まごめ自然植物園 テニスコート

ハナノキ          

 

平成12年9月4日  信濃毎日新聞より

共生の世紀へ  (ハナノキ 開発の免罪符 移植にも限界)

 

 コケや枯れ葉に覆われた地面に踏み込むと、ジワリと水がしみ出してきた。

 4月中旬、下伊那郡阿智村の備中原に残る絶滅危惧種・ハナノキの自生地。

雌木の花はまだ目立たないが、開花している雄木の周りは、落ちてきた「雄花」で赤く染まっていた。

「これだけの大木が生育して、しかも雄木と雌木がそろっている自生地は、全国にもそれほどありません」。

ハナノキ湿地の保全のための予備調査に訪れた森林総合研究所(茨城県茎崎町)の金指あや子・生体遺伝研究室長は語る。

 ハナノキは、雄木と雌木に分かれる「雌雄異株」で繁殖するが、開花して種子を付けることが出来る雌木は、全国でも約50本、下伊那地方では20本余りしかない。

そのうちの8本が集中しているのが備中原だ。

   ◆雌雄200メートル以内

「二個体はシンボルツリーとして管理棟の緑地帯に移植し、保全を図る」

 県廃棄物処理事業団が阿智村で進めている処理施設建設計画で、備中原はその予定地に当たる。

予定地内に生息しているハナノキについて、事業団は環境影響評価書で、移植して保全する方針を示した。

 ハナノキ自生地の保全活動をしている「はなのき友の会」の北沢あさ子代表(飯田市山本)によると、予定地内には複数の雄木のほか、種子を付けている樹齢20年ほどの雌木が1本ある。

この雌木は、次世代をはぐくむことができる数少ない貴重な「お母さんハナノキ」だ。

 開発の免罪符ともいえる「移植」という方法でハナノキは守れるのか。

 ハナノキが種子をつけるには、雄木と雌木の距離を最低でも200メートル以内にすることが大事!。

最近の研究で、保全のカギになるこんな結果が出た。

 信大理学部(松本市)の井上健教授は、飯田市山本地区の自生の種から育ったハナノキで、花粉媒介役の正体や、雌雄の距離と結実率の関係など、詳しい繁殖生体を調査した。 まず、ハナノキの花を訪れた昆虫を捕獲して調べたところ、ハナアブ科とフンバエ科を中心に、5目14科の昆虫が訪れていた。

 中でも、フンバエ科に次いで多かったハナアブ科(約17%)は、他の花の例からも花粉媒介役として有力とみられる。

 次に、花の蜜の量と糖度を測定。量は少なく(0.1−0.5マイクロリットル)、

糖度も低かった(5−20%)が、雄花・雌花ともに蜜を確認した。

 さらに、雄木からの距離と結実率の関係を調べたところ、距離が離れるにつれて種子を付ける割合は低下した。

50メートル以内だと結実率は60%以上だったが、200めーとるを超えると大きく下がり、400メートルを超えると20%以下になった。

 つまりハナノキは、雄木と雌木が近くに生息し、しかもハナアブなどに花粉を運んでもらうことで、初めて健全に種子をつくることができる。

さらに、その種子が芽生えて実生が育つには、自生地の湿地の環境が整っていることが欠かせない。

「自生地から切り離されたハナノキは、生理的には生きていても、生態的には死亡しているのです」と井上教授は強調する。

たとえ雌木と雄木の距離を200メートル以内に保って移植し、それが根付いたとしても、自生地の湿地以外で種を付け、さらに実生が定着するとは考えられないからだ。

「保全を考えるとき、その植物をめぐる生物間相互作用の全体を保護する必要があります。

それには、自生地全体を守るしかないのです。

 移植は問題の所在を覆い隠すことにほかなりません」

 

◆水環境も悪化

 自生地の環境も確実に悪化している。金指室長が井上教授らと共同で調べた阿智村備中原と飯田市土橋では、多くの種子が落ちてはいるものの、芽生えたばかりの当年の実生はほとんど見られなかった。

 井上教授が、飯田市山本と阿智村上郷で行った調査でも、実生の一年後の生存率は1%に満たなかった。

県下で実生の定着していたには大町の居谷里湿原(約10%)だけだった。

 種子の胚が未成熟の可能性もあるが、大きな影響を与えているには、開発などに伴う自生地の乾燥化と、水質の富栄養化だ。

「自生地の回復には、実生が定着できる環境を取り戻す必要があります。富栄養化を止めること、水脈が断たれて乾燥化している場合は、人為的に水を引いてくる必要もあるでしょう」と井上教授は指摘する。

 ハナノキの生態はまだ不明の点が多い。それが保全を難しくしている一因でもある。

しかし、下伊那地方の自生地は、「放置すればトキと同じ運命をたどる危機的な段階」(金指室長)に来ている。

生態学的な研究と並行して、種子を集めて個体群の予備軍を育てるなど、保全の取り組みも同時に進める必要性が出てきている。

 

◆若木に託して

 98年秋、飯田市山本に自生していた、高さ33メートル樹齢およそ百年の大木が、台風で倒れてしまった。

「はなのき友の会」代表の北沢さんが、「世界一のお母さんハナノキ」と心を寄せていた雌木だった。

 北沢さんがハナノキをふくむ湿地生態系を守る活動を始めたのは93年。

ハナノキの紅葉の力強さ、新緑に映える赤い翅果(しか・羽状の種子)の美しさにひかれたのがきっかけだった。

 お母さんハナノキは倒れてしまったが、その周りには現在、多くの若木が少しずつ育っている。

「20年もたてば立派なハナノキになるはず。次のお母さんハナノキが現れるころには、実生が育っていける環境が回復していてほしい」 と北沢さんは願っている。

 

◆ハナノキ

 山地斜面の栄養が乏しい湿地に生息するカエデ科の樹木。

 自生地は、愛知県に1ヶ所、岐阜県に10数ヶ所、長野県では、居谷里湿原、阿智村春日、阿智村備中原、飯田市山本、飯田市竹佐・箱川、木曽谷などに残っているにすぎない。

 自生地にはサワギキョウやザゼンソウといった湿地性植物のほか、カザグルマやミカワバイケイソウなどの絶滅危ぐ植物も生息している。

 生息地のほとんどは、植林木がうまく育たない不成績の造成地。放置されて人手が入らないことで、生存できる状態が何とか保たれている。

 自然な自生地は存在しないため、繁殖生態や世代更新など本来の生態が観察できず、個体群の再生や保全の手法を考える上でネックになっている。