狭井神社の霊泉
三輪山から湧き出る霊泉で、拝受に来る人が絶えない。私もペットボトルに詰めさせていただいた

狭井神社、三輪山への登拝口
神社でお払いを受け、たすきをかければここから三輪山に登ることができる

路傍の万葉歌碑
古の人の植えけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし 柿本人麻呂

山邊道」道標の立つ辺り
杉並木の中のいかにも古道という感じの道である

玄賓庵の白壁と門
僧玄賓の隠居した庵ということで、大きくはないが静かな環境にある

箸墓付近から三輪山を望む
この辺りから眺める三輪山はたいへん形がよい。古代の人々は神が宿る山と考え、崇め恐れた。初期大和王権はこの山麓で成立した。付近一帯には古墳時代初期の古墳が数多く存在する

行燈山古墳(崇神天皇陵)、櫛山古墳
左側の大きな墳丘が行燈山古墳、右手奥に見えるのが櫛山古墳。行燈山古墳は前方後円墳で全長242m、櫛山古墳は双方中円墳という珍しい形で全長155mである。行燈山古墳は崇神天皇陵に比定されており宮内庁管理の陵墓
渋谷向山古墳(景行天皇陵)
全長300m、前方部幅170m、後円部長径168mと巨大な前方後円墳である。後円部の先は開けており、大和平野の眺めがよい。景行天皇陵に比定されており、宮内庁管理の陵墓

内山永久寺跡、芭蕉(宗房)句碑
山の辺の道の案内表示にしたがって歩いてゆくと、竹之内環濠集落に出る。戦国時代に戦禍を避けるため集落の周りに濠を掘ることがよく行われたが、この集落ではそれが一部残っている。さらに進むと夜都伎(やとぎ)神社があり、その先でようやく石上(いそのかみ)神宮の案内表示が出てきた。天理の市街地に近くなると山の辺の道も一般道路と重なることも多くなり、案内表示もわかりにくいものも出てくる。永久寺跡の手前でちょっと方向指示があいまいな案内板があり、その前で少々考え込んだ。ちょうど同じ方向に向かうご夫婦が通りかかったので、聞いてみると「さあ、どっちですかねえ」という。「やっぱりこっちでしょうね。」ということになって、そちらの方向に進んでいったら、目指す永久寺跡に出ることができた。
内山永久寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、今は池だけしか残っていないのだが、近くに芭蕉句碑が建っている。芭蕉がまだ宗房と名乗っていた二十代のころに詠んだ句だ。若き日の芭蕉は、山の辺の道を巡ってここまでやってきたのかもしれない。

          うち山やとざましらずの花ざかり   宗房
 今、内山永久寺に参詣してみると、見事なサクラで埋めつくされている。土地の人々はこのサクラの花盛りをよく知っているのだろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのだ

桧原神社と豊鋤入姫(とよすきいりひめ)宮
右が桧原神社、左は豊鋤入姫を祀る宮である。豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女で、初代の斎王として天照大御神をお守りしたという

桧原神社
天照大御神が伊勢に遷幸する前、ここに祀られていたことがあるため「元伊勢」とも呼ばれる

 桜井から天理へ 山の辺の道を歩く

上街道から再び山の辺の道に戻る
箸墓古墳の脇を通る道が古代の上ツ道(上街道)である。江戸時代には、上街道は平坦な街道として人通りが多かったが、山の辺の道は屈曲やアップダウンも多く一般の旅人はあまり利用しなかったようだ。この街道の少し先の三昧田(さんまいでん)というところに芭蕉句碑もあるので、「野ざらし紀行」で芭蕉は恐らくこの上街道を歩いたのだろう。そんなことを考えながら歩いてゆくと、途中で三輪山がよく見えた。形のよい山である。古代の人が神の宿る山として崇め、恐れたという気持ちも分かるような気がする。
JR桜井線の巻向駅周辺には箸墓古墳のほかに六つの前方後円墳があり、纏向古墳群と呼ばれている。また、この付近には纏向遺跡という古墳時代前期の大集落跡がある。少し巡ってみたい気もするが、まだ先も長いので省略する。巻向駅の前に案内表示があり、これにしたがい山の辺の道に戻ることにする。

展望台から望む三輪山
ここから見える三輪山は、谷の一部を除いて全山アカマツの林でおおわれています。アカマツは乾燥の強いヤセ地に生える植物で、三輪山も変成岩類の多いヤセ地です。山中には巨石群が盤座(いわくら)をつくり、山頂高峰付近、中腹滝付近、三合目石の原付近の三段に分かれていて、山をとりまき原始信仰の姿をとどめています。(説明板より)
大和盆地の東南に秀麗な山容を見せているのが三輪山(みわやま)、そして東北部に、若草山に並んで原生林の密生している山が春日山である。その三輪山のふもとから春日山の麓まで、大和盆地の東辺をかぎる山々のすそをぬうように通じている道がある。それが世にいう山の辺の道である。
現在、この山の辺の道は、東海自然歩道として整備され、この道を訪れる人の数も多い。私は桜井から天理市の石上神宮まで、この古道を歩くことにした。桜井から天理まで約20Kmの道のりである。


桜井駅から海拓榴市(つばいち)へ
この日は名張発7:24の電車で桜井駅に着いたのは7:50頃だった。南口に降り、駅前のアーケードの商店街を名張方面にもどる形で進む。この道は4日前に榛原から高田まで歩いたときに通っている。この道を15分くらい歩くと、金屋の石仏への近畿自然歩道の案内表示が現れる。これから先は、適宜案内表示が出てくるので、これにしたがって進めばよい。まっすぐ行くと、やがて川が見えてくる。この川は大和川(初瀬川)である。対岸に渡ると、公園になっており、ここに「仏教伝来の地碑」と万葉歌碑が建てられている。
このあたりは、現在、金屋という集落だが、古代には海拓榴市(つばいち)といわれ、水陸の交通の要衝となっていた。西暦552年、百済からの仏教伝来の使節がこの地に上陸し、すぐ近くにあった欽明天皇の磯城嶋(しきしま)金刺宮に向かったという。仏教伝来の地碑は、これを記念して平成9年に建てられたものである。
また、近くには、次の万葉歌碑が建っている。初瀬川はこの辺りでは三輪川とも呼ばれた。

  
 夕さらずかはず鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくし良しも  (巻十、二二二二)    
             
箸墓(はしはか)古墳 (ヤマトトトヒモモソヒメ大市墓)
案内表示にしたがい、箸墓(はしはか)古墳に向かう。このあたりはどこへ行くにしても案内板が非常によく整備されいる。集落の中に大きな林の丘が現れた。少し先で全体の形が見えてくると、ようやくこれが大きな古墳だということが分かった。これが箸墓古墳である。
箸墓古墳は、平地の中に突然現れる、全長276mの巨大な前方後円墳である。この古墳は宮内庁管理の陵墓なので、発掘調査はできないのだが、近年周囲の民有地の発掘調査が行われ、徐々にではあるが新しい事実も発見されている。発掘された土器などから、築造推定時期が従来の4世紀前半から3世紀後半に引き上げられたという。

纏向(まきむく)古墳群、箸墓(はしはか)古墳へ
桧原神社の近くに万葉歌碑が建っている。柿本人麻呂の次の歌である。

   いにしへにありけむ人もわが如か みわの桧原にかざし折りけむ (巻三、一一一八)

山の辺の道(東海自然歩道)は桧原神社を出たあと、相撲神社などを経て景行天皇陵方面に向かうのだが、私はここで山の辺をおりて有名な箸墓古墳方面に向かうことにした。桧原神社の前の道を西に向かって下ってゆくと少し先に大きな池が現れる。これは井寺池である。この池の向こうに形のよい古墳が見えるが、これは茅原(ちはら)大墓古墳である。この古墳の右手下方に箸墓古墳、ホケノ山古墳など纏向(まきむく)古墳群とよばれる一群の前方後円墳がある。

案内表示に従って進んでゆくと、三叉路がある。まっすぐ行くと大神神社(おおみわじんじゃ)、右に曲がると海拓榴市(つばいち)観音堂とある。この分岐点には「海拓榴市(つばいち)」の説明板と万葉歌碑が建っている。

海拓榴市(つばいち) (説明板より)
ここ金屋のあたりは古代の市場、海拓榴市(つばいち)のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山の辺の道、初瀬への初瀬街道、飛鳥地方への磐余(いわれ)の道、河内和泉から竹の内街道などの道がここに集まり、また、難波からの舟の便もあり、大いににぎわいました。春や秋のころには若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣は有名です。後には伊勢・長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました。


ここに建っている万葉歌碑は、歌垣に関連した次の歌である。

  紫草(むらさき)は灰さすものぞ海拓榴市の八十のちまたにあへる子や誰
 (巻十二、三一〇一)

海拓榴市観音堂はこの分岐点から近いので立ち寄った。観音堂は近年建替えられたもので、中に小さな石造の観音像が二体見える。

万葉歌碑
夕さらずかはず鳴くなる三輪川の 清き瀬の音を聞かくし良しも 
 作者未詳、樋口清之書

仏教伝来の地碑
大和川のほとりに建つ大きな石碑。平成9年に建てられた比較的新しいものである。仏教伝来の使節がここに上陸したのを記念して建てられた

大和川(初瀬川)
初瀬の山間に発したこの川は難波津に達し、古代には関係諸外国と大和朝廷を結ぶ重要な交通路となっていた
左手は三輪山である

桧原(ひばら)神社
やがて、道は桧原神社の前に出る。桧原神社は大神神社の摂社で、天照大御神を祀る。この神社は「元伊勢」とも呼ばれるが、説明板にその由来が書いてある。それによると、「第十代崇神天皇の時代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて『同床共殿』でお祀りされていた。同天皇の時代に初めて宮中を離れ、この『倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)』に祀られた。その後、大御神は伊勢に遷幸したが、引き続き桧原神社として大御神をお祀りしている。そのことにより、この地を今に『元伊勢』と呼んでいる。」ということだ。拝殿前には大神神社と同じく三ツ鳥居が建っており、その周りには朱色の水垣がめぐらされ、聖域の感を起こさせる。

井寺池から茅原大墓古墳を望む
全長約66mの墳丘の形のよい前方後円墳である。右手下方に箸墓古墳、ホケノ山古墳など古墳時代初期の古墳がある

桧原神社近くの万葉歌碑
いにしへにありけむ人もわが如か みわの桧原にかざし折りけむ
 柿本人麻呂

垂仁天皇纏向珠城(まきむくたまき)宮跡、珠城山(たまきやま)古墳群
案内表示にしたがって歩いてゆくと、ゆるい登り道になってゆく。途中、垂仁天皇纏向珠城(まきむくたまき)宮跡石標がある。このあたりは崇神、垂仁、景行天皇の王宮伝承地となっており、この纏向珠城宮跡はその一つである。近くには珠城山(たまきやま)古墳群といわれる古墳群もある。この先には、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)などの巨大前方後円墳があり、王宮伝承地の存在とあわせて、この三輪山麓地域に初期大和王権が成立したことを示している。
珠城山古墳手前の三叉路をまっすぐ行くと相撲神社方面に出るが、私は左に曲がって景行天皇陵方面に向かう。

景行天皇陵(渋谷向山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)、櫛山古墳
やがて、景行天皇陵に着いた。巨大な前方後円墳で、全長は300mある。4世紀中ごろに築造され、前期古墳としては全国で最大規模のものという。学術的には渋谷向山古墳と呼ばれるが、景行天皇陵に比定されているため宮内庁管理となっている。後円部は西向きで、高台にあるので大和盆地の眺めがよい。
東海自然歩道の案内板にしたがい、崇神天皇陵に向かう。集落の中の道を20分くらい歩くと、大きな墳丘が見えてくる。周りには濠があり、その堤上に上って古墳を眺める。西側に大きな行燈山(あんどんやま)古墳があり、その東側に隣接してやや小さい櫛山(くしやま)古墳が見える。行燈山古墳は崇神天皇陵に比定されており、宮内庁管理である。行燈山古墳は全長260m、櫛山古墳は155mである。櫛山古墳は1948年に発掘調査が行われており、4世紀後半に築かれたと見られている。行燈山古墳に隣接していることから、この被葬者は行燈山古墳と関係する有力な人物であっただろうと想像される。
周濠の堤上には休憩スペースがあり、ベンチなどもあるのでここで昼食にした。13時を過ぎていた。

長岳寺
崇神天皇陵を過ぎると、山の辺の道(東海自然歩道)は長岳寺に向かう。長岳寺は真言宗の寺で、824年に弘法大師によって開基されたと伝えられる。往時は本堂、不動堂、鐘楼など20坊あったと伝えられるが、明治初期の廃仏毀釈により衰退した。現在は本堂のほかに鐘楼門、大師堂などが残り、多くの文化財を有している。静寂で広大な境内には四季折々の花が咲き、「花の寺」と呼ばれている。

大和(おおやまと)古墳群
長岳寺を出たあとも山の辺の道沿いには重要な古墳群が続く。このあたりの古墳は大和(おおやまと)古墳群といわれ、古墳時代前期の古墳を中心に構成され、初期大和政権の大王(おおきみ)と、それを支えた構成員の有力な豪族の墳墓と考えられている。数十の前方後円墳、前方後方墳、円墳などが集まっており、これらをていねいに見ていたらそれだけで日が暮れてしまうので、山の辺の道に沿った主なものだけざっと見ていく。
長岳寺からの山の辺の道を進んでゆくと、前方の中山集落の向こうに大きな墳丘が見えてくる。これは中山大塚古墳である。全長132mの前方後円墳で、前方部付近には大和神社の御旅所(おたびしょ)が置かれたため、一部削平されている。これまでの発掘調査の結果から、この古墳は前方後円墳が築かれ始めたころ(3世紀後半)の古墳であると判断されている。
さらに進むと東の山すそに大きな古墳が見えてくる。これは西殿塚古墳で、それに並行して東側に東殿塚古墳がある。西殿塚古墳は陵墓に指定されているのだが、近年東殿塚との間の墳丘すそ部が調査され、古墳時代初頭の築造であることが分かってきた。この古墳は学術上は古墳時代でも最も古い時代の築造であることが分っているのに、6世紀代の手白香皇女の陵墓に比定されており、天皇陵の比定の科学性の問題でよく引き合いに出されるのだという。

永久寺跡
明治時代はじめに廃寺となり、現在は池だけしか残っていない。若き日の芭蕉はここで句を詠んだ

芭蕉(宗房)句碑
うち山やとざましらずの花ざかり   宗房

山の辺の道と路傍の歌碑
つづいて玄賓庵(げんびあん)に向かって山の辺の道を歩く。このあたりは道の両側に小さな果樹園が続き、明るい道である。時折、木々のあいだから奈良盆地方面を見渡すことができる。路傍に歌碑が建っている。これは古事記の中の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)の歌である。

  狭井河よ雲立ちわたり畝傍山木の葉騒ぎぬ風吹かむとす  (古事記、伊須気余理比売)

解説によると、この歌は単なる叙景歌ではないというが、このあたりからは畝傍山がよく見え、細い流れながらも狭井川が流れている。

石上(いそのかみ)神宮から天理駅へ
石上神宮からは天理市街を通って天理駅に向かう。天理市には天理教の本部があり、天理教関係の建物も多く、みな似たような神社風の外観を見せている。天理教本部付近から天理駅付近まで長いアーケードの賑やかな商店街が続いているが、いたるところに「ようこそおかえり」のフラッグが見られる。天理の町では、外来の人に対してもすべて「おかえりなさい」といってもてなすのだ。

天理駅には17時ころ着いた。永久寺の手前で道をたずねたご夫婦も少し遅れて駅に到着した。聞けばこれから大阪方面に帰るのだという。
今日は大和の古道を歩き、日本国誕生の地、いわば「日本のふるさと」を探訪することができた。いろいろなことを一度に見聞して、少々くたびれた。

野ざらし紀行・畿内行脚7

金屋の石仏
分岐点に戻り、金屋の石仏に向かう。観音堂からは少し離れているが、要所には案内表示があるので迷うことはない。
金屋の石仏も新しい立派なお堂の中に入っている。正面の格子戸から中を覗き込むと、二体の石仏が見える。説明板によると右が釈迦、左が彌勒(みろく)と推定されている。高さ2.2m幅約80cmの二枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は、古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財の指定を受けている。

金屋の石仏
粘板岩に浮彫りされたもので、右が釈迦、左が彌勒と推定されている。国の重文指定

金屋の石仏のお堂
石仏様には似つかわしくないような建物であるが、文化財保護の見地からは必要なのだろう

大神神社(おおみわじんじゃ)、狭井神社(さいじんじゃ)
大神神社に向かって歩いてゆくと、道はだんだんと「山の辺の道」らしく風情のある道になってゆく。このような道をしばらく行くと、聖徳太子ゆかりの平等寺がある。この寺は、581年聖徳太子が賊徒を平定するために三輪明神に祈願して平定後、寺を建立したことに始まるという。
平等寺を過ぎ山の辺の道をさらに進むと、大神(おおみわ)神社の大きな石標と大鳥居が見えてくる。この神社は古代の大和でもっとも神威の高い神社だった。大物主神を祭神とするが、神体・神宝を安置する神殿はなく、三輪山そのものを神体とする。参詣の人々は、拝殿から直接三輪山をあおぎ拝むのである。
大神神社の拝殿の前の道を北に向かうと狭井(さい)神社がある。ここでお祓いを受け、たすきをいただくと、三輪山に登ることができる。時間があれば登ってみたいところだが、今日はまだ先が長いので、登り口を確認するだけにとどめる。神殿の脇に「狭井神社の霊泉」がある。「この霊泉は神体山・三輪山から湧き出た霊水で、清澄かつ一種の風味をもち、遠近より拝受に来る人が絶えません」、と説明書きがある。私も、ありがたくいただいた。つめたくておいしい水である。

大神神社拝殿
参拝者はここからご神体の三輪山を拝む

大神神社境内入口
山の辺の道に接して大きな石標と大鳥居が建っている

海拓榴市(つばいち)観音堂
観音堂は近年建替えられたもの。中に二体の石造観音像が見える

観音堂への分岐点に建つ万葉歌碑
万葉歌碑と海拓榴市の説明板が立っている
紫草(むらさき)は灰さすものぞ海拓榴市の八十のちまたにあへる子や誰

展望台から望む三輪山と大和三山
狭井神社を出て山の辺の道を5分くらい歩くと見晴らしのよい場所に出る。ちょっとした展望台になっており、ベンチや説明板などもある。ここからは三輪山の全容、そして目を転じれば奈良盆地に浮かぶ三つの山が一望のうちに見渡せる。山の辺の道のうちでも最良のビューポイントの一つである。

歌碑(古事記より)
狭井河よ雲立ちわたり畝傍山木の葉騒ぎぬ風吹かむとす
 (イスケヨリヒメ)

小さい果樹園の中を行く山の辺の道
このあたりは明るい道である。時折、木々の間から大和盆地を見渡すことができる

玄賓庵(げんびあん)、山邊道道標
山の辺の道は現在、東海自然歩道となっており、道標が非常によく整備されている。この道標にしたがって歩いてゆくと、白壁が現れ趣のある門が見えてくる。これが玄賓庵(げんびあん)である。玄賓は平安初期の僧で、もと興福寺に住み学徳一世にきこえたが、名利を避けて三輪山麓に隠棲したのがこの庵である。ここには重要文化財の不動明王像が伝わっている。玄賓庵の先の山の辺の道も、いかにも古道という感じで趣がある。ここには「山邊道」という古い書体の石の道標が立てられている。道の途中に万葉歌碑が一基、柿本人麻呂の歌である。

    古の人の植えけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし  (巻十、一八一四)

珠城山(たまきやま)古墳群
三基の前方後円墳からなる比較的小規模な古墳群。このうちの一つは、生活用の土砂採取などで墳丘が自然消滅してしまったという

垂仁天皇纏向珠城宮跡」石標
この付近は崇神、垂仁、景行天皇の王宮伝承地となっており、これはその一つ垂仁天皇の纏向珠城(まきむくたまき)宮跡である

庭園の池越しに本堂(国重文)を望む
約400年前の建立。書院造り、美しい庭園がある

長岳寺鐘楼門(国重文)
鎌倉時代に建築され、資本最古の鐘楼門といわれる

西殿塚古墳(手白香皇女陵)
古墳時代初頭の築造であることが分かっているが、6世紀代の手白香皇女の陵墓に比定されている

中山大塚古
全長132mの前方後円墳で、古墳時代初頭に築かれたものと判断されている。前方部付近に大和神社の御旅所が置かれたため、一部削平されている

石上(いそのかみ)神宮
永久寺跡から石上(いそのかみ)神宮までは山の辺の道の案内表示どおりで、山間の道を10分くらい歩いて石神神宮に到着した。16時ころだった。本日の山の辺の道コースのゴールである。
石上神社は鬱蒼とした森の中にある。起源ははっきりしないが、大神神社と並ぶ日本最古の神社であり、古代国家の信仰の中心であったと考えられている。石上神宮は、大和政権の武器庫としての役割を持ち、政権の軍事面を統括した物部氏の氏神となり、その一族の信仰を集めた。神社信仰の古式をとどめ、背後の布留(ふる)山が神体とされた。
境内に入り、楼門をくぐると拝殿がある。大正時代までは本殿がなく、拝殿後方の禁足地を神聖な地としていた。大正時代にこの場所に本殿が築造されたが、おびただしい遺物が出土した。玉や武具の多くは4世紀ごろ、鏡などは平安時代のものと考えられ、石上神宮禁足地出土品として国の重文に指定された。拝殿は鎌倉時代の建立で国宝である。

石上神宮拝殿(国宝)
鎌倉時代に建立されたもので、国宝となっている

石上神宮楼門(国重文)
1318年建立で、国の重文となっている

天理のアーケード付きの商店街
天理教本部付近から天理駅付近まで続く賑やかな商店街。「ようこそおかえり」のフラッグがいたるところに見られる

天理参考館
天理教関係の大きな建物は、みな同じような神社風の外観を見せている

展望台から大和盆地、大和三山方面を望む
やや霞がかかっているが、大和三山が一望のうちに見える。右に耳成山、正面に畝傍山、左に天香具山である。周囲の状況は変化したが、山そのものは古代から変わりなくその場所にそびえ、数々の物語や伝説をはぐくんできた

箸墓(はしはか)古墳 (ヤマトトトヒモモソヒメ大市墓
全長276mの巨大前方後円墳である。前方部(写真右)が西を向き、その前には灌漑用の大きな池ガある。この池の底や堤が近年発掘調査の対象となり、大量の土器などの新たな発見がなされた。この結果、築造推定時期が従来の4世紀前半から3世紀後半に引き上げられたたという。邪馬台国は大和にあったとする説に立つと、この古墳は卑弥呼のものだとする説もあり、築造推定時期が早まると邪馬台国論争にも影響を与えるのだろう