津幡道標
正面:北陸道津幡四ツ辻
金沢四里
右側:北陸道富山十三里
津幡四ツ辻
写真右下の角に古い道標が立っている(右写真)。北陸道は向こう正面から来てここで左に曲がり金沢に向かう
旧北陸道津幡宿中心部
街道の両側には古くからの商店街が続いている
津幡(つばた)宿
北陸線の踏切を越えてほぼ道なりに進んでゆくと、やがて津幡のにぎやかな商店街となる。この少し先に広い四つ角があり、その道路わきに古い道標が立っていた。富山方面から来た北陸道はここで左に曲がり、金沢に向かうのだ。近くには本陣跡の石標もあり、このあたりが津幡宿の中心だったことがわかる。
翌七月十五日(陽暦八月二十九日)も快晴だった。曾良の旅日記では、高岡をたって石動(いするぎ)にある埴生八幡に寄り、倶利伽羅峠を見て午後3時頃には金沢に着いたと記されている。高岡から金沢までは約45Kmある。この距離を歩いて午後3時に金沢に着くためには高岡を遅くとも朝5時前には出発しなければならない。芭蕉は、前日、暑さ負けでかなり参っていた様子なのに、意外なほど元気である。
高岡から石動(いするぎ)までは小矢部川が流れており、昔は米や材木を運ぶ舟運が発達していた。高岡から石動までは約四里ある。この間を舟に乗れば、この日の行程はぐっと楽になる。曾良は記していないが、この間舟に乗ったことも十分に考えられる。あるいは馬を使ったかもしれない。
竹橋から津幡へ
倶利伽羅峠からの旧北陸道(歴史国道)は、前坂付近で一般県道と合流し竹橋に達する。この辺りにはかつて竹橋の宿があったようだ。旧道はここで国道8号線と合流するので、ここからしばらくは国道を歩くことになる。
私がちょうど国道に出たとき、向こう側から歩いてきた年配の方が声をかけてきた。
「どちらからですか」
「倶利伽羅峠を越えてきました」
「私は金沢から歩いてきたので、金沢へ行くなら案内しましょう」
「それはうれしい、お願いします」
ということで、ここから金沢市街まで旧道筋を案内してもらうことになった。歩くことが趣味で、今日も金沢から歩いて倶利伽羅方面に行くつもりだったという。私もすっかりうれしくなってしまい、道々いろいろなことを教えてもらいながら歩いた。実は、これから先の旧道筋をよく調べていなかったので、まるで道案内の道祖神に出会ったような気持ちだ。この方は大西さんといい、あとでお年が85歳と伺いびっくりした。
国道を歩いてゆくと、杉瀬(すぎのせ)という道路標示が建っている。この少し先で旧道は右にゆるく曲がりJR北陸本線の踏切を越えて続いている。
加賀側からの旧北陸道入口付近
この辺りから旧北陸道が残されており、説明板が立っている
龍ヶ峰城跡付近の旧北陸道
「歴史国道」は古道の趣のある道が残されている
倶利伽羅峠の「歴史国道」標識
倶利伽羅峠からの下り道には「歴史街道」の案内標識がよく見られる
浅野川大橋
金沢市中心部には浅野川と犀川という二つの川が流れているが、そのうちの一つ浅野川にかかる橋。本日の旅のゴールとする
国道159号線(城北大通)
金沢城に続く幹線道路である。国道で交通量も多いが、道の両側には古い建物の商店も散見される
城北大通から浅野川大橋へ
旧道は再び国道159号線と合流し、あとは国道を進む。国道なので道幅も広く交通量も多いのだが、道の両側には古いたたずまいの商店が散見される。この国道は城北大通と呼ばれており、昔は先ほどの旧道から続く旧城下の幹線道路だった。まもなく本日の歩き旅のゴール、浅野川にかかる浅野川大橋に到着した。18:30頃だった。大西さんの家はここから近いということで、この近くでお別れする。私は明日は金沢市街を散策し、明後日は金沢から小松に向かうという話をしたところ、金沢から小松までの道中もご一緒してくれるということになった。再会を約してお別れしたあと、私はさらに金沢駅前近くのホテル・エコノまで歩く。ホテルに着いたのは19時過ぎだった。
松門跡付近
「旧北国街道」の石標と説明板が立っている。このあたりに城下と郡方の境界を示すため門が設けられていた
金沢城に続くかつての幹線道
国道から分かれて一部旧道が残されている。古い建物も残り、旧道の面影が残っている
国道159号線森本駅前付近
長く続いた旧道は国道159号線と合流する
金沢市街へ
やがて旧道は国道159号線と合流する。これから先、一部旧道は残されているが、基本的には国道と重なるようだ。しばらく国道を歩くと北陸線森本駅前を通過する。さらに国道沿いを歩き、東金沢駅先の大樋口信号で左に分かれる旧道に入る。この道の先に城下へ入る門があったということで大西さんが案内してくれたのだ。この道は旧城下の幹線道としての面影が残されている。しばらくこの道を進むと、石標と説明板が立っていた。
「旧城下の幹線道、下口の松門」の説明板より
本路線は、旧北国街道下口往還に位置し、加賀藩主の参勤交代191回のうちそのほとんどの181回はこの道を通行した。また、本路線のほぼ中央の辻に松が植えられており、ここに門が設けられて城下の入口とされていた。藩主の行列は城からここまで威儀を正して行い、帰城もここで行列を整えた。
旧北陸道の様子
国道8号線と159号線にはさまれてよく昔のままに旧道が残されたものだと感心する
街道沿いの古い建物
「金沢市指定保存建造物 菊知家住宅」で、主屋は明治4年(1871)の建築。当初から瓦葺で建築された農家住宅だという
松並木名残の松
松並木には若い木が植えられていたが、名残の松もあった。
国道8号線、杉瀬付近
この少し先で旧道は右にゆるいカーブで曲がってゆく
竹橋(国道8号線合流点付近))
この道の突き当たりで国道8号線と合流する。かつて竹橋宿があったようだ
国見山(277m)からの眺望
空気が澄んでいれば、東に立山などの北アルプス、西に加賀の白山、北に日本海が見えるというが、この日はかすんで見えなかった
倶利伽羅不動尊
古来、成田不動尊、大山不動尊とともに日本三不動の一尊として知られる
付近の現在の様子
道の脇は地獄谷に続く急斜面だが、現在では樹木が生い茂っており往時のような恐怖感はない
火牛の像
角にたいまつをつけた2頭の牛が今にも飛び掛らんとする姿勢で立っている
源平倶利伽羅合戦屏風絵
寿永2年(1183)、木曽義仲軍は野営中の平家軍に対して、角にたいまつをつけた数百頭の牛を先頭に、太鼓、ほら貝、ときの声をあげて襲い掛かり大勝利をおさめた
芭蕉句碑
義仲の寝覚めの山か 月かなし
猿ケ馬場
平維盛軍が布陣した場所
矢立堂石碑付近
この辺りが源平合戦の最前線だった
高岡から石動(いするぎ)まで
今回の私の旅は、高岡からはじまる。東京から高岡までは、今回初めて長距離夜行バスを利用した。新宿駅西口を23:50に出発し、高岡駅南口に翌朝7時頃に到着する。私はこれまでの「歩き旅」で夜行バスを利用したことはないが、意外と早くかつ安いということがわかった。今後は積極的な活用も考えよう。
高岡から石動までは地図上で約17Km、ほとんど国道8号線を歩くことになるので、私はこの間は電車を利用することにした。芭蕉も舟か馬を利用したかもしれないとひそかに心の中で言い訳しながら。
石動駅には7:40頃到着した。この駅は源平の古戦場・倶利伽羅峠への最寄り駅となっており、駅前の広場に源義仲の騎馬像や倶利伽羅峠源平合戦絵屏風などがおかれている。近くにベンチがあったのでとりあえずここで朝食にし、これから先の地図を確認した。
古戦場
護国八幡宮
金沢駅
兼六園
金沢城址
国道8号線
金沢
津幡
北陸本線
国道8号線
国道159号線
旧北国街道
倶利伽羅峠
石動
国道8号線
高岡
倶利伽羅峠(倶利伽羅不動尊、手向神社、五社権現)
倶利伽羅峠付近がちょうど富山県(越中)と石川県(加賀)の県境になっている。峠には倶利伽羅不動尊、手向神社、五社権現などの寺社が建っている。倶利伽羅山は古来「手向之神」や「倶利伽羅竜王」の霊地として尊崇されてきた。倶利伽羅五社権現への急な階段を上ってゆくと国見山(227m)頂上に出る。ここには倶利伽羅権現石殿がある。ここからの眺望は大変よく、西に加賀平野、東に砺波平野が見渡せる。空気が澄んでいれば、北アルプスの立山、加賀の白山、日本海などが望めるという。
石動(いするぎ)駅前広場の様子
倶利伽羅峠源平合戦絵屏風や源義仲の騎馬像などがおかれている
石動から埴生(はにゅう)護国八幡宮まで
石動駅駅前をまっすぐ行くと国道471号線が通っている。これは少し手前で国道8号線から分かれてきた道である。この道を少し行くと前方に大きな跨線橋が見えてくる。この跨線橋で北陸線を越える県道が南に延びている。この県道42号線をしばらく行くと埴生方面への道が右に分かれるのでこちらを進む。これを少し行くと埴生護国八幡宮の入口が見えてくる。この八幡宮は木曽義仲が戦勝の祈願をし、著しい霊験があったという。現在は国指定の重要文化財となっている。
(護国八幡宮説明板より)
当社は、奈良時代に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのに始まり、天平時代に越中の国司大伴家持は国家安寧を祈願したと伝えられる。寿永2年(1183)5月、木曽義仲は倶利伽羅山にて平維盛(これもり)と決戦するに当たり、当社に戦勝の祈願をこめて著しい霊験があった。以来、武田信玄、豊臣秀吉等戦国武将の信仰が篤く、江戸時代には加賀藩主、前田候の祈願社となった。
護国八幡宮社殿
奈良時代に創建され、木曽義仲が戦勝祈願し、戦国武将の信仰が篤かった。芭蕉も立ち寄っている
護国八幡宮鳥居
この鳥居の近くに木曽義仲の大きな騎馬像が建てられている
埴生八幡宮から倶利伽羅峠へ
八幡宮の前の道はなんとなく昔の面影の残る道である。この道を木曽義仲の軍勢が進んでいったのだろう。少し先の道の脇に医王院の山門が建っている。このお寺の裏手一帯は古墳となっており、発掘調査の結果埴輪なども見つかっているという。さらに進んでゆくと道が二手に分かれる。右にゆるく登ってゆく道に「倶利伽羅ふるさと歩道コース入口」という小さな案内板が立っているので、こちらの道を進む。これを道なりに進んでゆくとやがて「ふるさと歩道」の入口に着く。ここには大きな案内図が立っている。ここから先は車の通らない「ふるさと歩道」となり、倶利伽羅峠まで続いている。これは北国街道の旧道である。
「倶利伽羅ふるさと歩道」入口
ここからは車の通らない遊歩道となる。大きな案内図が立てられている。これが北国街道旧道である
埴生の旧北国街道、医王院山門前
埴生八幡神社からの旧街道は医王院の前を通り、少し先で右に曲がってゆるい山道を登ってゆく
遊歩道はしばらくの間ゆるい登り道が続き、歩きやすいように石畳風の簡易舗装がされている。やがて「たるみの茶屋跡」の案内板が現れた。これから先にもこのような案内板や歌碑がいろいろと立てられており、かつてこの道を通った人たちの足跡がしのばれる。やがて道の簡易舗装もなくなり、昔のままの道が続く。やや広い空き地があり、「北陸道峠茶屋」の説明板と歌碑が立っている。
東海道中膝栗毛の作者、十返舎一九が、文政のころこの茶屋に立ち寄ったときの印象を次の機知に富んだ歌で表現している。
『 爰元(ここもと)は柴栗からの茶屋なれや
はかり込むほど往来の客 』
(ここはしばぐりの名前にちなんだ倶利伽羅の茶店であるからであろうか、栗をはかるように、たくさんの往来の客でにぎわっている) 「越中立山参詣紀行 金草鞋(かねのわらじ)」より
北陸道峠茶屋跡
十返舎一九は『このところ峠の茶屋いづれも広くきれいにて、東海道の茶屋のごとく・・・』と記している。一九の歌碑が近くに建っている
「たるみの茶屋跡」付近の様子
ゆるい登り坂でこのあたりまで簡易舗装がされている