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表面の芸術  (1973、The Art of Surface: A Survey of Contemporary Japanese Art カタログ) 坪井みどり訳*
The Art of Surface

 日本の美術作品の多くは,モノの皮膚---リンゴであれ,人間であれ,触ることのできる物体の表面---に深く関わっている。この特質は,何世紀にもわたる日本のアーティストの仕事に顕著にみられる。とりわけ彼らの興味が単に描かれた物体の表面にあるのではなく,作品そのものの物理的表面にあるときに強く現れる。そしてこのようなアプローチによって,作品は見る者に日本語でいう<スキンシップ>レベルまで近づき,そこに触覚的な知識と親密性が生まれるが,これはここ日本で体験される独特の認識プロセスだ。

 巨匠山口や斎藤の場合,画面の表面をドリルでえぐり,パレットナイフでペイントするか,表面を荒すことでこの特質が強調される。我々は目の前に重苦しい長方形の物体という現実をつきつけられて驚く。表面に対する第二の動きは後の世代に起こった。スプレーと筆を使った田中の作品にいたると,我々はモノの物理性と客観性をひとときも忘れることができない。そしてこのことが,彼個人としての表現すべてに先行するのだ。半透明の色面が浮遊する,桑山のひときわ寡黙な抽象表現や,中里の不透明な表面にも同様のことがいえる。中里のばあい,白いカンヴァスを通して滲み出るインクの線は,「我々は視覚上物体の表面しか見ることができず,これが見かけの奥底にひそむ隠された意味をのぞきたいという欲求に抵抗する」というロブ=グリエの言葉を思いおこさせる。今中の写真が成功しているのは,まさに写真の持つ三次元的窓という効果を消して表面化することによって,均一で不透明な表面を作り出している点にある。

 世代間にみられる基本的な違いは,前の世代が粗削りな表面の奥に幾層もの意味を表現したのに対し,若いアーティストがこれを否定あるいは拒否したことだ。とはいってもこれら戦後の仕事にはすべて,自然や自然界の物体をモノとして扱い,それを単なる人間の意識の延長とはしない意志が貫かれている。西洋の評論家が日本の美術を見て,冷たいとか少々非人間的で<心>がないと評する傾向があるのは,こんなところに理由があるのかもしれない。西洋美術の根底に流れる人間中心主義を離れた,世界の客観化が,日本では常時行われているのだ。またそれは,俳句が西洋人を戸惑わせるのに似ているかもしれない。俳句の<感情的内容>は,知覚された自然界の物体あるいは知覚する詩人のどちらを分析しても現れてこないで,両者とつかず離れずのいわば半客観的な状況をさまよっている。

 確かに,久野真のスチールパネルに描かれた線に叙情性を,表面にデリカシーを読みとることはできるだろう。しかしこれとても距離を置いた,常に制御された叙情性である。歌舞伎においては,感情があまり大袈裟に演じられると,それは装飾へと昇華し,その形式が<表現すべき>内容そのものを空洞化してしまうという驚くべき構造体となる。美術においても古来から表現の状態は一般に冷静で,その奥に流れる緊張感が時間の経過とともにゆっくりとその姿を表していく。それにつれて見る者の意識は新たな存在領域へ,つまり見せかけの<個性>を剥ぎとられることでかえって世界の中の自己を充分に認識するような,さらに深い自覚へと導かれる。

 日本人アーティストの作品に見られるこの特質は,彼らがいかに多様な方法で作品を創作していても,その背後に脈々と流れている。自然を再構成する最も基本的な形態だとオノサトが考える円形,金属の表面をシュールレアリスト風の火ぶくれのようにした加納の『鏡』のシリーズ,地域特性的変化の見られる瀬尾の環境的作品,人間の自己証明と差異化の問題をつきつめた宇佐美の二次元的迷路空間など,その様相はかけ離れているが,すべてモノの皮膚の非イリュージョン性を一定のやり方で強調する点で,驚くほど共通している。

 世紀の西洋の画家たちは,イリュージョン空間や<絵画の穴>という問題に常に取り組み,それはキュビストのドローイングやマティス並びにハンス・ホフマンの行った,すべて等価な色の併置によって解決された。これに対して日本では,空間的なイリュージョンの問題は特に曲折した苦闘を引き起こしはしなかったが,これはおそらく何世紀にもわたって発達してきた主観性と客観性の概念の違いによるのだろう。日本人アーティストは近年,客観的世界---そこではもはや人間は中心に位置しない---に存在するモノとの客観的な出会いを深く追求しているようだが,彼らが日本古来の伝統を否定しているとは私には思えない。彼らの行為はむしろ,今世紀になってから日本人の思想に侵入してきたポスト=デカルト派の<あれかこれか>的なヒエラルキー・パターンの侵攻をそらせるもの,と私には受け取れるのだ。

 それだから,今回『表面の芸術』という日本美術の展覧会を開いてこの感受性と思想の広大な領域を模索することが,実に多彩な日本の現代美術を支える特質に焦点をあてる,少なくとも一つの道になればと願う。ただし私は,ここにあるどの作品についても,ナショナリズムあるいは<民芸”的なものがあると言うつもりは毛頭ない。すべては外に向かって開かれ国際的であり,未熟さや地域性を克服しようとする20世紀のアーティストなら誰もが直面する問題を取り上げている。彼らの言語は,敏感で注意深い鑑賞者には必ず理解されると私は確信しているし,またそういうアーティストを選んで展示した。一方で,環境とより深く結びつき,コンセプチュアルな脈絡において立体作品を制作しているアーティスト---彼らは今日のアートの真面目で真摯な主流といえる---の作品を出品できなかったのは残念だ。だが,この展覧会で見られる,表面にこだわる若いアーティストによって浮き彫りにされる美的態度は同じように重要である。それは,今日本におこり,国際的評価に値することの一端を味わわせてくれるだろう。

(原題:The Art of Surface  Art Gallery of New South Wales, Australia 発行)

*邦訳未発表



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