松本真理子 

 


● プロフィール
筑波大学 芸術専門学群 視覚伝達デザイン科卒業後、某大手家電メーカーでグラフィックデザイナーとして働きながら、フラメンコと出会い、川本典子氏に師事。

夫の海外転勤に伴い渡独。

レナーテ・バーグナー氏に師事。

その間何度も渡西、シロ、メルチェ・エスメラルダ氏らに師事。

日本帰国後、佐藤やすこ氏、加藤美香氏、ピアッツア・ナオミ氏に師事。

毎年渡西し、ロサリオ・トレド、フェルナンド・ガラン氏らに師事。

2002年 独立。グラフィックデザイナーから舞踊家に転身する。

5月より Mariフラメンコ教室 設立。

10月より 神戸老舗タブラオ エル・パンチョ・キタノにレギュラー出演。

2007年5月 スペイン ブレリアの発祥の地ヘレス・デ・ラ・フロンテーラの伝統あるペーニャ・ラ・ブレリア主催による「La 9a de Andalucia」 にメインのソリストとして出演、現地のマスコミに注目を浴び、大成功をおさめる。
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2007年10月 大阪西三荘にスタジオ プランタ・イ・タコン設立。

2009年12月 大阪守口エナジーホール 第1回リサイタル 歓喜 -Alegria- 主催。

フェスティバル、イベント、レストランなどに出演しながら、後進の指導にも力を注ぎ、毎年渡西して、踊り手として常に精進することを心がけている。

現在、関西を中心に活躍中。

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>>スタジオ プランタ・イ・タコン

 

 

●練習生からプロへ

そのいきさつや経緯を簡単にご紹介します。現在プロを目指して頑張っている練習生の励みになれば幸いです。

・フラメンコとの出会い
ちょうど十数年前、勤務地奈良に住んでいたとき、地方紙の新聞広告に「フラメンコ無料体験レッスン」と書かれた広告をみつけたのがきっかけでした。ちょうど肩こりがひどくて何か踊りを習いたいと思っていたときでした。運動不足解消に始めたフラメンコが、今では自分の職業になったのですから、人生って本当に不思議ですね。

・私をここまで導いてくださった人たち
奈良では川本典子先生に師事し、フラメンコの楽しさを教わりました。
それから、夫のドイツ転勤で渡独し、そこでレナーテ・バーグナー氏に師事しました。ここは毎回ギター伴奏がつき、3ヶ月に1回はスペイン人のクルシージョがありました。ファナ・アマジャ、マリキージャ、ティモといったすごいアルティスタばかりで、本物のフラメンコを追及するレナーテの真剣さに心を打たれ、フラメンコにのめりこんでいきました。
ですので、ドイツ滞在中は何度も渡西し、シロ、メルチェ・エスメラルダ、カルメン・オサドらに師事しました。でも、あまりのレベルの差に何度も落ち込み、その当時は趣味で楽しめばいいやと割り切っていました。

転機は、帰国後師事した佐藤やす子先生のすすめで、その当時大阪El Flamencoで踊っていたラ・トレアのクルシージョを約数ヶ月受講したことでした。そこで、自分の中に眠っていた何かが突然目覚めて、自分自身に挑戦してみたくなりました。

それから、加藤美香、ピアッツァ・ナオミ氏に師事しました。毎年渡西もしていますが、ここ数年はほとんどへレスかセビージャで、フェルナンド・ガラン、マリア・デル・マル・モレーノ、ロサリオ・トレド、イサベル・バジョン氏らに師事しています。

一番影響を受けた先生は東京の加藤美香先生です。一時期、大阪から東京まで、毎月、多い時は毎週のように通いました。踊りのテクニックだけではなく、バックアーティストとどうコミュニケーションをとりながら踊るのか、志を高く持つことがいかに重要か、プロとしてやっていくにはどうあるべきか、たくさんのことを教わりました。今の私がいるのは、すべて加藤美香先生のお陰です。本当に感謝しています。

また、直接指導は受けていませんが、日本にフラメンコを普及してくださった先生方、関係者の方々にも、敬意と感謝の気持ちで一杯です。

・教室を始めたきっかけ
カルチャーで講師のバイトをさせていただいたときに、自分のやり方できちんと後進の指導をしたいと思いました。
カルチャーは、キャリアの浅い人からある程度経験を積まれている方が同じ時間にクラスを受講されるので、教え方が大変難しく、またきちんと基礎を習いたいという方より、とにかく身体を動かして汗をかきたいという方が多いと感じたので、基礎をきちんと教えたいという自分向きの仕事ではありませんでした。

最初は2ヶ月のクルシージョ(短期クラス)からスタートしました。それが好評で、次もまたと要望があったため、また2ヶ月のクルシージョを主催しました。この頃、教えることが楽しくなり、きちんと教室をかまえて本格的に教えようと決意しました。2002年5月のことです。
といっても、その当時某大手家電メーカーと契約してWEBデザインとディレクションの仕事をしていましたので、クラスは土曜日の週1日だけでした。

・タブラオの仕事
30 年の歴史を持つ老舗、神戸のタブラオ「エル・パンチョ・キタノ」のレギュラー出演が決まったのは、本当に偶然でした。

毎週土曜日がフラメンコショーのある日で、神戸の先生方がレギュラーでずっと踊られていたのですが、2002年から第5週目の土曜日だけ若手に踊ってもらおうという方針になり、そのトップバッターに私が選ばれました。

それまでの私は踊る機会にあまり恵まれず、士気が落ちたこともありましたが、いつかタブラオでレギュラー出演するのを夢に、ひたすら頑張ってきました。踊る機会がなければ自分で作ろうと、ライブを主催したり、東京の新人公演に出演したり、活発に活動していたお陰で声がかかったんだと思います。

お店側から、ギタリスト、歌い手、踊り手、すべて好きにアレンジしていいよと言われたときは、天にも昇る気分でした。こんな幸せなことはありません。せっかくいただいたチャンス。期待に応えられるよう、このショーに全身全霊をかけて臨みました。一緒に舞台に上がってくれたメンバーにも恵まれ、おかげさまで満員御礼のショーになり、その次の5週目も私にとお声がかかりました。2回目はショーの1ヵ月前に予約満席になり、お店の方が大変驚かれていました。
何事も諦めずにこつこつ努力すれば、いつか実になる時がくるんだ、と実感したときでした。

・ フラメンコ1本に絞った覚悟
2002年の夏、第1・3土曜日にレギュラーで踊られた先生が、留学等でレギュラーをやめたいと申し出られ、その後任に私が選ばれました。タブラオでレギュラーで踊るのは夢でしたし、開設したばかりの教室の生徒さんが増えてきたこともあり、当時していたデザインの仕事をやめてフラメンコ一本で頑張る覚悟を決め、プロとして活動することになりました。


夢という大きな目標に向かって

諦めずに頑張れば

いつか叶う日がやってきます。

諦めずに続けてください。

その夢が叶うまで。

2005年1月25日 Mari 記

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