ゴミ箱としての教育言説(痰壺としての教育言説)

 日本の教育は、考察されるものとしてよりは懐古されるものとしてある。誰もが経験したが故の(学校)教育は、ノスタルジーとその裏にあるルサンチマンによってのみ語られる。語りやすいがために、巷間流布する教育言説は、自己の経験を絶対化した復古的教育論から、学校へのアンビバレンツな感情を背景にした反学校論まで、百家争鳴、議論百出、そのあげくが意味不明となっている。堅実な実証的研究や緻密な論理は無視され、扇情的、情緒的な言説が耳目の集めることとなっている。
 しかもこうした教育言説のかかわる人が、長屋の八ちゃん、熊さんならまだしも、政界の黒幕に経済界の重鎮、ノーベル賞受賞の大科学者に分けのわからない教育評論家、プロレスラーに大物女優。それぞれがてんでんばらばらに言いたい放題。この状態を評して、某有名国立大学教育学部教授は「教育問題って、ゴミ箱か痰壺みたいなもんだ。みんなで勝手にいろんなこと喋ってゴミ箱(痰壺)行き」と半ばあきらめ気味に語ってた。ちなみに、彼は教育を巡るこの状況に、自己の研究者的立場を次のように表明している。
「偉い人に反論するのもめんどくさいし、だから僕は日本の教育を研究するのは止めたんだよ」


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