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目的性のない絵画における光りと空間としての色  (さぐる No.1, 1979) 松岡和子訳*
Color as Light and Space in Non-Purposive Painting

 活発な関係が複雑にからみあった組織---それが世界だとすれは,絵画においてはエネルギーの場として表現出来るだろう。ものは個別の存在であると同時に,その相互の関係が重要である。関係は存在を保証し,意味を成立させる。少なくともわれわれ人間が感知する現実は,存在するものが真に触れ合う関係がからみあっている状態であるし,われわれはそこから出発して,絶えず拡がる現実の場との関係をつくりあげる。現実のこの根本的な比喩化,象徴化が精神的,また人間的な関係も含むことになる。

 この明確な例はアメリカ人,ハンス・ホフマンの1950,60年代の絵に見ることが出来る。マチスの絵を模範にした生命感に満ちた色の面である。緊張と解放の関係,抑え引っぱる関係をつくるため,互いに反応しあう色の領域を隣り合せて,暖かい色は前方に迫り,冷たい色は後退する。これは三次元空間の錯覚をつくるのではなく,空間的な力と関係を象徴する。

 ルネッサンスの遠近法の場合には,眼の運動は空間を通して奥へ奥へと後退し,地平線の中の一点に収れんする一方通行である。バロックはより劇的で大胆だが,同じように後退的だ。20世紀芸術の発明の一つは,空間の中で多方向に向う道だが,それを成立させるのは抑える,引っばる,また,拡張,縮小する媒介としてのきわめて空間的な色使いである。(後者は,まだ充分に追求されていないが・・・・)

 ハンス・ホフマンが,マチスを論じた目的は,色と形の間に生れる曖昧さと矛盾が,いかに緊張と解放の運動を活発にしたかを示すことであった。ホフマン自身の抽象の作品では,重なったり単独で浮かんだりする長方形が,ぶつかり合うか,あるいは自由に運動するか,場合によって他のフォルムの曖昧な領域に囲まれることもあるので,場所としては明確ではない。色と色は互いに反応し,例えば,バーミリオンと青い長方形が重なりあう場合には,互いに力強く引っぱっていると感じさせるし,また曖昧な輪郭を持つ同じ明度の二種類のプルーの長方形の場合には,ゆったりした浮遊運動を示す。

 だが,ホフマンが取り上げなかった色のもう一つの機能があるように思う。それは,光と空間とを同時に創造するということである。西欧の深い伝統においては,生活,芸術の両方に対して希望や生命感を抱いていた時代に,色彩のこの機能が認められる。

 東洋芸術の場合は,光と色とを別々に取り扱うように思われる。一番強い色を持つ作品は,チベットと中国の古い仏教のマンダラで,画家は,あらゆる色を鮮やかに用いた。しかし不思議なことに,光との関係はほとんどない。色彩は,画面の中にあるものとものを区別するためか,あるいは,装飾のために使われたようだ。

 宋と室町時代の山水画の墨のぼかしを見ても,密教のマンタラの背景を見ても言えることだが,精神を東洋的に表現するためには光よりも影の方が力強い表現手段だったようだ。西欧の絵に見られる光に一番近い東洋の光は,日本の鎌倉時代の絵巻にあるかと思う。それは,テーマとして完全に世俗的でないにしても,ポピュラーないきいきとした物語が目的であって,深い意義をねらうことはない。

 ヴェニスの画家たちは,ピザンチン式の聖マルコ大聖堂のなかの壁から湧き出る輝きを大切にしたが,彼らを唯一の例外として考えるなら,ルネッサンスの光は,極めて計算されたもののように思える。その目的は,事物を可視化して立体感を強めることであろう。すると,錯覚の空っぽの空間箱の中に色々なものが見えてくる。画家がその空虚の中に描き入れるものは,所有の欲望に応えるものだと言えよう。つまり,立派な衣服,室内,原野,山などは,絵を買う行為によって,買った人にその所有権を与えるとみなせる。少なくとも,描かれたものは絵の所有者の,持ちたいものの代わりか象徴であり,欲望に応えて満足させるという錯覚をささえるであろう。だからこそ,この芸術には,強い目的性があるのだ。

 西欧美術において,強い目的性があるとき,光は,その目的性を強調する役割を果たすようだ。ヘレニズム時代のギリシャであれ,ローマであれ,イタリアやフランドルのルネッサンス,また豪華なバロックであれ・・・。ルネッサンスの目的性は所有という行為にあり,それを可能にするのは,計ることであった。〈ルネッサンスの絵が,細かくものを説明することも,広い意味では計ることである。)

 ルネッサンスの人に言わせれば,「計ることは知ることであり,知ることはある種の所有である」。所有以外のバロックの目的性は,見る者の視線を絵の中に引きずりこみ,逃げられないようにすることである。ルネッサンスが商談だとすれは,バロックは誘惑である。

 近世の評論家たちは,知的な線と比べると色は芸術の中の本能的,感情的な要素であるので,明確に定義しがたいと述べてきた。この論にはじめて答えたのはおそらくボードレールではないか。彼はそのドラクロワ論において,絵に登場する人物やテーマを認識する前に,絵画の色を通して,既に作品のメッセージや意味が分かると述べた。こういう区別と認識はルネッサンスの「知識」とは極めて異なる。つまり,現実の世界に存在するものの説明でも測定でもなく,芸術家と現実とが出会う結果としての状態の表現なのである。これこそが,現代美術に大きな関わりを持つように思える。

 現代美術の多くの場合,現次元における日常性に対する興味がある。つまり,現実の「皮膚」の鋭い観察。これは,ポップアートやスーパーリアリズムの場合に限らず,最近のコンセプチュアル・アートと状況芸術〈もの派を含む)にも当てはまる。一方でテレビ,ラジオ,新聞,週刊誌などの目的性のあるイメージの世界があり,そこでは欲望のためにイメージが現実を追い出す。この意味では,ポップアートのある領域は「目的的イメージの風景」と定義できるだろう。もう一方には極めて物理的な作品があり,即物的現実〈ブル一ト・リアル〉のために,また,自然やものの事実のためにイメージをつくることは拒否する。あるいは,ミニマルアートがわれわれの空間に非象徴的なオブジェをつくる。

 1967年のニューヨークにおける芸術家のシンポジウムを思い出す。ミニマリストのドナルド・ジャッドは,芸術において色を使うことに反対していた。色は表面における錯覚的なものであって,彫刻や画面の上に新しい空間を投射し,見る人が存在する状況の物理的な現実から引き離すので,作品の現実性を全く失わせてしまうと言ったのである。ここに存在の質の問題があるように思う。と言うのは,ジャッドが「見る人が生きている状況」と言ったならば,彼の立場は苦しくなったはずだからだ。人間の生活と他の生きものとを一番明確に区別させるものは,自分が住む世界の知覚表現として,象徴をつくり出す能力と希望である。(ここで言う象徴とは,19世紀の後半の画家,詩人が言った象徴主義とはちがって,より根本的,普遍的なものとして考えている)。

 だが光としての色には,目的性のある方法によってものを説明することなしに,空間的な状況と運動を象徴する力がある。芸術作品は具象であったり抽象であったり,あるいは両方を超える場合もあるが,光として色を使うことによって,現実の不思譲な世界に侵入することがあり,見る者を縛らないからこそ,人はほっとする。見る人の反応を全て制御しようとする,芸術家が既に決めた態度を強制されることはない。

 ここでは,間という東洋的な槻念と関係づけたいと思う。私のいう間とは呼吸する空間であり,ある限界のなかで,見る者に自分の方向性と観点を自由に選ばせるということである。形と態度における根本的な前提のいくつかが定められてはいるが,拡張する力が働いて何がしかは見る者の自由にまかされ,それは画家には絶対にコントロールできない。

 絵画と色の領域以外の二つの例を挙げて,この自由を明確にしてみよう。その第一は,桃山時代に頂点に達した日本の石庭である。石庭は明らかに自然ではない。石は運動と力のバランスを暗示するために配列され,壁が垣恨の外側の世界と家や縁側という内的な世界とを一体化する---石,壁,木,空,向こうの山など,全体を「近づきつつある」という状態に入れる。一番優れた庭の場合には,三次元の世界が,絵画的な二次元の世界に近づきながら,立体的な現実性を一つも失うことがない。眼は,前方にある風景のなかに引っぱりこまれず,むしろ,風景の方が少しずつ眼に導き入れられる。それは,見る人のために,整えられ,ゆだねられている。これは,所有のためではなく,観照のためである。つまり,見る人が自分を与えたい所までにだけ導入されている。これは,中世の知識の定義に似ている。「知識は,知るものと知られるものとのある種の同化作用である」。ほかの言い方を使うならば,外の世界を自分のなかに引っぱりこむよりも,自分自身が外へ招き出されるのだ。

 自由を強調するこの自然の性質は,石は石,苔は苔,木は木という変わらない事実である。象徴的な説明は付加的な想像の産物にすぎない。ここにある根本的な象徴性は,言語に訳しえないものであって,見る者の出会いの世界へのある種の拡張である。

 ここでは,出会いについて話しているが,それは,李禹燠がアンチヒューマニズムの美学を論じたのに似ている。そこでは人間を自然の中心に置くデカルトの位置を,あるいは現実のビラミッドの頂辺(てっペん〉という場所を譲らなければならない。(先述したマスメディアと関係する問題として)現実の世界を物象化するという問題は,われわれの時代に対して根本的とも言える。しかしながら私は,イメージを絶対につくらないというもう一つの極端は,解決にならないと思う。埃を払いおとして現実をありのままに見せるということは,物象化と同じように錯覚にすぎない。

 問題は,人間は象徴なしには現実を表現することも出来なければ認識することも出来ないということだ。だから,象徴なしに現実を裸にすることも出来ないだろう。

 石庭は,見る者が身を置く建物か縁側の計算された延長として,ある種の建築物として見られるかもしれない。石庭以上に明瞭に人工的な建築はピザンチン様式の教会である。例えば七世紀のコンスタンチノーブルのハギア・ソフィア。窓やアーチを通る光の位置によって,壁の重さと厚さという物理的な現実は視覚的に拒否されている。そのかわりに,浮遊感があり,四つの隅にあるアーチの背後の空間が自由に拡張して見える。中空間は見える窓に向かって,または隠れている窓に向かって外へ外へと動き,アーチを通して向う側の光りを浴びた空間へ向う。全体の上に巨大なドームがあるが,その輪郭が多くの細かい窓に抜けられるために重さが消え,外側のより巨大な宇宙のなかに拡張する可能性が感じられる。

 空間が物質を通り抜けたり超えたりするという物理的な経験における象徴の行為によって,その場所に入る人は自分が外へ外へと拡張する感じを体験する。すなわち,拡張する状態とはどんな感じかということ。ここでは単なる物質的な拡張ばかりでなく,精神的なそれも与えられている。それは,物理的な事実の配列における象徴性のためである。無論,空間がアーチ窓を通して,「動く」ことはない。しかしながら,本当の意味ではわれわれの世界の空間は「動く」。その運動は,絡み合っている本当の物理的なエネルギーが反応し合い,世界を組織させ生かす現実の関係の巨大な網を創造する。こういうことは,人間と人間との関係を生かす網にもあり,その関係が,時間によってあまりにも複雑になるために分析しがたくなるが,しかし,人は空間を物理的に動き,この動きはハギア・ソフィアのアーチの下をくぐり重力によって床に触れることと同じようにリアルである。

 空間を拡張したり縮小したりする媒介としての色に至るために随分遠回りしたようだが,先述したことは,これから述べる論旨を少しは明碓にしてくれるのではないかと思う。

 色そのものの話に戻ろう。普通,現代美術における色について論じるときには,その感情的な表現力か構成力に限られている。私はこれらに平面における光の拡張能力を付け加えたいと思う。その効果はすでに述べた石庭とビザンチン様式の教会にあった効果と同じである。

 ビザンチン様式の教会のことであるが,室内のモザイクにおける色の質にその効果が見える。コンスタンチノーブルの聖ヨハネ教会には,14世紀のモザイクによって聖書の色々の野外の場面が泥くさく描かれている。遠近法によるリアリズムではなく,人間が背景より大きく描かれ,大きさによって強調され,場所を簡単に示すにすぎない。青い山は山であり,石は石,人は人である。しかし,これ以上にモザイクというメディウム自体メッセージである。ここのモザイクは,ローマ時代の不透明の色石と違って透明ガラスでつくってあるので,光が入り込み,呼吸する。描かれた場面の物理的な現実を乗り超えながら,泥くさい現実感の力をひとつも奪うことがない。ここにおける自由というのは,色と光の外への拡張であって,予め決められたある点から別の点までの目的性のある運動ではない。

 画面の上にある光と色は,一つあるいは多数の違う光と色に囲まれた場合,われわれが居る空間に向かって動いてくるような感じを伴ってその色の周りへ拡張するか,あるいは縮小して私たちのなかに入ってきたり,私たちのなかの深い空間に後退したりする。色と色との微妙なバランスがあれば,この効果がありながら,色と色とは分裂せず,平面のなかに穴が開くようなこともない。すなわち,彩られたものは,物理的に空間を動いていたという錯覚なしに拡張する。または縮小する光の運動的な力が与えられている。

 ここには,大芸術に必要ときれる性質が保たれていると思う。つまり,物理的なまさに泥くさい現実感と同時に超越感ということ。物理的な事実が与えられているが,ぼんやりした抽象的なもののために,拒否されたり,犠牲となったりすることはない。しかしながら,この象徴的な組織によって私たちは「もの自体」の中に,または存在の体験のなかにより深く入れるのである。

 これについては,スーザン・ソンタグが異議を申し立てる。『反解釈』という彼女の著書の主張---芸術や文学の現代の評論家は,ものの感じられる〈センシブル)表面の後に「隠れた本質」をあまりにも一生懸命に捜しているので,物理的な現実を完全に忘れてしまう。彼女にとっては,小説家のロブグリエのように見えるものが全てであるから,外観を解釈したり,越えたり,本当の現実に至るという努力は無駄になる。彼女が求めるのは,評論をご破算にすることであり,眼の前に現れてくる事実を凝視すること。

 ソンタグの主な対象は,生活と芸術における象徴主義的アプローチである。それは,意味深い現代的運動の最もポピュラーなものであり,フロイト,ユングの精神分析と関係する運動である。従って,少しその運動を見つめる必要がある。

 象徴主義,超現実主義の両方とも,社会的,精神的な深い危機に対する反応であり,例外を除けばこの二つの運動は,人間に対して悲覿的であり,芸術的システムとして後ろ向きである。勿論,ゴーギャンとゴッホは1880年代の行き詰まりを突破した点,また,印象派の一時性に対して新しい普遍性を与える極めて新しい絵画的な組織を創造した点では,極めて創造的であったにちがいない。ところが,19世妃の終り頃の暗いロマン主義的な絵を見ると,この二人が,まれな例外にすぎなかったことが分る。新しいメッセージを伝えるために古い技法が再現された。アールヌーヴォーの新しい「七宝焼」の形が登場した時も,単なる装飾的な流行のパターンにすぎなかった。

 第一次大戦の残酷は絶対的な不条理として経験されたが,それに直面した超現実主義者は根本的には悲観主義であった。戦争は人間の思考能力を犠牲にすることを要求したし,人間が人間を殺したのは,他の国の国民であるということが理由であり,知識は不条理の道具となった。超現実主義も同じく合理的な能力の犠牲を要求したし,裏返しになった新しい価値観は,無意識の生活が意識の生活に勝るとした。超現実主義者は,自由,愛,革命を賛美していたが,その芸術作品は主に,ずっと昔に使いつくされ突破された古い画法によったものであった。転覆の道具としては,理解できる。既成の価値観を疑わない人の根本的な前提を転覆するためには,既成の価値を使うことが一番不安を掻き立てる。その意味では超現実主義は革命的であろうが,しかしそれは,文字的,心理的な方法であって,断じて造形的「芸術的」方法ではない。

 超現実主義的絵画を見るならは,画法的には15世紀以来空間・色・光の発展は一つもないような印象を受ける。ミロは,この原則に対する不思議な例外と言えよう。彼の絵画において空間・光・色が一体化されたことは,本当の意味での現代絵画に対する超現実主義の最もユニ−クな寄与である。彼の作品はイメージの泥くささと同時に超越性もあわせ持っており,光に充ちた色の拡張しつつある場を経験させてくれる。その色は,画面から絵の深い所まで静かに呼吸する平面が絶えず保たれるために,この全部のエネルギーの間に緊張感が生まれている。

 ミロの場合には,20世紀の絵画において平面性を強調する理由がはっきりと分かる。平面性の強調は,緊張と解放のエネルギー間係を生み出す唯一の方法のようだ。その関係にはこの種の拡張が含まれ,この拡張の効果を誰よりも完璧にコントロールしたのがミロなのである。中世の秋と初期ルネッサンスに,見るものと見られるものとを統一させるよう画家は努力したが,しかしこれは,主に絵の物語的状況によって物理的な近さという錯覚をつくり,描いた人間の少なくとも一部は,額縁の外に立っている鑑賞者の存在を意識するように描いた。ミロの作品における平面からの呼吸があれば,心理的な物語はもう必要ではない。

 ミロや,はんの数人を別にすれば,超現実主義は,古い言語をもう一度使うことにすぎないし,それ以上に芸術の拒否である。せいぜい,心理的な目的のために芸術を「利用する」といったところで,結果としては最も徹底的なルネッサンスまたはバロックの絵画と同じ程度の目的性を持ち,見る者を操ると言わなければならない。

 この点では,ポップアートも超現実主義と同じように考えられる。ポップアートは,マスコミの既成のイメージを使いながら,そのイメージをねじったり,切っ取ったり,その順序を転覆することによって,よりあいまいな他の言語系列をつくる。作品によっては興味深いものもあるが,しかしイメージについても色についても,本当に新しいものはほとんど見られない。スケールのちがうもの同士のありえない併置さえ,エイゼンシュタイン以来のごく普通の映画言語にすぎない。すると恨本的に新しいと言えるのは,ほとんど文字的か象徴主義的なものになる。

 だから,スーザン・ソンタグの反解釈という姿勢が理解できる。つまり,彼女は現実の代替としてのイメージ,現実の代替としての幻想に異議を唱えているのだ。しかしながら,ここでも彼女の姿勢は一方的とも言えるだろう。現実を認めながら,象徴をつくるという人間の本能を認めるという姿勢もある。それだけではなく,20世紀の人間にとって現実とは何かということを決めるのはますます難しくなっている。本当に人間はどのくらい実際に見るのか,世界のモデルをどのくらいまでつくるのか。

 世界の構成モデルがいずれも花開いてはしぼんだのは,それらが部分的な満足しかもたらさなかったからである。---プラトン主義,スコラ哲学,デカルト主義,理想主義,唯物論・・・・---それらの残滓からわずかに幾すじかの流れが,東洋思想をくみ取って現在にまで流れこんでいる。今日,共感を興す流れの一つは,目的性のないことに対して満足する感覚である。

 この文章は,芸術におけるその非目的性の世界のある表現にアプローチしようと試みたものである。その表現は,強い存在感・生命感と,所有欲や操作欲を超える瞑想的な一致一体とを結び合わせようとする。私はこの表現が,現実の不思議な性質を体験し共有するための一方法だと思う。この表現によって,私たちは日常的な事実に接近し,拡張する新しい次元を含むことになる。

 芸術にはこのような象徴的な行為に至るいろいろの方法があるが,しかしながら絵画または平面作品にアプローチする場合,色と空間を創造する光の問題を見逃すことは出来ないと思う。20世紀の「新しい」方法論の中では,他のものよりもこのアプローチが,創造的で統合的な行為のためのより広い範囲を与えると思う。

 ミニマルアートの場合は,色は普通二次元か三次元のモノの皮膚と考えられる。そのモノ自体がスケールにおいても象徴においても,われわれの空間や状況から絶対に離れることなしに非表現的または,攻撃的な存在としてある。これを取り扱う場合,自然物であっても,建築物であっても,力強く自分の存在を感じさせる他の物理的なものと同じように取り扱うへきである。ミニマルアートをつくる芸術家の賜は本当の静かな認識---イメージが現実に勝る世界では往々にして失われる存在感。ところが,ミニマルアートは古代ギリシャのパイダゴコスのようなものである。つまり,召使いは,子供をつれて先生の所までに行くが,それ以外は何もしない。だからミニマルアートは,みずみずしいご破算であり,媒介であって,より完全な芸術をもたらすものであるはずだ。さもなければ,内容が極めて曖昧か,あるいは内容が全くない学校の授業に似てくるだろう。ミニマルアー卜は次の世代の芸術家に挑戦し,その出発点となる筈である。道の終わりではない。

 ここで私は「非色」(または非光一非空間)を表面として使うことは,絵画における突破すべき眼界であると思う。作品を見て得る所がある人間と意義深い接触を生むために,必ず光と空間は色のなかに含まれなければならない。そのような状態があるならば,鑑賞者は絶えず拡張する世界に象徴的に参加するだろう。その世界は,孤立し囲いこまれた存在の超越と,相互の自由をそなえた共同体の反映である。
(原題:Color as Light and Space in Non-Purposive Painting)

*この文章は,松岡和子氏により再訳されました。

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