三鷹寮騒動記〜第14期委員会時代〜

駒谷 成夫

  (一)
 私が在寮していた昭和三十年四月から三十二年三月までの二年間は、最も放縦な生活の時期であり、懐しい思い出の跡を多く残した時期である。その中、第十四期委員長を勤めることによって、三鷹を第二の故郷といっても過言でない位に三鷹寮に愛着を覚えるようになったのである。二年間には数多くの経験があり、思い出があり、エピソードがあるが、三鷹寮での個々の生活の裏話は他に譲るとして、私は自分が勤めた委員長の時期について三鷹寮全体についてその一駒をひろってみようと思う。

  (二)
 昭和三十一年五月二十六日に私が委員長に立候補して信任された。その翌日、副委員長以下八名の委員を公募したところ何と二十三名の応募者があったのである。而もその半数以上が入寮間もない一年生であった。私が在寮していた二年間に四回の委員会の交替の機会があったがこの時程寮生各位が多数委員を希望したことはなかった。当時寮のアパート化ということが深刻な問題として取上げられていただけに、この現象は自治寮の「自治」の名にふさわしいものであり、他方、戦後十年余を経た国民の一般的な経済状態が安定したことと相挨って、経済的理由から入寮を希望する当初の時代−−駒場寮の詮衡洩れのお流れを頂戴していた時代−−から、独自の人間鍛練の場として学生一般の目に写り、入寮希望者が殺到する三鷹寮へと発展して来ていることと裏腹をなすものであった。
 かようにして、寮生の心強い後押しをもって、十四期委員会は若返った意欲と抱負に燃えて発足した。
 十四期委員会は「アンケート委員会」と自他共に許した程、諸問題についてアンケートを配布し、寮生の希望に添うべく努めたけれど、それ程奇抜な変貌を三鷹寮に加えたとは言えない。しかし、この時期に三鷹寮の施設においてかなりの新しさを加えたことは動かせぬ事実であった。以下当時の特筆すべきことを取上げてみよう。

 「三角地帯の大除草」 六月二十四日(日) 蝿、蚊撲滅の為に、三角地帯の一齊除草を行った。寮生にとっては折角の日曜、デイトの約東ある者もあろうし、又恐らく東京に来て草刈りなどということを行おうとは思ったことがなかったろう。ところが、果して何人出てくれるかと言う杞憂を一掃して、思いの外多数が協力してくれた。登山帽や手拭鉢巻にトレパンの出で立ちで、鎌を動かし、密林の如く生い繁った雑草が除かれて、平原が作られて行く様は、己れの生活する環境を清潔にしようとする何とけなげな姿ではなかったか。

 「東寮内土足禁止断行」 続いて七月八日(日) 夏休みを間近にして、浮足立った寮生をかり出し、東寮の大掃除を敢行。自習室と廊下にリノリウムを敷いて、東寮内の土足厳禁を企てた。木造建築の而も旧弊しているというだけでも埃が多い中を土足でドタバタすることは、寮生の気管内に目に見えぬ害毒を流し込んでいるようなものであったが、ここにその弊害が少しでも除かれたことと思う。東寮西側に新しい下駄箱を作り、入口をぶち破ったのだった。

 「売店の新塗装」 売店の腰板のペンキをゴシゴシこすって、新しくペンキを塗り、螢光灯をつけ、ストーブを入れたのもこの頃。

 「バスケットのポール」 駒場の八大教室の横に放置されていたバスケットのポールを体育課に交渉してせしめ、トラックで運んで来たのは鮮かであった。

 「食堂改修」 何といっても面目を新しくしたものは、数年前から各委員会が要請していた食堂の屋根の改修。完成したのは十月中旬だった。経費総額一一五万円の工事は、八月末から着手され、その為売店とその隣りの部屋を続けて仮食堂とし、調理場から運んで配膳したのだった。九月の試験中もずっとこれを通して窮屈な思いをしたが、、天井が張り替えられ、新しくペンキ塗装された三〇〇坪の大食堂ホールが完成した。雨降りの日は傘をさしてメシを食うという風情は懐しい過去となったのである。

 早大東伏見寮と野球試合をした時、東伏見の二君が衝突して一人が鎖骨骨折、野村病院へかつぎ込み大慌てしたこと、いつのことか寮生が吉祥寺での二次会で気焔を上げ、東女の寮ヘストームをかけて以来、何かの交渉につけ「三鷹寮は……」という悪評を高めたこと、前期委員会の懸命な努力によって、一般寮生にはつんぼ桟敷になっている食堂会計が黒字となり健全財政が行われたこと、等々。数え上げれば枚挙にいとまがない。

  (三)
 ここで加えておかねばならないことは「バス」のことである。駐留軍払下げのバスは、その色からして、立教女学院の学生から「囚人バス」のニックネームをもらったものであったけれど、その「囚人バス」が九月初に新しく化粧し直したのであった。ところが十月末、寮祭準備で大童という時、エンコして動かなくなった。「バス」は三鷹寮のマスコットであり、寮にとっても、寮生にとっても欠くべからざるものであるだけにこれは一大事であった。委員会では学校側と交渉しても、これまで修理費に相当つぎ込んでいるからといって仲々修理してくれない。バス廃止か、或いは、寮生の完全自治運転にするかまで突込んで考えた。又小田急バスの乗入れについても交渉してはみたものの決して安上りにはなりそうもなかった。結局当座の応急措置として寮生から一〇〇円づつカンパして修理費に当てようとの結論に達した。そこで寮生に対してアッピールのビラをまき、寮生大会を開いた(寮生大会は規約上あるにも拘らず、かっての規約改正以来、二年ぶりのことであった)。委員会はマスコット「バス」を維持するため切々と訴えた。ところが、学校側との交渉が足りない、修理費のデータを示せ、等々で委員会は完全なつるし上げをくった。結果としては、一時金を廻して修理し、学校側に執拗に交渉したのであった。ただこの寮生大会は当時の委員会が総代会の無気力に乗じて独走していたことに対する適切なチェックであったこととして、自治寮の面目を躍如とさせた点に大きな意義があったと言えよう。

  (四)
 寮の年中行事の中で最大のものは何と言っても寮祭であり、偶数期(半期)の委員会は、寮祭委員会と言っても過言でない。そこでここに第七周年記念寮祭について特記しておこう。
 先ず問題となったのは寮祭の性格についてであった。即ち一般的に公開するか或は寮生だけで楽しむお祭りとするかであった。集会を開いて討論した結果、両者を調和させるという従来通りの方針になったのであった。
 寮祭催物で一番頭を痛めたのは講演会であった。一ヶ月程前に亀井勝一郎、河盛好蔵、武者小路実篤各氏に交渉したところ、すでに日程が詰っているとのことであった。ところが仏語の田辺先生を通して辰野隆先生に交渉がまとまった。仏文学の大御所辰野先生が来て下さるというのでほくそ笑んで、他大学の寮へも大々的に宣伝したところ、寮祭の三日程前に胃病悪化のため入院で行けずとのことと解り、それから慌てた。電話帳によって名士と名のつく人総当りに電話で交渉した。三〇人以上に当ったと思う。しかし日が迫っていたため、いずれの人も予定がすでにあり、而も面会した上でなく電話で依頼したこともあって、オールアウト。深田久弥氏を訪問して依頼したが引受けられず、現在ならヒマラヤの旅で脚光を浴びておられるから或は応じてもらえたかも知れないが。串田孫一氏は三鷹市牟礼に居られるから再三訪ね、当日午前まで伺って交渉したが時間の都合がつかず。渡辺、西村両君はマナスルから帰られた槙有恒氏を茅ケ崎にまで訪ねたが交渉は成立たず、遂に講演中止の己むなきに至った。

 寮祭全体について加えうることは資金の大幅財源は寄附であるが、新川商店街、食堂業者その他から五万円を超え、前の三万円を遥かに凌ぐことになったことである。  公道よりの入口に「入るものは拒まず、去るものは追わず」のアーチが立ち、かくて寮祭の幕は切って落された。

 第一日 晩餐会(食堂修築完成祝賀会)
 第二日 講演会(中止)。−−レコードコンサート。
     乗馬学校
     映写会「野菊の如き君なりき」「トランペット少年」。
 第三日 スポーツ招待試合(卓球以外雨のため中止)
 レコードコンサート
 フォークダンス
 幻燈会 夕食会(先輩招待)
 演芸会
 ファイヤーストーム
 寮デコ 展示 写真展

 「晩餐会」 総長はじめ多くの来賓を迎え、新装改修なった大食堂ホールに紅白の幕をはりめぐらし、食堂完成祝賀を兼ねて、寮祭の火蓋を切った。雨洩りに傘さしてメシ食う風情から、照明もよく塗装も新しく化粧した食堂へと、多年の念願が叶ってここに一同その完成を喜び祝うことができたのは最大の意義があった。「新墾の」「ああ玉杯に」の歌声は新しい天井にこだまして武蔵野の彼方に尾を引いていった。又新しい試みとしてこの晩餐会に留学生を招き、彼らも余興をみせてくれ、後で各部屋に招いて交歓を行い、中に泊って行く者すらあった。

 「講演会」 辰野先生の病気のため中止になったが、女子大の寮へ宣伝に行った時、辰野先生なら聴こうと期待されていただけに残念だった。

 「寮デコ」 駒場祭の見せ物の一つが、寮デコであるが、三鷹にはこれがなかった。それでこの年は試みてみた。寮生のウィットがどんな風に生かされるか、この試みは寮生全体が寮祭に協力し準備に一生懸命になるのに効あった。特に印象に残っているのは明寮三室の"バーイヤカ"で梁瀬さんがギターで流しながら宣伝していた。訪ねて来たメッチェンも入って一杯嗜んで行くと言う光景も見られた。

 「フォークダンス」 フーダンスは前年からの試みであったが、昨年二十人ばかりで踊ったのに比べて、この日は盛んであった。雨のためホールを利用したが、二重三重に円陣を作って一〇〇名位所狭しと興じていた。これが屋外であったら、グランド一杯に大円陣を描く踊りの会となったであろうと、空を恨めしげに眺め上げたものだった。ところがこれにオチがついている。フォークダンスのあと、寮生がチャンと心得ていてメッチェン達を部屋に案内、交歓会を行うという手廻しのよさには、唖然としたり、感心したり。

 「夕食会」 先輩を招くと言うのは恒例であるが大低一、二年先輩の本郷に居る人達が多かったが、この年は大先輩平賀さんと連絡を密にし、二期委員長田辺さんをはじめ歴代のボス達二十数名招くことができ、三鷹寮生立ちの記を思い出話の中から聴いたのだった。この頃すでに三鷹寮同窓会の結成が要請されていたことは特記すべきことである。

 かくして寮祭は終った。新しい企画、伝統の催物、一年一年寮の祭典にふさわしいものが試みられて行く姿は、三鷹寮の発展を物語るものである。寮最大の行事である寮祭に向って、委員会も寮生も全員総力をあげて専心して、最終日の雨天にもめげず盛況をもって終った喜びは、フィナーレのファイヤストームで、夜天を焦がし、天地になりひびけと張り上げた若人の歌声となって、発散して行ったのである。

  (五)
 以上、私が委員長のポストにあって、自治寮運営という面から見た当時の三鷹寮の沿革を綴ってみた。しかし寮生各個人の生活は様々あり、いろんなエピソードを秘めたものである。それらの裏話については次の機会に譲るとして、最後に寮生活の一面を表わしているかとも思うものを紹介しよう。
 それは、三十年度冬半期東寮十七室にたむろした八人の侍によって創作されたもので、お茶水大講堂で催された都寮連交歓会の余興にも披露したことがある。"東寮十七室ノイローゼ狂詩曲"

 東寮十七室ノイローゼ狂詩組曲
        創作 三〇年一一月 改訂 三一年五月

 (ああ玉杯に花受けて)
 ああ玉杯に花受けて、緑酒に月の影宿し

 (炭坑節)
 月が出た出た月が出た
  三鷹寮の上に出た
 あんまりお月さんが丸いので

 (ショジョジの狸ばやし)
 おいらはいかれてノイローゼのノイノイ

 (ウスクダラ)
 三鷹寮をはるばる訪ねてみたら
  世にもアブノーマルなものばかり…

 (田舎のバス)
 三鷹のバスはオンボロ車
  ペンキははげて雨はもる
 それでも学生さんすし詰め乗っている
  小田急バスが高いかアーら
 三鷹のバスはオンボロ車
  凸凹道をノソノソ走る
 アンレマ三鷹の囚人バスが来るダンベ

 (早稲田大学校歌)
 武蔵野の西北新川の森に
  くずれるいらかは我らが食堂
 我らが日頃のエッセンを食うや
  空腹の行列、餓鬼の精神
 エッセン忘れぬあさましきわれら
  かがやくわれらが食い物みよや
 クジラ、クジラ、クジラ、クジラ
  クジラ、クジラ、ノイローゼ

 (靴みがき)
 さあさ皆さん三鷹の名物
  ちっとも動かぬ洗濯機
 手拭鉢巻 腕をまくって
  三鷹のセンタクボーイ
 おいらの頼みのあの小母さん
  今週はまだ来てくれない
 そこで今日は洗濯だ
  講義があってもサァボッテ
 サァサ皆さんぼくがこうすれば
  どんなシャツでも皆破る
 ゴシゴシバリバリゴシゴシバリバリ
  三鷹のセンタクボーイ

 (草津節)
 風呂場よいとこ三日目には入れドコイショ
  お湯の中にはコリャ垢がうくよ
          チョイナチョイナ
 入った入ったよ沢山入ったドッコイショ
  湯ブネの中にはコリャお場もあるよ
          チョイナチョイナ
 押した押しただあわはねかけて
          ドッコイショ
 こすらなくてもコリャ垢はおちる
          チョイナチョイナ

 (モダンボーイ)
 我輩は寮中で一番
  気前がいいと云われた男
 今夜は売店の当番だ
  野郎共あわてて買いに来い
 誰も来ないときや、つまみ食い
  買いに来たときや、毒味
 売った後にはお相伴
  晩餐食わずに済んだ
 そもそも我輩が測りや
  五〇匁と言えば百匁
 五百と言えば一貫匁
  だから売店は赤字

 (叱られて)
 のまされてのまされて
  おいらは御機嫌よくなって
 歌をうたってねんねしな
  懐さみしい月の末
 またまたケルピンになっちゃた

 (オマイパパ)
 オマイパパ
  書留を送れ オオマイパパ

 (宵待草)
 待てど暮らせど 来ぬ書留
  質札たまる やるせなさ
 今宵は月もでぬそうな

 (螢の光)
 かけたお皿に黒い箸
  ゲイカツ食う日 重ねつつ
 いつしか年も 過ぎのとお
  クジラ一匹 平げた
 歌うも笑うも 限りとて
  形見に思う ノイローゼ
 三鷹の寮を 披露して
  それでは 皆さん サヨウナラ

 頃は昭和参拾余年真冬のこと
 所は武蔵の国 新川のはずれ
 草木も眠る うし三つ時
 暗雲たれこめ 外は真暗 闇の夜
 ポーツと窓越しに見える一つの灯
 一つの人影が足音を忍ばせて近づいてくる
 丁度その時、パラパラパララバラ!!
 さては雨か、嵐か、はたマタ霰か
 ヤヤヤッ雨だ、雨だ……寮の雨だ!!
 (30年入寮)