甲州街道のこと 2

私は池波正太郎の「鬼平犯科帳」が好きで、通勤の電車の中などでよく読みました。このお話の中には、東海道や中山道のことがよく出てきます。特に東海道は主人公の長谷川平蔵その人が東海道を京都まで往復する件もあり、道中や宿場の様子などもよく描写されています。また、中山道も上州の盗人の話とかでよく出てきます。これにひきかえ、甲州街道の話は思い浮かびません。やはり、東海道、中山道というのは人の動きも多く、盗人の行動なども途中の宿場では覆い隠されてしまうような雑多さがあったのでしょう。甲州街道には、道中にそれほどの賑わい、雑多さがなかったように思います。

最近、司馬遼太郎の「街道を行く1 甲州街道ほか」を読みました。作家の目が甲州街道をどのように捉えるだろうかということに興味を持ったからです。この中から徳川家康が江戸に入府する前の武蔵国の様子、甲州街道と八王子千人同心の成り立ちなどの話を紹介しましょう。


江戸時代以前の武蔵国の様子

武蔵国でよく知られているのは太田道灌のことで、この室町期の武人がはじめて江戸という漁村に小さな城を築きました。それから400年以上さかのぼった11世紀のころの武蔵国の情景は、「更級日記」で想像できます。作者が父に連れられて少女の頃この国を過ぎたとき(1020年)の様子は、「・・・それほどに葦や荻がたかだかと茂っていて、弓を持ち馬に乗った人に出会っても、振り返ればもう草の向こうに消えているというぐあいである。」というものでした。

そのような武蔵国について、司馬遼太郎は次のように記しています。
「多摩川などの大河の流域以外には、長い間米作地帯は広がらず、あたりは荒蕪の地であり、とくに後の江戸の海岸付近は低地で水がよどみ、稲作には適せず、平安中期までは『更級日記』の作者が見たような情景であったろう。同じ武蔵でも、山を東に背負って細流の流れ込む八王子付近のほうが上代の農耕に適していたらしく、どうやら甲州街道沿いが武蔵の農耕地域の中心であったことはほぼまちがいあるまい。律令制による武蔵国の国府も、江戸村にはなく、ずっと西のいまの府中市にあり、国分寺もそのあたりにあった。武蔵国は、まず西部地方からひらけた。こんにちの東京都の状態とは逆である」

戦国のころ、関東は小田原の北条氏の勢力圏で、当時、関東平野には北条の系列に属する小豪族が点在し、それぞれ小城を構えていました。秀吉が家康に「あなたに関東をさし上げよう」といったのは天正18年、小田原征伐もそろそろ大詰めという時期でした。秀吉はすでに天下を統一していたが、なお独立勢力として小田原北条氏が残っていました。
当時、八王子には北条氏照の八王子城という有力な城がありましたが、上杉景勝、前田利家の軍との間に激烈な戦いがあり、落城しました。同じ年の7月には小田原城も落城し、家康は江戸に入りました。


「八王子千人同心」のなりたち

「八王子の城下が戦火で灰になったあと、いったん逃げ散った城下の商人たちが、新しい市場の地をもとめていまの八王子に移り、市を立てた。その賑わいを求めて北条の落武者どもも集まってきた。家康は関東に入ってから身代が大きくなったため、新規に人を召しかかえねばならない。彼等を放逐して治安を悪くするより、むしろ召しかかえて徳川家臣団の中に組み入れてしまうほうが一挙両得であるとおもったにちがいない。『落穂集』によると、『家康公が御入国のとき、武州八王子にて新に500人ばかり召しかかえられた』とある。
『千人同心』といわれる特殊な徳川家臣団は、このようにしてできた。家康はかれらを甲州街道の西端のおさえとして八王子に住まわせ、甲斐や相模に抜ける小仏峠の防衛にあたらせた。それを支配するために、徳川家臣団の中での甲州侍(武田家の旧臣)を組頭にした。
同心だから、要するに足軽身分で、三十俵二人扶持という食えそうもない扶持だったが、農地をひらいて屯田兵の形勢をとったから、それでも凌げたのだろう」

司馬遼太郎 「街道をゆく1 甲州街道 長州路ほか」(朝日文庫 朝日新聞社 1978年10月20日第1刷発行、2004年6月20日第36刷発行)より



甲州街道についての私の雑感

武蔵国における甲州街道、殊に八王子周辺の占める役割。江戸幕府、家康における甲州街道の扱いなど、司馬遼太郎の「街道をゆく」により眼が開かれたような気がします。また、「幡ヶ谷郷土誌」などにより甲州街道の昔の姿をより身近に感じることが出来ました。

明治時代に開通した甲武鉄道(現在のJR中央線)の一直線の線路の引き方を見ても当時の武蔵野の様子がうかがえます。江戸時代の人々にとって甲州街道は、メインの道であった事は確かです。しかし、この道の大きな役割は物資の運搬路であり、一般の人々が、旅の楽しさを求めて通る道ではなかったように思います。

私が中山道を歩き始めたとき、京都へ行くのに何でこんな方向に行くのだろうと思ったものでした。甲州街道があるのに何で遠回りの中山道を通るのだろうかと思ったのです。その後考えるに、庶民の旅は目的地に着くためだけでなく、途中の楽しさを求めることも多かった。途中の風物もそうだが、宿泊場所でのくつろぎ、楽しさも大きな比重を占めていたと思います。この点甲州街道はやや寂しかったのではないか。東海道、中山道には官道の時代からの長い歴史があり、旅人をもてなすノウハウが蓄積されていた。しかし、甲州街道にはそのような蓄積がなく、実用一点張りの道路になった。幕府の道路政策もあったかもしれません。その結果、旅の楽しさを求める旅人は他の街道を行ったのでしょう。

國學院大学の樋口清之先生の研究によると、甲州街道では街道に面した家屋は道路側に表口を設けない傾向があったといいます。幡ヶ谷地区でもほとんどの家では街道側に背を向けて建てられていたと「幡ヶ谷郷土誌」にもありました。編者は「それだけ街道から受ける利益が少なかったのだろう」と述べています。
そういえば、昔の甲州街道宿場には、布田五宿をはじめとして合宿が多かった。宿場には人馬の継立てという大きな役割がありますが、地元にとっては大きな負担だったので、出来るだけ皆で分担しようという発想です。甲州街道で特に合宿が多かったのはなぜでしょうか。私には、先ほどの「街道から受ける利益が少ない」ということが根底にあるのではないかと思えるのですが。

昔の江戸市街は四谷大木戸まででした。夜になるとこの大木戸は閉められたといいます。その後、江戸の膨張により内藤新宿が開かれましたが、それから先は農村で、江戸のうちとはみられませんでした。一般通俗的に甲州街道の起点が四谷大木戸だと考えられていたのは当時の街道を利用している人から見れば普通の感覚だったかもしれません。遠くから物資を運んだり、所用で新宿、四谷あたりまで行く村人は多くても、それから先、日本橋辺りまで行く人は少なかったのではないでしょうか。また、季節的には富士講などの団体旅行はあったかもしれませんが、日本橋を朝立ちして甲州街道の旅に出るという人も少なかったのではないか。甲州街道は、物資運搬路、いざというときの将軍家の逃げ道、そして何よりも沿道村人の生活道であったということを感じます。

以上、私が甲州街道について感じていることを記してみました。まだまだ調べてみたいことなどもありますが、ひとまずこの辺で筆をおくことにします。

今年(2005年)は、奥の細道を歩き始めようと思っています。芭蕉の旅のあとをたどって大垣まで、2年くらいかけて歩こうと思っています。


                   2005年1月19日    尺取虫  記