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藤井裕物語
(忌野清志郎ファンクラブ会報・どんちゃん画報より転載)
うんこたれ、どもり、シンナー中毒の三重苦から、今までの半生を反省しつつここに語る!
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回終
●→本誌(注:忌野清志郎ファンクラブ会報・どんちゃん画報)
◎→藤井裕マネージャー・北島氏(UKプロジェクト)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一歩一歩(一年一年)はいあがった青春期!

第1回
友達に「裕、まーちゃん(加部正義)に顔そっくりやし、ベース似合うんちゃうか?」って言われて、それでベースにしたんです」
●お生まれはどらですか?
「広島県の呉です。造船業で有名やった所です。今はもうだいぶ廃れて。でもほとんどいなかったんですけど、生まれただけで。3ヶ月しかいなかったって。その後は京都と大阪。京都は小学校5年の3学期まで。親父の会社の都合で転勤が多かったんですよ。京都の中でも何ケ所か転々としたり」
●幼少時代はどういうお子さんだったんですか?
「僕はね、元気でしたよ、すごい。腕白もんでしたし。ガキ大将ではなかったです。そういうタイプじゃない」
●でも、裕さんは、随分可愛らしかったんじゃないですか?
「可愛いかどうかは、ちょっと自分ではわかんないですけどね。年上の女の人には可愛がられた覚えはありますね、保母さんとか。僕結構ね、うんことかタレてた人間なんですよ、小学校の頃まで」
●まで??(笑)
「だから幼稚園の頃とか頻繁にあってね、先生のパンツ履いて帰ったりとかね(笑)。覚えてるだけでも2、3回はあるから、多分もっとあるんじゃないかな」
●当時憧れていたヒーローはいましたか?・・・テレビはもうありました?
「いや、小学校の3、4年までなかたですテレビは。だから近所の家に見に行ってたんです。それまでラジオばっかり聞いてた。ヒーローって、なんでしょうね。思い当たる人はいないですね。それから小学校5年の3学期に大阪に行って。大阪はね、南河内っていうところ。かなり大阪ではガラの悪いところ。・・・らしいんですけど。噂は聞いてたんやけど、ほんとに悪かった。言葉も初めよくわかんなくて。なんかねぇ、舌ったらずが多いんですよ。「ぜんぜん」とか言えなくて「じぇんじぇん」になっちゃうんですよ」
●(笑)可愛いじゃないですか。
「それで、中学を卒業して専門学校へ行ったんですよ、車のね。それも1年でやめたんですけども。それから僕は家をとび出たんです」
●何を思ってとび出たんですか?何かやりたいことがあったとか?
「いや、ぜんぜん別に。何もなかった」
●音楽はいつ頃から興味を持ったんですか?
「音楽はねぇ、その専門学校に1年行った後、就職したんですよ。町工場に行ったんです。僕と同じように1年で専門学校やめた連中がね、3、4人居たんです。3級整備士の免許を取れば学校に行く必要は別に無いんで、僕らは3級整備士の免許を取れて、皆はメーカーに行ったんですよね、トヨタとか日産とか大手に。僕はそれがすごいイヤでね、町工場に行きたいって言って。町工場に行ったんです。一人だけ。それもね、1年ぐらいでもうイヤになってきてね、それで家もとび出したんです。だからその後からベースを始めたんです」
●家を出てからベースを始めたんですか。
「あ、家にいる時からベースはやってたけど、そんなに真剣にはさわってなかった」
●なぜ音楽に興味を持ちはじめたんですか?
「音楽は前から、小学校の頃から興味あったんですけど、小学校6年ぐらいからかな、大阪に行ってからね、友達がすごいビートルズがすきな人が居てね、彼の家で初めてビートルズ聴いてね、「抱きしめたい」とか「プリーズ・プリーズ・ミー」とかね。それでね「うわぁ〜」ってね、子供心になんか、何でもできそうな気がしたの。何やってもいいんだなっていう。革命だったですよね、僕にとってはビートルズはね。日本の当時の社会って、何て言うのかな、決まりきった道しか無いっていうかね、例えば中学卒業して、高校にもし行かないんだったら、就職で石鹸工場に行くとかね、そういうとこにつれて行かれたわけ。僕はそういうのに興味なくって。で、まあその中で車ってのはちょっと興味があって、じゃあ専門学校でも行っておこうかなっていう感じで行って。それも飽きてきて、それで1年間だけ行って、町工場に行ってる間に楽器を買ったんですよ、ベースを」
●なぜベースを?
「それはね、ゴールデンカップスっていうバンドが当時あってね、ピンク・クラウドのベースの加部正義って人とかが居て。で、そのまーちゃん(加部)が、カップスが、テレビで見た時にすごくカッコよかったんですよ。で、友達と一緒にテレビ見てて、友達に「裕、まーちゃんに顔そっくりやし、ベース似合うんちゃうか?」って言われて、それでベースにしたんです」
●(笑)顔から入ったんですか?
「似てるって言われて嬉しいなって(笑)。じゃベース買おうって」
●加部さんて、裕さんよりそんなに年上ですか?
「3つか4つでしょ」
●じゃ、ずいぶん若いころからテレビに出てらしたんですね。
「あぁ、あの人はね。当時グループサウンズがもう下火の頃やったからね、でもその中でカップスっていうのは「R&B天国」とかそういう番組にレギュラーで出てたりしたんですよ。それで週に一度は見ることがあって」
●グループサウンズの中でもゴールデンカップスは、ちょっと違う感じに見えたんですか?
「そうね、僕の中では。R&B色が強かったんですよね。そんなこともぜんぜん知らんかったんやけど。カッコ良く見えたんですよ。グループサウンズってみんな歌謡曲でしょ。歌謡曲だったんですよ、僕の中ではね。でも唯一カップスてのはそうじゃない一面が見えて。「ミッドナイトアワー」とか昔のR&Bの曲やったり、そんなことも僕はぜんぜん知らんかったんやけどなんかカッコ良く見えたんですよ」

第2回
「ハコバンです。それで月に3万くらいもらったんかな。それからのめり込んでいったって言うか、真剣にしだした。やってみようかなーって。楽しくなってきたんです」
●で、町工場を辞めて。
「辞めてからは転々と、少し家にも居たんですけど、シンナー吸ったり、色々(笑)」
●ちょっと悪いこともして。
「はい。バンドも真剣にやって無くて、転々とバイトしたんです。パン工場へ行ったりブロック屋さんに行ったりね。せんべいを作る工場があって、オートメーションで。それは半日で辞めたの。これは続かないなと思って。ちゃんと給料だけは貰いに行ってね、半日で辞めたわりに。入ったばかりの日には本当は弁当が出ないんだけど、弁当だけは食べて牛乳飲んで帰ったんですよ。で、給料日に給料取りに行って(笑)、「誰だ?」って言われて。「いや、藤井っていうんですけど、給料取りに来ました」「え?何日間勤めたの?」って言われて、「いや、半日なんです」って。でもその時に千なんぼかくれて、それでまたシンナー買いに行って(笑)」
●ベースをまじめにやるきっかけはいつ頃、どういう事ですか?
「当時ダンスホール・フジってのがあったんです。大阪の宗右衛門町ってところに。そこにね、友達のバンドがオーディションに行ったんですよ。それでその時にダンスホール・フジのマネージャーにね「ベースを替えないと使ってやんない」って言われたらしいの。で、僕に話が来たんですよ、なぜか(笑)。それで僕がやったら、オーディションに通ったんですよ。それからですね。それから土日だけ最初は出だしてもらったんです」
●そのダンスホールのハコバンですか。
「ハコバンです。それで月に3万くらいもらったんかな。それからのめり込んでいったって言うか、真剣にし出した。やってみようかなーって。楽しくなってきたんです」
●そのバンドではどういう曲をやっていたんですか?
「『ブラックイズラック』とかね、当時のR&Bっぽいのとか『ノックオンウッド』とか色々バラエティーに富んだ事をやってました。だから・・・ダンスミュージックを中心に」
●裕さん達が演奏しているのに合わせて、お客さんたちは踊るんですか。
「そう。当時はBGMってのが無かったんですね、今みたいには。PA装置なんて、まだ無い時代でしょ」
●じゃ、生演奏で皆踊って。その時は、裕さんのそのバンド一個だけだったんですか。
「いやいや、その他にフルバンドも2つ出ててね。けっこうすごい活気があってね。フルバンドって20人ぐらいいてるんですよ、それが二つあるわけ。僕らのロックバンドみたいのもあって、面白かったです」
●それはどれぐらい続いたんですか?
「1年ぐらい。1年で解散したんです。バンドリーダーが女ボケで女に走って(笑)。僕にベースを勧めた人がね。当時、バンドしてたら女の子にすごいもてはやされたんですよ。それで一番しっかりしてたはずのバンドリーダーが一番だらしなくなって」
●裕さんを入れてオーディションに受かったのに。
「そう。それで、僕はバンド解散する時にね、店に見に来てた連中ににね、一緒にしたいって言うやつが居たんですよ。で、そいつらと一緒にバンド組んだの。それはもう、ハードロックで」
●まだその時、裕さんは未成年ですよね。
「そうです、当然。そのバンドはほとんど活動して無かって。こんな事書いても書かなくてもどっちでもいいんですけど、食えないから、新しいバンドリーダーに僕は女の子を一人あてがわれたんですよ。「裕、こいつと暮らしてくれ」って(笑)。すごいでしょ」
●!・・・未成年に。
「そう。食われへんからこいつと1年暮らしてくれって」
●現物支給みたいな感じですかね。
「そうそう」
◎その女の人はそれでよかったんですかね。
「一回だけ会って、向こうがOK出したんじゃないですか、多分。そのバンドリーダーに」
◎ああ、かっこいいから。
「いやそれはわからんけど。全然話した事も無いのに、いきなり住みだしたわけ(笑)。で、そのバンドで最初合宿したんですよ。和歌山の串本ってところがあって、本州最南端の、「♪ここは串本向いは大島〜」っていう民謡があるんですけど。その串本の向いの大島で合宿して。アンプ持って僕らこんな髪の毛(超ロン毛)で、当時島の人らがね、そんなのを見に来るわけですよ。誰も住んでない一軒家をリーダーが借りてね。まわりは空き地がいっぱいあって、次の民家まで何百メートルも行かないと無いようなね。音出し放題で」
●電気はあったんですよね。
「電気はあった」
●バンドは何人だったんですか?
「4人、男ばっかり」
●島民がそれを見に来て。
「そう、漁師が多いんですよね。捕った魚持って来てくれたりね(笑)」
●合宿って何をやるんですか?
「寝起きを共にするっていうかね、それで共同体みたいな事をって、そういう感じだったんじゃないかな。夜はみんなでレコードを聴いて、御飯を作る当番を決めたりとかね」
●楽しかったですか?
「楽しかったです、凄く。ただ、基本的にお金はそんなに無いんです。食パンにね、アラっていう磯自慢みたいなやつ・・・磯自慢ってけっこう高級でしょ」
◎江戸紫みたいな。
●ごはんですよみたいな。
「そうそうアラってメーカーの安いのが当時あったんですよ。それを食パンに塗って食べたり。カレーとか食える日は週に一回あるか無いかっていう。稼ぎ頭の女の人たちは大阪で仕事してるわけ」
●合宿をやってバンドの結束は高まったんですか?
「結構あってんけどね、いかんせんライブする回数がすくなかったんでね、結局神戸のメードインニッポンって言うところで何回かやっただけで、他ではやらなかったね。そのバンドもそれで終わって、途方に暮れてる時期があって、いろいろ誘いがあったりはしてんやけどね、結局そっちの方にも行ってんけどもね、それは歌謡バンドみたいな、歌謡曲も半分ぐらいやって、だからお酒を飲む人を相手にするようなバンドで。それがやっぱり一年くらい続いたかな、それで19才ですかね」
●それでもまだ19(笑)!前のハードロックバンドが解散した時には、もう一緒に住んでた女の人とは、バンド解散と同時に。
「ほぼ終わりました。いや、もちろん情は・・・そんな話までしないといけないの?(笑)別れ際は寂しいものはありましたけど、基本的に、好きになって一緒に住んだわけじゃないから。で、その飲み客相手のバンドも一年ぐらいやったのかな。その頃に僕ね、ジャズに凄い興味あったんですよ。そのバンドのサックスの人によく聞かされてね、面白い音楽だなと思って。それでその頃ジャズを結構勉強したんです」

第3回
キーボー(上田正樹)はコンサートバンドに僕を引っ張ってくれた男ですよ」
●例えばどういう人のをよく聴きましたか?
「いろいろですよ、オスカー・ピーターソンからね、ビル・エヴァンスから、ジョン・コルトレーンから、マイルスから。もうそれは数えきれないほどいろんな人」
●ピアノのジャズの人からトランペットのジャズの人までまんべんなくですか。
「そうそう。それで譜面をちょっと覚えてみようかなって気持ちになって、ちょっとだけフルバンドに行ったりしたんだけど、結局面白くなかって、また、どうしようかな〜って、こんなんでいいのかな〜って思ってる時期があってね、で、飲み客相手のバンドも一年ぐらいで辞めて、相変わらずキャバレーとかそういうね、大きい所ね、キャバレーって言っても、フロアーもあって、飲んでるっていうか、そういう所を転々とするバンドにその後入ったんです。それも一年ぐらいやって、それで二十歳ぐらいです。ちょうど。で、一番最初に誘われてダンスホール・フジでやったバンドに、ある時対バンで一週間だけやったバンドがあったのね、テンプテーションズっていう。そこのヴォーカルが上田正樹やったの。彼とねいきなり僕、駅で偶然会ったんです。二十歳になる前ぐらいかな、路頭にちょっと迷っている頃に。で、「俺のバンドでベース弾けへんか?」って言われたわけ。大阪の岸里と言う駅で。僕は覚えてたけど、向こうは俺の事覚えてると思わへんかったからね、テンプテーションズってすごいうまいバンドだったわけ。大先輩で。その人が僕に声をかけてくれてるっていうか。キーボー(上田正樹)はコンサートバンドに僕を引っ張ってくれた男ですよ」
●じゃもう、「おれのバンドで・・・」って言われて、すぐに。
「いや、ちょっと悩んでてね(笑)。ジャズが当時好きやったからね。だからどうしようかって。それでその時、僕は結婚もしてたんですよ」
●その人はあてがわれた人じゃなくて。
「じゃなくて、僕が好きになった人。それで彼女にどうしようって相談して、彼女は「そんなとこ行かんでも今のままでいい」って言ったんですよ。コンサートバンドって地方とか行ったり、転々と。そういうの聞いてたから、そういう話をしたら、彼女は嫌がって」
●「離れたくない!、行かないで。」と。
「そうそう。やっぱり興味があって、キーボーと佐藤博って人が二人でアパートに来て、説得されたんですよ。で、じゃあ、やってみようかなって。僕はもう気持ちがあったから」
●それはもう上田正樹とサウストゥサウスですか?
「いや、それはまだその前身の上田正樹とMZていうバンドで、しれで僕が入って少しして、バンド名が上田正樹とバッドクラブバンドに変わったの。その時のメンバーに石田長生がいたの。そのバンドも一年で終わって」
●みんな一年ですね(笑)。
「全部一年単位。それで解散して僕はキーボーと一緒に居て、キーボーは、有山じゅんじと一緒にやりたがってて、キーボーが「有山と一緒にせえへんか」ってことになって、僕はええよって。で僕と有山とキーボーでバンドつくったんです。それがサウスの始まりなんです。その時はラグタイムブルースってのを中心にやったんです。スリーフィンガーのちょっと変型みたいなの。スリーフィンガー程可愛く無い、黒人ブルースの原形っていうか、奴隷やった頃の黒人の中から生まれてきた音楽、それが、ラグタイムブルース。で、キーボーが「R&Bもしたいな」って言い出してね。自分もそう思ってるところがあって、じゃ、メンバーもうちょっと集めるかって事になって、それからメンバー集め出したの。それからは入れ代わり立ち代わりすごかったですよ。最終的にあのメンバーに固まるまでに」
●R&Bをやるようになってからはだいぶ続いたのですか?
「続いたって言ってもサウスは俺が24で解散しているからね(’73結成、’76解散)。実質3年ぐらいですかね。レコード出してからは一年やって無いかも知れない。75年に『ぼちぼち行こか』と『この熱い魂を伝えたい』っていうライブのレコードを出したから」
●盛り上がりはどうだったんですか?
「凄かったですよそのバンドは。だから、RCなんかもその時に一緒にやったらしいんだけど。まだ、3人の時に」
●じゃ、当時はRCよりも「キャー!」って感じだったのですか?
「ああ、当時はね。どっかでRCがね、僕らの前にやったらしいんだけど、僕が全然覚えてなくてね、有山とかみんなは覚えてて。僕はね、当時まだシンナー中毒とね・・・」
●他にも何かあるんですか?
「人間不振もちょっとあって。人に裏切られたって印象が強くあって。だから人とはほとんど話もしなかった人間やって。今みたいにこんな喋れないし、もっと吃りがひどかってね、記憶も定かでない。楽器とか触ってんのが一番楽しかったもんね、10時間とか平気やったからね」

第4回
女ボケに走ったリーダーが、「指で弾いたら」って最初に言ってくれたんですよ。「これからは、絶対指の時代や」って。

●裕さんはジャズに興味を持って、他の楽器もやってみようかななんて、思われた事はないんですか?
「一時ね、バスクラリネットに興味を持った事はあってね、でも高いのよね、楽器がすごい。だから練習用のリコーダーみたいので、そこで終わってしまったんです、買えずに。だから結構サックスには興味ありますよ、キヨシローが持ってるような」
●ちょっと借りてみて吹きたいなーなんて思ったりは?
「今はもう。だって、ベース弾きながらは無理でしょ、まず。ベースを弾かない一瞬ぐらいしか吹けない。ベースを弾かない一瞬てなかなか無いでしょ(笑)」
●裕さんのベースの弾き方は最初からああなんですか?
「ああとは?」
●凄く一杯弾くじゃないですか。指を見るとギター並みに動いているような。
「そうかな、自分ではそうは思ってへんけど」
●何かの影響でとか、何かを見てこう弾くのかと思ったとかはないんですか。
「始めは何もなかったよ。僕はピックではよう弾かんのですよ。ピックって全然使えないの。一番最初の、ダンスホール・フジに入った時のバンドリーダーが、女ボケに走った彼が、「指で弾いたら」って最初に言ってくれたんですよ。「これからは、絶対指の時代や」って。みんなピックなんやね、当時。だから基本的にね、ピックと指では左手(の使い方)がね、全然違うんですよ。音を切ったりするでしょ、切るのが、ピックと反対になるわけ。ピックの場合は、左手でコントロールしないと、音がずっと残るわけ。例えば4弦を弾いて、3弦を弾いて、そのままだと同時に音鳴ってる訳でしょ。指の場合、4弦弾いて3弦を弾いたら4弦の音が消えるでしょ、勝手に。この指(弾いた指)で止めてしまってるから。3弦を弾いた瞬間に4弦の音はとまってるでしょ。だから今やピックでは全然弾けないんですよね」
●しかし、その女ボケに走った方は、裕さんに基本的なところで、随分と道を指し示してるような感じがしますね。最初に加部さんに似てるからベースをやればって言ったのもその方ですよね。
「そうです。彼です。彼には感謝してますよ(笑)」
●今はどうなさってるんですかね。
「家が大工でね、大工を継いでます。変わったヤツでね、でも、どっちかっていうと才能は無い人間なんですよね、ドラムを叩く才能は。今にして思えばね。体がね、固いんですよ、異常に固い人間なんです。才能無いなってのは当時から何となくは思ってたけど、やっぱりそいつは好きな女の子をみつけてね、九州の方に逃げたんですよ」
●駆け落ちですか。
「駆け落ちみたいな感じで。で、自衛隊に入ったんですよ。2年ぐらい入ってたらしいです。でも彼には感謝してます。井上一夫っていうんですけど」
●で、サウスも24くらいで終わり、その後は?
「その頃石田長生っていうのがね、ソーバッドレビューってバンドを組んでて、サウス解散した後にソーバッドもすぐに解散したんですよね。解散して彼はメンフィスに勉強に行ったんですよ。3ヶ月か4ヶ月か行ってて、で僕はその時に何をやってたのか何もやってなかったのか、よう覚えてへんけど。帰って来てね、一緒に何かしようよ、って事になって、それで、最初石田と札幌に住んだんですよ。僕はその頃離婚して、また一からやり直したいってそういう心境だったんです。11月からね、寒い時期に。札幌にスカイドッグって言うブルースバンドの人たちがいて、彼等の家があったんですよ。練習場もあって、一軒家で。そこへ僕らは居候させてもらって、二ヶ月半ぐらい。その間に大塚まさじさんとか西岡恭蔵さんらとそこでライブやったり。僕はサウス辞めた時お金貰ってね、石田も石田で結構持ってたから、だから暮らそうと思えば、地味にしてれば二ヶ月ぐらい楽に暮らせたんだけど、でもスカイドッグの連中が、またお金持ってないんですよ。で、僕らは若気の至りでね、おごったりするでしょ。飲みに行ったら「ええわええわ」ってね。あっと言う間に金は無くなるわけですよ。サッポロラーメン一個も食えずにサッポロ一番ばっかり食べてたんですよ(笑)」
●自分達で作って(笑)。
「そう。西岡恭蔵さんとライブやったりして何とか食いつないではいたんだけど。一時金が無いから雪かきでもしようかっていう(笑)。結局何とかやんないで済んでんねんけど」
●スキーとかもせずに、ひたすら家の中で。
「サッポロ一番を食べて(笑)。あと毎日やった事と言えばね、ススキノにソウルトレインっていう店があったんですよ。石田が見付けてきたのかな、そこに毎日通い詰めてましたね。それでお金が無くなったんですよ。ボトルキープするでしょ、毎日行くから。サントリーのホワイトにしておけばいいのにね、角瓶キープしたんですよ、始めに。それが、間違いで」
●そこはお酒をのむだけの所ですか?
「そこはブラック・ミュージックのレコードが一杯あったんですよ。だからすごく楽しかった」
◎粗の生活は何で終わったんですか?
「それは、もうそろそろええかなって事で。帰って、じゃあバンドしようかって、大阪に戻ったんですよ」

第5回
バンドGAS での出合いと不慮の事故

「で、大阪に戻って、GASってバンドをつくったんですよ。ストーンズの『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』の「gas gas gas!!」ってあるでしょ。それからとってGAS。そのメンバーは、僕と石田(長生)と、当時ウエストロード・ブルース・バンドを解散して東京に住んでた松本照夫っていうドラムの人と、ピアノは中西康晴。あと近藤達郎でGAS。そのバンドはね、実質・・・」
●1年ですか?
「2年ぐらいかな、1年で中西はやめたんですよね。彼は東京で、人のバックでスタジオミュージシャンとかしだしたんですよね、いち早く。で、四人でもう一年ぐらいやったんですよ。ある時ね、僕指を折ったんですよ。大塚まさじさんていうフォークの人のレコーディングを、当時バンドでやったりしてたんですけど。三上寛さんとかね。でね、大塚まさじさんのレコード発売記念ライブっていうのを大阪の毎日ホールかどっかでやったんですよ。その打ち上げでね、大阪の「春雨」って言う店があるんですけど、そこの2階で飲んでたんですよね。けっこう急な階段で、そこで僕はにごり酒を4杯ぐらい飲んでたんですよね、多分。当時はまだ酒は全然弱かって、今ほど飲めないっていうか。それで帰りしなにベース持ってね、階段を降りようと思ったらズルっと落ちはったんよ。それはね、夜中の1時ぐらいで。その時にね、「ボキンッ・・・」て音がしたんですよ。で、もう一気に酔いが覚めて真っ青になってね、その時バンドのメンバーと、桂べかこちゃんとかよく見に来てたんですけど、居てね、救急車で病院に行ったんです。石田に連れてかれたんかな。で、レントゲン撮ったらきれいに折れてたんですよ。その1週間後にね、GASのレコーディングが入ってたんですよ。それがとんでしまったんですよ。僕は全治3ヶ月ぐらいでね、ベースなんて全然弾けないわけ。半年ぐらいほとんど。その時は一番ヘビーだったも知れん。みんなに迷惑かけたなっていうのがすごいあって。で、半年ぐらい活動できなかって結局解散になってしまったんですよ」
●じゃ、レコーディングはされないまま。
「そう解散」
◎どんなバンドだったんですか、GASは?
「一番影響受けたんはザ・バンドかな。だから、全員が歌うっていう、そういうバンド。それでそのバンドは終わって。あ、そのGASってバンドしてる時にね、僕にとってすごい出来事があったんです。それはね、まだ骨を折る前ですよ、あの、ランディー・クロフォードっていう人とGASで一緒にできる機会があったんですよ。クルセダーズっていうバンドがあって、今もあんのやけど、そのクルセダーズっていうバンドで一曲だけ歌ってそれがすごいヒットしたんですけどね、日本でも。『ストリート・ライブ』っていう曲なんです。それですっごい僕は勉強になったんですよね「これがプロってもんなんかな」っていう。プロの根性みたいな。どこのステージ、どこの地方に行ってもね、緞帳の前で演奏するね。緞帳の前にドラムとかアンプをセッティングして、そこでランディー・クロフォードは歌うわけですよ。で僕らとの演奏が終わったら、緞帳がガーっと開いてクルセダーズがメインで演奏するわけ。ずっとそうだったの、どこの公演もね。それでも、僕らはその女の人のバックやってるわけやからね、何の文句も言う筋合いでもないねんけども、そのランディー・クロフォードっていう人は、クルセダーズに一曲入ってる曲をヒットさせた人なんですよ、その人は。そのヒットさせた人が前座でね、緞帳の前で歌うわけですよ、僕らをバックに。そのカッコ良さ!関係なく熱唱するんですよ」
●彼女はクルセダーズのメンバーではないんですか。
「メンバーじゃないんだけども、そのヒットした曲をクルセダーズ(の演奏の)最後の方に」彼女が出てって歌うわけよ。それはね、すごい。だから、なんて言うかな、小言いっさい言わない彼女がすごいカッコ良かった。「当たり前だから。当然でしょ」って。僕は質問した事があるんやけどね、そういう事をね。だけど「私は前座なんだから」って。でもね、どこ行ってもすごい受けんのよ、ランディー・クロフォードが僕らをバックに従えて歌うと」
●前座としては何曲ぐらいやたんですか?
「けっこうやったね、10曲以上。その話が来たのが年末やってね、僕は実家に帰っててね、正月返上でずっーと(クルセダーズの)レコードを聴いてたんですよ。そのまま
正確に再現してやろうと思って。かなり自分の勉強になった覚えがあります。あれだけ真剣に全曲コピーして、だから、そのグルーヴまでそのままにしてやろうみたいなとこあったから」
●音楽的なものとプロ根性っていう両方で。
「うん、両方だね。だから日本で言うプロってなんかよくわかんないでしょ。じゃ、僕は清志郎(とのバンド)をやめてバイトしたら、僕はアマチュアなのかなってことでしょ。プロとアマチュアの違いってなんかそんな程度しかないでしょ。そうじゃなくて、本当のプロ、プロ根性って言う・・・これプロかな、やる以上は。っていう精神ていうかね、ステージに向けての自分の持って行き方っていうかね、すごい勉強になったね」
●それが裕さんにとってはすごい大きな出来事だったんですね。
「そうね、GASっていうバンドでは一番大きかった事かも知れんね、オレにはね」

第6回
「石田は常に僕の上に居た存在やった。僕にいろんな影響を与えてくれたんですよね」

その後1年ぐらいは、石田とセッションしたりとか、あとはね、有山(じゅんじ)とね、憂歌団ていうバンドの内田勘太郎と三人で地方へ行ったりとかね。その中で今度はまたまた石田が、そう言えば石田にはずっと”思い”があるんだけどね、それにオレが乗っかって来たっていうのがあるんだけど、石田はGASが解散して、アースウインド&ファイア−っていうバンドにすごい興味持っててね、そういうカッコええバンドつくりたいなってあいつが言い出して、それがヴォイス&リズムの最初だったのね。初めはキーボー(上田正樹)と砂川、ギターは石田と山岸って人で、キーボードがチャールズ清水と国府輝幸。ドラムが、サウスの時の正木五郎で、大所帯のバンドだったの。それが一番最初かな、ヴォイスオブウエスト・リズム&ブルースレビューとかそんな名前。それを一、二回やった後に、ヴォイス&リズムって名前に変えて、その時キーボーじゃなくて金子マリと砂川まさかずでやったんですよ。キーボードもチャールズ清水から渡辺悟って人に変わって。あんまり知らないでしょ?僕もあんまり知らない(笑)だから歌二人にキーボード二人にドラム、ベース、ギターと、七人でやったんですよ。それでアルバムを一枚作ったんですよ」
●活動拠点はどこだったんですか?
「大阪です。だから東京に住んでる人はね、金子マリちゃんと五郎ちゃんの二人で、あとは当時まだ大阪に住んでて、だから彼等を大阪で呼んで、やってたんですよ。活動は大阪、名古屋、東京で。東京は渋谷のライブ・インで、名古屋は雲龍ホールかな?」
◎アースウインド&ファイア−って感じはしなかったですけどね。
「全然ちゃうねんけどな(笑)。ま、でも影響としては強い、そういう意気込み?(笑)」
◎それはいつまでだったんですか?
「それは・・・一年ぐらいやね。それでいくつになるんだ?(笑)計算して下さい。その後今度三人でヴォイス&リズムやったんですよ。僕と石田長生っていうのと正木五郎っていう」
◎何で減っちゃったんですか?
「金銭的な事で、俺が聞いてるところではそうだな。当時ノンストップっていうところに所属したんですよ。渡辺プロの傘下みたいなところで。アン・ルイスとかも居て。そこの所属バンドだったんですけども、結局は、ギャラっていうか固定給みたいのもらってんけども、やていけないってことで、そのバンドは解散して、三人で続けたらどうかって話になったんですよね、事務所サイドから。メンバーサイドからじゃなくて」
●リストラみたいに。
「そうそう」
●でも七人でアースウインド&ファイア−みたいなものを目指していたのと、三人じゃずいぶん違っちゃったんじゃないですか?
「うん。でもね、違ったけども三人になってからも面白かったですよ、これは。何が面白かったって言うと、当時はね、七人の時でやってた事ってやっぱ進んでたと思うわけ。世の中の先を行ってるっていうか。当時に人には何かついて来れない(笑)」
●もしかして、衣装なんかもあのアースウインド&ファイア−調の。
「もう、すごいラメとか安物の3千円ぐらいの生地のやつ買うて。かなりハデな感じで。三人になってからは、なってからでね、もちろんかたちは違うねんけどね、何が違うって歌が違うからね。僕初めて三人バンドってその時したんですよ。だから三人の可能性って・・・三人でこんな事できんのやなっていう、なんかそんな事をふと思った時期でね」
●バンドの最小形態ですよね。ドラム、ベース、ギター。
「そうやね、で、その時にね、三人のバンドになってから、当時大阪だけの放送やったと思うんだけど、島田紳助ががしてる番組があって、『夜のAタイム』って番組の番組レギュラーで僕ら演奏するようになってたんですよ。毎回番組の最後に生で演奏して」
●ええー生で。カッコいいですね。
「その番組のビデオ持ってますよ」
●あ、そうですか。
「えぇ。それは編集したやつでね、バンドのとこだけ。ちょっと紳助も映ったりしてるけど(笑)。今度貸します。あのォ、また僕のちょっと違う一面が見れると思うんで(笑)」
「そやね、常に僕の上に居た存在やったと。で、別にそれでOKやったんで。その時期はね。それだけ僕にいろんな影響を与えてくれたんですよね、実際に。彼もすごい、何て言うんかなぁ・・・真面目やからね。よう練習するしね、僕に負けず」

第7回
そして東京進出の衝撃のの事実

●裕さんが東京に越してこられたのは?
「東京に越して来たのは、10年でえすかね、35歳の時だから11年になるのかな。引っ越して来た理由は・・・理由まで言った方がいいですか?
●差し障りが無ければぜひ。
「あぁ、別に大丈夫。引っ越して来た理由は2回目の結婚でね、僕は本当は大阪に連れて行くはずだったのに、僕が負けたんですよ。彼女は当時ね、モダンダンスをやってたんですよ。で、少ない生徒数だったんだけどもダンス教室をやってたわけ。で、どうしても大阪には行けないと。じゃ、オレが行くしかないなっていう感じで」
●東京に住んでらしたんですか。
「うん、東京っていうか、向こうが丘遊園のあたりに。Dから別に音楽をしようと思って東京に来たわけじゃないんだ僕は(笑)」
●そうだったんですか。
「その時はまだヴォイス&リズムっていうバンドをやってたからね。でね、来て3、4ヶ月したらね、突然事務所からクビ切られたんですよ(笑)。それでね「あれっ!?」ってなったわけ。困ったなどうしようって感じになってね」
●それは何の思い当たるフシもなくですか?
「いや、それも金銭面ですよ。これ以上金を払えないって事になって。売れないって事は払えないって事につながっていくし。でもそのタイミングがすごいですよね(笑)東京越して3ヶ月ぐらいでいきなりクビ切られて。だから骨を折ってその後、2回目にガタガタっと崩れ落ちた時期ですね」
●クビ切られた事がショックだったんですか?
「いや、クビ切られた事じゃ無くてね、どうやって生活していこうかなって思った事。で、東京に住んだ時にジャズミュージシャンで坂田明てサックスの人が居てね、その人は僕が大阪に居てる頃から知り合ってて、東京に住むんだったらぜひ一緒にやんないかって言われてて。だから坂田明って人とはたまに一緒にやってたんだけど、それ以外何も無いわけでしょ。もうそのヴォイス&リズムってバンドが終わった事典で」
●あの、会社からクビを切られたら、バンドは解散なんですか?
「!!・・・・・・そこなんですよね、問題はね(笑)。問題はそこだと思うんだけどね・・・」
◎あぁ、確信に触れちゃった(笑)。
「まぁでも、それだけのバンドやったからだと思う。・・・思えばいいかなと思ってる、それは石田に聞いて下さい。オレに聞くより」

第8回
藤井裕・ああ、バンド人生!
波瀾に満ちた東京進出その後

「坂田明とセッションする傍ら、僕はね、バイトをいはじめたんですよ」
●35才にしてバイトを。また、工場ですか?
「いえ、今度はね、あの、木工って言うかね、見本市会場ってあるでしょ。晴海とか、幕張メッセとか何回も行った事あるんだけど、そういう所でにわか大工をするわけですよ。図面貰ってパネル組んでいったりね、それは長い間ずっと・・・今現在でも入ってますけど、籍は(笑)」
●危ないんじゃないですか?大事な指が。
「ああ一回ね、ここ(中指)そいだんです」
●いやぁ〜!!
「ホントは僕この指ってね、もっとあったんですよ。それがこんなですよ僕。この日は続勤って言って、本当は5時で終わるのを残業してね、朝4時まで。それでもまだ終わんないわけ。だからノルマがあるわけね。で、人数減っていくと結局ノルマがあるから、みんな体か辛いでしょ。よっぽど用事がある人でなければ、残って次の日の開幕までにちゃんとやりとげないとダメっていうね。で、帰れないわけよ、僕なんか朝から入って10時までやって、そこから徹夜やってね、朝帰ってって、そういう日が何日か続いたんですよ。で、ある日ね、疲れがすごかって、でボーっとしながら木を切ってたんです。ベニヤ板ってのはカッターナイフで切れるわけ。帯鉄って言ってパネルとパネルの上を固定するためのね、鉄の板があるのね。それを敷いてベニヤをまっすぐ切るっていうのがあって、やってるうちにね、指がその帯鉄からちょっとこうはみ出てたわけ。だから僕ね、ホントはこの指もっとあったわけ(笑)。カエルの指みたいに」
●あ、先が丸まった感じの。
「そうそう、それがあったんがズゥッとね、そげたわけ。で、ベース弾いてるからやっぱりちょっと盛りかえしては来てんねんけど、こんなんじゃなかった!もっとあったの。で、ズゥッといってしまってね」
●そこら辺に肉が落っこてる!みたいな(笑)。
「そうそうそう、でね、全然気ぃ付きへんかったの(笑)カッターって切れ味がすごいでしょ、で、下見たら血が落ちてるわけ。「あれ?何しよん?」ってパッと見た瞬間に、「hんっ・・・」ってなったわけ。で、すぐ病院行ったら、「破片は?」って言われた(笑)。そういう意味ではかなりハードで、今現在の体力は多分あの時に・・・」
●培ったものですか。
「はい」
◎それはどれぐらいやってたんですか?
「5年ぐらい。だから、MAMAしてる時でも俺やってたもん」
◎で、体を悪くなさって、あれは何が原因なんですか?
「何でしょうね(笑)」
◎大病を患われて。あれはおいくつの時ですか?
「あれは、7年目に入ってるってことは、39才、だから東京に住んで4年目かな?」
◎急に悪くなったんですか?
「いや、前から。ボイス&リズム(やってる時)の後半ぐらいかな。御飯食べて1〜2時間すると痛かったの。胃っていうか、へソの下やから腸やと思ったの。腸が悪いなぁとは思ったんやけど」
◎急に倒れちゃったんですか?
「そんな事はないけど。入院は、奥さんに無理矢理連れて行かれたわけ。あんまり俺が具合悪そうにしてるから」
◎で、結局胃の2/3を切ったんですか。で、退院してすぐサウストゥサウスの再結成ですか?
「そうそう。90年ぐらいだからすぐ。結構まだげっそりしてんですよ、ビデオとか見てもね」
◎(ステージに)椅子が出てきて。
「ああ、途中椅子に座って演奏してた」
◎アコースティックでもないのに(笑)。
「まだ体力が回復してなかって」
◎入院はどれぐらいしてたんですか?
「俺は1ヶ月で退院してんけどね。本来はふた月って言われたの。だけど1ヶ月で体力が回復したから、体力っていうか(医者に)「もういい!」って言われたから」
◎(笑)「もういい!」って。
「大丈夫って。俺ももう嫌やったから。いつまでこんな生活すんのかなって。すごい強くなったね、俺ね。総合病院やからね、内科って慢性で入院してる人とかも居てるわけ。何かね、入院してる人とずっと共にしてるとね、気分がめげてくるのね。ずいぶ嫌やって、あの・・・「俺は絶対こんなヤツらとは違う!」と(笑)。そういうところって俺ちっちゃい頃からずっとそうなんよ。負けん気っていうか人一倍強い人間で、その時も絶対早う退院しようって。そればっか毎日思い続けたっていうかね」
●病は気からだと。
「そうそう。でね、そう思うとけっこう早いですよね、回復はね」
●で、退院してからは?
「その頃は鈴木聖美とか鈴木雅之のバックにいたんです。鈴木雅之ってのは僕の事よく知っててね、俺は知らんかったんやけども。「お姉ちゃんが自分のバンドしたいって言うんで、裕ちゃん手伝って立って訓内科な」って言われたんですよ。それでそういうバックの仕事をしながら、サウスの再演ってのを西部講堂とかでやったんです。MAMAはね、サウスの再演やてる最中にね、マリちゃんが来たわけいきなり。川崎のクラブチッタかな?金子マリって人が来てね、終わってから打ち上げの時に「裕ちゃん一緒にバンドやんない?」ってね。彼女が誘ってくれてね。で、やってみようかなって思ってMAMAってバンドをし始めたんですよ。わけのわかんないまま」
●私,MAMAのデビューライブは見に行ったんですよ。パワステの。一回行ったら何回かはDMが来ましたけど。
◎ああ・・・・・。
「ちゃんと編集できます?今までの話」
●大丈夫です!(笑)
◎一冊もう、特別号で。

第9回
MAMA結成、そして心に芽生えたある疑問

「まだ先があるんですけど、MAMAがあって・・・」
◎途中でヒューストンズがあって。
「ヒューストンズ?あぁ・・・そやね」
◎JIROKICHIから電話かかってきて、三宅(伸治)さんとセッションみたいな感じなんですか?あれは。ヒューストンズの前にJIROKICHIで一回やって。
「そうそう、俺あの時まだMAMA辞めてなかったもん」
◎いや、JIROKICHIで三宅さんの日に、裕さんと照夫さんが出て、ゲストにヒロトさんってなったじゃないですか。あの時はまだMAMAあったんですか?
●でも、パワステで大晦日の時にMAMAもやって、ヒューストンズもやってたんですよ。
「あぁそうか。じゃ、やったんやね。あのね、もう少し経つと僕の心境の・・・当時の僕の心境をもう少し詳しく説明したいんですけどね。してもいいですかね?」
●ええ、もう是非(笑).
「僕はMAMAってバンドをしてる時にね、すごい疑問に感じる事にね、ぶつかったんですよね。その一つってのは、バンドって何だって思ったの。どうあるべきがバンドなのか。そういう事をね、UKプロジェクト(藤井裕所属の事務所)の社長の藤井淳って人と有山じゅんじって人と3人でけっこうね、語り合ってたの。MAMAの後半の頃に。サウス再演した後やから、サウスしてる時にまず疑問に思って、MAMAやってる時にもバンドって何なのかなぁって思い出して、その延長で自分でもずっと悩んでる、考えてる時期があって、その時にあの阪神大震災が起きたんですよ。淳の家で語り合ってる時に」
●藤井さんの家はその時まだ阪神地区にあったんですか?
「いえいえ、藤井淳はもう東京に居るんですよ。
●はい・・・あ、語り合ってる時に揺れたわけじゃないんですね。
「揺れたのは僕の気持ち(笑)」
◎東京で語り合ってる時に電話がかかってきて、阪神大震災が発生して事を知ったと。
「そう、サウスの(正木)五郎ちゃんから電話がかかってきて、有山の家が大阪にあるから、心配してね、電話してきたんですよ。で、俺も起こされて、その時」
●?・・・裕さん寝てたんですか(笑)。
「寝てたんですよ僕はもう朝方やったからね。「大変や大変や!」って言うんで何が大変なのかと思って下に降りてテレビ見たら高速道路がバ−ンって横倒しになっててね、その後は何かね、政治の対応なんかを見てるとね、”やっぱり自分しかないな”と思ってね、自分しか頼る人間は居ないってね。自分さえその・・・何手いうのかな、”生きていくぞ”っていう強さがあれば、それで十分だって思える時期があって。結局政府も何もあてにできない日本の社会、日本の国民性もそういうところがあったりして、それは前から感じてたんやけど。そういう事が一気に自分のバンドというものの考え方に重複してきたわけ。それでね、MAMAを辞めようと思ったんですよ。バンドってどう思うかっていう事は個人差があると思うんやけど、それは今の清志郎としてるバンドもそうやし、もちろんバンドって形態はあるけど、どこまでがバンドなのかって言うと、一人一人個人差がある。ま、そういう事があったわけ。自分の心境の変化があって。またオウムのサリン事件がそれに輪をかけてね。すごかったですあの時期は」
●もう、社会問題が全部自分の心にフィードバックしちゃって(笑)。バンドとは何ぞやと思ってる時に。
「自分自身がもっと強くなろうってな感じで。俺がもっと強くなればいいんだと」
●で、MAMA を辞めようと。
「うん」
●MAMAだと強い自分でいられなかったんですか?
「強い自分でいるために辞めざるをえなかった。それは話すると長くなるけど、バンドってものに対する考えが、MAMAをやってる以上は自分は強くなれないて思う事につながる」

第10回
”旬でいられる一瞬”ですよね。それがバンドやと思うのやね。

●そうこうするうちに、清志郎とやるようになって。阪神大震災やオウム事件がおきた年からやるようになったわけですよね。
「そうやね。一番覚えてるのは、「春一番」の大阪城野外音楽堂でした時に、僕が聞いてんのは、清志郎から電話があって「裕ちゃんのベースで是非したい」って事務所に電話があったらしい。ま、それはどうでもいいねんけどね」
●清志郎に呼ばれて「やるぞ」と。
「うん、やってみようかなって。やるぞじゃなくて、最初はね」
◎やってみて胴だったんですか?「春一番」は。
「いやっ、え?何の話?今してんのは」
●いや、「春一番」の話です。
「どうだったって、別に・・・」
◎うまくいったなと。
「うん。あの時は『世間知らず』とね、あとは・・・」
●ザ・バンドの『ウエイト』と。
◎『トランジスタラジオ』と。
「そうそう、そんなもんな」
◎その後デモテープ録りに呼ばれたんですよね。3日連続のドラマーがソウル透さんで。
「ああ、一日目はね、二日目からグリコやてね」
●デモテープ録りをやってすぐですよね。一緒になるようになるのは。
「そやね」
●スクリーミング・レビューは、裕さんどういう感じで受け止めてたんですか?
「一番最初?やっぱりやってみようかなって」
●ああいう形態はいかがでした?
◎コーラスがあって弦があって。
●アースウインド&ファイアーとは違う大所帯のバンドで。
「清志郎って何がしたいのかな?って思ったわけ」
●それは問いただしたりしなかったわけですか?
「いや、その時は。ただ疑問には感じてたけど。この人は何をしたい人なのかなって」
●それはだんだんわかってきましたか?
「だんだんわかってきたっていうか。わかんないでもいいと思って。そんな事は。わかんないほうがええな」
●スクリーミングからリトルスクリーミングになる時に、裕さんは「こうした方がいいんじゃないか」とか言わなかったんですか?
「もちろん話し合いはしました」
●それは清志郎のやりたい事がわからない上でも話し合えるものだったのでしょうか?
「うん・・・というより」
●やっぱりもう、わかって来たから「こうした方が・・・」って言えたんじゃなくて。
「僕が思ったのは、わかりやすくした方がいいなと。バンドの色とか、最初のスクリーミングに参加した時にはあまりにも青から赤から緑から・・・すごいいろんな色があって、見えにくいバンドやと思ったわけ。だから、単なるバックバンドだと思ったわけ。でもそれ以上におもしろくしたいなってのは自分の気持ちの中にもあって。だから色をどっかで絞っていけば、多分見えてくることが多いんじゃないかなって」
●それで先ほどの、バンドとは何ぞやという問題は。
「そやね、それはいつものテーマにある事。今現在もあるし」
●答えはまだ?
「まだまだないです」
●現時点では、バンドとはどんなもんかなとは?
「バンドとは?あの、いくつか答えがあると思うんやけども、一つだけ俺が現在言えるのは、”旬でいられる一瞬”ですよね。それがバンドやと思うのやね。それがだからどこまで続けられるかっていう」
●今が食べごろってのが。
「そうそうそれはいつまでもは続かないんですよ。僕の今までのバンドつぶし歴でいくとね(笑)。そんな事はわかってんやけどね。バンドはいつまでも続かないと。続かすことは叶うと思うんやけども、それはおもしろいバンドじゃ無くなってくるって事ですよ。そういう意味で俺は(バンドは)旬やと思う。例えばリトルで言うと今やね、おもしろいのはね。これいつまで続くかなんてわかんないですよ。来年あると思ったら大きな間違いですよ(笑)。のんびり構えてる場合じゃないと思うんですけどね。やっぱり知らない人にどんどん知って欲しいわけですよ。今やってることを。でも来年までこのテンションが続くかどうかなんて保証はできないですよ。こんな事は。・・・まとめらます?これ全部」
●はい・・・なんとか。

第11回(終章)
そして藤井裕物語は終わっても、藤井人生は続く!

「俺今ちょうどね、自分にすごい興味あって、自分自身に興味があるから、過去を探るんやけど、自分の中でけっこう楽しみやったりするのね。そういう事をやったりしてんやけども、今現在がすべてであって、今現在のために過去を探ってるわけ」
●じゃ、今日も過去を探るのにいい機会になりまあしたでしょうか?
「「そやね。やっぱ人と話しするとね「あぁ、そういう事があったな」とかね。思い出せないこともふっと思い出したりね。なんせシンナー中毒の後遺症があるからね(笑)」
●ご自分に興味があるんですか?
「最近は」
●何でですか?神戸の小6残殺事件は関係ありますか?
「いやいや、全然関係ない」
●社会問題、でまた何かあったのかなと思って。
◎そういうの今まではなかったんですか?でも、そういう歳になったんですかね。
「そうかもしれんな」
●自分探しですか。
「自分探しやね。今現在の俺ってのが、「何で俺はこうなんかな?」ってのがあって」
◎「こうなん」ってのはどんなん(笑)。
「(笑)年甲斐もなく、大きい音出して首振って、なんでこんなロックしてんのかなって」
◎しかも命がけで。
「だからそれを考え出すと、どうしても過去へいくもんね、過去を探っていかないと今の自分が見えない」
◎昔の事とか反省したりするんですか?
「いや、それは全くない!なんでそういう事をしたのかなとかね、なんで俺はその時そう思ったのかとかね、そういう事の方が大事なんやね。・・・でもこれ、編集できます?」
●頑張ります!・・・。
「・・・ちゃんと俺しゃべってた?(笑)」