明治前期の浮世絵~江戸浮世絵の継承と文明開化 明治第一世代~

ペリーが浦賀に来航したことをきっかけに、1860年代は開港地横浜の賑わいを描く横浜絵や、明治5年の鉄道開通や博覧会・新名所の様子など文明開化を象徴した題材を描く開化絵などが人気を集めました。また、化学合成のアニリン染料による赤や紫色が輸入されたのもこの時期で、浮世絵師たちは競ってこの新しい素材を使って異国情緒を描く他、その赤色は明治初期の様々なジャンルの浮世絵に濃厚に使われ一際目を引くものとなりました。

外国文化の流入が加速した明治初期、新聞や雑誌の創刊・国内外の博覧会への参加・政治体制の変化などに対して浮世絵の報道的な側面も注目されます。明治5年に創刊した「東京日日新聞」(絵師・落合芳幾)「郵便報知新聞」(絵師・月岡芳年)では、知識人向けの難しい日刊紙とは別に、絵を主体とし振り仮名付きの解説文で大衆向けの題材を描いた新聞錦絵が販売され、現代のワイドショーや週刊誌のような人気を集めました。

一方、海外文化の流入や彫り・摺りの細密化は、絵師の個性的な表現を促しました。なかでも、小林清親の“光線画”は特筆すべきもので、輪郭をできるだけ描かず、空や空間、光の微妙な様子を複数の色の濃淡で表しています。


  • 歌川芳虎 「東京駿河町三ツ井正写之図」 明治7年

  • 月岡芳年「郵便報知新聞 第四百八十四号」 明治8年

  • 楊洲周延 「鹿児島女隊力戦図」 明治10年

  • 小林清親 「東京小梅曳船夜図」明治9年

明治20年代以降、江戸から続く様式化された浮世絵の画風は衰退し、伝統木版画自体も版画の中心ではなくなっていきます。しかし、浮世絵は幕末から明治初期にその需要や技術において絶頂期を迎え、明治10年代半ば頃まで新たな画題のみならず役者絵や美人画などにおいても大衆向け絵画の中心的存在でした。
浮世絵は、元々時代の嗜好をとらえ対応することによって売り物として成立します。明治初期までが、新たな文明の流入とそれを受容する庶民の嗜好との間にある存在として、継承された江戸浮世絵の中で対応できた最後の時期でした。ここでは、幕末の三大絵師が亡くなった後、江戸の浮世絵を継承し活躍した明治第一世代とも言うべき浮世絵師のうち三人をご紹介します。


  • 豊原国周 天保6(1835)~明治33(1900)年Open or Close

    「役者絵の国周」といわれた明治前半を代表する絵師。江戸京橋に生まれ、10才頃豊原周信に学び、羽子板などに役者似顔絵を描きます。14才で幕末のトップ絵師・歌川国貞(三代豊国)に入門し、役者絵や美人画を得意としました。 豊原周信と歌川国貞を合せて豊原国周と名乗り、明治2年の役者似顔大首絵以後、「役者絵の国周」と評判を得ました。幕末三大絵師や歌舞伎の大物役者が明治を迎えることなく姿を消し新時代を迎える中、若手役者と共に明治の歌舞伎界と浮世絵界を盛り上げました。
    宵越しの金を持たず、100回以上転居を繰り返し40人余りも妻をかえ酒と遊びを好む一方、困った人を見過ごせないという偏屈だが侠気な江戸っ子気質の人物であったといいます。時代と共に写実みが加わりますが、その画風にも精神にも江戸浮世絵の粋を感じる作品を作り続けました。


    • 「五個俳優対達引」 明治5年

    • 「東京花国周漫画 尾上菊五郎鬼薊清吉」
      明治5(1872)年

    • 「當世見立地獄征罸」 明治9年
    • 「春見立當羽子板 坂東彦三郎 中村芝翫」 明治前期 

    • 「俳優芸妓かげの評判
      白梅 尾上菊五郎」 明治16年

    • 「見立昼夜廿四時之内(チリメン版)」
      『午前二時』 『午後一時』 『午後六時』 明治23年

    • 「市川団十郎演藝百番
      三 勧進帳」 明治26年

  • 月岡芳年 天保10(1839)~明治25(1892)年Open or Close

    本名は吉岡米次郎、江戸商家の次男として生まれました。嘉永2年(1849)10才で歌川国芳門下に入ります。同じ頃の門下生には河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らがおり、互いに競作などを行って絵の技術向上に切磋琢磨したと伝えられています。その後、美人画、役者絵、風俗画、歴史画など多種多様な浮世絵を手がけており、浮世絵が衰退期に入る頃でもなお成功した絵師として世に知られました。画家の月岡雪斎(?〜1839)を輩出した月岡家の跡を継ぎ、慶応元年(1865)の頃より月岡姓を名乗っています。
    芳年といえば明治初期に描いた「英名二十八衆句」や「魁題百撰相」など凄惨な“血みどろ絵”があまりにも有名です。こうした無残な絵は、戊辰戦争で壊滅した彰義隊を実際に写生したデッサンを元に描いたと言われています。浮世絵は常に世の中で注目された題材を描かなければならず、こうした血みどろ絵もそうしたことの証ということができるでしょう。こうした浮世絵は後年、芥川龍之介や谷崎潤一郎、三島由紀夫といった作家達に少なからぬ影響を与えました。
    明治5年、芳年は神経病を患いますが、その回復後には「東京自慢十二ヶ月」、「風俗三十二相」などの美人画や「和漢百物語」、 「芳年武者无類」といった歴史画なども手掛けました。中国や日本の伝説を描いた「月百姿」は、月と歴史上のさまざまな情景をテーマにして100作品描いており、晩年の芳年の力量の大きさを示したものと言えるでしょう。


    • 「魁題百撰相 小幡助六郎信世」 明治1年

    • 「芳年武者无類」 『大臣武内宿禰』 『畠山庄司重忠』 明治16年

    • 「一ノ谷合戦」 明治18年

    • 「護国女太平記」 明治19年

    • 「風俗三十二相」 『かわゆらしそう』『遊歩がしたそう』 明治21年

    • 「新形三十六怪撰  清姫日高川に蛇体と成る図」 明治23年

  • 楊洲周延 天保9(1838)~大正1(1912)年Open or Close

    士族に生まれ、十代で国芳・国貞にも学んだとされますが、その後豊原国周を師とします。幕末にデビューしますが、武士として戊辰戦争に参加、官軍に捕えられ東京に戻った後の明治10年頃から戦争画や役者絵などで絵師として再スタートしました。その後、文明開化の風俗を流行の鮮やかな色彩で表現した3枚物の作品で人気となります。浮世絵衰退期へ入った明治20年代末においても、幕府の御家人であった経験を生かし、江戸城の大奥や幕府行事などを扱った3枚物の「千代田の大奥」「千代田の御表」シリーズにより大衆の人気を集めました。さらに、1枚物の美人画シリーズ「時代かがみ」「眞美人」では繊細で柔らかな色彩を用い、明治の美人大首絵として独自の表現を確立しました。 明治第一世代の中では長命で明治30年代にも活躍し、時代に対応した代表作を生み出す他、肉筆画でも共進会などに出品した絵師ですが、その画風は第二世代に顕著な近代日本画との融合などの点において異なり、あくまで浮世絵師として継承・発展し続けた絵師といえるでしょう。


    • 「義経千本桜(子持絵)」 明治14年

    • 「江戸砂子年中行事 端午之図」 明治18年

    • 「東錦昼夜競 松島の局」 明治19年

    • 「江戸風俗十二ヶ月の内 三月潮干狩の図」 明治23年

    • 「千代田之御表 蹴鞠」 明治30年

    • 「真美人」 『十一』 『十三』 明治30年

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