今日は朝からよい天気だ。甲州街道歩き旅もいよいよ今日が最終日となる。前回と同じ新宿発7時ちょうどのあずさ1号に飛び乗った。自由席は既に満席で、立っている人も多い。仕方ないので、私はデッキの壁に寄りかかって今日のコースの参考書に目を通すことにした。「今昔三道中独案内」(今井金吾著)である。専ら地図を読んで概略の道筋をを頭に入れた。結局、富士見駅まで2時間立ち通しだったが、あまり長い時間には感じなかった。


★国道20号線富士見交差点 / 旧道とぶつかるT字路 / 旧道風景(進行方向)











富士見駅を下りて進行方向に道なりに歩いてゆくと、国道20号線に出る。この国道を諏訪方面にしばらく歩いて左に曲がってゆけば旧道に出られるはずなのだが、私はここから少し戻って旧道に出ることにした。前回、時間が気になって蔦木宿から先の旧道をほとんど歩いていないからである。国道から斜めに分かれてゆく戻り道は、結構急な坂道でやがてゆるく下ってゆく。ずっと一本道で、しばらく歩いたところでT字路になる。おそらくこれが旧道だと思い、この道を少し戻る事にした。

★木の間(このま)集落の藁葺きの民家 / 木の間観音堂 / 旧道風景











戻り道を少し行くと、火の見櫓と藁葺きの民家が見えた。この辺は木の間集落だ。例の参考書の地図ではこの辺は点線(旧道がない)になっており何の記述もないので、純正の甲州街道旧道かどうかは分からないが、なんといってもこれは旧道である。先ほどの民家の少し先に木の間観音堂というのが建っていた。説明板によると、古代には木之間から入笠山の麓を通って伊那方面に通じる古道があり、旅人たちの往来も相当多かったといわれる。その頃大尾根の八合目ほどのところに観音堂があり、旅人たちの憩いの場になっていた。その後、時代の推移とともに古道を通る人も少なくなり、1514年(天文14年)に現在の地に再建されたという。
旧道はこの後もしばらく続き、やがて広い道路と合流する。私は、この地点で元きた道を引き返すことにした。ここが、今日のスタート地点となる。

★富士見公園 / 伊藤左千夫歌碑 / 島木赤彦歌碑











原の茶屋バス停前に、富士見公園への入口がある。ここは、富士山や八ヶ岳を望むことのできる景勝の地だったというが、現在は木々や建物に遮られて何も見えない。明治30年代伊藤左千夫、島木赤彦らによる短歌会がこの地でしばしば開かれた。左千夫はこの地を愛し、その推奨を受けて富士見村では新しい公園つくりを行い、明治44年に完成したという。現在、ここには伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの歌碑が建っている。いずれも万葉仮名で書かれており、脇の説明板で読むことができる。
伊藤左千夫: さびしさのきわみにたえてあめつちに よするいのちをつくづくおもふ
島木赤彦:  みずうみのこほりはとけてなをさむし みかづきのかげなみにうつろふ

★明治天皇小休止跡碑 / 碑付近の旧道の様子

富士見公園を出て、少し戻ると交差している細い道がある。これが地図に載っている甲州街道旧道である。これを右に曲がるとすぐのところに、明治天皇小休止跡の碑が建っている。そのすぐそばに標高をあらわす表示板が立つている。この辺の標高は961mである。富士見公園の標高は965mだった。家並みが続いているのでとてもそんな高所とは感じない。これから先は、地図どおりの旧道を進むことになる。やはり地図どおりのほうが安心だ。

★旧道から入笠山方面を望む / 国道に合流する手前の旧道から神戸(ごうど)方面を望む

旧道を進むと視界が開け、南側に山並みが見えてくる。この方面に入笠山があるはずだがどれだろう。道路わきで農作業をしている人に聞いてみたら、手前に富士パノラマスキー場があって、その後に少し頭を出している山がそうだと教えてくれた。若い頃一度登ったはずだが、まったく覚えていない。朝、富士見駅で山登りの格好をした5、6人の中年のグループが降りたが、山の近くまではおそらくタクシーで行くのだろうな。
旧道はやがて下り道になり、国道に合流する。この辺りは御射山神戸(みさやまごうど)集落だ。

★御射山神戸(みさやまごうど)信号付近 / 旧道が国道と分かれてゆく地点 / 分岐点の馬頭観音碑










神戸(ごうど)集落には国道沿いに古い建物もいくらか残っており、はずれには小さな神戸八幡神社が建っている。その少し先で旧道は左にゆるく分かれてゆく。分岐点には馬頭観音碑が立っている。

★御射山神戸の一里塚・西塚(ケヤキ) / 同 東塚(エノキ)














旧道のゆるい坂を登ってゆくと、前方に巨木が見えてくる。これが御射山神戸の一里塚である。西塚(左側)と東塚(右側)の両方とも残っている。西塚のケヤキは慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ380年を数える。現在、幹の太さが周囲6.9m、高さは約25mの巨木となり、長い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなおさかんである。東塚のエノキは明治の初期に枯れてしまい、現在のものはその後に植えられたものである。甲州街道でこのような一里塚が往時のままに残されている例は他になく、非常に貴重な存在である。東海道、中山道でもこれだけのものはそうざらにはない。少々興奮して写真を何枚も撮った。

★金沢宿中心部(金沢信号付近) / 金沢宿の連子格子のある家  /  同











旧道はやがて国道と合流する。金沢宿はこの国道沿いに続いている。金沢信号辺りで道はゆるく右にカーブしているが、この辺りが金沢宿の中心だったらしい。連子格子のある家がいくつかあって、往時の宿場の様子をとどめている。写真の家は、かつての旅籠屋のようだ。本陣跡には、明治天皇金沢行在所跡の碑が建っているらしいが見落とした。


★権現の森と石祠 / 同所の石造物

金沢宿を出てしばらくすると、小さな神社の森が見えてきた。休むのにちょうどよいところなので、ここで昼食をとることにした。12:40頃だった。食べ終わってからよく見ると、説明板が立っている。ここは、茅野市指定の史跡で「権現の森」という。説明板によると、「江戸から甲府までの甲州道中が下諏訪まで延長されたのは1610年(慶長15年)頃である。その頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、度重なる洪水や大火(1650年)を機に現在の金沢宿の地に移転し、名前も改めた・・・」とある。この森の奥には、1654年に建てられたという石祠があり、その周囲にはその後に建てられた20数基の石造物が祀られている。


★矢の口辺りの甲州街道 / 旧道の分岐点(ここから茅野市街地に入ってゆく)

権現の森を後に、国道を進む。参考書では旧道も載っているのだが、分断個所があって取り付きがよく分からないので、旧道が茅野市街地に入ってゆく分岐点まで約5Kmは国道を歩くことにする。国道沿いにも年代を感じさせる建物や、道祖神を始めとする古い石造物もみられ、都市周辺の味気ない国道歩きとは違う。次第に中央線の線路が近づき、時折、電車も見えるようになる。


★明治天皇御小休所跡 / 茅野駅前の甲州街道旧道

旧道に入って少し行ったところに、明治天皇御小休所跡の碑と説明板が立っている。天皇は、明治13年6月23日午後2時過ぎにここ五味邸にお着きになり、約1時間お休みになったという。お供には、伏見宮、三条実美、伊藤博文などのほか関係官僚や警護の者まで加えると、その数三百人とも、五百人とも伝えられている。街道筋にはあちこちに明治天皇の行幸記念碑が立っているが、いずれも実際にはそれくらいの人数が一緒について回っていたのだなあ。
この旧道は茅野駅前を通り、再び国道に合流する。


★道路脇の道祖神と庚申塔(4本の御柱が立っている) / 国道と旧道の分岐点 

国道は、やがて諏訪市四賀に入る。国道脇に道祖神と庚申塔が並んで建っていたが、その周りに小さいながらも4本の御柱が立てられていたのには、さすが諏訪だと感心した。
国道はあまり長くは続かず、やがて旧道は右に分かれてゆく。ここで、今回のコースではじめて中央線の線路を渡る。道は大きく左にカーブし、しばらく続いたのち再び国道に合流する。この国道もそれほど長くは続かず、元町信号のところで旧道は右に分かれてゆく。この後、下諏訪で中山道と合流するまでの間、再び国道と一緒になることはない。


★上諏訪宿・銘酒「真澄」酒造 / 連子格子の見事な家

元町信号で国道と分かれた旧道は、上諏訪宿中心部に入ってゆく。もっとも、参考書によると本陣跡は国道沿いになっているので、この辺は道は二手に分かれていたようだ。いずれにせよ、こちらの道(裏道?)沿いには連子格子の古い立派な家がいくつかあり、かつての宿場情緒を感じさせてくれる。銘酒「真澄」の看板のある店があったが、そのまま通り過ぎてしまった。ちょっと覗いてみればよかった。その先に立派な連子格子の二階建ての家があったが、昔の旅籠屋だろうか。

★上諏訪から下諏訪に向かう旧道の様子 / 旧道沿いの連子格子のある立派な建物

旧道は次第に上り坂になる。普通の住宅の続く道だが、何となく風情がある。やがて家並みの間から諏訪湖がちらちらと見え始めるが、なかなか全貌をあらわしてくれない。しばらく歩くと、左手に連子格子のある立派な二階家が見えてくる。明治時代の建物で、以前は鯉専門の料亭だったという。脇の立派な門は、高島城三の丸の門を移築したものだという。

夕日に輝く諏訪湖 / 甲州街道最後の一里塚

少し先で、ようやく諏訪湖を望める場所に出た。夕日をあびて湖面がきらきら輝いている。下には国道と中央線が並行して走っている。さらに少し歩くと、右側に一里塚跡碑がある。この塚は江戸から53番目のもので、甲州街道最後のものである。あと十一町(1.1Km)で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。昔の旅人もこの一里塚を見てほっとしたことだろう。私も、ようやく先が見えてホッとした。ゴールまであと一息だ。

★諏訪大社下社前を通る甲州街道旧道 / 中山道との合流点 / 「甲州道中・中山道合流の地」碑












道はだんだんと下りになり、何となく見覚えのあるところに出たなと思ったら、そこは諏訪大社下社の前だった。心の準備ができていないうちにいきなり着いてしまったので、少々どぎまぎしてしまった。ひとまずそこは通過して、中山道との合流点に急ぐ。懐かしい中山道が見えてきた。合流点についたのは16:40だった。少々薄暗くなり、旅館の玄関口には灯がともされているが、前に見た風景と変わらない。とうとう、私の甲州街道歩き旅もゴールの中山道合流点に到達したのだ。やったね!!このあと、大社本殿にお参りし、旅の無事を感謝しつつ諏訪の地を後にした。


甲州街道歩き旅  完

第10日目 (2004年10月23日 土曜日)  富士見駅〜金沢〜上諏訪〜下諏訪・中山道合流点

歩行距離 約 25Km   万歩計 48000歩


★道路脇の大きな「南無阿弥陀仏」の碑 / 旧道から眺める八ヶ岳の全貌












元の道を引き返してまっすぐに行く。ほぼ道なりに行くと、やがて畑が広がる見晴らしのよい場所に出る。大きな木の下に「南無阿弥陀仏」の大きな石碑があり、後方には八ヶ岳連峰がくっきりとその全貌をあらわしている。こんな山並みを眺めながら歩けるなんて最高だ。八ヶ岳も昔登ったことがあるが、そんなことも思い出しながら、ルンルン気分で歩きつづける。この道をもう少し行き、広い道を右に曲がると富士見公園に出る。この辺りは昔から原の茶屋と呼ばれていた場所で、現在もバス停名は「原の茶屋」である。