近鉄大和八木駅南の国道24号線
伊勢街道旧道は、この道路とぶつかって終わりとなる。これから先は国道が複雑に絡み合い、道路標識が分かりにくくなる

耳成(みみなし)山
この辺りで北側が開けて耳成山が良く見えた。周囲はすべて平地でこの山だけがぽつんとある。標高は139.7メートル、大和三山の一つとして有名

分岐点から中ツ道を望む
古代には、この道をまっすぐに北に進んでゆけば、平城京の東京極につながっていたはずだ。現在は、古道としてすべてが残っているわけではない

三輪神社西南隅の様子
境内の隅に巨大な礎石があり、説明板が立てられている。「ここは中ツ道と横大路の交差した場所にあたる。現在の定説では、藤原京域の北東隅に位置する。・・」とある
左側の道が古代の中ツ道である

朝倉小学校脇の万葉歌碑
柿本人麻呂作、堀口大学筆

朝倉小学校
国道から少し坂を登ったところにある。歌碑は門の近くに建っている

榛原から長谷寺、桜井を経て大和高田市まで

重要文化財 上田家住宅
主屋の建築は延享元年(1744)以前の建築と見られる。その後天保9年(1838)に大修理が行われている。江戸時代には惣年寄を務めるかたわら、酒屋を営んでいた

今井町の町並み
町並みとしてよく保存されており、地域全体が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている

本堂は前面に懸造りの舞台が付く大建造物である。山の斜面にせり出すように建てられており、京都の清水寺のような造りである。平成16年12月、国宝に指定されている。張り出した翼廊からは下の建物や五重塔などの眺めがよい。長谷寺のご本尊は十一面観世音菩薩で、全国に広がる長谷観音の根本像となっている。
なお、芭蕉は作品の中で特に長谷寺についてはふれていないが、故郷に近いので何回かは訪れているだろう。

「歩いて旅した野ざらし紀行」(関俊一著)によると、ここからさらに少し行き、春日神社近くの雑木林の陰にも万葉歌碑があるということで探したのだが、残念ながら見つけることができなかった。ここに建っているというのは、次の歌の歌碑である。

   夕されば小倉の山に臥す鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも (巻九、一六六四)
     泊瀬朝倉宮の大泊瀬幼武天皇(雄略)御作。ある本では岡本(舒明)天皇の御作という

雄略天皇の朝倉宮跡をこの黒崎付近とし、近くに見える山を小倉山に見立てて、この場所に歌碑が建てられたのだろうと著者は述べている。

野ざらし紀行・畿内行脚

今日は、榛原から花のお寺・長谷寺に立ち寄ったあと、桜井を経て大和高田市まで、旧伊勢街道、竹内街道の道筋を約30Km歩く。


榛原(はいばら)

榛原駅には7:30頃着いた。榛原は古くから大和の東玄関口で、大和から伊勢に通じる伊勢街道が通っており、江戸時代には往来する人々でにぎわった。沿道には当時の道標などが残されている。特に、伊勢本街道と「あを越え街道」の分岐点である「札の辻」には、元旅籠「あぶらや」、道標、常夜灯などがあり、風情のある町並みが今も残っている。旧道は、賑やかとはいえない商店街がしばらく続き、やがて国道165号線に合流する。

大和高田へ
今井町を出たあとは、国道166号線を大和高田方面に進む。この道はまっすぐ西に約4Kmほど続き、大和高田市の片塩ロータリーに出る。ここは丁字路になっており、先を続けるには右に曲がるのだが、時計を見ると16:30を過ぎている。私はここで左に曲がり、近鉄高田市駅に出ることにした。高田市駅発16:52の電車で、名張のホテルに着いたのは18時頃だった。

耳成(みみなし)山付近を通って近鉄大和八木駅南、今井町へ
三輪神社を過ぎたあとも風情のある旧道は続く。やがて右側に形の良い小さな山が見えてきた。これが大和三山の一つ耳成山だ。ふもとのすぐ近くまで民家が迫り、すぐそばを近鉄大阪線が走っている。この山は近くから眺めても、ありきたりの低山であまり興趣はわかない。やはり飛鳥の甘樫の丘辺りから眺めてこそ真価を発揮するのだろう。耳成山を過ぎてしばらくすると、旧道は大通りにぶつかり、旧道はここで終わりとなってしまう。この大通りは近鉄大和八木駅付近から続く国道24号線で、これから先は道の屈曲が多くなり大変分かりにくくなる。国道24、165、166、169号線などがからみあって、道路標識を見ただけではよく分からなくなるのだ。これは、幹線道路が藤原京跡を避けているため生じている現象だと思うので、文句は言えない。

三輪神社南側の通り
この通りは古代の横大路であるが、江戸時代には伊勢街道として多くの人が通った。境内の大欅は江戸時代には伊勢街道を行く旅人の目印になった

三輪神社
当社はすぐ南側を横大路が通り、西側を中ツ道が通る分岐点に位置している。
の神社の西南隅に礎石がある

三輪神社西南隅の礎石(横大路と中ツ道の交差した場所)
旧道に戻り先を続ける。やがて、JR桜井線の踏切を渡る。この踏切のすぐ先に香具山駅がある。天香具山はこの駅の南にあるが、地図で見るとだいぶ離れている。この駅から500mくらい西に三輪神社がある。この神社は神社そのものの由緒よりも、その建っている位置が非常に重要なポイントになっている。すなわち、この神社の西南隅が大和古道の横大路と中ツ道の交差する場所となっているのだ。その西南隅に礎石があり、説明板が立っている。現在の定説によれば、この場所が藤原京域の北東隅にあたるという。

葛城山地

難波へ

巨勢道

吉野へ

当麻

竹内峠

伊勢へ

伊賀,伊勢へ

大津道

飛鳥

竜田道

山背道

平城京
藤原京

畝傍山

耳成山

香具山

三輪山

横大路

山辺の道
上ツ道
中ツ道
下ツ道

大和の古道と宮都
奈良時代における藤原京、平城京の関係は左図のようになるという。(日本の古代9 都城の生態 岸俊男編による)
藤原京の京域は、中ツ道、下ツ道、横大路などに囲まれた地域に建設された。上、中、下の三道が等間隔に敷設され、下ツ道は後に平城京の朱雀大路につながる。また、中ツ道は、藤原京の東京極をなすが、のち平城京の東京極ともなっている。このように、藤原京と平城京は、計画上密接な関連を持って建設された。
藤原京は飛鳥に近く、天武天皇の頃から構想されたようだが、完成して使われ始めたのは次の持統天皇になってからだった(694年)。しかしこの都は長続きせず、次の文武天皇の頃から都を移す計画が始まっていた。
平城京に遷都したのは710年、元明天皇のときだった。その後、奈良の都(平城京)は784年まで74年間続いた。

大和古道について
ここで、ちょっと大和中心部の古道について調べてみた。私が今歩いている道、そしてこれから歩こうとしている道がかつての古道とどのようなかかわりがあるのか、概略を知りたくなったのである。
古代の大和には、下図のように南北に上ツ道、中ツ道、下ツ道という三本の大通りがあり、さらに、これより古い時代からあった山辺の道といわれる道も通っていた。これらのうち、山辺の道については現在でも昔の様子が良く保たれており、私も今回の旅の後半でこの道を歩く予定である。
東西を結ぶ道としては、横大路と竜田道という二本があった。横大路は東は墨坂(榛原町)を越えて伊賀・伊勢に通じ、西は竹内峠などを越えて河内に入る。難波、大和、伊勢方面をつなぐ大幹線である。現在この道筋は国道165号線などとなっており、私もこの道を通って伊賀からここまでやってきた。もう一本の横大路である竜田道は、大和地域内で斑鳩、飽波(あくなみ)、額田(ぬかた)などの要衝を連ね、やはり伊賀方面に至る。

桜井市中心部へ伊勢街道旧道を行く
再び国道165号線に戻り、先を続ける。やがて、桜井市の中心部に入ってゆく。近鉄のガード下をくぐり、その少し先の宇陀が辻信号で旧道が右に分かれてゆくのでこちらを行く。この旧道は近畿自然歩道になっており、まっすぐ進んでゆくと、やがて右側に金屋大仏への案内標識が見える。近畿自然歩道はここで右に曲がり、金屋大仏方面に向かうのだが、今日の私のコースは、このまままっすぐに旧道を進む。旧道の風情の残る道をまっすぐに歩いてゆくと、やがてアーケードの本町通り商店街になる。賑やかな商店街とはいえないが、この商店街のなかには歴史を感じさせる古い店も遺されている。少し先で商店街は広い道と交差するが、ここで右に曲がれば近鉄大阪線桜井駅南口に出る。

白山神社から少し行くと朝倉小学校がある。この学校の校庭隅にも万葉歌碑が一基建っている。これは柿本人麻呂の歌である。
   こもりくの初瀬の山の山のまに いさよふ雲は妹にかもあらむ (万葉集巻三、四二八)

春日神社前の現在の様子(桜井市戒重)
昭和50年代にはこの辺に池があり、堤上に万葉歌碑が建てられていたというが、現在は大きなマンションに変わっている

春日神社
国道169号線沿いにある神社。古くは他田(おさだ、長田)宮とも称していたことから、敏達天皇の訳語田(おさだ)幸玉宮推定地とされている。また、大津皇子はこの付近で処刑された

春日神社付近(桜井市戒重)、大津皇子のこと
桜井駅を過ぎ、なおも旧道を進んでゆくと国道169号線にぶつかる。かつての大和古道・上ツ道はこの辺りを通っていたのだろうか。この道を奈良方面に少し進むと春日神社というお宮があり、ここに大津皇子の歌碑があるということで立ち寄ることにした。JR桜井線と近鉄大阪線の線路を越えてすぐのところにその神社はあった。
「歩いて旅した野ざらし紀行」(関俊一著、昭和57年刊)によると、この神社の境内に大津皇子の歌碑があるということで、探したのだが見つからなかった。また、同書によるとこの神社の前に大きな池があり、その堤上に大津皇子関連の二基の万葉歌碑が建てられており、そこから西の方向に二上山が望めるということだったが、残念ながら現在その位置には大きなマンションが建っており、そのような光景を望むことはできなかった。30年近い年月で、開発の波に飲み込まれてしまったようだ。どこかに残されているのかもしれないが、探索はやめて元の道に戻ることにした。
なお、現在、春日神社境内には、敏達天皇の「
訳語田(おさだ)幸玉宮推定地」という桜井市教育委員会の説明板が立てられている。

ちなみに、ここに立てられていたという二基の歌碑とは次の二首である。
  
  ももつたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲かくりなむ (巻三、四一六)

  うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む (巻三、一六五)

前者は大津皇子の作。万葉集には、大津皇子が磐余(いわれ)の池で涙を流しておつくりになった歌だと前書きがある。この磐余(いわれ)の池というのは、香具山の東北の一帯で、こんにち、桜井市池之内や池尻という地名が残っている。皇子は、天皇に対する謀反の罪で死刑に処せられたのだが、このときに刑の行われた場所は、「訳語田(おさだ)の家」といって桜井市戒重辺りだという。(「万葉の人びと 犬養孝著」による)。春日神社辺りの地名は戒重であり、大津皇子はこの付近で処刑されたのだろう。
後者は、大来皇女の作で、万葉集に『大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女が悲しみて作りませる御歌』として二首出ているうちの一首である。大来皇女は大津皇子の姉で、弟の死を悲しみ、「明日からは、弟が葬られたあの二上山を弟と思って眺めよう」というのである。

白山神社の境内はそれほど広いものではないが、境内に入ってすぐのところに「万葉集燿讃仰碑」がたち、すぐそばに万葉集巻頭の雄略天皇御製の歌碑が建っている。この歌碑は昭和47年、桜井市観光課が「山の辺の道」を中心に三十数基の記紀万葉の歌碑を建てたうちの一基だという。

雄略天皇泊瀬(はつせ)朝倉宮伝承地 (説明板より)
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、「大和志」や「日本書紀通証」などで述べられているが、立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田與重郎氏は、この白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌ではじまる「万葉集」の発祥の地として、神社境内に記念碑を建立したものである。
桜井市教育委員会

榛原から長谷寺へ
国道に合流してからは、国道をタンタンと進む。今日は、今にも降りだしそうな天気である。国道165号線は旧伊勢街道で、この辺りは両側を山に囲まれた谷筋になっている。今はすぐ南に近鉄大阪線が走っているが、基本的な風景は今も昔も変わらないだろう。国道を歩くこと1時間くらいで初瀬の町に入る。長谷寺は初瀬信号で右に曲がり、案内板にしたがって歩いてゆけば15分くらいで到着する。

国道165号線初瀬信号付近
ここに長谷寺の案内表示が出ているので、あとはこの案内にしたがってゆけばここから15分くらいで到着する

国道165号線吉隠バス停付近
かつての伊勢街道は山間の谷筋を進む。左には近鉄大阪線が走っている

長谷寺

長谷寺には9:30頃着いた。長谷寺は、四季を通じて「花のお寺」として有名である。ちょうど今日(4月19日)から「ぼたん祭り開催」という案内板が立っている。ワクワクしながら仁王門から境内に入った。仁王門のすぐ先から長い登廊がはじまる。屋根付の長い石段だが、一段あたりの段差は小さいので、高齢者などにも優しいつくりである。この登廊の両側にたくさんのボタンが植えられている。

長谷寺縁起
長谷寺は、山号を豊山(ぶさん)と号し、朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置したことにはじまり、のち神亀四年(727)、徳道上人が聖武天皇の勅願によってご本尊十一面観世音菩薩を東の岡に祀った。その後、長谷寺は西国三十三ヶ所観音霊場の根本道場と呼ばれ、初瀬詣、長谷信仰は全国に広がった。下って天正十六年(1588)の頃、専誉僧正が入山してより、長谷寺は関係寺院三千ヶ寺を有する真言宗豊山派の総本山として多くの人の信仰をあつめるに至った。
鎌倉の長谷寺、東京の東長谷寺などいずれも系列のお寺である。

長谷寺登廊
仁王門のすぐそばから本堂に向かって長い登廊が続いている。この登廊に沿ってたくさんのボタンが植えられている

総本山長谷寺境内入口
長谷寺は真言宗豊山派の総本山として、檀信徒約200万人。四季を通じて「花のお寺」として多くの人の信仰をあつめている

ちょうど今日(4月19日)から「ぼたん祭り」開催と案内には書かれていたが、まだちょっと早いようだ。このところぐずついた日が続いているので、少し開花が遅れているのかもしれない。それでも所々に大輪のボタンが咲き始めている。登廊脇のボタンが一斉に咲いたら、さぞ豪華な眺めになるだろう。

咲きはじめたボタン
それでも、所々で咲きはじめたボタンを見ることができた。一斉に咲いたらさぞ豪華な眺めになるだろう

登廊をのぼりきった辺りから仁王門方面を望む
登廊脇に植えられたボタンの数は150種、約7000株に及ぶというこの日は残念ながら、まだ開花には少し早いようだった

登廊を登りきったあと、本堂まではさらに石段を登る。この石段の脇には綺麗なシャクナゲの花が咲いていた。この石段を登りきると小さなお堂があり、その脇のしだれ桜も見事だった。まさに「花のお寺」の名に恥じない光景である。

本堂付近の小さなお堂としだれ桜
しだれ桜も他の花に負けじとがんばっている

本堂への石段脇に咲くシャクナゲの花
シャクナゲの花も境内のあちこちで見ることができる

五重塔を望む
本堂から少し離れた丘の上に建っている

本堂から下を望む
本堂は山の斜面に建てられているため、下の眺めがよい

長谷寺本堂 大悲閣
本堂建物前面の張り出した部分にある大悲閣。ここの前が翼廊になっており、眺めがよい

長谷寺から黒崎の白山神社へ。万葉集発燿讃仰碑
長谷寺を出て、再び国道165号線を進む。出雲という集落を過ぎ、やがて黒崎集落に入ると国道沿いに白山神社がある。ここに「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」という説明板が立っている。

雄略天皇御製歌碑
万葉集巻頭の雄略天皇の御製を刻んだもので、昭和47年に桜井市が立てたものである

万葉集燿讃仰碑
保田與十郎筆。ここが万葉集の発祥の地ということで建てられた

白山神社
黒崎の国道沿いにある神社。保田與十郎氏はこの付近が雄略天皇の泊瀬朝倉宮の伝承地であろうと推定している

雄略天皇御製 (万葉集巻一、一)

籠(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち
この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居(お)れ
しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らぬ 家をも名をも


籠(かご)も 良い籠を持ち ふくしもよいふくしを持って
この岡で 菜をお摘みの娘さんよ 家を聞きたい 名を教えておくれ
この大和は ことごとく私が君臨している国だ 
私こそ告げよう 家をも 名をも
(完訳 日本の古典 万葉集一 小学館 による)

古い道標
左 あをこ江みち
右 いせみち
と書かれている

常夜灯
伊勢本街道に建つ常夜灯。「御室御所御寄附」と書かれている。

元旅籠「あぶらや」
古い看板がそのまま残されている。建物は江戸中期のものだというこの辺りが伊勢街道榛原宿の札の辻だった。

重要文化財 称念寺本堂
当本堂は江戸時代初期の建立と見られるが、当初の形態をよく残し、真宗本堂の発展過程を知る上でも欠くことのできない遺構で、今井町発展の拠点となった寺院の中心施設でもある

重要文化財 中橋家住宅
当家は屋号を「米彦」米屋彦六といい、代々米屋を営んできた。小規模な商家だが、平屋建てから二階建てに移行する過程が知られる民家として注目されている

今井町の歴史
今井町は、戦国の世、天文年間(1532〜55)に一向宗本願寺坊主の今井兵部によって建設されたことに発する。一向宗の門徒が今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし都市計画を実施した。寺を中心に城塞都市の形態を整え、織田信長に対抗したが、天正3年(1575)に降伏し、事なきを得た。その後は大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市としての変貌を遂げ、江戸時代には南大和最大の都市となって大いに栄えた。

今井町

橿原市役所前を通り、近鉄橿原線の八木西口駅付近に出ると、大きな今井町案内図がある。今井町はかつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した町で、現在でも町内の大半の町屋が江戸時代の姿を残している。町の中の道路はよく整備され、両側には古い造りの建物が建ち並んでいる。その中で特に保存状態の良い建物は重要文化財(9件)、県指定文化財(3件)などに指定されている。
今井町の町並みの範囲は、東西600m、南北310m。周囲に環濠土居を築いた城砦都市で、内部の道路も、見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは軍事目的でつくられたが、江戸中期には、今井の商人の生命、財産を守るためというものに変貌した。なお、現在では昔の環濠は埋め立てられ、一部を除いて見ることはできない。

本町通り商店街の中の古い商店
アーケードの商店街の中で、昔の外観が良く残されている商店。これからもうまく活用して残してほしいものだ

桜井市内伊勢街道旧道の様子
国道165号線を宇陀が辻で右に曲がると旧道になる。小さな商店が続くが、旧道の雰囲気が残っている