第2日目 (2003年7月19日 土曜日)  調布〜府中〜八王子


★布多天神社 / 電気通信大学(東地区のシンボルタワー、新図書館棟を望む)

今日は、京王線調布駅から歩き始める。まず、布多天神社に寄り道しよう。駅前の道をまっすぐに進むとすぐに旧甲州街道があり、さらに進むと広い国道20号線にぶつかる。これを渡ると電気通信大学がある。布多天神社はこの大学の右隣にある。
布多天神社は延喜式神名帳に載っている古社である。元はもう少し多摩川に近い場所にあったが、1477年(文明9年)多摩川の洪水を避けて、この地に遷座したという。境内には、布田五宿の氏子や商人たちが奉納した一対の狛犬や太閤の制札、布晒しの碑などもある。
布多天神社の脇から、電気通信大学の構内に入る通路があるので、ちょっと覗いてみよう。実は、私はこの学校の昭和42年の卒業生である。当時は、全学でも1000名に満たないコンパクトな学校だったのだが、現在では、学部、大学院合わせて5000名くらいの学生等がいるのではないか。今や電気通信にとどまらず情報科学全般の総合大学となっているようである。これにあわせて施設の充実ぶりも目覚しい。かつて広大なグラウンドだった西地区はすべて建物で埋め尽くされ、東地区も当時の建物はほとんど残っていない。最近では新しい図書館棟が完成し、東地区のシンボルタワーとなっている。まあ、時流にも乗ったのだろうが、ご同慶の至りである。

★調布駅前の旧甲州街道 / 小島一里塚跡碑

もと来た道を引き返し、旧甲州街道に戻ろう。西友とパルコが旧道をはさんで建っており、大変人通りが多い。いまや調布といえば新宿から京王線の特急で15分、交通至便の地ということで人口は急増している。もっとも、あまりに新宿に近すぎるのと、古くからの町なので、商業施設もいまいち発展できない面も感じられる。
さて、旧道を進むと右手に広い駐車場があり、その西隅に小島一里塚跡の碑が建っている。これは日本橋から六里目のものである。説明板によると、ここには樹齢200年と推定されるエノキの大樹があってその昔がしのばれたが、危険防止のため昭和40年ごろ伐採されたという。

★西光寺門前にある近藤勇の座像 / 西光寺仁王門

旧甲州街道が中央高速と立体交差する少し手前に、西光寺がある。このお寺の山門の前に、最近建てられた近藤勇の座像があり、説明板も立っている。近藤勇に関する史実と史跡を伝えるため、ゆかりの地である西光寺に座像を建立することとした、とある。(平成13年10月建立)
近藤勇は1834年(天保5年)武蔵国多摩郡上石原村に生まれた。京都に行き、会津藩預かり新撰組を結成。幕末の京都を舞台に活躍したが、徳川慶喜の大政奉還後、京都鳥羽伏見の戦に敗れ江戸に戻った。その後、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。その途中、思い出の多い上石原の西光寺境内で休息し、歓待を受けた後、大勢の村人に見送られて出立したという。しかし、戦況利あらず、勝沼での戦に敗れ、後に捕らえられて板橋の刑場で処刑された。35歳だったという。伏目がちに座した近藤勇は、何を考えているのだろうか。
西光寺は、1879年(明治12年)に火災に遭い多くを焼失したが、山門、仁王門などが昔のままに残っている。
なお、このお寺は京王線西調布駅のすぐ近くにあるが、この駅名も昔は「上石原」といっていた。(少なくとも昭和40年代までは)

★飛田給の東京スタジアム(AJINOMOTO STUDIUM) / 西武線の踏切を渡る旧甲州街道

さらに旧道をまっすぐ行くと、飛田給である。国道20号線沿いに東京スタジアムができ、この周辺も変わった。京王線飛田給駅を降りて、駅前の道をまっすぐに400mくらい歩き、立派な専用歩道橋で国道を渡れば、目の前に巨大な東京スタジアムがある。現在はFC東京のフランチャイズサッカー場になっているが、時折、人気歌手のコンサートなども開催される。夜の京王線新宿駅特急ホームが、思いがけない時間に大混雑していることがある。これは、SMAPなど人気グループのコンサート帰りの若者たちのことが多いようだ。こういうときは京王線の特急は飛田給駅に臨時停車する。
なおも旧道を進むと、西武多摩川線の踏切りがある。踏切からは白糸台駅が見える。

★常久の説明板 / 常久八幡神社

さらに旧道を歩くと、右側道路わきに「常久」と書いた立派な説明板が現れる。説明板によると、このあたりの甲州街道沿いには「常久(つねひさ)」という村落があり、地名の由来は人名によるようだ。すぐ脇の奥のほうに小さな常久八幡神社がある。
なお、初期の甲州街道は旧甲州街道のさらに南側を通っており、そちらのほうに「常久一里塚跡」の碑があるということで少し探してみたが、発見できなかった。これは日本橋から七里目の一里塚である。

★武蔵国府八幡宮参道入口 / 同 本殿

旧道は東府中駅前を通り、さらに行くと京王線の踏切を渡る。少し先に「武蔵国府八幡宮」と書いた大きな石柱と小さな石の鳥居が立っている。まっすぐに参道が延びており、かなり奥のほうに小さな本殿がある。この八幡宮は聖武天皇(724〜748)の頃、一国一社の八幡宮として創立されたというが、その本殿のあまりの質素さにちょっとびっくりする。

★大国魂神社表参道 / 同 神社入口 / 同 本殿











やがて旧道の道幅も広くなり、大きな建物が目につくようになると、京王線の府中駅が近い。旧道沿いに大きな「大国魂神社」の石柱が見え、大きな石の鳥居が建っている。前方にはケヤキ並木の広い表参道が続いているが、車が多いので情緒はない。
律令時代、武蔵国府をこの地に定めた。また、国司が巡拝すべき重要な六社を集めて祀り、武蔵総社または六所宮とした。祭主は国司が務めたという。大国魂神社と改名されたのは1885年(明治18年)になってからだ。
1667年(寛文7年)に改築された本殿は、都指定有形文化財。宝物殿にある木造狛犬一対は鎌倉時代のもので、運慶の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。


★高札場跡 / 大国魂神社御旅所

府中宿は日本橋から八里余り、内藤新宿からは六里余りという好位置にあり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋、木賃宿、飯盛旅籠の揃った宿場であった。また、近在の村々の人々が買出しや行楽に出かける盛り場としてもにぎわった。
大国魂神社の先、旧甲州街道が府中街道と交わる地点に高札場跡がある。現在は高札は掛かっていないが、屋根のついた立派な札掛けの遺構が残されており、都旧跡に指定されている。この場所は御旅場といわれ、大国魂神社例大祭のとき、神輿が移される(旅する)場所である。
なお、この例大祭は毎年5月に行われ、昔は「くらやみ祭り」として深夜に行われていたが、昭和30年ごろから深夜、暗闇の神輿渡御は危険だということで、昼間に変更されている。

★高安寺山門 / 同 本殿

高札場跡の少し先の左手に高安寺がある。足利尊氏が、安国利生の祈願所として暦応年間(1338〜42年)に建立した古刹である。また、ここは藤原秀郷が武蔵守であったときの館跡とも伝えられている。
境内には、山門のほか、本殿、利生殿、鐘楼、秀郷稲荷などがある。
高安寺の少し先で京王線の踏切を渡る。京王線はこの少し手前で大きく曲がり、甲州街道からは離れてゆく。この踏切からは京王線の分倍河原駅が見える。


★谷保天満宮参道入口の鳥居 / 同 本殿

京王線の踏切を過ぎてしばらく歩くと、旧道は国道20号線と合流する。これから先、八王子まではこの国道が旧甲州街道である。この合流点から約2Kmのところに谷保天満宮がある。
街道沿いに大きな鳥居が立っている。鳥居をくぐると境内は大きな木立に囲まれ、石段を下ると拝殿の前に出る。参道を下って拝むという珍しい形になったのは、初期の甲州街道は神社の南側を通っていたためだ。
天満宮は菅原道真がご神体のため、学問の神様としても有名で、絵馬掛けには合格祈願の絵馬であふれていた。中には念願がかないました、というお礼の絵馬もあった。

★元上谷保村の常夜灯 / 元青柳村の常夜灯

谷保天満宮を過ぎて国道を歩いてゆくと、道の脇に古い常夜灯が立っている。これは、元上保谷村の常夜灯で、1794年(寛政6年)に建てられたものである。
また、さらに500mくらい行った先にも同じような常夜灯が立っている。これは元青柳村の常夜灯で、こちらは1799年(寛政11年)に建てられている。
常夜灯は、江戸時代に村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜灯を各村の油屋付近に立てたもので、「秋葉灯」とも呼ばれていた。
なお、昭和初期くらいまでは、村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつ点す習慣があったということだ。

★日野橋 / 日野橋から見た多摩川

車の往来が激しい甲州街道(国道20号線)をさらにまっすぐ進むと、日野橋手前の五叉路に到達する。甲州街道はこれを左に直角に曲がる。
甲州街道は日野橋で多摩川を渡る。江戸時代にはもちろん橋はなく、渡し舟によっていた。渡し場のあった場所は洪水のためにたびたび変わったようだが、大体、現在の日野橋のあたりにあったらしい。
多摩川は相模川と並んで古来、鮎の本場であった。江戸時代には江戸市民に珍重されたので、鮎を担いだ若者は、暗いうちから甲州街道を東へつっ走っていった。内藤新宿に鮎問屋があり、そこまで朝早くに運ばなければならなかったのである。

★甲州街道を横切る多摩都市モノレール / 日野館

日野橋を渡って少し行くと、甲州街道の上をモノレールが走っている。多摩都市モノレールである。道の左側少し行ったところに甲州街道駅がある。
この少し先の日野本町あたりが日野宿の中心だった。道の左側に「日野館」という手打ちそば屋があるが、これはかつての名主だった佐藤邸である。大きな木組みの門を入ると立派な母屋が建っているが、これは1863年(文久3年)の建築である。昔はここに道場もあり、近藤勇が剣道を教えにきていた。当時の当主・佐藤彦五郎の妻は土方歳三の姉である。
お腹がすいていれば、中に入ってそばを食べながら内部の様子も見ることができたのだが、残念ながら昼食は済んでいたので、中を見学することはできなかった。

★JR日野駅手前に一部残っている旧甲州街道 / 地蔵堂(坂下地蔵)

現在の甲州街道(国道20号線)はJR中央線のガードをくぐり、日の駅前に出るが、その手前で分かれて左の日野坂へ向かう道が旧甲州街道である。この道の左側には宝泉寺がある。坂の上には地蔵堂が建っている。
この旧道はこの先で中央線の線路により遮断されてしまうので、少し先で階段を上り線路を越える必要がある。線路を越えてまっすぐ行くと大坂上通りにぶつかるが、これが旧甲州街道である。
旧道はすぐに国道と合流し、また、国道を歩くことになる。道の右側には日野自動車の本社、工場が長く続いている。

★浅川を渡る大和田橋 / 八王子市街の甲州街道

この先八王子まで見るべきものはないので、国道をせっせと歩く。やがて、浅川に差し掛かり、これを大和田橋で越える。この浅川も昔は夏、秋の間は徒歩(かち)越え、冬10月より翌春3月までは仮土橋にて通行したようである。
道は八王子市街に入り、京王八王子駅まで歩いて本日の行程を終了とする。


歩行距離  約22Km   万歩計 42,000歩