三鷹寮−−1955年−−(第12期委員会)

荒木 健一

 一、第一二期寮委員会の発足

 窓越しに黒々と見える職員寮に鈍い灯がともった。夕食後のひとときを、私は机に頬杖をついて、ぼんやりと外を眺めていた。先程までそこらで遊んでいた子供等の姿はもうなかった。一九五五年六月の或る夕であった。

 この部屋−−明寮0室−−に居るのは、私と田村の二人きりだった。田村は、私が「まるでヤッコさんのようだ」とよくひやかしたツンツルテンの浴衣を着て十六畳敷の部屋の中央に敷いた布団の上にデンとひっくり返って本(所謂怪しげな図書ではなかったことを彼の名誉の為に申し添える)を読んでいた。

 我々二人は、五月末日をもって解散した第十一期寮委員会の一員であった。又続いて出発した第十二期寮委員会の最初のメンバーでもあった。我々は新委員会のメンバーに優秀な人材を獲得しようと、色々と骨を折っている矢先だった。組閣がなかなか進行せず、二人ともいささかオ力ンムリだった。

 その時、私の目に、食堂の方から近づいて来る一人の男の姿が映った。少し猫背気味の彼は、ピタピタと草履の音をさせながらやって来た。彼が明寮に入ったと思うと、委員室の扉がガラリと大変な勢で開いた。目つきのあまり良くない、坊主頭の男がそこに立っていた。

 「僕、加藤雅ですが。食事委員をやりたいのですが」ブッキラボーな声でそう言って、彼はペコリと挨拶した。先刻から「この男、先月も何かでこの部屋に来たことがあるぞ」と思って考えていた僕は、このペコリでたちまち思い出した。そうだ、四月の初め、荷物の到着より先に寮に乗り込んで来て、その夜堂々と寮委員の布団を借りに来た奴が居た。ペコリと頭を下げた彼には策の施しようもなく、委員共はそれぞれ、敷布団、掛布団、毛布の類を召し上げられた。私もその夜寒い思をした一人であった。「こりや大変な奴が来たわい」と、私は思った。しかし、人材払底の折ではあるし、わざわざ食事委員をやりたいと申し出ているのを無下に断る理由もない。田村と私は、彼に、現在の食堂の直面している困難な事情を話し、これを解決する為に委員会の果すべき役割を説いた。それは、相当に強い意志を以て対せねば失敗する怖れを十分に含んでいた。彼はそれを理解した上で更めて委員となることを希望した。私達は快くそれを受け入れた。加藤食事委員の誕生であった。

 一旦、決り始めると速かった。田村の誘いで金光洋三が文化委員兼厚生委員を、揖野忍が売店委員をやることになった。副委員長は私と同じクラスだった大間知倫が買って出てくれた。藤野が食事委員就任を承諾し、ここに以上の七名を以て第一二期寮委員会は成立した。

 総代会の承認を得てから、委員名簿を持って駒場の学生部へ一同揃って乗り込んだ。早野学生部長にメンバーを紹介し、名簿を進呈し、意気揚々と引き揚げたまでは良かったが二、三日して行って見たら、先日の委員名簿が大量に印刷されていて、各方面に配るようにと渡され、見ると最後に蛇足につけ加えておいた「宣しく願います」の条まで印刷されており、しかも「宜」を「宣」と誤って書いたのまで正確にタイプされていたのにはいささか参っだ。ともあれ我々七名の委員会は、こうして6ケ月間のスタートを切ったのであった。

 二、食堂従業員労働組合との労働協約

 五四年の春、私達が入った当時の寮食堂は現在のような定食制でなく、外食券食堂式の選択制であった。五時になると汚らしいショーウインドに七、八種の惣菜類が並べられる。寮生は列をなして並び、その時の腹の減り工合に応じて一食半とか二食とかをハッちやんと言う若い女性に申し出、チケットにチェックしてもらい、更に己れの好む副食を買って食べるのであった。食べ盛りのこととて毎度二食宛食う者は、五月頃、もう八月分位の食券を使う始末。家から送金があったり、家庭教師の謝礼が入ったりした直後は、景気よく二品三品と副食を買い込む。少し赤信号になりかけても、案外見栄坊が多くて自分の前に並んで居た奴が四十円のカツを買うと「畜生っ!」と言う訳でつい財布の紐を緩めてしまう。とどのつまり月末頃には完全に干上ってしまい、或る男などは、飯二食と味噌汁一杯のみを買い、食事を始めたが、すぐに味噌汁がなくなったので、又行列の後について味噌汁を買い、又々三度目に並んだ所が、ハッちゃんにいたく同情されて「ただでいいワヨ」と有難い言葉を下され、飯用の丼になみなみと味噌汁を頂戴に及んだと言う驚くべき話があった。

 このような次第で食べる方も大変だが、一方、作る方も消耗で、多種少量生産であるから、たまたまその日の献立に一つ美味いのがあると我も我もと殺到し、中には一食半ずつ二度喰うと言う呆れた奴も出る始末で、長戸さん、沢村さんをはじめ、キリキリ舞の有様であった。

 このような多種少量生産方式は経費の面でも無駄が多く、高い利益を見込むことの出来る普通の食堂ならばいざ知らず、より安く、より内容の充実したものを求める学生寮の食堂の制度としては全く不適当なものと断定せざるを得なかった。加えて三木食堂支配人に殆ど委せ切りのような状態においては、その経理内容の把握も殆んど、不可能であった。

 第一一期委員会は、このような不合理を改める為、五四年末総代会での大激論の末、遂に五五年初頭より定食制に移行することに決した。女子栄養短期大学の人々の指導を得て定食制実施後の幾つかの困難を乗り切り、半年後のこの頃には、定食制はどうやら軌道に乗った形であった。

 食事を摂る我々にとっては事態は好転したが、食事を作ってくれる人々にとってはどうであったか。彼等は依然として旧態然たる条件の下で、大きな不満を感じながら働いていた。最も強い不満はその賃金にあった。それは驚くべき低賃金であった。三木氏以外の従業員の最高が六千円足らず、最低は何と二千五百円に過ぎなかった。

 我々の委員会が発足して間もなくであった。ある夜、片村君が私を訪ねて来た。彼と私とは五四年春の寮内ソフトボール大会以来の友人であり、日頃何かと話すことも多かっ,たが、その夜の彼の話は重大であり、深刻であった。先に述べたように、我々は三木氏による食堂経営の実態について、深い疑惑を持っていた。しかし、その経理の中味は容易に白日の下に曝すことが出来なかった。ただ、ことさらに難しいものであるかのように説明する三木氏の態度に、何か解せぬもの、秘められたものの存在を感じていたし、定食制にに対して表面は協力的であるが事実はそうでないことも判っていた。彼は、事実上、寮食堂の実権を一手に握っている男であった。自分の手で人を雇い入れ、給料を決定した。その日の献立を決め、値段を算定した。会計面も仕入面も、殆ど彼の独占であった。いわば三木帝国であった。彼はオールマィティであり、三鷹寮食堂そのものであった。

 覇者に抑えつけられていた人々の間に賃金を中心とする不満の声が湧き起った。片村君の口からそれを聞いた第一二期委員会はこの機を逃さなかった。食堂の経営をガラス張りにする為、三木氏の退陣を考え希んでいた我々にとってこれは天与の恩恵であった。委員会は片村氏等に労働組合を結成するよう勧めた。旬日を出ずして食堂従業員による労働組合が結成され、片村氏は推されて委員長となった。ここで我々は組合との間に労働協約を結んだ。この中で委員会は賃金の上昇を狙った。一人の例外を除いてそれを実現した。最低で四千円を超えた。最高六千円の人は九千円になった。

 唯一人の例外、それが三木氏であった。間もなく彼は食堂を辞めた。食堂は明るくなった。仕入れに、会計に、献立に全員の協力が出来上った。片村君、長戸さん、沢村さん、林さん、森田君、城戸君がやがて入って来た。

 加藤食事委員は、食堂の経理面の簡素化を図った。積年の錯綜した帳簿の整理は大変だった。六ヶ月の任期の間にそれを成し遂げることは不可能であった。彼の粘り強さと有能さをもってしても。彼が一三期の委員会をも勤めたのは、或いはやり残した食堂経営の合理化の完成を期してのことであったかも知れない。

 三、開寮五週年記念寮祭

 暑い夏は第一・三学期の試験と共に過ぎ去った。試験の間中、明寮〇、一の委員室は異常な活気を呈した。腹が減っては戦は出来ぬとばかり、大間知副委員長が音頭を取って、夏期休暇から上京の際携えて来た越中米、備前米、備中米、筑前米等、天下の優良米を夜毎炊いて毎夜十時を期して夜食に供した。何分、量的に限られており、他の部屋の連中に分け与える訳には行かぬとあって、この上はせめて香なりともと、窓も扉も開け放っておいて魚の干物を焼き、明寮中に床しい香を漂はせ、いざ胃袋に納めんという際に全員調子を揃えて箸で一五秒間茶碗を叩き、しかる後「いただきます」と大声を発して扉を閉め、悠々と食事に移るという、御丁寧な事をやったものであった。

 試験を乗り切れば秋休み。そしてやがて第二・四学期が始まり、寮祭が近づいた。五五年の寮祭は、折しも開寮五周年に当るので、特にこれを記念して催すこととした。十月末の部屋替えの際、委員室を従来の明寮から、東寮一・二に移した。寮生の五分の四近くが巣喰っている東寮に居なくては、寮内の空気は判るものではないと感じたからであった。

 十一月に入ると寮祭のポスターが委員室の壁面を埋め、寮祭気分を一段と盛り上げた。夜遅くまでの準備が続いた。二階両隅のコンパ室では、カーテンで内部を覗けぬようにして、各々の部屋が、演芸会の出し物のリハーサルをやっていた。

 十一月十日、総長、学部長招待の夕食会を以て寮祭の幕は開かれた。会場は今の卓球場、我々が当時ホールと称した所であった。

 定刻よりも早目に矢内原総長、辻学部長が来られた。事務所の前の庭に、メタセコイヤの記念植樹をお願いした頃はすでに秋の日はとっぷりと暮れていた。総長はレコード室に入られ、その壁を、この春、一一期の野口委員長と多田君とが、徹夜の作業で塗り上げたという話に相好を崩された。ホールでは西村先生のリードで寮歌が次々と唄われた。壁を透して聞えて来るその歌声に、矢内原先生はじっと聴き入っておられた。「良い晩だネ」とー言つぶやかれた。

 拍手の中に矢内原、辻両先生をお迎えして夕食会の愉快な幕は切って落された。

 自由な質問の時間に入った時、北島君が起った。「先生、サボルと言うことをどうお考えになりますか。」唐突な質問であった。温厚謹厳な紳士である辻先生は早速受けて立たれた。「学生はすべからく勉強すべきである。サボってはいけません」。正論である。文句の言い様もない。

 その時、矢内原先生がやおら立たれた。微笑を浮べながら「辻先生は諸君を直接預る教養学部長である。従ってあのような発言をなさった。しかるに私は、いさささか責任の軽い立場にある故に、やや異なる意見を述べよう」と前置されて、次のような話をして下さった。「私は学生時代、代々木に住んでいた。代々木の駅まで二十分余り、雨が降ると道はどろんこになり、歩き難くて困った。そこで雨の日には原則として学校へ行かなかった。では天気の良い日はどうしたであろうか。天気が良い日は、私は電車に乗った。但し都心へ向う電車ではなく、郊外へ出る電車に乗るのを例とした。どうも、この三鷹寮のあたりも私はよく歩いたようだ」。話の途中から笑声が起り、最後には笑声が渦を巻いた。皆喜んだの喜ばないの、大変だった。

 最後に矢内原先生が最も好まれる寮歌「芸文の花」を皆で歌って夕食会を終った。総長は、特に発言を求められて「芸文の花」についての想い出を語られ、我々寮生の歓迎に対して謝意を述べられた。激しい拍手の中を両先生は寮を去られた。

 続いて食堂で開かれた演芸会は珍芸の続出で爆笑の連続であった。傑作は東寮十九、二十の演じた「一富士寿三鷹祭」という下題の劇であった。神代の伝説をもじって、スサノオノミコトのヤマタノオロチならぬヤマタノクジラ退治が行なわれ、その尻尾から櫛稲田姫が見つけ出したものはアメノムラノツルギならぬヒーターであり、それをぶら下げた当夜のスターたるスサノオに扮した清利君がやおら声をはり上げて「工ー皆さん、ヒーターを寝室で使わないように致しましょう」と事務所の武内さんの声色でやり出した時は、皆腹を抱えた。

 第二日 十一月十一日、茅誠司先生の「中国ソ連を視察して」と言う題での講演が行われた。暖い土曜日の午後、ホールには事務所の藤田さん丹精の菊の香が静かに漂った。その中で茅先生はソ連の教育に対する熱意を説き、日本の大学の在り方について述べられた。中国との学術を通しての交流の復活の必要を強調された。聴く人を動かす熱がそこにはあった。

 夜は独立映画「ここに泉あり」が上映され、新川部落の人々も多数観覧された。

 第三日 十一月十二日快晴の日曜日

 朝からスポーツ大会、そしてフォークダンスが行われた。富士精密のテニスチーム、市役所の卓球、バレーチームが招かれた。フォークダンスには東京女子大の御連中が相当数乗り込んで来た。田村の功績である。夜はホールで晩餐会。そして最後を飾るファイアストームを以て記念寮祭は幕を閉じた。

 皆から胴上げされた後、私は尚燃えている火を離れ、グラウンドの闇の中に立った。無事に終えたという安心感と共に、言い知れぬ寂しさが胸に充ちた。東京の灯がはっきりと見えていたのがいつか次第にボヤけて来た。火のまわりの人の群がら、大間知と田村が離れて私の方へやって来た。三人は黙って握手を交し、お互いを見つめ合った。やがて我々は寮の灯の方へと帰って行った。空には星が美しかった。もう二週間もすれば霜を見ようと言う、晩秋の武蔵野の夜であった。(二九年入寮)