芭蕉句碑と芭蕉、曾良の像
芭蕉句碑を真中にして芭蕉と曾良(右)が並んでいる。曾良像は後から建てられ、芭蕉と対照的にやや緊張した面持ちで座っている

立石寺山門
山門の右側には常行念仏堂、鐘楼などが建っている。山門をくぐると石段の山道が始まる。奥の院まで石段の数800余段という

奥の細道歩き旅 第2回
立石寺(りっしゃくじ)根本中堂
延文元年(1356)に再建された入母屋造の建物で、ブナ材の建物では日本最古といわれる。国指定重要文化財

宝珠橋より山寺方面を望む
立谷川を宝珠橋で渡ると、道の両側には土産物屋、飲食店などが立ち並んでいる。背後の山腹にはお寺の建物が散在している


奥の細道歩き旅 白石〜槻木

せみ塚
芭蕉の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚と呼ばれている。近くに御休処もある

山門からせみ塚に至る参道の様子
あるところは石段、あるところは坂道で、道幅の一番狭いところは幅14cmほどである(四寸道)

芭蕉は、午後4時頃に山寺に着き、ふもとの宿坊に荷物を預けて山に登った。

『山上の堂にのぼる。岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松栢(しょうはく)年旧(としふり)、土石老いて苔(こけ)滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸
(崖のこと)をめぐり、岩を這(はひ)て、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として(静まりかえっていて)心すみ行くのみおぼゆ。
        閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声      』 
                              (おくのほそ道本文より)

夏休みのことでもあり、山道を登る人の数は多い。自然や建物の様子など、芭蕉の時代とそれほど変化はないのだろうが、この時期、芭蕉の心境を追体験しようというのは無理だ。
山道を登ってゆくと、途中に芭蕉句碑があり、「せみ塚」という標識と説明板が立っている。芭蕉の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。
ところで、芭蕉の詠んだ「蝉の声」は何蝉だっただろうかということが昔から話題になっている。私自身は、「岩にしみいる」ような蝉の声といえば、アブラゼミのジィーという声だと長い間思っていた。古くは小宮豊隆と斉藤茂吉の論争があり、小宮さんはニイニイゼミと主張していた。その後、長期間観察した人がいて、現在ではニイニイゼミだろうというのが定説になっているという。
私がこの日に聞いたのは、ミンミンゼミだった。わずかにアブラゼミの声も聞こえたが、ミンミンゼミの大合唱だった。、時期によっても違うのだろうが、ここ数年東京でも夏を通してミンミンゼミの数が多くなった。その分アブラゼミの数が少なくなってきているような気がするのだが、全国的な傾向なのだろうか。また、ニイニイゼミというのは、私の近辺では最近まったく聞いた覚えがない。

立石寺(りっしゃくじ)  通称 山寺

遠くに見えていた山が近くなり、やがて山寺のふもとに着いた。途中、山寺駅に寄って帰りの電車の時間を調べた。駅に着いたのが11:05、電車の山寺駅発が12:41として、約1時間半の見学時間である。全部回れるかどうか分からないが、一つの目安とする。
宝珠橋という赤い欄干の橋を渡るとみやげ物店が立ち並び、すっかり観光地の様相である。人の数も大変多くなる。橋を渡って右に曲がり、まず、立石寺根本中堂に向かう。
立石寺(りっしゃくじ)は、山岳仏教の古刹であることから山寺といわれる。根本中堂は一山の中心となる本堂で、堂内には「不滅の法灯」が、開山以来千数百年を経た今日も灯されている。

山寺立石寺(りっしゃくじ)と根本(こんぽん)中堂 (説明板より)
山寺は、正しくは宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)といい、貞観2年(860)慈覚大師が開いた。鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、300余の寺坊に1000余名の修行者が居住、盛況を極めた。戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には、御朱印二千八百石を賜って再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築き上げた。現在の立石寺は、境内35万坪の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。
・・・堂内には、伝教大師が中国から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。」
なお、立石寺は、「おくのほそ道」では『りふしゃくじ』と振り仮名がふられているが、この説明板にしたがって本ページでは『りっしゃくじ』に統一した。

山寺街道の様子
サクランボや桃などの果樹園が多い。芭蕉の時代には紅花が多く栽培されていたという

山寺街道への分岐点
出羽桜酒造の先の信号を左に曲がれば、あとは山寺までほぼ一本道である

新庄へ

山形へ

楯岡

尾花沢

国道13号線

国道347号線

芭蕉・清風歴史資料館

養泉寺

立石寺
(山寺) 

県道111号線
(旧山寺街道)

県道120号線
(旧羽州街道)

国道13号線

仙山線

山寺駅

天童駅

村山駅

大石田駅

奥羽本線
(山形新幹線)

最上川

5月27日(陽暦7月13日)、ようやく晴れ間を見て、芭蕉は尾花沢を出立した。鈴木清風のすすめで、羽州街道を南下し、立石寺(りっしゃくじ、通称山寺)を目指した。尾花沢から七里余の道のりである。道はほとんど平坦で、清風は途中の楯岡まで馬を用意してくれた。天童から山寺街道に入り、山寺に着いたのは午後4時頃。宿坊に荷物を置き、その日のうちに参詣を終えている。

五山堂で眼下の眺望を楽しんだあと、もと来た道を戻る。奥の院への分岐点に戻って時計を見ると、これから頂上の奥の院まで行く時間はない。1時間後の次の電車にしてもよいのだが、東京までの道中はまだ長いので、ここで引き返すことにした。山寺駅に着いたのは12:30、ほぼ1時間半で五大堂まで往復しが、全山を見物するには最低2時間、余裕をみて2時間半くらいはみておいたほうがよいだろう。
駅のプラットフォームから山寺の全体の姿がよく見えた。奥の院までは行かなかったので、少々心残りの気もしたが、ま、いいか。

五大堂からの展望
JR仙山線が下の右から左に通っている。右が山形方面

五大堂内部の様子
五大明王を祀っている道場。内部はがらんとしていて、周りはベランダ風になっている。ここからの眺めはすばらしい

さらに山道を登ってゆくと、本道から分かれて左に曲がる道がある。これを曲がってさらに登ると開山堂がある。ここには立石寺を開いた慈覚大師の木像が安置されている。その左の岩の上の赤い小さなお堂は納経堂で、山内では最も古い建物である。その真下に慈覚大師が眠る入定窟(にゅうじょうくつ)がある。

根本中堂のすぐ近くに芭蕉句碑があり、その脇に芭蕉と曾良の像が建てられている。はじめは芭蕉像だけだったのだが、平成元年に奥の細道300年を記念して曾良像も建てられた。これまで芭蕉と曾良が一体となった形の像はいくつかあったが、曾良の像が独立して建てられているのはここが初めてだ。曾良さんは、ここでは「おくのほそ道」の名脇役として存在感をアピールしている。句碑はもちろんこの地での名句、「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」 である。
この辺りではミンミンゼミがさかんに鳴いていた。その先に立石寺の山門がある。ここから先は奥の院への参道となり、入山料が必要である。

県道をさらに進むと、出羽桜酒造、出羽桜美術館などがあり、その先の信号のある広い道を左に曲がる。ここから山寺まではこれを道なりに進めばよい。国道13号線を横切り、なおもまっすぐに進んでゆくと、道の両側にはサクランボなどの果樹園が多くなってくる。
芭蕉が歩いた頃、山寺への参詣道であるこの山寺街道の両側には紅花の花が満開だった。「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」の句を残したのはこのあたりとされている。

尾花沢〜天童

前回記したように、私は大石田〜天童間は鉄道を利用した。尾花沢の最寄り駅は大石田駅であり、ここから天童までは電車で30分弱である。山形新幹線は、この奥羽本線の線路を利用して福島から新庄まで運転している。同じ線路を使うので、在来線は新幹線用の幅の広い、線路の継ぎ目も少ないがっしりした線路の上を走ることになる。したがって、在来線に乗っていても揺れが少なく音も静かで、乗り心地がよい。
昔は、尾花沢〜天童の間には、本飯田、楯岡、六田などの宿場があったが、現在では、村山、東根などの大きな町になっている。沿線にはサクランボの果樹園も多く見られる。東根市はサクランボの生産日本一ということだ。

このあと仙山線で仙台に出、郡山までは在来線各駅停車の旅。郡山から宇都宮までは新幹線を利用し、宇都宮からは在来線に乗り換え新宿まで。自宅に帰りついたのは20:40頃だった。かくして、青春18切符を利用した6日間の旅は終わった。


  


開山堂からさらに登ると、五大堂がある。これは、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場で、山寺随一の展望台である。ここからは山寺の町、遠くの山々が一望できる。

奥羽本線、山形新幹線の線路
同じ線路を在来線も、新幹線も利用する。線路の規格は新幹線に合わせているので、在来線の車両はそれ用に改造されたものを使用する。現在は、新幹線といえども単線運転である(天童駅近くの跨線橋より)

天童から山寺へ

8月28日、私は天童のビジネスホテルを8:30頃出発した。今日は、これから山寺まで約9Kmを歩き、山寺を見物したあと帰京する予定である。
天童駅前を通る県道はかつての羽州街道だが、朝の渋滞で車が数珠つなぎだった。このような道を少し行くと、「旧東村山郡役所資料館」というのがあったので寄ってみた。9時半から開館ということで、中には入れなかったが、近くに案内板が立っていた。この建物は旧東村山郡の役所の跡で、中は資料館になっている。「幕末の天童」「戊辰戦争と天童」などのほか興味を引く展示物がいろいろとあるようだ。建物の近くには芭蕉句碑が立っている。天童は将棋の駒の産地としても有名である。近くの舞鶴公園では毎年、4月の桜祭りの期間中に「人間将棋」が行われるという。

旧東村山郡役所資料館
中は資料館になっているが、開館時間前で入ることはできなかった。
開館時間:9:30〜18:00
休館日:毎週月曜日、祝日の翌日

旧羽州街道(天童駅前付近)の様子
朝の渋滞で車が数珠つなぎの状態だった

東根

開山堂より元来た道を振り返る
性相院、観明院などの建物が見える。奥の院はこれらの建物のさらに上にある

開山堂と納経堂
開山堂には慈覚大師の木像が安置されている。左の赤い小さなお堂は納経堂。これは山内で最も古く、昭和62年に解体修理が行われた

山寺、開山堂、奥の院方面の全景 (山寺駅プラットフォームより)
中央左側の岩場の上に開山堂があり、その少し上に五大堂がある。中央上部の頂上付近に奥の院、大仏殿などがある。この辺りにもいろいろな建物があり、やはり行くべきだった
と後で思った