麦切り(後編)

鶴岡城址 というわけで(まだの人は前編へ)麦切りの本場庄内空港へ飛ぶことにした。香川県から庄内地方へ行くには、山形空港も山形新幹線も不便である。評判が悪い1県2空港目の庄内空港を利用して関空経由で一気に空から舞い降りた。
 盆地ごとに都市が発達した山形県では盆地間の交通に昔は最上川を使った舟運が発達した。庄内地方は山形県の北西部、最上川下流の日本海に臨む地方で最上川の水運、日本海の海運の拠点として栄えた。また庄内平野は米の産地として知られる。中心都市は本間様で有名な酒田市と藤沢周平の時代小説の海坂藩のモデルといわれる鶴岡市。

 やっと麦切りと行きたいところだが、酒田市、ラーメンがおいしいそうである、麺類食堂組合はラーメン、そばの食べ歩きマップを作成している。それによると太さや縮れ方は各店各様だが、自家製麺の割合が70%と高い(ちなみに関東は5%、もっともラーメンの世界では自家製麺にあまり価値はおかれてないようであるが)。海に面しているからかスープに煮干しを使う店が多い。そして何故か月の字が屋号につく店が目立つ、港月、満月、新月、隆月、三日月軒、など。

 道草ついでに弘法大師の伝承が残る温海町に行き、門前茶屋の面影を残す大清水(おおしみず)で「そねそば」を食べた。そねそばとは四角い木の器に水切りせずに一箸ずつ糸状に盛りつけた、内陸地方で言う板そばのこと。3人前あった途中で休むと食べられなくなるので一気に食べたがさすがにこたえた。
 

 そしていよいよ麦切りである。鶴岡市の大山では香川と同じように親類の集まりに麦切りが振る舞われたそうである。どこかで聞きつけたこの情報を基に大山へ、店頭に「むぎきりとはなんぞや」の看板を出している龍宮がトップバッター。麦きりとそばの両方が食べられる、「合い盛り」600円也。タクシーで乗り付けた私に天ぷらをサービスしてくれたご主人によると「西の金比羅、東の善宝」と言うたそうである。金比羅はご存じ讃岐の金比羅さん。善宝寺は近くにある人面魚で有名な寺。神社や寺はうどんは関係が深い、この辺に麦切りのルーツがあるのかもしれない。なお、たれは魚醤だそうである。
 善宝寺にお参りをしさらに歩いて行くと椙尾神社という小さな神社のそばの茅葺きの家並みが落ち着いたたたずまいを見せている。寝ていた人も目を覚ますほど味がよいとの逸話の残る寝覚屋半兵衛がこの先にある。明治6年創業のそのころから麦切りはあったようだ。
 もともと温泉旅館への製麺中心だった店が市内に店を出したのが、水車が目印の鵬匠、とにかくその量の多さに驚いた。あのお江戸の老舗かんだやぶそばの5倍の量はある。
 三川町の茂一そば、香川で言うと、昔からの少し古くなった普通のうどん屋。メニューにない合い盛りを頼むと作ってくれた、ご主人曰く「ゆで時間が違うので本当は合い盛りはよくないよ」と言いながら1枚そばをサービスしてくれた。非常にありがたかった、が、先を考えると腹にはこたえる。
 このほか、住宅地の中にある、いかにもそば屋といった積善三昧庵(このページの最初の合い盛りの写真)、明治維新後の庄内藩士の苦労が忍ばれる羽黒町の松ヶ岡開墾場にある一翠苑、最近鶴岡市の郊外に引っ越した菅沼、酒田市の勘生庵(前編の麦切りの写真)、料亭風の金沢屋と修行は続いていく。

 日本海側にあって、五島、氷見、稲庭という素麺系の乾麺の影響を受けずに独自の生麺文化を育てているのは貴重である。それに麦切りがあった店は多分全部そば屋だったと思う。そば屋で存在感のあるうどんが食べられるのはうれしい。もっとも麦切りといっても讃岐うどんがそうであるように、店によって色、太さ、長さ様々である、個人的好みを言うと、讃岐の生活うどんの店に近い、茂一そばが好きである。
 山形県、香川県から非常に遠いのが残念、近ければ麦切りを食べる合間に西洋建築巡りができるのだが。

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