「夜を泳ぐ」(1)

 平太郎の家は、漁村のはずれのこんもりしたふたつの山のあいだにうずくまっていました。山から見おろす丸い湾は、漁船がはいってきてロープを投げ、岸にひきあげられるのにちょうどいいくらいの大きさでした。白と赤と緑の縞にぬった平太郎のお父さんの船も、もやっていました。平太郎は、おない年くらいの友だちとそこでかくれんぼをするのが好きでした。船の中、投網の下、そして、横腹を熱く照りつける太陽にさらしてずらっと並んでいる船と船のあいだなどにかくれるのです。
 11歳になった誕生日の晩、平太郎は床にはいってじっと待っていました。家じゅうがしんと静まりかえり、聞こえるものといえば裏庭のコオロギと裏手の小川に住んでいるカエルの鳴き声だけです。山の上に広がる空は黒みがかった紺色で、二日まえに庭に落ちていたカラスの尾羽根の色のようでした。けれども、空がそれほど暗くないのはいうまでもありません。青白い星がちかちかまたたいているからです。

 平太郎は真夜中にはっと目をさまし、木綿の寝巻きのひもをきつくしめ、畳の上に立ちました。カエルはその気配を感じたのか、突然鳴きやみました。もう夜の空気をさわがす音はなにひとつしません。外に出なくちゃ、どこかへいくんだから、と平太郎は思いました。でも、どこへいくのかはわかりませんでした。
台所の戸をあけて裏庭に出ます。平太郎はゴムぞうりをはくのも忘れていました。小川にそってすこし歩くと、小さな木の橋があります。それを渡ると、目のまえにくすんだ緑の山がそそり立っており、くずれかけたコンクリートの階段が山の腹にしがみつくように上の道まで続いています。階段の右がわは広い段々畑で、ヤマイモだのダイコンだのゾウの耳のような葉っぱをつけたサトウキビだのが行儀よく植わっていて、その葉っぱが石塀の上からのぞいています。
 平太郎はいつもなら、午後のお陽さまを見あげながら仲間といっしょに階段をのぼるのです。だれがいちばんさきに階段のてっぺんにつくか競争です。みんなが上の道に出るころには、平太郎は汗だくで、息を切らせています。何百段もあるような気がするのです。けれどもいま平太郎は、らくらくと階段をのぼっています。足だってコンクリートについているかいないかわからないくらいです。爪さきがちょっとふれるとぴょんと跳びあがるような感じです。しかもものすごい速さなので、白い寝巻きのすそは大きな鳥の尾羽根のようにうしろになびいています。