archives


内側からのながめ  (トランソニック 1974年10月号) 松岡和子訳
A View from the Inside--The Space of American Sixties Abstraction

氈@20世紀の空間

ヨーロッパ絵画の進展の跡をたどり20世紀に入ると,ルネサンス期に確立された二次元的および三次元的な空間解釈のバランスが,次第に崩れていくのが分かる。15世紀には,マサッチオとピエロ・デッラ・フランチェスカが徐々にコンポジションを二重にしていく。その結果マサッチオの壁画『貢の銭』については,私たちは作品の表面を見ると同時に,十二使徒たちを通して循環的にその奥行きを読み,絵画的な要素のバランスを作り上げるのだ。彼は,奥行きを感じさせるような人物配置をし,同時に表面上の配置も整えるという具合に,二重の仕方で幾何学的な形態をこの画面全体に賦している。レオナルドは『岩窟の聖母』の中でこの種の二重性を打破しており,これでもかこれでもかというほどに奥行きを出しているため,見る者はこれが本来は平らな面に描かれているという事実をつい忘れてしまいそうになる。

この二つの例に較べると,セザンヌの作品はまるで浅浮き彫りのように見える。彼の後期の作品では奥行きを感じさせるものはすべてシンボルとして現れてくる。というのも個々の面がその前面性を強調し,彼の<パッサージュ>によって象徴的な空間の中で他の面につなぎ合わされるからだ---彼のパッサージュとは,要するに見る者の眼を画面のそこここへと導く彩度と明度の変化で,ほとんど常に次元が二重になった経路を通る。

キュビスムは,20世紀に至るまで絵画にとってごく当たり前で日常的なものになっていたイリュージョンとしての空間演出を否定したが,キュビスムもまたそれ自体のイリュージョンを築き上げたのだ。イタリア・ルネサンスがわれわれにさし出す鋳造的彫刻的な空間に代わって,キュビスムは固体を断片にして見せ,実在するものの表面の漂うかけらを示す。これらは多分数々の視点から探られたものだが,それにも増して,全体を部分で表現するという,詩の分野ではおなじみの比喩と見た方がよい。この種の絵画言語は,空間を相対化する,同時にその一方で,異質の物体を共存させる秩序ある宇宙としての空間,という限定的線的な西洋の空間概念を維持してもいる。たとえ1911年から1913年にかけての分析的キュビスムにおいては,空間と物体との間の区別があいまいになり,矛盾は避けられないとしても・・・。

抽象表現主義の多くは物体と空間との間のこのあいまいさと矛盾に基づいている。とり分けキュビスム的な回路の上に築き上げられ,ウィレム・デクーニングの仕事に端を発するアクション・ペインティングにおいてはそうである。ところが20世紀初頭のもうひとつの伝統は,形態を断片化するというこのキュビスムの傾向と並行して進み,60年代アメリカの美術,特に<ミニマル>と呼ばれる種類の絵画・彫刻に遙かに大きな影響を及ぼすのだ。この可能性はまず印象派の画家たちによって探求された(少なくともルノワール,モネ,ピサロによって,そして後にはスーラによって一層科学的に・・・)。彼らは純粋に視覚がとらえた比喩として光と色の網をカンヴァスの上に張りめぐらす。それによって,空間と固体との境界を取り払ったのだ。色光の粒子ひとつひとつが,平面であると同時に個々の奥行きをもつものとして解釈できる。全般的に言えば,彼らが張りめぐらした網は,透明で計測できない空間だと解釈され,従って彼らはマサッチオに始まって現代に向かっていた道を逆にたどり,絵画とは本来平面であるという,そして奥行の要素をも含むジォット的な解釈に向かったと言える。もっとも,ジォットが画面の一方から他方,強い方向性をこめて作り上げた,厳密に画面に添った演出ではないが・・・,彼らの仕事においては,微光に包まれたような画面全体の感じと筆使いの細やかさがすべてを支配し,方向といえば,筆のタッチの方向によって形造られる副次的なものがあるにすぎない。ヴァン・ゴッホはこの筆のタッチという要素を粗暴な論理的結論にまでもっていった。しばしばフォルムをも空間解釈をも圧倒してしまうほど激しくそして絵具の盛り上がったタッチによって行ったのだ。
ルネサンス的な<穴>のない,この種の全画面的な空間構成の必然的な結果は,たとえばホアン・ミロのようなシュールレアリストたちの仕事の中に見つけ出せる。ミロにとって空間とは,単に物体の不在ではなく,計測できない実体であり,これはその空間の中に棲むあの空想的な物体と同じくらい<リアル>なのだ。個を跳び越えて心理的集合的意識に到達しようという20世紀の造形美術における最初の試みは,空間が視覚的であるというよりはむしろ聴覚的な一種の全体世界の中で見つけ出さねばならなかった。この種の空間は,60年代の絵画および彫刻を理解するうえで非常に大切なので,本論に入る前にまず掘り下げてみなくてはならない。

 聴覚的空間と認識の構造

先に述べたような空間概念を最もはっきり説明するものは,現代美術の分析よりも,エドマンド・カーペンターによるエスキモー民芸の分析の中に見出せる。彼のエッセー『北極の芸術におけるイメージ作り』の中で,彼は次のように書いている・・・

「読み書きの能力が<中景>というものを創り出した。これは,観察者を観察の対象から切り離し,行為者を行為から切り離す。そして単一のパースペークティヴ,固定した観察,調子の単一性へと導き,美術上の三次元的パースペークティヴに相当するものを詩や音楽の中に導入する。個人主義という西洋的な考え方を芸術として表現したものすべてを導入するのは言うまでもなく,あらゆる要素は今や,ある特定の時点における個人の独特な視点に関係してくる。」
彼が述べているのは,エスキモーの世界認識や芸術品制作の中には,われわれが持っている約束事が欠けているということだ。まず,垂直性というものがないため,たとえば写真などでも,横向きだろうが上下逆さであろうが抵抗なく見ることができるという。また事物を自分の世界の中で背景なしに,一種のマルチブルなパースペークティヴで見もする。空間を視覚的にではなく,聴覚的に構築するのだ。
「音の基本的な特徴は,音が空間のどこかに位置づけられるものではなく,存在するだけで空間を満たすものだという点にある・・・。聴覚的空間には,特にここと決めた焦点はない。きちんと引いた境界線などもまったくないひとつの範囲であり,物を包み込む空間ではなく,音そのものによって作られる空間なのだ。閉じられた絵画的空間とは違って,ダイナミックな,絶えず流動しては時々刻々それ自体の次元を創造している空間である。眼はひとつひとつの物を物理的空間の中に位置づけながら,背景を置いて焦点や目標を定め,抽象する。ところが耳は,どの方向から来る音でも受けいれる。」

このような認識は,スキタイ美術から現代のエスキモーにいたるまで,北方においてはごくあたり前のものだし,また,西洋の空間の歴史はこれとまったく異質だとはいえ,非ユークリッド的空間概念は,ミロの芸術が示唆するものや,60年代の<クール>な芸術が追求しているものに驚くほど近い。現代の色彩もまたこのような概念に近づいてきており,主としてマティスが発見したものが源になっているようだ。マティスの色彩の拡がりは,フォルムとフォルムの限界から外へ外へと息づき,絵を見ている者の方へと,またカンヴァス面に添って他の色の質に影響を及ぼしながら拡がる・・・光の中の拡がりそのものの色。
ミニマル・アートは主として認識の構造と世界の客観化にかかわってきた。(私は,立体派キュビズムを語ったのと同じ意図でミニマルという言葉を使う・・・つまり,立体派という運動は立体には何の関係もないのだが,その名がばかばかしいにもかかわらず,少なくとも,この運動がはっきり言葉にして説明していないことを暗黙のうちに示してはいるのだ。最小限ミニマルという用語も同じようにばかばかしいが,少なくともある特定の芸術作品を示しはする。だから私もあえてこの言葉を変えようとは思わない。)エスキモーとイタリア・ルネサンスの空間認識の違いの中に見たとおり,知覚認識というものは,ある伝統によって準備された知的な行為なのだ。従って,批評家アミー・ゴールディングが言うように,「特に芸術を知覚するということに関しては,適切な反応は<目で見た>ものを物理的に報告するよりは,言葉で<わかった>という方に近い。」
従って,見るという物理的事実の意味なり内容なりを主として決定するのは,その人の現実に対する概念と,その現実を何らかの形で表現している芸術に対する概念だと言える。
さてそこで,数多くのミニマル・アーティストとコンセプチュアル・アーティストの間に共通の概念があるわけだ。コンセプト・アーティストのメル・ボクナーは次のように書いている。
「ある物体,そして今の場合芸術作品,の全存在は外観に現れている。事物についてわれわれが知り得るすべては,それらの物がどのような外観を呈しているかというところからじかにひき出される。」
これを画家フランク・ステラの言葉と比較してみよう・・・
「私の絵は,目に見えるものだけがそこに在るという事実に基づいている。」
明らかに,事物と世界に対する私たちの知識は,まず第一に<在るもの>に対する実際上の認識に基づいている。あらゆることは結局,経験の事実から演繹されるのだ。だが,60年代70年代の多くの芸術家たちはそこで立ち止まりはせずに,ロブ=グリエのところまで進む。ロブ=グリエにとっては,私たちが知り得る全宇宙は,視覚的に認識された事物の表面であり,その表面の裏には何ひとつ隠されてはいない。今日の芸術作品には<内的意味>など一切ないと主張する者もいる。それらは外観以上のものは何ひとつ表さない。表面がすべてである。
近代心理学のせいで人々は表面に疑いを抱くようになり,その裏に入って<真に真なるもの>を見つけようとしたものだ・・・その結果,視覚的に認識された現実を極度にしりぞけようとする傾向が生まれた。そこで芸術家たちはこの哲学をくつがえそうとはかり視覚的に認識された現実,すなわち,表面,のために心理学的解釈をしりぞけた。従って,この意味で殆どの<ミニマル>な作品には<内面>がないと言える。たとえばロバート・モリスの一層単純な作品のように,ミニマルな作品は物として物理的に外側に表れており,極端に個別的だ・・・すなわち,観念に融合することはできず,そうできないだけに一層見る者にとまどいを感じさせる。ある者にとってはそれらは実に退屈だ。なぜなら,ゲシュタルトが非常に単純なため,ひとたびそれが把握されてしまうと,もうそれ以上その物に対して何ひとつ知り得なくなるからだ。(モリスの作品には,このことがそのまま当てはまる。というのも,彼自ら,すべての関係と秩序は,個別性と物理性のために犠牲にしなくてはならないと主張しているからだ。)メル・ボクナーはこの退屈さを,
「事物を神聖なものとしてではなく,あるがままの自律的で無関心なものとして見るよう強制されるために生じる結果」
という解釈を下している。

。 ミニマリストの世界観

従って,ここから極めて明確な世界観を推定することができる。とり分け20世紀後半の西洋で著しい見方だが,そこでは,ボクナーが言うように,
「すべての事物は等しく,別個で,無関係である。」
ミニマリストの彫刻家ドナルド・ジャッドは,これこそ彼自身の,そして最近活躍している他の多くの彫刻家たちの哲学的立場だとはっきり述べている。恐らくこれは実証主義的世界観の論理的な結果だろうが,その中では<実在する(リアル)>と言われる唯一の事物は,計測できるもの,また作用が計算できるものなのだ。このことは,芸術における実在と錯覚との間の今日的な差異の基盤になっている。物理的に計測し規定することができないような空間的関係は何であれ,錯覚だとみなされる。これは,アメリカの伝統的な人生観からすればひとつの道徳的判断なのだ。そこで,多くのミニマリストの芸術家にとって,人間やそれ以外の存在領域に対する象徴的な関係を暗示するもの一切は,頑強に抵抗すべき<人間射影モルフィズム>となるのだ。最悪の場合,これは,白人は全世界を何か死んでしまったものと見なしていると不平を言ったアメリカン・インディアンが批判した立場になる。また,SFに描かれる宇宙像にはっとするほど似通ってもいる・・・すなわち,貫き入れない表面をもち,その存在と活動については説明のつかない機械的に動く諸物体を内包している宇宙,である。
ミニマル・アートの進展に伴って,認識の意味内容が変化しただけでなく,まったく新しい態度が生まれてもきた。その態度とは,認識上の経験をある目的に達するための手段として受けいれるかわりに,その経験自体を目的にするというものだ。言うまでもなくこれは論理上必然的に,先に述べた説明のつかない態度から導かれるものだ。ある物体の外観の更に奥には探るべき内容などないとすれば,芸術作品を作る過程においては外観そのものがこれまでにも増して遙かに大きなウエイトを占めるようになる。<審美経験としての認識>をなるべく明瞭にまたトータルなものにするために,作家と見る者の両方が想像力によって築き上げねばならないとされる,部分を複雑に組み立てて全体にするという作業はもう見つからない。すみやかにゲシュタルトを知覚認識できるように,初めから全体が明瞭に呈示されているからだ。それがすめば,その特定の形についてはそれ以上突っこんだ知識など手に入らず,得られるものはただ,一存在としてのその物体のわれわれに対する関係,そしてそれを取り巻く空間なり部屋なりに対する関係だけなのだ。この意味で,その芸術作品によって築き上げられた秩序は実に単純で明白なので,無秩序や偶然などが有する意味をも組み込んでしまう。すなわち,全体が十分に明確であっても,その作品の拡散する部分部分はどんな分析の対象にもならず,たとえ核以上の構造が精密明瞭で予想可能である場合でも核以下の構造が不確定であるように,これもまた不確定なのだ。
そういった意味でこの芸術は,アラン・ロブ=グリエの小説『嫉妬』に似ている。この小説には,一軒の家の詳細な描写,その各部の寸法,そして壁のしみのディテールに至るまでが書き込まれ,しかもすべてに等しいウエイトが置かれているため,どのひとつを取っても他より重要だということがない・・・私たち自身が重要だと思うものを選び出すなら話は別だけれど,ストーリーは空虚で,極端なミニエリスムの上に基礎を置いて組み立てられている。すなわち,時間から抽出された要素をくり返す,あるいは,この小説の中では時間だけが構造のないあいまいな要素であり,出来事や事物を知覚認識する唯一の主観的要素だと言ってよかろう。ひねりにひねった探偵小説のように,実在するものを探し求めているうちに,完全に非現実の中に入りこんでしまう。イリュージョンを破壊しているうちに,新しい形のイリュージョンの中に陥ってしまうのだ。ある意味でこれは,私たちがミニマル・アートの単純さの中に見出す不明瞭さに似ている。これはあいまいさであって,不条理ではない。なぜなら,その意味は単にくじかれたり,<不条理な>逆説的なものだというのではなく,見る者が意味の確立に寄与するからだ。意味は常に芸術作品の外側にある何か,見る者か場か,あるいはその両者の関係の中に見出される。従って,絵画であれ彫刻であれ,ミニマル・アートの作品のフォルムは大層単純で,作品そのものには注意を引きつけず,一般的に,空間構成とかモデュラー概念とかいった形で表現される。芸術家や批評家の中には(たとえばアネット・マイケルスンやロバート・モリスのように)この構造主義を言語構造主義や人類学的構造主義に結びつける人々もいる。芸術家たちはクロード・レヴィ=ストロースの時間も文化も超越したアプローチを採用して,<歴史の獄屋>からのがれ,彼らの作品からすべての歴史的文化的連想を遠ざけたいと願っているように見える。そして<物体としての作品>を<純粋>に知覚認識できることを夢見ているようだ。この意味で言語は,伝達される意味とは別な,内的依存関係を持つ自立した統一体と見られ,同様に芸術作品は記号の造形的なシステムになるわけだ。イタリアの芸術哲学者パラツォッリの言葉によれば,物体なり形なりがごくかすかにであれ,それらが初めに空間内に占めていた位置からずれると,その物体や形はただちに,われわれの言語単位が会話の中で持っているシークエンスを示すという。この傾向は,すべての象徴的心理的な解釈をしりぞけるミニマル・アートにおける非表現的な一極端に現れている。そしてもし仮にそれらの作品が,記号の一システム(たとえば言語)のように組み立てられるとすれば,私たちが終局的に到達するのは,記号自体の域を出るものは何ひとつ意味しない記号,そこに記号として<ある>だけという記号なのだ。
この意味で,私たちにはエルズワーズ・ケリーの絵画の線の要素が抽象や象徴ではなく,物理的に実在するものだということが理解できる。なぜなら,彼の線は実在する形を取り囲み(その内部には,他のフォルムは何ひとつ描かれていない),その色は形に等しく,形の変化に応じて変わるほかは決して変化しないのだ。少なくともこのことは,彼の最近作にはそのまま当てはまる。従ってこのような状況下では,平らな平面に置かれた単位ユニットと解釈できる構造が作り上げられ,その構造は,全体を取り囲む(輪郭による)作品空間のひずみ以外,いかなる<解釈>にも私たちを導きはしない。これは作品の外部のイリュージョンであって,内部のそれではない。認識という構造化された行為は,こういったきわめて物理的で特定な作品にとってはもっとも重要なものである。
多くのミニマル・アーティストたちは,<反イリュージョン>的立場から空間にアプローチする。イリュージョンの空間は,ある作品内部の限られ閉じられた空間と見なされる。これは同じように限られ閉じられた世界・・・ギリシャ世界という幾何学化された世界・・・の空間性のイメージであり,このイメージは<外側から内へ>と構築される。ここで私たちは,このことが,先に述べた聴覚的空間の拡張する<内側から外へ>という概念といかにかけ離れているかに注意しなくてはならない。そこで,新しい空間概念は,ひとつの全体と働くならば,そのような概念は,ひとつの全体とみなされる芸術作品の中に場というものを導き入れる。
多くの芸術家たちが考えていることだが,像を作品の内部からそれを取り囲む空間へと外に導くためには,まず,その作品自体の限界内からイリュージョンの内部パースペクティヴの痕跡すべてを消し去らなくてはならないのだ。シンメトリーというものは恐らく,絵画から三次元的空間を取り除く最も自然な方法だろう。だから,フランク・ステラの例の縞模様の作品がこのプロセスの始まりだったというのは驚くにあたらない。初期の黒い絵画の中で,彼はカンヴァスの中央から絵を描きはじめ,縁に向かって外へと仕事を進めている。一定の割合できちんとくり返されるパターンを使いながら,彼は動くにつれて例のイリュージョンを外へ押しやることができたのだ。彼のアルミニウムの作品にも同じような規則的なパターンがでてくるが,これを称して彼は<何か磁場のようなもの>と言っている。これは外へ外へと動いている力で,作品そのものの内部は張力のかかった平坦な状態を保っている。ラリー・ブーンズも大体同じような仕事をしているが,彼の場合は,両面を格子構造で区切り,その格子に平均に円点を撒き散らす。そのため,その円点が私たち自身の空間に向かって来るような動きと同時に,表面に添って四方に拡がろうとする流れがある。
エルズワース・ケリーの場合,イリュージョンの空間を取り除こうというこの行為は,彼の最も単純な作品におけるフォルムと色との間の釣り合いによって達成される。彼は新たな色を導き入れる時はカンヴァスを別にする。従ってひとつのカンヴァスにはひとつの色しかない。こうして彼は前面性を維持することもできるのだ。ミニマル・アーティストの中には,壁に掛けられた作品は何であれ,特定の一点からある特別なイリュージョンの画面にアプローチするというルネサンスの概念を代表するものだと主張する人々もいる。このようなイリュージョンの画面は,私たちの空間,私たちの重力を奪い非物理化すると言うのだ。だからこそ彼らはすべての絵画やレリーフを排斥し,床の上に自由に置くオブジェを是とするのだ。ロバート・モリスはこういった作家のひとりで,恐らく最も急進的だろう。彼にとっては,物質とフォルムは互いに破壊しあうのだ。物質はもろもろの関係により,観念論により,主観性と秩序により行く手をはばまれる。そこで,彼は作品の中で,このフォルムのフラストレーションを取り払おうとますます努力を重ねる。(ところが,このような物質の強調にもかかわらず,彼自身の作品は,初期の鏡の箱から『雲』,空に漂う灰色に塗られたからっぽの箱,そしてのちのがらくたと鏡の任意のコンビネーションに至るまで,驚くほどの非物質化の表現になっている。)

「 物体と場所

ロバート・モリスが四囲の空間と場とを強調していることは,アラン・カブロウのルーム・アッサンブラージュと同じく明白である。しかし,四囲の環境を芸術作品の中に包含する,内側から外への成長は,形式主義の批評家マイケル・フライドが,われわれ自身の空間における現実の時間経過に関わっているからこれは<演劇>だ,と厳しく攻撃したものと共通の現実であるというのも事実だ。
フライドとは逆に私には,芸術作品と場を関連づけようという問題や,われわれ自身の特定の空間時間とパラメーターとはまったく異質なミクロコスモスとしての芸術作品を保持しようという問題は,基本的には20世紀の画家たちの問題であって,彫刻家の問題ではないように思えるのだ。私たちは長年にわたって,壁に掛かった(また時には反射するガラスの向こうの)絵をながめ,周囲の場のことは無視する修練を積んできたのだ。絵画の内部についても同様,枠にぴんと張ったカンヴァスをその場所にあるもうひとつの物体として,その平面の<物体性>を真から問題にした者はひとりもなかった。キュビスムからフォービスム以後の画家たちが,平面性へのアプローチとして真剣に絵画について考えてきたとはいえ,依然として三次元世界のエネルギーと,互いにオーヴァーラップし内から外へ向かう緊張感・運動感は,60年代まで一貫して画家たちにはごく当たり前の日常的な糧となっていた。そして60年代,フランク・ステラとケネス・ノーランドは試みに短期間,これとは逆に自分たちの作品を平面化するという仕事に取り組んだ。
マルセル・デュシャンの『大ガラス』でさえ,場を知覚認識するための手段とは見なされ得ず,むしろ,複雑に変化する彼の漂う物体オブジェのいわばコンテクストを作る手段,いや,ただ単に情報を提供するのに都合のいい体裁を整える手段と見なされる。『大ガラス』は普通縦にして見られるが,テーブルの上に横たえても同じく十分に理解できるだろう。デュシャンは,絵画においては伝統となっている画像と地との二次元性を受けいれているが,その二元のうちの片方,つまり他の方の範囲を拡大する。そのため私たちはなお一層画像の方に注意を集中せざるを得なくなる。
カブロウその他のハプニングはさておくとしても,現代彫刻がまずこの物体と場所という問題に近づき,そのあとから,イリュージョンの絵画では客観性も無名性も得られないと絶望し,<特殊な物体>に目を向ける画家たちが続いた。カール・アンドレは,現代彫刻の発展の歩みを次のように言い表している・・・
フォルムとしての彫刻
構造としての彫刻
場所としての彫刻
これは場に向かう動きをはっきりと示している。作品は全体の一面にすぎない。アンドレ自身の『レヴァー』は,壁に<取り付け>られ床に添って流れる砂色の耐火れんがの線だが,この作品はその部屋の次元を考慮に入れ,その場所に<取り付け>られており,場所を強調しその質を変化させる一助になっているのだ。トニー・スミスの屋外彫刻は,見る者がそのまわりを動くにつれて形を変えていくように見えるだけでなく,その周囲に見える自然全体に強く関わりを持ち,現実の風景への人間的補足物として見る者に自らを印象づけている。シルエットに対する彼の関心は(マッスの内部からも明らかなように),場とのこの関係をなお一層深いものにしている。マイケル・フライドは言っている,・・・
「もし何かある物が私と同じ部屋にあり,しかも到底それに気づかずにはいられないようなところに置かれていれば,その物は私の空間の中にあると言える。」
スミスのスケールは彼の強烈なシルエットと同様に,たしかに強い存在感を刻みつける。だからフライドならばこれを芸術作品とは呼ばずに,物体と呼ぶだろうし,フライドにとっては親交ではなく対決の気持ちが喚起されることだろう。
過去においては,スケールというものは,芸術作品の各部分間の内的相互関係に関わるほどは,実際の大きさに関わりはしなかった。ところが極端な単純さをもった<特殊な物体>と<非相関的>絵画・・・すなわち,トータルな芸術作品を作るために,ひとつひとつ関連づけ適合させるべきばらばらの部分がまったくないところ・・・の到来とともに,スケールの意義は,例の一定不変な等身大という大きさと,その物体との間の比較をするという機能になった。主体と客体の間に横たわる空間は,このような比較の中に包含されている。もし私たちが空間というものを,見る者が生きそして動く媒体だと考えるなら,それなら例の<主体と客体との間に横たわる空間>は非常な複雑さを帯びるようになる。なぜなら,それは距離によって作り上げられるだけでなく,特定な,そして,変化する性質をも持つようになるからだ。このことから発してフライドは,次のような不満を述べる・・・すなわち,あらゆるものが物体の経験の一部になるのだから,コントロールすることもできなければ尽きることもない。だが私たちがこれに同意するしないにかかわらず,空間と場所とのつながりはミニマリストの仕事においては重要な要素なのだ。不定形のカンヴァスを使った最近の絵画においてすら,見る者はますますその周囲を意識するようになっている。絵画がますます積極的に私たちの場所に向かって来,それが取って代わる場なり空間なりを活性化するからだ。
言うまでもなくこのことは,彫刻に対して一層よく当てはまる。ロバート・モリスが,自分の作品が空間に影響を及ぼし,空間を切り裂き,場所に対して多義的な関係を創り出すと感じるのも当然だ。しかもこの場所に対する不確かな関係は,<オブジェ>が創り出すようなものではなく,また,人間射影的に緊張と緩和とを創り出していた以前の彫刻家たちのやり方とも違うのだった。(たとえばスティーヴン・アントナキスのようなネオンを使う作家たちの作品は,空間に取って代わるという以上で,空間を外から喰いつくし,不思議にも中に吸い込んでしまうのだ。
カール・アンドレは自分の作品は建物よりむしろ道路に似ている,という言い方をし,更に付け加える・・・
「ある時期まで,私は物に刻みを入れていた。ところが突然,私が刻みを入れている物こそ刻みだということを悟った。物質に刻みをつけるよりむしろ,今私は物質を空間の中につけられた刻みとして利用している。」
彼はこれを1970年の東京ビエンナーレでも実行し,ねじ曲げた針金を床に敷きつめ,まるで森を抜ける汽車のようにわらの梱や丸太のラインを走らせ,本物の床の上に金属のカーペットで偽の床を付け足した。作品と場とのこのコンビネーションの中で,彼は最も目につきにくいレベルにある物体を示したかったのだ(建物よりもむしろ道路,というわけだ)。そして,そのような物体の独自性を否定しようとしたのである。そうなると物体は,それが取って代わった場なり空間なりに対して刺激剤として働く。これとほぼ同じような態度が,タル・ストリーターの『果てしない柱』とか『空に延びる線・・・凧』などの単純なリズムの中に見て取れる。これらの作品の中で,彼が空間を活性化している結果,物体はますます透明度を増し,この場合は空というトータルな場を非常に強く意識するようになる。アースワークもまた同様な効果をもたらす。砂漠に何本も引いたウォルター・デ・マリアの長い長い線にしろ,マイケル・ハイザーが砂漠に切り込んだ巨大な溝にしろそうである。ハイザーの場合,切り込む穴の長さとか相対的な位置などは,テーブルの上に二,三本のマッチを落として決める。皮肉なことに,仕上がったものと風景全体との釣り合いは,小さなマッチと大きなテーブルとのスケール関係に等しいのだ・・・無意味。
さてそこで,60年代半ば以降に産み出されてきた作品のタイプについて考えを重ね,また特にそれらが場に対してどれほど積極的に働きかけてきたかを見てみると,この小論の初めの方でエスキモーの知覚認識に関連づけて述べた聴覚的空間というタイプも,私にとってさほど奇妙でもなければ異質なものでもなくなるように思えるのだ。キース・ソニアはこれについて,「私は側面を見るよりも,むしろ中心から見たい」と述べている。芸術作品に匿名性と分離性を探し求めたあげく,計測可能な視覚的距離は,物理的に包み込まれる近さに取って代わられた。しかも,統率者としてのかつての役割とは非常に異なった意味で,人間を中心として,反イリュージョン的な立場が意図するのは,単に眼だけでなく身体全体で知覚できるような芸術を作り出すこと,そして,<世界の中にある>という認識の仕方を明らかにすることなのだ。

」 時空の連続体

このような最近の空間構造は,「額縁で区切られた絵画的空間ではなく,ダイナミックで,常に流動し,時々刻々それ自体の次元を創り出している」空間なのだ。という具合にエドマンド・カーペンターの聴覚的空間の説明はいくわけだが,ここで非常に重要なのは<時々刻々>という点である。空間というものは時間から分離した要素ではなくて,両者が共に働いて芸術作品を形造りそれを知覚させもする。マイケル・フライドのように,時間を<演劇>的世界の中へ追いやるというのは,大胆な言葉の定義づけとしては人の趣味に合うかもしれないが,それがどういうものかという説明にはなっていない。時間はルネサンスの空間認識の一要素だが,それはある意味で,<前>と<後>とを測るものとして考えられた時間の比喩だと言うことができる。人は絵の前の位置から動いて,固体が密集する真空の中へ出ていく。まるで地平線に向かって1・1・1と規則的なリズムを取って退いていく一連のガラス板の上に置かれたように・・・。マニエリスムの時代には,時間は空間によって細かく分けられる。そして見る者は,さまざまな視点からだけでなく,さまざまな速度で,時には所どころで障害物に止められたり,すみやかにじょうごを通り抜け向こう側の不確定な地点に引き寄せられたりしながら,カンヴァスという境界内部に存在するものに近づいていくのだ。このどちらの概念も中世の同時性という考え方とはまったく異なっている。中世の作品においては,一連の行為がひとつの絵の中でいわば線状に描かれている。たとえばアンリ・ベルショーンズによるサン・ドニの殉教がそうだ・・・ある箇所ではドニは生きて活躍しており,別のところは処刑を待っており,第三の箇所では彼の首が地面にころがっている。このすべてが塚というひとつの空間の中におさまっているのだ。ここでは空間は,ある一瞬にある一点からながめられた視覚的連続体とはみなされておらず,画面に沿って直線上に見られた時間的連続体と考えられている。それぞれが異なった空間だということは,画面の異なった点に描くことによって表される。バロックに入ると,ルネサンスで中断されていた空間的リズムが,バッハのフーガの不断のシークエンスさながらに流動する連続体になる。動くにつれて徐々に質が変わり,しかも空虚な点はひとつもない。これは,バックミンスター・フラーが「諸事象の非同時的な形状」と言った宇宙の定義にどこかしら似ている。芸術家たちの説明から見ると,このような時空の連続体はすたれたものではないようだ。フランク・ステラは,自分自身の作品とケネス・ノーランドの作品について語りながら,「方向感覚,スピード感覚,そしてベクトルをもった力の感覚を調和させるような膨張し拡大した大きさと規模」のことを述べている。これらすべては確かに時間と空間との融合を示唆している。
芸術における今日の時空概念が,キュビスムの視覚革命に端を発しているということは十分考えられる。そこではパースペークティヴが空間的可動性の代わりをしていた。1912年の分析的キュビスムにおいては,部分が全体の代わりをし,取りわけコラージュの中に私たちは,カッティングとかアングル・ショットとかいった映画的なまとめ方の形跡を見るのだ。これらは映画という時間芸術においてはありふれたものなのだ。さまざまな部分は連想とか記憶によって一点に集められる。物体は明確な方向に向かって虚空を動いていく。ところが現代のミニマル・アート(これは場合によっては,概念状況の物理的凡例である)を見る時,この種の分析はもはや通用しないような気がする。これらの作品では,常に作品そのものが全面的にマニフェストなのだ。それに,単純なゲシュタルトは外部世界ないしは見る者との関係における以外は,拡大することも,更に突っこんで理解することもできないのだから,経験は,変化することなしにただ深められ延長されるだけである。時間は直線状に経験されるものではなく,散漫に,展開的に,またはっきりと区切られた限界もなく内から外へと動く空間のように経験されるものなのだ。この場合,時間と空間は互いに境を接しており,質も等しくなるようだ。作品が同時に近づき退くにつれて(すなわち,部分と部分が関連しあう形状とは見えず,その特定の存在領域からそれを取り巻く空間に向かって,また見る者に向かって外へ動いている全体と見えるのだ。)
ひるがえって,もう一度このことすべてを一種の世界的視野の中に置くと,むしろ矛盾して見える。私個人としては,宇宙の時間の動きは完全に直線状で,方向をひとつにした明確な目標を視野におさめた流れ,つまりひとつの目的論だと信じている。人間のひとつひとつの行為は,良きにつけ悪しきにつけ来るべきことに影響してくるし,一瞬一瞬の経験は過去の経験と未来への願望の影響を受ける。とは言っても別に,意味としての時間の一般的な流れの中には質的な相違がないと言っているわけではないし,この流れを超越し,更にそれを平行して動きさえする融合的な時間経験や減速がないと言っているのでもない。ひとりひとりの個人が,そしてひとつひとつの文化がそれぞれ別の時間の流れを持っている。それは,時にはオーストラリアの原住民の場合のように一千年以上もの間不動であったり,東京という大都会の中のように信じられないくらい入り組んでいたりする。また個々の人間は自分の中にある空間像を抱いており,それはその人間が生き,空間を経験するにつれて(また,この空間経験がその人の感受性に印象を刻みこむペースにつれて)拡がったり収縮したりし,時間の空間的経験を主観によって極端に変化させたりもする。空間像も,<未来>という概念がイスラエルとギリシャという二つの高度な古代文明においてどのように理解されていたかを見れば,やはり種々様々だということが分かるだろう。ギリシャ人にとって未来は,人が待ちもうけるべきもの,人の前方にあるものと思われていた。一方ヘブライ人にとって未来は背後にあるものだった。人の行動と生命の動きのあとから来るものと考えられていたのだ。西洋の時間概念は概ねギリシャ的である。なぜなら,キリスト教的な生き方にギリシャ的思考形式をすみやかに適応させたからだ。これとは別の考え方をはっきりと模索しはじめたのは,20世紀になってからのことにすぎない。空間を外に拡がろうとするもの,ダイナミックなものとし,時間をそのダイナミズムと不可分な媒体とする考え方が,ごく最近になってもう一度古代ヘブライの考え方に近づいたというのは皮肉なことだ。しかも,行為が方向を定めるというこの世界観に,最終的な意味と神学的な推進力を与えた一神教の超越主義をうばわれたまったく異質の内在的な立場から,ヘブライ的な概念に近づいたというのは皮肉なことだ。

、 物としての芸術作品の空間

この内在論的芸術すべてのうちで,形式主義の批評家をいら立たせるのは,芸術作品を物体とみなす考え方である。実際,ミニマリストの彫刻家が芸術でなく<オブジェ>を作るというのは一体どんな意味があるのだろう?<特殊な物体>の美学を持ち出されれば,形式主義者はこう不満を述べることができよう・・・今や煙突であろうが箱や下水管であろうが,この世のありとあらゆるものが芸術品と見なせるし,<物体性>の創造においては,どんな物であれ,入念に作り上げられた<芸術品>と同じことになってしまう・・・。この種の不満は,芸術の肩を持つ批評文によって正当化されるような気がする。グーサンスは言う,
「今日の実体は単純で反駁できない物体のフォルムの中に自己を投影している。」
彼は更に加える,
「絵それ自体が今や一種の<物>であり,従って物とは関係のない<主題>やそのイリュージョンからはますます離れる。ほとんどピラミッドと同じほど,絵はそれ自体を語り,しかもそれ自体についてしか語らない。」
残念ながら彼がピラミッドを引き合いに出したのは見当違いというものだ。ピラミッドは古代エジプト人の間では通念だったとおり,<宇宙としてのテント>だったのだから。だがもっと残念なのは,彼が<物>をどう考えるかということを定義づけないまま,作品は物だというふうに疑義もさしはさまず確かめもせずに言い切っていることである。グーサンスは,ミニマル・アートは
「まさしく一片の自然の切れ端,一個の岩,樹,雲のようなもので,これらとほとんど同じような孤立して隠れた<他別性>をもっている。」
と言う。私はこれこそ彼の盲点だと思う。めん密に組み立てたトータルな状況に置かれれば一本の樹であれ一個の岩であれ,その空間や状況と関係し合って自己の存在を雄弁に語ることができ,従って<密閉>どころか完全に平明になり,そのものであり続けながら(そしてまさしくそのものであり続けるが故に)出合いが可能になるのだ。この意味で,60年代の芸術の多くは単なる物体ではなく,<生きている物体>なのだ(ここでは私はこの物体を何か人間投影的なものにしてしまうつもりはない。もっとも,そうしたところで別に何ひとつ悪いことはないと思うのだが)。60年代の人々のように,私たちは絵画なり彫刻なりを非人間的な実在物の一部と見なすことができるが,これはギリシャの神殿が非人間的だと言うのと同じ意味に取って欲しい。まさに<非人間的>であるからこそこれは,人間の形態やカテゴリーや秩序に従属しない宇宙と人間との間の橋渡しになるのである。
60年代以降,芸術家たちは,ますます,どうやって私たち自身の時間と空間を,同化すべき実在として取り扱うべきかという問題に関わってきている。そして中には,絵画はこの問題を扱う対象としては十分特定ではないと考える者もいる。ドナルド・ジャッドはそれを次のように言い表している・・・
「絵画には,現実の物質,現実の色,そして現実の空間の特定性も力も欠けている。もっと根本的には,長方形と線と円と,その他何であれその上にあるものを更に結合させることは不可能に思える。」
言いかえれば,彼はカンヴァスの中のいろいろなフォルムとひとつの物体としてのカンヴァスそのものの形との間の矛盾を感じているのだ。従って絵画の物体性は,作家が幻想の空間内で何かをしようなどと露ほども思わない時にこそ,最も完全にそして意識的に獲得されるのだ。イリュージョンの空間は,すべての西洋絵画の基盤となっていた<画像と地>との関係の上に築き上げられる。結論は明々白々だ・・・絵画は彫刻にならなくてはならない。そして芸術と芸術以外のものとが共存できるようなあの三次元の領域に入って行かなくてはならないのだ。ジャッドの場合,彼の絵画は彫刻になっているばかりでなく,<特定の物体>にもなっているのだ。そういう場合にのみ,彼は作品内部の存在と,作品が全体として活性化する周囲の外部空間とを調和させることができる。
他の作家たちは,この考え方を実行することにおいて彼ほど徹底してはいない。ダン・フレイヴィンの華やかな照明は,イリュージョンとしてのやり方で場所と周囲の空間にまさに反応する。それらは同時に物体として光として線として存在するのだ。それにもかかわらず,ある場所に置かれた物体としての管という物理的事実は,その明かりのスイッチが入っているか切れているかに関わらず,力をもつ。彼は花盛りの管の二重性を切りひらく・・・つまり拡がる光源としての性質と,静止した目に見える物体としての性質の両方をであり,それによって,一種の内在的超越性を比喩的に表現する。

・ 空間的な色と二次元的作品

数多くの芸術家たちは,自らと<イリュージョン>とを和解させることができなかったので,絵画から<特殊な物体>に乗りかえた。そのイリュージョンは,<画像と地>との関係という領域よりも,色彩の領域の中にあるような気がする。なぜなら,並置されたり転換されたりした色彩は,緊張と緩和を引き起こす空間的エネルギーとして働くからだ。そしてまた,色彩は空間の中に容積を作り上げたりなくしたりする主な手段でもある。従って,今世紀前半の芸術作品と関連づけながら,それよりも新しい絵画と彫刻における色彩のあり方を探り出すのは面白いことだと思う。
トニー・スミスの指摘によれrば,私たちは水平と垂直という二次元の中でものを考えており,頭の中に容積を投影するのはむずかしいということが分かる。(だからこそスミスはいつも小さな立体模型を作ってから大きな彫刻にとりかかる。大きな彫刻は文字どおり<考えられない>のだ。)容積の投影が現代の抽象絵画の中に求められる時,それは<計測できる>幻想の空間を使ってはほとんどできない。なぜなら,その空間は必然的にその容積を描写的に連想させるからだ。これこそピカソの作品が決して抽象にならないのはなぜかという主な要因だ・・・言うまでもなく彼自身決して抽象を望まなかったし,彼の構造空間の中で,数多くの描写の痕跡をそのまま残せることを確かめたのだ。ロシアの構成派作家たちや,オランダの<ドゥ・スティル>連中はこの問題を避けるために,キュビスム的空間切断とは無縁のところで制作しながら,結局はほとんど完ぺきなまでに空間を切り落とし,その作品はますます浅くなって,しまいにはほとんどすべての空間を平らな画面から押し出してしまった。
私には,<ミニマリスト>の画家たちはこれとは別の出発点,つまりミロやマティスの世界の方に近い点からスタートしたように思えるのだ。彼らは,特定な次元は定めずに,従って描写を避けながら,確定できない空間の感覚をつかみたいと思った。こういう空間はミロの作品の中にある。私たちには相対的な大きさを測ったり三次元的な位置を比較したりはできない物体が漂っている。計測不能な奥行きのない空間だ。この原理は一層明瞭にマティスの色彩の中に現れている。マティスの色は,その周辺の色に影響を与えるばかりか,私たち自身の空間の中にまで出て来て息づくように,その物理的境界の外に及ぼうとする自由な拡がりと膨らみをもっている。この確定できない空間の息づきは,モーリス・ルイスの作品の中に非常にはっきりと出ている。相互に貫入する彼の透明な色彩のベールは,画面に沿ってと同時に外に向かって今まさに拡がろうとしているように見える。そして事実,重力にも水平線にもまったく関係がない。先に述べた内部から外部に向かう世界観とほぼ同じである。ミニマル・アートにおいてこの拡張性を完成するにはいろいろな方法がある。単純なサイズのものだからだ。視野におさまらないほど物理的に拡がるひとつの色は,近寄って見れば,形という障害を破った空間的に不確定な独立した存在としてとらえられる。ジーン・デイヴィスについて言えば,細い色縞は彼の大きな画面に無数に引かれているので,構造という観念はすべて消えうせ,見る者は色を色としてながめる。縞という単純なパターンはまた,純粋な色の力を増す。こうなるのも,彼が<オプ・アート>風の効果を避けて,カンヴァスの上で微妙に動く空間変化の流れを出しているからだ。結果として,彼の色彩は個人的でも主観的でもなく,<具体的>で特定なのだ。
エルズワース・ケリーとイヴ・クラインの青の作品を比較してみると,ポイントがつかめるだろう。クラインによれば,彼の作品は青い<空虚>なのだ。ある意味でこの青は偶然のものであり,他の色であってもかまわない。たとえ,この特定の青が非常に強烈なため,その上に描かれているもののアイデンティティーをぬぐい去ってしまいはしても・・・。ところがエルズワース・ケリーの青,この特定の青は,青さそのものになる。これは大いに可能性のあることだ。というのも彼が使っているのはアクリル・カラー,クライン風のテクスチュアなどまったく出ない<形を持たない>ペイントだからで,そのため<物らしさ>もなくなってしまう。これを使っていることにより(そして方法も違うがマクラッケンもまた同じだ),不確定な空間の内から外,外から内という息づきが生まれる。アクリル・カラーは絵画から個人的な身振りをぬぐい去ったばかりでなく,モネからイヴ・クラインに至るまで近代絵画の一要素であった物質性をも消しさってしまった(クラインは,そのインターナショナル・クライン・ブルー一色の画面が質的に<空虚>であると主張してはいるが・・・,その表面はきわめて触覚的であり,時として月面写真を思わせるように凹凸がついている。)ステラの作品の中に私たちが見るのは,絶えず変貌している空間である。最初の頃の黒い絵画において,息づく空間をはさんで筆で描いた帯は,二重の性質をもっている・・・ひとつは,四辺がぼろをほぐしたようになっている,マーク・ロスコーの方形の,さまよいがちな質,そしてもうひとつは,矩形の中心から外に向かって規則的に帯を列状に拡げることにより,縁のさまよいを奥で否定していること。後期のメタリックな帯の作品では縁はもっとくっきりとなり,そのためにさまようような深みは消えて平らになる。ところが逆に色彩の方は,光を鈍く反射させるアルミニウム末をかけて,また別なミロ風な浅い空間となり,表面からかすかに奥へ退くと同時に私たち自身の空間に向かって動き出してくるのだ。これに続いて1966年から68年にかけての(多分最も弱い)作品があるが,この時期彼は,不揃いなフォルムをやはり不揃いな形に作ったカンヴァスの中に押し込み,一種の<パースペークティヴ>感を出している。だが,形のこのコンビネーションから想像されるような奥行きよりはむしろ,画面にそった効果が見える。これらの作品は過渡的なもので,ステラが例の分度器シリーズの中に再び平衡を見出した時,イリュージョンの問題にまったく新しい答えが出されたのである。大学生だった頃彼が興味を覚えたのは,互いにオーヴァーラップし,からみ合う動物幾何学的な形をもった中世アイルランド=サクソンの聖書の中の『絨毯ページ』で,この分度器シリーズの中で彼はこれをヒントにして現代的に使っているような気がする。こういうコンテクストの中で当然思い出されるのは,<絨毯ページ>における空間の歴史は単に北欧的であるだけではなく,結局スキタイ美術,ウラル美術からきているということだ。そしてこういう美術は,先に述べた内部から外を見る空間世界観ともども北極地方の彫刻を通して今日に伝わっているのだ。ステラの例のシリーズはアール・デコと比較されてきた。そして私には,彼のまずい作品は,あの1930年代の装飾的な平面性の域を出ていないように思える。だがテクニックが効を奏すると,その結果は平面でもなければ,その他明瞭な,いかなる三次元的イリュージョンでもなく,<絨毯ページ>に似通うものが出てくる。ただし,無論シジア美術やアングロ=アイルランド美術に見られる動物の強烈なバイタリティーや表現主義はここにはない。彼は色の領域を細かく分けて極度にオーヴァーラップさせるので,それらが奥からこちらへ,こちらから奥へと単なる運動の一システムだと解釈するのは不可能だ。ここには肯定と否定が共にある。
1967年に開かれた『色彩の新しい形』展について書きながら,C・ブロックは,個々の作品のフォルムを決定するのは色彩であって実際の形は対して重要ではないと述べている。各色彩領域が他と相互に反応し合う別個の物体となりそのためこれらの色彩領域は文字通り三次元の形になるのだ。これはステラの分度器シリーズにあてはまるような気がする。あらかじめ決定されたフォルムは都合の良いフォーマットとなり,これを通して色彩が照り輝き相互に反応し,光の振幅とリズムとの拡張するシステムを作り上げる。この光の振幅とリズムとは,いろいろな空間解釈を肯定もしなければ否定もしない。マティス晩年の油彩の質がこれである。テレピン油である色を拭い去り,微妙にその上から色を塗りなおし,また拭い取りまた塗り,をくり返し,結局,<息づき>という明確な反応が積極的な平衡の中にエネルギーをもたらすようになるのだ。
18世紀の末,ドイツの唯美主義者レッシングは,色彩というものは,見る者と作品との距離により,また一日のうちでも時刻によって質が変化するものだから,理想的な表現手段ではない,と見ている。画家の線的なコントロールが絵画に厳しい清教徒風の論理を与えていたネオ・クラシシズムのこの時代にとって,色彩はあまりにうつろい易く不確かだったのだ。人間がコントロールできなくなった色彩は今や,ロマンティックな情緒主義を創り出すために用いられるのではなく,作家の個性から逃れ自律的な空間生成に向かうための手段として使われているように思える。純粋に拡張していくものとしての色彩の単純さは,サイズの大きなミニマル絵画にとっての強力な手立てとなり,見る者が情緒抜きで,分析抜きで関わり合える客観的存在物を創り出す。この情緒抜き,分析抜きというのはつまり,作品の<中へ入っていく>というのではなく,そこにある色彩が見る者に向かって動き出て来る時,それとの出合いを通して,作品と見る者との間の空間を経て,という意味である。

ヲ 物体と疎外

ロバート・モリスが,色彩というものは触覚的でなく従って彫刻(つまり,私たちの世界の中の一物体)がもっている物理性とは相いれ難い,と不満を漏らしているにもかかわらず,大きな,そして抑揚のない画面上で拡張する色を用いることにより,絵画から一種の<オブジェ>を作ることが可能になる。60年代に生まれた色のついた彫刻の大半が,育ち過ぎのオモチャのようになったり,フォルム構造と色彩構造との間に対立を生み出したりして失敗したというのは本当だ。だが,同じ時期のミニマル絵画と比較しながら,モリスやジャッドやブラデンらのやわらかな色彩の彫刻を見てみれば,それらの作品がたまたま置かれている場所以外のいかなるコンテクストからも切り離され孤立し,それだからこそ主題というものからも分離した物体が,どちらの分野にもあるということが分かるに違いない。二次元の物体も三次元の物体も,それらが生まれた場に対しては一切言及しない。彫刻においてはある特定の<色彩>が欠けているということは,見る者からの一種の疎外であり,これはまず絵画,つまりジャスパー・ジョーンズの作品から始まった。ジョン・ケージはジョーンズの作品の中に感情とか情緒などから身を守り,見る者を遠ざけておくための<灰色の無関心>がある,と指摘した。三次元作品というコンテクストの中では,大きな領域にわたるこのなめらかな灰色の面は,重さのない体積を築き上げる。そこで私たちは,この作品は虚ろだと感じ,さらには,中に貫き入ることのできない外部性に立ち向かうことになる。ベルトルト・ブレヒトは,人為性と不自然さとのコンビネーションを<異化効果>と呼んだ。一見したところ機械が作ったようなミニマル・アートの作品における清教徒的な抑制は,しばしば異質でかけ離れた存在物を造り出し,その中へ通じる心理的な入口などまったく示さない。
これらが,人間の世界から物体を引き離していると思われる特質だが,驚いたことにまた,それらが「見えすいているほど人間投影的だ」ということを証明するためにグリンバーグやフライドが抜き出している特質でもあるのだ。大きな画面にフラットに塗られた形を持たない色は緊張感を創り出す。とりわけ色彩のフォルムと作品の形とが一致した時にはそうだ。モリスは,緊張した画面は人間投影的だと言い,従って事務用品などに用いられる画一的な柔らかいグレー以外の色は一切使わない。だがそうすると,彼もまた同じ間違いを犯しているという攻撃をまぬがれない。モリスは,彼の色と単一の形とのコンビネーションが,作品をながめる主体とながめられる客体との間にある距離を作り出し,それが物理的な関わりを必要なものにするということを認めている。フライドはまさしくこれのために彼をとがめ,こう言う,・・・
「そのような物体によって距離を置かれることは,黙りこくっている他人によって距離を置かれる,あるいは群がってこられる,ということと大差ない。」
根本的にこの議論がどういう立場から由来しているかといえば,芸術作品を,芸術作品という枠の中に組み立てられた一連の相互依存関係と見る(フライド)か,あるいは,関係といえば主として作品の外にあるような単一の物体と見る(モリス)か,からである。肝心なのは,私たちは一体作品の中の空間を問題にしているのか,それも作品からやってくる空間に関わっているのか,ということだろう。私にとってこれは,好みがイデオロギーにまでなった問題のように思える。そしてさまざまな事実がどんな理論であれ,それを裏づけるために選び取ることができる。恐らく今の場合最も良い策は,作家や批評家の前向きの意見を受けいれ,自分の先入観に合わないタイプの芸術について口にされる否定的な不平不満は無視するということだろう。そのような先入観は往々にして歴史の読み違いから生じているものだ。

ァ ミニマル・アートにおける空間イリュージョン

ミニマル・アートの作家,批評家たちのもっとモラリスティックな立場のひとつは,芸術に対するイリュージョンを排し主観を排したアプローチの仕方だろう。これは無論,40年代から画家たちを惹きつけていた問題である。だが60年代になるとこれが一般的な問題になったので,芸術そのものがしばしば投げ出され,そのあとに私たちの時間,空間,そして自然のシステムが取って代わる。たとえばハンス・ハーケの作品がそうで,彼はこれを,システムが他に影響を及ぼすやいなや<物体性>を越える芸術だ,と主張している。<本物の>空間を探し求めることがコンセプト・アーティストたちの導きとなり,たとえばカナダの<N・E・シング会社>のイアン・バクスターは,環状の道を歩き,そのあとで道ぞいの各地点の写真を展示する。ロバート・スミッソンは,あらかじめ計画した地域をめぐり,その後地図や図面,その地域の各所で見つけた石などの標本を<ノン・サイト(非・場所)>に集めて公開した。極端になると,遠く離れた地点に里程標を立て,その二地点の間に横たわる空間を作品としたり,また,ヘリウム・ガスを空気中に放出して,世界中の空気に混じり合う無限の拡張から空間と作品の<焦点>を作り出したりする。これこそ<空間に拡がるものとしての芸術>において本当に頭を働かしていることであり,また世界を内部から見ているのである。だがどんな実例を挙げるにしろ,かなり確かだと思われることがひとつある。それは,もし芸術家が自分の作品の中にイリュージョンを創り出さないなら(そしてまぎれもなく,彼が創り出さないからこそ),見る者がそれを創り出す,ということだ。人間は,自分の想像力を外から刺激するものを奪われれば奪われるほど,自らの内側でそれを産み出すものだ。ジョン・ケージが指摘したとおり,空虚という言葉は自家撞着である・・・常に何かがそこを占拠するからだ。現代の意識の喪失やLSDの研究がこのことを証明している。だがこれとは切り離しても,ごく最近の絵画や彫刻の中には,空間的イリュージョン(またはエネルギー)は単なる<嘘>やトリックではなく,実在するものの本性につながっているということを示すはっきりした特質がある。ジョセフ・アルバースの『正方形礼賛』シリーズにおける色彩の相互作用の実験は,この特質を示すものとして強い説得力をもっている。つまり,色彩はそれに隣接する他の色を変化させる力を持っているばかりでなく,一定速度で空間の中へ外へと動くということだ。
まず幾人かの画家に目を向けてみよう。ジュールス・オリッキーのスプレー・ペインティングは最もイリュージョン的である。彼はこれらの作品を称して
「空気中にスプレーしたいくつかの色がそのままここに滞っているだけのもの。」
と言っている。彼はデッサン(これは常に画面の上にある)と色彩との間にはっきりと区別をつけている・・・色彩は画面上にではなく,画面の中にあるからだ。これより以前に,<ドゥ・スティル>の一員ファン・ドースバーグは,色彩を<一定不変のエネルギー>と言い表した。オリッキーは,ミロとほとんど同じような空間的な方法で,ただしミロよりはずっと大きな画面の上で,このエネルギーを用いている。
ケネス・ノーランドもちょうどオリッキーのように,色彩の光のような特性を生かして形をもたない色を使い,作品を重力から解き放っている。また最近の作品では,かすかに調子を変えた地の上に色彩の帯を配しているが,このやり方は,オリッキーが,表面とそれより奥の空間との間の空間的緊張を創り出すために,スプレーした部分と筆を使った部分とを組み合わせたのと同じである。
ケリーの作品について私たちが気づくのは,色を塗った台木と,絵画の輪郭からうかがえる線的なパースペークティヴとの間の緊張感である。アルミニウム・ペイントで彩色したいく条もの帯の緊張感を,ステラは次のように表現している・・・
「このほのかな光沢をもった表面には,これ独自の表面のイリュージョニズムがあり,それ自身を包み込む空間がある。」
ヘルドの絵画もやはりフラットではあるが,ケリーやステラの作品よりももっと積極的にこちらに向かってくる。
だが最も単純なミニマル絵画では,イリュージョニズムはむしろ転倒したパースペークティヴの中にあるのがわかる。そこでは,色彩が創り出す光エネルギーと,作品そのものの内部で画像と地との間にはっきりと区別をつけまいとする態度の故に,作品は,私たち自身の空間に向かって動き出てきそうに見える。これに伴ってあるのが様々な形の利用で,これらの形は,物体の周囲に<空間の歪み>を生み出すために結合する。
このイリュージョニズムはなにも絵画に限ったことではない。新しい彫刻の中には,イタリア・マニエリスムの空想的建築作品の名残のようなものもある。ちなみにイタリアのマニエリスムはいくつかの論理体系を確立し,そのあげく誤ったスケールと距離によって,それらを破壊したのである。ロバート・モリスの鏡製の箱はほとんどそれ自体の存在を消し去ってしまったが,やはりモリス作のやジャッドの宙吊りだったり片もち梁のようだったりする箱は,重力を無視している。片端だけが床からほんの数センチ持ち上げられたブラデンの巨大な箱は,床に反抗しており,マクラッケンの色を塗った板は壁に反抗している。ケリーのL字型の青と白のアルミニウム<絵画>は,床から二,三センチ離して置かれてあり,さながら自由自在に漂う小さな床と壁といった態を成している。また色彩がフラットで影が欠如しているために,ある角度からながめると,この作品は平板フラットさの裏返しのイリュージョンだという印象を受ける。ダン・フレイヴィンの華やかな光は,その間近の壁をいわば溶かし,まわりの壁は奥へ押しやるか前に引っぱり出すかして,部屋の一隅の空間と物質性に対する私たちの認識を変化させてしまう。彼の作品そのものは決してイリュージョン的ではないのだが,それを取り巻くものをイリュージョンのようにしてしまうのだ。
このことすべては恐らくロバート・モリスの次の言葉に要約されるだろう・・・
「より優れた新しい作品というものは,その作品からもろもろの関係を取り上げ,それらを,空間と光と見る者の視界とから成るひとつの機能にする。」
空間的なイリュージョンを望む新たな欲求は,かえってむしろコンセプト・アーティストたちの<実在空間>の仕事の中に見て取れる。中でも最も目立つのは,自ら<復活したパースペークティヴ>と名づけたものを引っさげて登場したヤン・ディベッツだ・・・台形を描くようにロープを地面にぴんと張り,それが正方形に見える角度から写真を撮る。あるいは『オランダの山』という作品は,平らな低地地方の地平線の写真だが,湾曲した形で並べてあるのでまるで山があるような錯覚をおぼえる。もうひとつの好例は,デニス・オッペンハイムの作品だ。彼は,等高線が記されている山の地図を切り抜き,それを沼沢地だの川に張った氷の上の雪だのに置く。そうすることによって,そこにはある地勢図の寸法を大きな二次元面に置きかえるのだ。彼は言う・・・
「私の作品によって私は,そこに実在する土地に対立する等高線を創造し,その寸法を現実の土地に押しつける。こうして一種の概念としての山の構造が生まれるのだ。」
従って,1960年代に多くの芸術家たちが,<客観性>を求める気持から出発したにもかかわらず,再び世界を概念化しようという方向へ向かう動きはますます強くなっており,<実在>の空間はその概念化における今ひとつの手段になっている。世界像というものは,かつてある特定の位置から距離を置いてながめたものよりはむしろ,今ではおおむね<内側からのながめ>である。だが,空間は単に当然の前提として芸術家に与えられたものであるばかりか,知覚認識のあとからくる概念化の所産であり,これもまたますます知的な行為かと見なされるようになっている。

掲載作品写真
1 マイケル・ハイザー『図案のようなうね』 Contour Plowing (1954)
2 ダン・フレイヴィン『作品』 WORK (1970)
3 イヴ・クライン『スポンジによるレリーフ』 RELIEF EPONGE BLEU RE 19 (1958)
4 ケネス・ノーランド『アンド・アゲイン』 AND AGAIN(1964)
5 ジャスパー・ジョーンズ『電球』 LIGHT BULB
6 エルズワース・ケリー『青と白の角度』 BLUE WHITE ANGEL (1966)
7 フランク・ステラ『クォスランバ』 QUATHLAMBA (1964)
8 トニー・スミス『作品』 WORK
9 ケネス・ノーランド『パー・トランシット』 PAR TRANSIT (1964)
10 ロバート・モリス『無題』 UNTITLED (1944)


(原題:A View from the Inside--The Space of American Sixties Abstraction)


Copyright 2001, Joseph Love Art Gallery. All rights reserved.
No reproduction or republication without permission.



| home | paintings | prints | drawings | photographs |
| passion | picture book | galleryshop | link |