても相手側も乗気であったのは話合ってみておどろいたのである。土台若者がみめうるわしき娘にひかれるのは当然であってごく少数の女ぎらいと女きちがいを除けば内心女の子と話をしたいと感ずることもある。

 ところが今の社会では内気な東大生(なんと内気でお高い東大生の多いことか)が自由に女の子と話合える機会が少いからこれを作ろうと考えたわけである。女子大だって事情は似たようなものでまさしく共通の利益である。こんなことは前からわかっていたことだが見もしらぬ女の子に交際を申し込みに行くのが東大生の体面からしてできないとなると酒をのんで威勢よくストームを、かけパンティを盗んでくるようなことしかやれない。

 こんどの件では「天下の東大生が恥かしくないか」との評があるようだが、こういう伝統はそのまま呑みこむわけにはいかない。伝統とか体面とかそんなものに拘束されつつもだんだんそれから脱けだして自分の生活感情にぴったりした合理的な考え方が少しずつ支配的になってきたのではなかろうか。こういう傾向は目立たないけれどいろいろな部分でみられると思う。新入寮生が飲めもしない酒を無理に飲んで顔をまっ赤にしてひたいにすじをたてて声をしぼりだしてうたいこれが寮生活だと思いこむあのコンパも一度は検討されるだろう。三日間をお祭り気分にもなりきれず何となくちぐはぐな気持で過すあの寮祭も再検討の対象になろう。

 しかしいやなのは合理主義が行きすぎてあまりにも自分の利益を計算するようになることだ。今年のテニスコートはコート屋にはやらせず寮生の手で整地できて気持よかった。ところが整地の打合せ会で「他人もコートを使うのに自分達だけが労働奉仕するのはいやだ」という寮生が出てきた。この人は自分の現在の幸福が先人の、いや現在も社会のいろいろな場で汗みどろになって闘っている人達によって支えられているということに全く気がつかないにちがいない。

 三鷹寮の春秋は緑にかこまれて美しい。この広い寮内で各自で自分の考えに従って自分の生活を送ることはなんと素晴しいことか。しかしそのような幸福な状態にいてともすればおちいり勝ちな、幸福な生活を自分一人で得たいと思い、自分の社会的責任を忘れ、政治に無関心になってゆく傾向をどうしたら防げるのだろうか。

 美しい心を鍛えるための作業が友との語らいとかオリーブ会のような研究会とか行動する際の心の中での闘いとかいろんな形で行なわれている。こういう活動がもっともっと盛んになっていけばよいと思う。さかんに論じられる寮生活の意義もそこい辺にあるのではないか。(33年入寮)