国道364号線の永平寺参道標石
国道364号線脇に「永平寺参道」の大きな標石が建っている
越坂峠頂上付近
昔の峠道の面影が残る道である。車もほとんど通らない
越坂旧道の家並み
越坂口バス停横の道を峠に向かって進む。芭蕉も通ったと思われる旧道である
「曹洞宗大本山永平寺」の大標石
一般道の突き当たり建てられている大標石。後方の建物は瑠璃聖宝閣(宝物館)
永平寺門前の様子
土産物屋、飲食店などが建ち並んでいる。まっすぐが永平寺。国道は右に曲がる
中雀門より仏殿を望む
仏殿は七堂伽藍の中心に位置し、永平寺のご本尊、釈迦牟尼仏が祀られている
中雀門より山門を望む
山門は永平寺最古の建物で、三解脱門とも称せられ、仏の世界に入る関門である。現在は門というより回廊の一部になっている感じだ
参道から天龍寺本堂方面を望む
それほど広い境内ではない。参道に入って右側に芭蕉塚、本堂手前に「余波の碑」が建っている
天龍寺芭蕉塚
右側に「筆塚」、左側に「芭蕉翁」の碑が建っている。左側の「芭蕉翁」の碑は、芭蕉の150年忌にあたる天保15年に同好の人たちによって建てられた
寺内の主な建物を結ぶ回廊
寺内の主な建物はすべて廊下と回廊で結ばれている。これらの廊下、回廊の清掃は修行僧の重要な修行の一つとなっている
永平寺見学出入口(吉祥閣)
5階建ての大きな建物で、檀信徒や一般の人が禅の修業を体験できる道場になっている。見学ルートはここから始まり、ここに戻る
黒龍の全景
大きな建物、立派な門構えなど大商店の風格を残している
松岡から永平寺へ
天龍寺を出た後、もとの道(県道113号線)に戻る。まっすぐに進んでゆくと、やがて国道416号線(バイパス)にぶつかる。ここで左に曲がって越坂峠をトンネルで越えてしまおうと思ったのだが、なんと「ここから先自動車専用道路」の表示がある。仕方がないので、もと来た道を少し戻り越坂峠越えの旧道に入る。少し家並みが続いたあと峠道にかかり静かな峠道となる。越坂口から国道364号線にぶつかるまで約40分の道のりである。国道に出てしばらくすると「永平寺参道」の大きな標石が現れる。
芭蕉は本文で、『五十丁山に入りて、永平寺を礼す』と記している。五十丁は約5キロ半、松岡から永平寺までは越坂の旧道を越えて約8Kmほどの距離である。「芭蕉は永平寺を遥拝していないのではないか」とも言われてきたが、松岡から五十丁も山に入って永平寺に行かなかったというのも考えにくい。しかし、永平寺を参拝したというたしかな痕跡も見当たらない。いずれにしてもこれ以上のことはわかっていない。芭蕉はこの後、三里の道のりを一人で福井に向かったと記している。芭蕉が一人で歩くのは、越後に入ったときの温海・中村間以来のことである。
山門より中雀門、大庫院方面を望む
山門から仏殿に至る間に中雀門がある。右手には大庫院(だいくいん。台所)の建物がある
えちぜん鉄道永平寺口駅
平成12年12月と翌13年6月に2度の列車衝突事故により運休となった京福電鉄を、県と沿線市町村が第三セクター化し、永平寺への鉄道が復活した
永平寺のバス乗場付近
国道の合流点付近から福井駅、永平寺口方面への定期バスが出ている
曾良が随行していないので、越前入りから敦賀までの芭蕉の正確な道程はわからない。ただ、金津の総持寺、丸岡の称念寺には芭蕉が立ち寄ったとの伝承がある。その先の松岡に立ち寄ったのは、天龍寺の「古き因(ちなみ)」の長老と会うためだった。この長老とは江戸にもいたことのある大夢和尚のことである。この天龍寺で北枝は芭蕉と別れて金沢に戻る。
丸岡駅から丸岡城まで
私は前日は福井駅前のホテルに宿泊しているので、電車で丸岡駅まで戻る。丸岡駅には8時頃着いた。今日の私の予定としては、少し寄り道になるが丸岡城に立ち寄るつもりである。丸岡駅付近の県道109号線は旧北国街道の道筋で、まっすぐに続いている。約2Kmほど行くと県道10号線と交差するので、ここを左に曲がる。しばらくすると坂井警察署が右手に見え、さらに進むと国道8号線一本田信号に出る。国道を横切りそのまままっすぐ県道を進むと、県道17号線にぶつかる。丸岡城はこのT字路を左に曲がって約1Kmほどのところにある。
天龍寺
天龍寺は黒龍のすぐ先の道を左に曲がり、ちょっと行ったところにある。道の脇に清涼山天龍寺の石標が建っている。天龍寺は藩主松平家の菩提寺で、曹洞宗の寺である。当時の住職は大夢和尚といい、江戸品川の天龍寺の住職だった頃、芭蕉と交遊があったらしい。芭蕉はこの和尚に会うために天龍寺をを訪れた。参道の右側に「筆塚」その隣に「芭蕉翁」と刻した翁塚が並び、その間に説明板が立っている。その少し先の本堂近くに「余波(なごり)の碑」と題された像が建っている。金沢から随行してきた北枝はここで芭蕉と別れた。別れに際して芭蕉は、『物書て扇引きさく余波(なごり)哉』の句を北枝に贈ったが、そのときの様子を表しているのだろう。この像はまだ新しいようだ。私が天龍寺に到着したのは13時過ぎ。ちょうどよいのでこの境内のベンチで昼食にした。
松岡
橋を渡ってまっすぐ行くと、えちぜん鉄道の踏切がある。ここからは松岡駅が近い。松岡は福井藩の支藩松岡藩が置かれた城下町であった。踏切りの少し先を国道416号線が通っている。これを渡って少し行ったところに「黒龍」というお酒を作っている古い大きな造り酒屋がある。松岡は九頭竜川の水に恵まれたため酒造りが奨励され,、かつては16軒もの酒蔵があったという。
九頭竜川(五松橋より下流方向を望む)
九頭竜川は有史以来氾濫を繰り返してきたが、流域は有数の穀倉地帯であり古代より治水、利水のための開発が繰り返し行われてきた
五松橋
長い橋だが、歩道専用の橋が架けられているので安心して歩くことができる。この橋を渡ると永平寺町になる
丸岡城から松岡・天龍寺へ
丸岡城をあとに元の県道17号線に戻る。これから先は、この県道をまっすぐに進む。先ほどのT字路を通り過ぎ、さらにまっすぐ行くと北陸自動車道と立体交差し、それからしばらくすると永平寺方面への道路標識が現れる。この標識はまっすぐ行っても永平寺、右に曲がっても永平寺となっているが、私は松岡の天龍寺に立ち寄るのでここは右に曲がる。これは県道110号線である。この道をまっすぐに進むと九頭竜川にかかる五松橋に出る。この橋を渡ると永平寺町に入る。九頭竜川は福井県と岐阜県の県境にある油坂峠を水源とし、大野盆地、勝山盆地を北西に進み、福井平野で日野川と合流して日本海に注ぐ、全長116Kmの福井県最大の河川である。
丸岡城天守閣内部の様子
天守閣は二重三層、外観は上層望楼を有する。通し柱は持たない。昭和23年福井大地震により倒壊したが、昭和26年に復元に着手、同30年に完成し現在に至っている
丸岡城天守閣
天正4年(1576)柴田勝豊により築かれた。その後、本多成重以下四代が入り、元禄8年に青山清純入封後は、明治維新にいたるまで青山家の領有となった。現在は天守閣のみ残っている。国の重要文化財指定
永平寺から福井へ
永平寺を拝観した後、私は門前からバスでえちぜん鉄道の永平寺口に出、そこから電車で福井まで出ることにした。17時発のバスで永平寺口駅に着いたのが17:15。そこから17:20発の電車で福井駅に着いたのは17:50頃だった。昨日と同じホテル・エコノに宿泊した。
県道10号線一本田付近
少し先の一本田信号で国道8号線と交差する。丸岡城の案内表示が出ている
県道109号線丸岡駅付近
丸岡駅は県道109号線からは少し離れているが近い
北陸本線丸岡駅
福井駅から二駅目、約12分で到着する
丸岡城
丸岡城は別名霞ヶ城ともいわれ、天正4年(1576)柴田勝豊が築いた。現在は天守閣とその付近の石垣の一部分が残っているだけである。この天守閣は現存するものでは日本最古の様式のものであり、国の重要文化財となっている。城は柴田勝豊が築いた後、しばらくして本多成重以下四代の居城となった。城前の大きな駐車場の脇に「一筆啓上茶屋」という大きなレストハウスがある。日本一短い手紙として有名な『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ』の「お仙」とは、本多成重の幼名である。このことを知らないと、丸岡城と「一筆啓上」が結びつかない。
余波(なごり)の碑
芭蕉は松岡で北枝と別れた。別れに際して「物書きて扇引きさく余波(なごり)哉」の句を贈った
永平寺について (案内パンフレットより)
永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場です。境内は三方を山に囲まれた深山幽谷の地に大小70あまりの建物が並んでいます。
永平寺を開いた道元禅師は正治2年(1200)京都に生まれ、14歳のとき比叡山で出家し、24歳のとき中国に渡り厳しい修行をされて「坐禅」という教えを受け継がれて日本に帰りました。はじめ京都に道場を作りましたが、その後、越前の国に移り永平寺を開きました。
現在は曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっています。
永平寺における修行 (昭和52年3月放送「永平寺」より NHKアーカイブズによる)
修行年限(最長):2年間、 修行者の平均年齢:23.5歳 、修行者:約150名 (昭和52年当時のデータ)
1日のスケジュール
4:30起床 4:40洗面 5:00〜5:40暁天坐禅 5:40〜6:50朝課(朝の読経) 7:00〜8:00行鉢(朝食) 8:00〜 作務(掃除などの労働や作業) ・・・・・ 19:00〜21:00夜坐(夜の坐禅) 21:00 就寝