ラヴさんの墨絵      松岡和子

この文章は、1999年7月、東京福音会センターでの「墨絵によるキリストの受難」展のプログラムのために書かれたものです。

 『パッション(受難)』という総タイトル、個々の作品に付された「ゲッセマネの園」とか「ユダの接吻」といったタイトル――その故に、一点一点からすぐさま連想されるのは、当然ながら新約聖書の福音書に書かれたイエス・キリストの磔刑前後の逸話である。
 そういった物語そのものに、人の心を動かす力があるのは言うまでもない。だが、『主イエス・キリストの受難』の諸作品を見て胸を衝かれるのは、もちろんそれだけが因ではない。
 筆の力と言うべきか、また、その筆をうごかす精神の力と言うべきか。そして、ダイナミックな造形力。
 私は墨絵の技法に明るいわけではない。それでも、筆に墨を含ませてひと息で描くことがこの技法の核心だということは予想できる。たとえば「神殿の垂れ幕が二つに裂けた」。濃い墨色から、地の紙の白に融けてゆく淡い灰色までの微妙な濃淡に、画家の「息」と息の「勢い」が感じ取れる。
 いま私は、このシリーズ作品を初めて見たときのことを思い出している。嵩康子さんが「ラヴさんね、こんな絵も描いてたのよ」と言って、一葉一葉をいとおしむように目の前に広げてくれた。
 すぐあとで「最後の晩餐を立ち去るユダ」というタイトルだと知る作品にはとりわけ息を呑んだ。悪い雲が西に向かって、風と化して逃げてゆく――そう思った。作品名を知ってなおさら胸を衝かれた。キリストを裏切ったユダの心の動きと体の動きが、鮮やかに抽象化され造形化されている。

最後の晩餐を立ち去るユダ

鶏が二度鳴いた


 「鶏が二度鳴いた」もそうだ。
 これはイエスが逮捕される前の晩から夜明けにかけての逸話がもとになっている。
 弟子たちにむかって「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」と言ったイエスに対し、ペテロは「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」と言う。するとイエスは「きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」と答える。
 ユダの接吻を合図に、イエスは群集に捉えられるのだが、そのあとでペテロは「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」ということを三度にわたって言われる。そして、三度とも知らぬ存ぜぬを決め込むのだ。すると、にわとりが二度鳴く。ペテロはイエスの言葉を思い出して悲嘆に暮れる。
 この逸話は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の使徒の福音書すべてに書かれているのだが、なぜか「にわとりが二度鳴く前に」とイエスが言い、実際ににわとりが「二度」鳴いたと記してあるのは「マルコによる福音書」だけで、あとの三人は度数については何も語っていない。このこと自体がミステリアスだし、ラヴさんがなぜ「二度」と記した「マルコによる福音書」を選んだのかも本人に訊いてみたいところだ。
 それはともあれ、この一点を見ただけでも『主イエス・キリストの受難』が、福音書の単なる絵解きでないことがよく分かるはずだ。イエスの言葉の重み、それを思い出すペテロの悔恨、画面を斜めに切るようにしたたる墨のしずく――逸話の抽象化、造形化そのものと言ってよかろう。
 写真や不定形キャンバスのアブストラクトなど、私はラヴさんの多くの作品を見て来た。そのラヴさんが墨絵という東洋の伝統絵画の様式を採ったと聞いて、最初は意外に思ったが、イエズス会神父としての精神の旅とアーティストとしてのそれとが見事に融合したものとして、この『キリストの受難』はジョセフ・ラヴの代表作だと思う。


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