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偉大な円--郭仁植の仕事への覚え書き (1982年4月,ソウル・現代画廊カタログ「郭仁植作品展」) 坪井みどり訳

 聖書によれば,破壊に時があり,建設に時がある。また,あるアメリカの評論家は,ジャスパー・ジョーンズについての記事の中で,現代のアーティストの多くが,それまでのアートから何かを取り去りながら,それに代わるものを何ひとつ提供しない,と嘆いている。そしてまさにこの点において,郭仁植は今日の大多数の作家と異なっている。

 彼はおよそ45年前に,生まれ故郷の韓国から来日し,東京美術学校(現東京芸術大学)で学んだ。卒業後は,当時の前衛画家によくある生活を送ったが,彼の場合,日常生活は政府と憲兵隊によって抑圧されていた。とはいっても,この特殊な状況が彼の仕事を妨げたわけではなく,彼はいつのまにか日本の現代美術の主流に位置し,他の芸術家グループのリーダーたちとつながりを持って,共に作品を展示した。こうした活動は1960年代にいたるまで,それはど大きく変わらずに続けられた.60年代には日本のアートシーンに新しい動きが湧きおこったが,それは東洋というよりバリに根ざしていた。こうした状況に不満だった郭が最初にとった行動は,日本の現代美術を支えている前提を壊すことだった。彼はガラス板を砕いてキャンヴァスに貼りつけたり,ガラス板の上に別の破片を並べたりすることで,文学的なアート形式に立ち入ることなく“抽象芸術”の公式から脱け出そうとした。彼の作品は,シュールレアリスムの“発見されたオブジェ”的な性格はまったく持たなかった。言いかえれば,日本の多くのア−ティストをとりこにしたシュールレアリスムの心理学的あるいは説明的コンセプチュアルな資貿とは,無関係な形式を持っていた。彼の場合,主につなぎあわせる作業---ガラスの破片を接ぐことで,ア−ティストとモノも結ばれた---の結果として,形ある作品が生み出された。

 破壊と再構成によるこのプロセスは,コンクリート・石・真鍮板など他の素材においても追求された。これらの作品には,50年代末から60年代初めにかけて流行した『反芸術』の攻撃的要素はまったく見られず,むしろ新しい秩序に何かって動き始めているようだった。

 そして1969年,彼は紙に墨で描いた新しい作品に着手した。これらは彼にとって,日本の墨絵が向かっていた方向,時代の形式に染まらずに現実から逃避しようとする墨絵というものの否定を意味していた。紙の上に不規則で単純な円形を描く。仏教のシンボルとしての円は,古い時代の禅画によく見出されるが,郭の興味は形としての円とは別のところにあった。表面を定義し,作家の存在を肯定するもの,あるいは彼が扱っている素材と一体化させるものとして,円に改めて生命を吹き込んだ。これはある意味で,それまでに彼が鉄板に対して行っていたこと,即ち円形に近い小さな穴をあけ,表面の内部を開放しつつ,鉄はそのまま残すという作業の延長といえる。だが作家はすでにこの領域から抜け出し,“もの派”的興味---プロセスそのものや自然にあるモノの姿を露呈するために状況を操作するにすぎない---をも越える新たな興味へと移行しつつあった。

 長びいた病の後,彼には自分の美術作品の基盤が弱められ,覆されたように感じられた。加えてその時までに世間の評価が得られなかったことから,彼は破産を宣言し,創作活動をまったくやめてしまおうという危機的状況に陥った。そこで,ある種の有終の美を飾るため,東京で回顧展を開き,10年以上にわたる彼の仕事の主な方向が一度に,しかも比較分析されて見えるようにした。このとき私は初めて彼の作品に驚きをもって接し,これは“終わり”ではなく“転機”であると感じた。そして,事実そうなった。

 これ以後彼は,破壊--再建のテーマから次第に離れ,まず第一に表面と次元の問題に注意を向けはじめた。新しい意識は,岩の表面を“たたく”作品,つまり円形にあるいは中心に向かって密度の高くなる雲型に点を穿つ作品に現れている。これらの“記し”は,岩の三次元性や彫刻的要素とはほとんど関係がなく,アーティストと自然界のモノとを結びつけ,また単なる平面とは異なった表面の体験を開拓するという二重の追求の結果であった。同様の作業はインクを使った紙の作品や版画においても続けられ,筆によって描かれた点はそれぞれが次の点を生じさせ,紙が一種の磁場で満たされるようになっていった。そこには作家の存在が確かに感じられるが,それは攻撃的でも表面的でもなかった。この時点以後,むしろそれまで平面あるいは表面という特質に集約されていた作品は,こうした特質を否定することなしに,その領界を超えはじめた。

 この飛躍を可能にしたのは,構築的な手段として,また純粋に個人的で限定された作家の表現を超える表現方法として,光を取り入れたことだった,と私には思われる。ここにも別の扉があり,それはさらに広い世界へ,より広々とした空間を呼吸する特質を彼の作品に与えるような,超越的な生命力へとつながっていた。

 とりこまれる光の量が増えるにつれて,絵画は必然的に大きくなった。最初その表面は,白い地の部分が残らないほど重ねて積み上げられた墨のタッチで塗り固められていた。そして画面空間のいろいろな部分における密度の変化のみが,我々の空間と絵画の深層部を往き来する運動を作り出していた。真っ黒の作品は,だが,重苦しさや物理的な重さを印象づけることは決してなかった。そういう感覚が消し去られることはなかったが,むしろ空間内に場があることを感じさせると同時に,穴をあけても貫通することのなかった絵画の表面に目のつんだ織物を編み出していた。郭自身が述べているように,この頃までに彼は,表面・平面・空間の深みといった質を含みながらもこうした個別の問題を超えることに興味を抱いていたという。

 郭の創造的態度は年を追って変わっていったが,その中で変わらなかった点がひとつある。それは,彼がそのときいる場所に大きく影響されることだ。60年代末から現在までの(天然あるいは人工の)モノと手を組んだ最近作では,モノがアイデンティティを失わずに作家自身の活動と一体化して新しい二重の透明性を得るという抑えた表現がとられている。つまり彼は,自己のアートを形成する重要な要素として“場”と協力し合っていると言えよう。たとえるなら,ひとつの円が揺れ動くのを見ることができる---韓国での青年時代に始まり,シュールレアリスムや抽象的傾向で西欧化された戦前の日本の美術,それに対する戦後のアンフォルメルや反芸術といった反動,我々をとりかこむモノへの“もの派”的興味を伴った東洋への転換を経て,最終的には彼を決して放さなかった記憶の中の韓国というルーツへの回帰まで。彼は少年の頃の習字の練習について語ってくれたことがる。彼が家の近くの川べりに落ちている石ころに筆で書いた文字は,次の雨ですべて流れ去ったという。

 この態度のなごりは,多摩川べりからひろってきた石をたたく行為に見出される。彼は中心を囲むような帯状の記し,あるいは中心に近づくにつれて点々の密度が高くなるような,一種の磁場をつくりだした。他の作品では石を割ってもとどおりに合わせ,その表面を手つかずの状態で残した。これらの点は,雨が降っても洗い流されないが,彼が昔,筆で力強く書いた文字とは異なり,そもそも自然物に対する人間の優位性を主張してはいない。最初から失われるものは何もないのだ。

 同じことが紙に墨や色を塗った最近の彼の作品についても言えるのかもしれない。彼は70年代の初めから半ばにかけて,石を“たたくこと”に相当するある種の非絵画的形式として単純な円を使いはじめ,“紙(モノの一種)との同一化”を計ろうとした。しかしその道を深めるにつれ,作品はますます韓国的な空間観を帯びていった。それは雪舟の描いた冬の風景や60年代のアンフォルメルの画家たちの作品にみられる日本の絵画的伝統とは遠くかけ離れたものだった。雪舟の場合,雲をかぶった山なみが,その稜線の重なり具合によっていかに巧みに絵画的遠近感をかもしていようとも,その空間的効果は張りつめた平面性に吸い込まれるが,まさにこの点において彼は中国の宋時代の師匠たちから解放された。日本のアンフォルメルの画家の傑作もまた,同様の緊張した平面性をもち,すべては奥行きを排した表面と化してしまう。私が見る限り,韓国の伝統美術はこれら中国と日本という両極の中間あたりに属しているように思われる。

 以前の郭の作品の写真や,彼のアトリエの壁にかけられたアンフォルメル風の絵画から明らかなことは,郭が日本でこの地のアーティストと共に長く過ごした結果,空間のイリュージョンや透明性を作り出す努力はほとんどせずに,カンヴァスの表面に活気ある動きを生み出してきたことだ。ところが70年代半ば,彼が紙の上に筆の跡を残しはじめると,それらの点は各々が物理的に重なるだけでなく,点のまわりの空間をもまきこんで重なり合い,すべてが三次元の場にむかって発進しようとしている感覚を生み出した。とはいえ,表面に対する彼の興味は失われなかった。墨の重なりの重さでいかに紙が黒くなっても,そこには常に,さらに奥へと広がる空間が残されていた。

 墨のタッチと共に色や光を取り入れた最近の作品は,小さな場の拡大,これまで行ってきた作業を接視したような様相を呈しているが,さらに新しい要素が加わっている。初期の小さな点のシリーズでは,画面の表面から奥へと向かう傾向があり,点々の間から後退していく空間を見ているようだった。しかし最新作ではその反対のことが起きている。空間が点を伴って我々の方に向かって来はじめるのだ。これを韓国の空間概念への,より徹底した回帰と見るのは間違っているだろうか。というのも,私は室内の情景が描かれた韓国の屏風に,きわめて興味深い空間の様相を見出したことがある。この屏風では,遠くの物体が近くの物体よりも大きく描かれ,イタリア・ルネサンスの遠近法における“消失点”は画中の想像上の中心ではなく,絵を見ている我々の内部に存在する。言いかえれば,描かれた物体というより,空間自体が我々に向かって動いてくるのだ。郭の作品に見られる点々は透明であるため,筆の跡がその周囲の白い余白とともに,空間を作り出す要素として働いている。そして点がびっしりと重なり合っている部分では,ほとんどかまったく点のない部分よりも,空間が力強く作動している。これは,幼少期と青年期を過ごした韓国の絵画空間の,今までとは違った新鮮な解釈ではないだろうか。

 郭仁植は“超越する”という言葉が大好きだが,その意味は,私が間違っていなければ,“超える”と“含む”を組み合わせたものだ。これは60年代末の割れたガラスの作品に早くも表れている。割るという行為は,再びつなぎ合わせることによって“否定される”のではなく“超えられる”のだ。別の例でいえば,白い粘土を焼いた作品で,土を堅くするために焼くという行為により,切る・折るといったごく一時的で束の間の身振りが永遠性を獲得する。また,彼が石の表面に穿った点は,ひとつひとつの石の表面そのものを強調すると同時に,その石の実際の表面とはほとんどあるいはまったく関係のない,独立した空間や磁場を持った世界に入りこむ。

 彼が場所性を意識しはじめたことも,一種の“超越”だった。彼は日本の現代美術における様々な前衛的運動に加わったが,しばしば中核からは離れた位置に身を置いた。集団動向としてのアートに興味を示しながらも自分自身の道を追求するという,いわば矛盾した態度をとった。彼が好む真鍮は,子供の頃韓国で食事に使っていた箸やその他の道具の素材だが,だからといって彼の真鍮作品はノスタルジアとは無関係だ。これらの作品は,激しく打ち砕かれ,優しくつなぎ合わされた60年代のガラスの作品と同じように,荒々しい反抗と穏やかな和解という似たような感覚を与える。彼は,東京に輸入された西欧のアカデミック・アート---中でも60年代半ばのアンフォルメルやシュールレアリスムは,まるで現代版琳派のような洗練された修飾性をもたらした---に反発した。だが同時に郭は,モノと空間の新しい和解を支える基盤を作り,彼のもともとの伝統---ただし厳密な意味での“伝統”ではない---に,まるで円を描くように回帰した。

 最近の作品で光を充分に用いていることもまた,この“超越する”特質を担っている。私の考えでは,西欧の芸術家は精神の象徴として光を使い,中国・韓国・日本では影や闇を用いて精神を表現している。郭の場合,出発点として後者の東洋的な態度をとり,初期の作品では黒い墨の点を厚く塗り重ねたが,それが高じて表面全体が真っ黒になり,その密度によってしか見分けがつかないほどまでになった。そして色を取り入れた後の作品において,どれほど光の量を増やしても,闇という前提は決して消えずに,むしろ光と闇の新しい融合に吸収された。ここに新たな宗教観,すなわち伝統的な仏教の枠組みを超えてキリスト教的な光の概念世界にはいり,しかも精神を闇で表す仏教古来のシンボリズムを失わない宗教観を追うことは無理であろうか。20世紀には,具象性や主題性を帯びたシンボリズムはほとんどがまったく虚偽,あるいは無力であることが証明された。というのも,かつてシンボルが固定された集団的価値観を表していた時代には,シンボルは共同体的な精神生活において現実的な意味を担っていたが,もはやそうした基盤は存在しないからだ。郭の生み出すある種の抽象的な光りは,象徴性を持った精神がモノに生まれ変わり,交信を行うために唯一残された手段かもしれない。もしそうであるなら,それはごく微妙なコミュニケーションではあるが,巧まずして洋の東西に橋を架ける,新しく自由なコミュニケーションである。        1982年1月26日

 *邦訳未発表


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