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絵画における時間  (エピステーメー 1979年2月) 松岡和子訳
Reflection upon the kinds of Time in Painting

 視覚芸術において時間が云々される時,大抵は次の二種類の時間のことを言う。その第一は,絵を理解するために必要な時間。つまり,観る者は,細部をすっかりのみこみ全体を把握するまで,その作品の中を<動きまわる>。たとえばラファエロの『アルバの聖母』の場合,まず画面の左下,額縁すれすれに位置する聖母マリアの足から入る。鑑賞者の目の線的な動きは,V字形に上昇し,右の方へ,マリアの手に向かって,左の方へ,幼な児キリストの頭に向かって行く。聖母の手から頭部と右腕にかけて,もうひとつの線が扇形に広がり,対位に立つ洗礼者ヨハネに達し,そこから視線は遠くの背景へと漂うように向かうのだ。

 ローマにあるサン・アンドレア教会のバロック様式の天井の場合,作者ピエトロ・ダ・コルトナは,絵のはじの方,つまり,私たちが立っている空間とつながる所に,流れるような一群の人物像をまとめて配した。群像はその位置から中央に向かって移動し,空の空間の奥深くへ吸いこまれて行く。このことは,空に浮かぶ群像の身振りと,上へ上へと向かう彼らの身体の流れとによって強調されている。

 今述べた二つの例からも分かるように,まず,画家が私たちの眼前に差し出すすべてを把握するために時間が要る。そして,二番目の時間とは,絵画そのものの中に描かれてるものだ。たとえば,フランス,バロック期の画家プサンの『アルカディアの牧羊者』。羊飼いと恋人たちは,遠い過去に死んだ男の墓にやって来,人の生命と恋のはかなさを考えさせられる。従って,この画面には,現在・過去・未来が,ひとつの情景の中にない合わされており,観る者もまた,画面の中の人物たちが感じているのと同じはかなさ---プサンの場合は極めてストイックなかたちで---に思いを至らざるをえない。

時間,そして言語の流れ

 伝統を題材とした中世ヨーロッパの絵画を見る時,私たちはどうしても,それをひとつの時間的経過として読みとりたい誘惑にかられる。たとえば,15世紀初頭にアンリ・ベルショーズによって描かれ,現在はパリにあるサン・ドニの生涯と殉教の絵がそうだ。サン・ドニが慈悲を行っている情景,捕縛の景,打ち首の刑の前後の模様などが,すペてひとつの画面の中に描かれている。しかし,私たちがこの作品と日本の平安時代,鎌倉時代の絵巻物とを比べてみる時,効果が全く違うことが分かる。絵巻物の場合,空間的な奥行きはさりげなく暗示される程度にとどまり,画面には専ら,時間的な連続性を比喩的に表すものが川のように流れて行く。ところがベルショーズの作品では,すべてが混然となっているのだ。筋の運びを示す光景は,画面の左,右,上,下に描かれており,サン・ドニの物語を知らない者にとっては,全く何の脈絡もないように見える。即ち,筋の進行は,絵巻物とは別種の全体的な機構というか構成の中に組み込まれているのだ。

 このことは,日本と西洋との極端な言語構造の差異に関係していると言えそうだ。言語学者ではないのだけれど,私には,ヨーロッパの言語は総じて建築的な原理に基づいて形成されているように思える。だからこそ従属=主文節,等位節などが発達し,時間的な連鎖が一種の三次元的な奥行きをそなえるようになり,記憶や全体把握の型が変ってくる。ひるがえって日本語の場合,三次元的な奥行きのない川のような言葉の流れがあるばかりで,しかも流れの方向は単一である。これは語り物の型だ。語り物では,事柄はひとつまたひとつと,厳密な編年体の連続性に添って起こる。僭越な言い方が許されるなら,日本のすべての造形芸術の中でも,最も日本的なのは絵巻物だと私は常々思ってきたし,<邦楽>と呼ばれる音楽芸術が本来は,話しの運びをすみやかにするためにところどころで伴奏として音楽を入れた語り物だということも意味深長だ。

 確かに,日本の古典絵画には,絵巻物と並んでほかにもいくつか空間的なパターンがあるのは事実だ。だが,それらのパターンは,日本に定着する前に,すでに中国やヨーロッパで発達し,高度の洗練に達していた。そういうパターンは日本において,根本的な芸術上の諸前提を別の形に変えること,もっと日本人の精神構造にふさわしいものに変えるという形で発達した。

 従って,少なくとも相対的に見れば,中世ヨーロッパの絵画における時間的連鎖は,日本の絵画ほど明瞭に現れているわけではなく,結果として,芸術作品に表現された時間のイメージは,根本的に違ったものになってくるのだ。
このことは,八世紀ローマの『レオの聖書』におさめられたさし絵を見れば,一層はっきりする。空間の扱い方に,ヘレニズムの影響が色濃く出ているのだ。たとえば,一葉の絵には,イスラエル人たちのもとから立ち去るモーゼの姿が描かれている。山を登って行く途中でサンダルを脱ぎ,遂に頂きに達し,神の手から十戒をしるしたタブレットを受け取るのである。こういった筋の運びは,下から上に向かって斜めに構成されているのだが,物語の筋を順にたどるというよりは,絵画としての全体的な構図を重んじて描かれている。従って,私たちはこの作品を前にして,時間的に内容を読み取りながら,非時間的に構図をながめる。ここでもまた,この二つの要素が緊密に統合されている日本の美術の場合との違いが出て来る。構築的な西洋の思考のあり方が,物語を線的時間的な連鎖に添って語りたいという欲求を翳らせていると見る向きもあるだろう。

 このことはまた,ゴチック様式の大聖堂のステンドグラスを見れば,なお一層はっきりする。たとえば,シャルトルのノートルダム寺院。ほとんどの窓は物語の情景になっており,そのひとつひとつの出来事が円とかひし形の枠の中に描かれ,窓の底辺部から上の方へとのびて行っている。だが,私たちがこの窓をながめる時,そこに語られている物語の起承よりも,装飾的な全体のパターンの方からずっと強い印象を受ける。
だから,中世西洋の絵画における時間の流れの意識は,語り物風な中世日本の美術とは,全く異質も前提条件から発しているように思えるのだ。ちょうど,ヨーロッパ語と日本語の時間のシークエンスが異質であるように。

絵画における時間と永遠性との出合い

 存在のあり方を視覚的に説明するものとしての絵画においては,現に動いている時間的な状態と,それを越えた永遠のイメージ---永遠とは言わないまでも,人間が現世の彼方にある生活に加わるというイメージ---との両方を描くことが可能である。この好例はユーゴスラヴィアのオーリッドにある,聖クリメント教会の内壁に描かれた13世紀の壁画だ。そこでは今述べた両方がうまく組み合わされている。上層には,最後の晩餐の光景。人物たちはすべて見事に描写され,さながら動きのさなかにストップモーションをかけられたような具合だ。その下には,上層に描かれているのとほぼ同一の人物像が並んでいるが,こちらは真正面向きでいかめしく,喜怒哀楽の表情は露ほどもない。おそらくビザンチン=マケドニアの画家たちには,こんな風に動きを否定することによってしか,時間を超越した状態を考えることができなかったのだろう。だがこれは,そういう状態の中に包含されるべき脈々とした生命力の表現としては満足の行くものではない。宇宙の永遠の支配者として栄光に包まれたイエス・キリスト,そういうパントクラトールの姿の中に,一層重い意味が加わる。その像が円形の枠で取り囲まれているからであり,また,大抵は教会の円天井いっぱいに広がらんばかりに,観る者の頭上に描かれているからである。こうして人物を普通の垂直の立ち方とは違ったふうに配してあること自体,状態の差異を造形的に説明する一助になっているのだ。

 現代美術においても,水平線を排除することが,広がりという点で画面空間をさらに自由にしたばかりでなく,時間と時間を超越した状態(これを一種の永遠と定義するかどうかはさておき)との新たな視覚的統合をもたらしたのかどうか。

 一年前の「エピステーメー」の対話『芸術の前提についての三日間』の中で論じられていたように,私は,人間が死後に復活し質的により高い生活に入るという将来が,現在の生活に影響を及ぼしていると見,それだからこそ,その将来の生活に対する予示が,ただ今ここに人間が創造するイメージや象徴の中に見出されるはずだと思う。私は,このことが遠い過去の美術,とりわけ中世美術の中に顕著に出ていると見てきた。同じものが今日の芸術の中にも見出されない理由はない。

 現代美術における無重量性や空間の多方向性という現象は,ルネサンスやバロックの美術に見られる線的なパースペクティヴに優る傾向,優るとは言わないまでも,はっきりと異なる傾向を示している。この問題は,美術家の手によって出版されている美術雑誌「さぐる」の中で詳細に論じられているので,今ここでは,この空間的な自由は,芸術作品の非目的性という原則に基づいているとだけ言っておこう。即ち,鑑賞者が,作品の中に予め設定された動きに従わされることは決してない。作品自体にも,もってまわって線的に鑑賞者の眼を引きこむ意図はない。従って観る者は,次に目を向けるべき部分はここだというふうに促されることなしに,作品に接することができ,作品内の動きや発展のそれぞれの段階を楽しむことができるのだ。どの動きもどの連続性も,現在という瞬間瞬間の絶えざる流れなのである。

ルネサンス期の時間の連続性の否定

 このことは,ルネサンス絵画の典型的な構成と比較して見ればよく分かるだろう。ルネサンス絵画においては,先に述べた超越を目指す姿勢は,きっちりと四囲を囲まれた空間構成のなかで完全に欠落してしまっている。

 こんなふうに言い切って良いものかどうか心もとないのだが,とにかく私には,ルネサンスの空間構成の中では,時もまた停止しているように思えるのだ。あるいは,少なくとも時間は,停止した瞬間瞬間の中に断片化されている。このことは,線的なパースペクティヴの中で単一の視点を強要するところから生じる。片目だけを開け,身じろぎもしない男の眼に映るのは,どこまでも退行していく空間である。

 空間が退行していくこの経過は,流れにはなっておらず,(線的ですらない),個々様々な対象がそれぞれ描かれたガラスのパネルを,幾枚も重ね合わせたものとして読み取ることができる。すべてが,まわりを囲われた真空の箱に納まって一列に並べられているわけだ。一枚一枚のガラスの間には一種の空間というか真空があるわけだから,画面の前に立つ者の眼の推移は,一歩一歩が比較的つながりのない一連の静止的な歩みになる。これこそ15世紀の画家たちが心血をそそいだことではある。従って,このような絵画から私たちが受け取るのは,実際には存在すらしない時間連続体に対する,数学的に明瞭な境界区分なのである。

 或る意味で,マニエリスムからの反駁を,このように周囲を囲まれた状況の論理的な帰結と見ることもできるだろう。中央イタリアで活躍した事実上すべての主要なルネサンス最盛期の画家達(ラファエロ,ミケランジェロ,レオナルド,及び彼らの弟子たち)が,極めて整然としたルネサンス世界のもろもろの制限を打破し,マニエリスムという相反するものが同時に存在するような状況にはいったということは意味深い。

 恐らくエル・グレコは,トレドにある『オルガス伯の埋葬』という作品において,囲い込まれたこの空間状況を開け放ち,別の空間が共存する状況に至ろうという欲求を,最も明瞭に示してみせた。しかも,異なった空間の共存は,異なった時間の共存があってはじめて実現しているのだから面白い。前景の下の方では,大勢の会葬者に囲まれて,伯爵の死体が墓の中に降ろされようとしている。これらの人物像のすべてが,まるで彼らの背景の柵によってぐっと押し出されでもしたように,見ている私たちの現実の空間に向かって押し寄せて来そうだ。ルネサンスの群集場面の描き方を思わせる構成である。だが,人々の頭のすぐ上には,永遠を表す不明瞭な空間が唐突にすべり込んで来ており,そこでは馴染み深いルネサンス独特の空間区分は一掃されている。その代わり,ずれが触覚的に伝わって来そうな連続性がある。あたかもエル・グレコは,彼自身でまだ体験しておらず,だからこそ,従来のものを否定したり反駁したりすることによってのみ表現できる新たな時間体系を,ここで把握しようと努めているようなのだ。そして,或る意味でこの姿勢は,真正面向きで平面的な画像を描くビザンチン美術の動きの否定から,大してかけ離れてはいない。あの平面的な正面像は,私たち自身が生きている現世の時の動きを越えたものを象徴している。エル・グレコの方法がビザンチンの先祖たちと異なっている理由は,エル・グレコの過去にはルネサンス美術の諸前提,つまり,彼自身の連続性を確立する前にまず打破しなくてはならなかった論理,が含まれているという事実にある。

記憶と変化

 この小文でまず最初に取り上げた問題は,絵画作品の細部と全体を認識し鑑賞する際のゆっくりしたプロセス,言い替えれば,鑑賞者自身が自分のためにその絵をなぞって描き直すプロセスのことだった。この問題は,鑑賞者が当の作品に初めて接する時に出てくる。しかし,いったんその作品をすっかり消化してしまったあと,次の段階,次に同一作品を見る時にはどういうことになるか?時間はなくなるか,それとも同時性に無限に近づいて行くだけなのか?同一の鑑賞者によって同一の対象を時を異にして引き続き見る場合,対象も鑑賞者も変わる,と考えていいだろう。即ち,ジョージ・キュプラーが述べているとおり,反復される行為はどんなものであれ,反復のたびに行為者が歳を取っていくわけだから,行為そのものもまた変化するのだ。しかも,くり返し作品を見るという行為の中には,一種の記憶の蓄積が関わって来,くり返し見るということは空間にではなく,時間にしか関係がない。記憶の時間と結合した経験の時間に,である。

 マルセル・デュシャンならば,さしずめここで,この問題には私的・個別的な次元を越えたものが含まれている,と付け加えることだろう。ある<物>が,芸術的な状況(たとえば画廊とか美術館)の中に置かれると,その<物>は芸術作品になるという彼の意見は一般によく知られているが,もうひとつ,時間と集団的経験についての彼の考え方がここではもっと有益だ。

 デュシャンの持論によれば,芸術作品の完成は,作者である芸術家ひとりの責任ではなく,長い年月をかけた多くの鑑賞者のなせるわざだというのだ。従って,ひとつの芸術作品の解釈評価は,個人的個別的なものではなく,徐々に形づくられる社会的産物なのである。その極端な例は,生前は全く顧みられなかった芸術家の作品が,やがて彼と同時代の芸術家たちの努力をすっかり影の薄いものにしてしまう,しかも,当の作家が夢想だにしなかった理由で,という場合だ。

 この場合,多くの人々の経験としての時間という要素は,芸術作品の定義なり評価基準なりを形成する上で決定的な意味を持つ。デュシャンによれば,これはいわば作者不詳であるから,最も重要であり,最も面白い。さて,そこでこういった一切が,芸術作品そのものや,その直接的な制作よりも,ずっと深くそれをながめる個人や一群の人々に関わってくるように思えるわけだ。絵画と画家と鑑賞者とを同等の尺度で結合させる,そういう種類の時間はあるのだろうか?

記憶,そして,芸術作品そのものの変化

 最近西武美術館で開かれたジャスパー・ジョーンズ展は,作品そのものと直に関わる時間の認識を立証する一助になるかもしれない。たとえば,おなじみのアメリカ合衆国の国旗。1950年代半ばから1970年代までの数多くの作品で,<主題>として,<テーマ>として用いられてきたものだ。最近の星条旗作品を見ていると,自然に昔の作品のことを考えてしまう。馴れ親しんだ星条旗のイメージそのものや日常生活におけるその記憶はさて置くとしても,これらのイメージは,ジョーンズ自身によって創始された<伝統>の中にあり,従って私たちは,多分新しい作品をすべて同一の根源から湧いて来ているのだろうと思いこんでしまう。彼が用いる絵具は,重く筆跡を残す蝋画風のもの---融かした蝋に絵具を混ぜたもの---で,上からまた塗りなおしたあとでさえ作家の手の動きの跡を克明に残す。彼の描く旗はすべて,対象を徐々に変性させて行くこの過程と見ることができる。特に,旗が次々と異なったメディアによって描かれる時,これをひとつの物として取り上げ問題にする。或る意味で,徐々に進行する<旗>という概念の腐食作用が起こるのだ。即ち,ジョーンズの最初の旗を最初に見た時には,内に含まれていた概念が,次々と新しい作品が生まれるにつれて,次第にはっきりと明示されてくる。最初は,星条旗は画面いっぱいをおおっており,そのため旗のイメージと絵画面は完全に一体となっていた。次に,旗のイメージは作品の一部分しか占めなくなり,批評家たちが最初の旗に帰した前提条件を否定した。批評家たちは,旗のイメージと画面という場を,ジョーンズの絵画哲学の必要条件として同一視したので,彼は方向を転じたのだ。彼がほかの何にも増して,時間的現世的なものを重要視していたということをはっきり示す事実は,彼が特に<旗>の意味に大いに興味を持っていたわけではなく,たまたま旗がひとつの<既知のもの>,誰かがすでに考え出したものだったからということである。この事実によってこそ,彼は自由に他の問題をも追求することができたのだ。そして遂に1959年,マルセル・デュシャンの影響を受けて,旗はひとつの<物>からいわばチェスゲームの<歩>のようなものに転じられる。この時点で,旗はむしろ,画家自身の意図と行為のための機能となった(それまでの彼は,自分自身と対象である<物>とのあいだには何の関係もないと言い切ってきた)。これは,くり返しくり返し「その物に何かをする」時,一体何が起こるのかを彼が見ようとした結果である。従って,新しい作品を作るという一歩一歩が,対象とされるものの時間的及び質的な変化を引き起こしてきた。それは,この画家の意図には全く気づかない鑑賞者ですら見て取れる変化なのだ。

 さて,こういうことは,ジャスパー・ジョーンズの活動の中心をなす低退化=変形化という種類のプロセスにおいてだけでなく,芸術家たちが自分の作品の中で昔の作家の作品を利用する時にも起こる。ポール・セザンヌは,「自然に即してプサンを改作する」と言ったが,或る意味でこれは,プサンの元の意図の低退化とも,その意図を越えた何ものかへの変形化とも言える。この場合は,ジャスパー・ジョーンズの規範的な時間よりもずっと長い時間がかかっているのだが,それにもかかわらず同じ質を帯びているように思える。セザンヌの作品を十分に理解するために,プサンの絵を研究しなければならないとは思わないけれど,いずれにしても,記憶と作品の物理的な変化における時間の要素はあるのだ。そして,その変化の発端と結果の両端を知ることができれば,私たちの把握は一層確かになるだろう。

時間と関係

 1960年代の半ば,美術における時間の問題は,特にミニマル・アートの論客たちのあいだに,芸術作品における関係の問題の結果として導入された。そういう芸術家のひとり,ドナルド・ジャッドは,かつて,彼が簡潔で反復的なフォルムを作り出すのは,統合されたひとつの作品における部分と部分の相互関係というヨーロッパの伝統に対する反発なのだ,と言ったことがある。彼が作りたかったのは,即座にひとつの統一体として完全に理解することができる作品,象徴的にであれ造形的にであれ,鑑賞者の頭の中で作品の再構成に要される時間を打ちくだいてしまうような作品なのだった。

 「ヨーロッパ的な時間性」に対するこういうアメリカ的な反発の仕方には,もしかしたら,アメリカに見出される特性,人間存在を矮小化してしまうアメリカのスケールの大きさなどが関係しているのだろうか。人間の尺度でとらえるには空間が広大すぎるのと同じように,アメリカの<時間>もまた,普通の人間の時間よりもずっと広大なのかもしれない。巨大なひとつの全体は,その全体を作り上げるために集まる小さな要素よりも,はるかにはっきりと目にとまる。

 いずれにしろ,このミニマル・アートの姿勢は,典型的な抽象表現主義の画家であり理論家であるハンス・ホフマンの姿勢とは全く相容れない。ホフマンにとっては,宇宙及び宇宙のどの部分であれ感じ取ろうとすると,そこには,さまざまな事物がすべて絶えざる変化の中で共存し,生きることを可能にする諸関係の認識が関わってくるからだ。ホフマンの態度は,インド音楽の演奏家になぞらえることができる。演奏家は,音楽上の時間の現在の一瞬に収れんしたさまざまな条件や出来事の,途方もなく複雑な連鎖を感じ取った結果として,異なったラーガとそのラーガの変奏をかなで,それに香気と意味をそえるのだ。

 従って或る意味で,私たちはジャッドの作品を,瞬間をそれ自体の中に閉じ込めようとし,<もしも>という仮定の状況を創り出そうとする試み,とみなすことができる。その状況は,私にこう告げる---ここでは時間は変化するものとしては存在せず,作品のフォルムはきわめて原始的なので,芸術の世界とか<現実の>世界にある他のいかなる物の記憶も喚起しないのだ,と。この考え方は,アド・ラインハルトによって提起された理想に近い。ラインハルトは,作品自体の外部にあるものとは一切関係のない,単色単調の純粋芸術,<絶対芸術>を目差した。

 この種の世界は,鏡の向こう側のルイス・キャロルの世界と同じように<実在感>があり,恐らく,完全に対照的なものを差し出すことによって世界を示そうとしたキャロルのコミックな試みと同じようにためになるのだ。他との関係を一切断ったジャッドの芸術は,恐らく,関係を持つというのがどういうことかを示してくれるだろう。即ち,世の中における人間の普通の<必然的な>状態。過去十年間,彼の作品には,目に見える変化が全くない。このことこそ,全てを語っている---もうひとつの静的な,時を越えた状態だ。

経過の記憶

 広く論じられた抽象表現主義の前提条件のひとつは,作品制作時の画家の努力の記録として絵をとらえるという考え方で,これは美術評論家ローゼンバーグが強力に提起したものだ。ウィレム・デクーニングの絵は,描き間違いの記録とか,取り消しのプロセスなどと言われてきた。ラリー・リヴァースの「自画像」には,画家自身がさまざまな姿勢をとって,ちょうど良いバランスをつかむまでふらついている姿が幾重にも描き重ねてある。第二次大戦直後の画家たちの仕事を見ると,作品として残された結果よりも,彼らがたどってきた道程の方が重要だという感想を抱かされる。記憶の集積は,完成した産物よりも重要で,画家はそこから何ひとつ消去せず,「私がしたことを見てくれ」という。

 これとまさに正反対の態度が,ロバート・ラウシェンバーグの作品に,皮肉な形で見られる。まず最初に彼は,その時々の感情の動き,手の動きを時間を重ねるようにして印した記録のような作品を粗いタッチで描く。そして次に,別の,しかもほとんど前作と同一の作品で,この行為を反復してみせるのだ。つまり,最初の作品に対して私たちが抱く前提条件の否定である。また別の作品では,この態度をさらに突きつめる。彼は,ウィレム・デクーニングからデッサンを一枚もらい,それを完全に消してしまったのだ。従ってこの作品は,二人の画家の二つの行為の目に見えない記録となる---ところが,この場合の記録とは,人々がその作品について語ることでしかない。言いかえれば当の二人の画家が言ったことをそのまま信じるしか手はないわけだ。なにしろ実際の作品からは全く手がかりがつかめないのだから。

区分のない時間

 最後に,芸術には詳しく見てみる価値のある時間がもう一種類ある。禅に関する私の素朴でしろうと臭い考え方をここで述べさせてもらえるなら,それは,座禅で体験する時間に似通ったところがある。私のささやかな経験と研究から判断すると,座禅には時間の区切りを徐々に切り捨てて行く作用があるような気がする。だから,座禅における時間の経過には,過ぎて行く時間に独特の形を与える普通の外的心理的な境界区分は伴わないのだ。ここでは時間が停止しているとか,消滅しているなどという言い方は正しくないだろう。むしろ,時間というものを測定できるようにしている支えが一時的に取り除かれている,と言った方が当たっている。果たしてこれを,時間性のない連続と言って良いものかどうか---それとも,単なる言葉の遊びになってしまうだろうか。

 音楽においても,ジョン・ケージの初期の作品,サティのほとんどの作品,近藤譲の作品,及び西洋のロマン派以前の音楽や世界各地の民族音楽などを考えてみるなら,この種の作用が働いていることが分かるだろう。近藤譲が言っているように,こういう音楽には連続性はあっても意図目的はないのだ。ひとつひとつのトーンはそれ自身のために聞かれるのであって,単に次の段階に達するための手段ではないのだから。連続性は毫も妨げられはせず,それどころか,その連続は動く現在となり,音楽を作るにしろ聴くにしろ重要な要素だとされている次の段階への期待,前の段階の記憶,などを含む押しつけがましさがないのである。ジョン・ケージの多くの初期作品に見られる静寂は,これと同じ方向にある。なぜなら,静寂は来るべき解除(これは一種の音楽上の<切望>なのだが)のための未決状態の緊張を作り上げる手段ではなく,ひとつの音としての静寂の連続であり,聴き手は絶えずこれを現在する実在として意識している。

 インドをはじめとして,いろいろな所で広く行われている一種の認識訓練もまた,この種の時間の感受をはっきりと説明してくれる。ただじっと静かに坐ると,自分の肉体が物理的にそこにあることが意識されて来,長い長い時間のうちに,身体の各部分,それの感覚なども内触覚的に意識する。耳に入ってくる外界の刺激,たとえば通り過ぎていく自動車や小鳥のさえずり,あるいは,将来どういうことをするつもりかというような一連の思考などを意識する時,人はその時点にのみ実在するものとしてそれを意識するのであって,どこか他所から来てまたどこかへ行ってしまうものとして意識するのではない。ここでもまた,現在が,あらかじめ決められた特定の方向のない,ひとつの連続として鋭敏に感じられるのだ。それはまるで,現在という瞬間が次々と絶え間なく拡張している状態にあるようなのだ。

 ここ二年間ほど,私は一連の絵を制作してきたが,それらは,色彩こそ光と空間とを拡張する源だという考え方の展開であり,この考え方は,特に最近の数年間,私の興味を惹きつけてきた。この個人的な制作上の覚え書きを持ち出すことが許されるなら,少なくとも象徴的な時間構造とこのこととを関連づけて,考えを進めてみたい。
カンヴァスの形とその内部の画面の問題,あるいは,画面空間の中に形成される相関的なフォルムの問題を排除するために,私は円形の作品を作ってきた。そうすることによって,常に拡張している光と空間としての色彩の力に集中することができる。作品は総じて,一見したところほとんど単色に近く,しばらく眺めているうちに徐々に様相が変わっていく。不明瞭だったものが,少なくとも一時的に明瞭になり,明瞭だったものが一時的に不明瞭になる。この現象は,初めて作品に接した時に起こるだけでなく,次に見る時にも引き続き起こるのである。目にとまる変化の速度は,前にその作品を見たことによって生まれる予想によって,いくらかは変わるだろうけれど,総じて,鑑賞者の側の注意度に応じておのずから起こってくるはずだ。さて,今ここで私の興味を引くのは,最終的に作品全体を把握するために,部分から部分へと視線を動かさざるを得ないといった線的なかたちで空間が生み出されるのではない,ということだ。そもそも作品に接した最初から,把握は全体的なのであり,完全に統合されている---たとえその第一印象は,時が経つにつれて,別の全体像へと変化していくとしても。

 さて,今このことを時間の比喩としても見られるとしたら,どういうことになるか---或る連続性があって,それはその連続の質がごくわずかに変化しても,また,その連続を区切る節目がなくても,依然としてもちこたえるものなのだ。動きというものが,私たちの空間に向かって,また,色彩面が生み出す空間に向かって,静かに吐き出される息だとすれば,それは最早,私たちが普通<時間>という言葉に付与する線的な意味では,時間的な動きと呼ぶことはできない。言いかえれば,ここには一種のアナロジーがあるような気がする---色彩の力によって生み出される空間と時間のあいだの相関性とアナロジー。こういう種類の絵を見るという経験は,先に述べた認識訓練の経験に似ていなくもない。ここでもまた,現在という瞬間は,絶え間なく次々と拡張する状態にあるようである。

(原題:Reflections upon the kinds of Time in Painting)


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