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日本現代美術におけるグループ---具体と吉原治良
 
(ART INTERNATIONAL summer, 1972) 松岡和子訳
The Group in Contenporary Japanese Art--Gutai and Jiro Yoshihara

 日本の現代美術史においてはグループの活動が政治的な重要性を帯び,しばしばそれが芸術的な価値を凌駕している。歴史的にみると,何世紀にもわたってはっきり何々派と名付けられた諸派がつねにあり,個々が明確に規定された様式上の類縁性を持っていた。最も古いところでは狩野派がある。これは,志をひとつにする特定の集団というよりは,むしろ代々続いた御用絵師の一族といったほうがよい。土佐派は地方に根付いた装飾的な絵師の一派で,狩野派とおなじように由緒があり確立した目的を持っていた。江戸時代になると,円山応挙を始祖とする写実的で西洋の影響を受けた四条派が,また,短命ではあったがフォーヴィズム的な尾形光琳の琳派が加わり,場は広がった。

 英語では流派のことをschoolというが,これらの派はそもそも本来の意味で学校であり,画家たちは特定の師のもとに集まった。師は責任をもって彼らの教育に当たり,作品制作の幹旋もした。だが明治維新になると,徳川時代のもろもろの社会機構とともにこの制度も崩壊する。それに代わって,共通の関心を持ち自由に参加できるまた別種のグループが登場した。その中で最も早く生まれ最も影響力が大きかったのは,『茶の本』の著者である岡倉天心が,ボストンの学者アーネスト・フェノロサと共に1898年に創設したものだ。岡倉は,東京美術学校の校長でもあった。日本美術院という名のこのグループが目指したのは,西洋の事物の大流行と日本の古い文化に対する反動によって芸術の伝統が消されるのを防ぐことだった。

 1972年1月,東京セントラル美術館でこのグループの遺産を見せる展覧会が開かれた。皮肉なことにこの展覧会が示したのは,岡倉がいかに間違った馬に賭けたかということ,そして,いかに真の芸術的進歩を妨げたかということだった。彼の「厩舎」の先頭馬は狩野芳崖と横山大観だが,狩野は見ばえはよいが衰退の一途をたどる御用絵師一族の末裔だし,大観の作品は江戸時代のマニエリスムのパスティーシュにすぎない。

 江戸時代の絵画には多くの系譜があった。狩野派の作品は,将軍の権力を後ろ盾とする下級貴族の目に訴えるようその館を飾るのが目的であり,また,厨房や書斎のための中国の墨絵の伝統を受け継ぐのが目的でもあった。このふたつのコンビネーションの最高の例は,徳川将軍家の公の住まいであった京都の二条城に見られる。しかし,文人画あるいは南画というまた別の系譜もあった。この一派が手本としたのは,圧政に反発しその捌け口を,たとえば「千の醜い点」といったエキセントリックな絵巻を描くことに求めた明朝の「哲学者」である。日本においてこの軽妙なスタイルを取ったのは詩人や儒学者で,彼らは正式な訓練は受けなかったものの絵もよくした。

 この一派は明らかに最も融通無碍で,20世紀の日本美術の生きた力になる最大の可能性を持っていた。儒学者であり,書家であり,画家でもあった富岡鉄斎の作品を見ればそれがよく分かる。鉄斎が柔らかな色調と豪放な筆致で描いた人物や風景は,彼自身は過去の人間になりかけていた1920年代の日本美術の最高峰である。彼は,丹下健三の言う縄文期の創り手の定義にぴたりと当てはまる。すなわち,世界に向かって開かれ,荒々しい生命力と活気に満ちあふれているのだ。

 ところが岡倉は,東洋に芸術の理想を見出していたにもかかわらず,この伝統がそなえる荒々しい土臭さに異議をとなえ,弥生式の伝統に通じる装飾的で口当たりの良い御用美術のほうを是しとした。すなわち,洗練の極みではあるが社会に向かって開かれてはおらず,自身の中で完結しているのだ。「天心と同時代の日本画」と題された展覧会は,この事実を余すところなく伝え,また,明治時代から1960年代に至るまでの画家たちが,信じがたいまでのテクニックの代償として支払った,精神の自殺を示したのだった。

 これが「・・会」と呼ばれる制度が及ぼす結果のひとつである。だが今世紀初頭には,もっと興味深いグループがいくつか現れてもいる。たとえば油彩による「洋画」家の集団である草土社は,1915年以降に油彩がたどる方向に多大な影響を及ぼした。創立者である岸田劉生は,ヨーロッパ留学中はパリの画家たちの新印象主義を無視し,ホルバインやヂューラーふうのデッサン原理に基づいて制作した。

 20世紀前半の日本美術の歴史は,数多くのグループの離合集散としてくくることができるだろう。グループの存在は,第二次世界大戦がもたらした廃墟と混沌から生まれた美術においても,生き延びるための強力なバネになったが,やがてその有用性はなくなった。凋落のきざしは,私が日本にやってきた1956年にすでに見て取れた。巨匠を中心とする大きなグループは流行を追う集団に堕し,創造性を犠牲にして安定を保証した。たとえば,川端龍子が結成した日本画の青龍社,前田青邨らが率いたアカデミックで権威のある日展,写実的な具象画のグループの一陽会などである。散発的な動きしかなかっただけに,1949年に読売新聞によって創設された無審査のアンデパンダン展は,戦後の前衛美術における重要な前進であり,アンデパンダンそのものは長く続かなかったものの,「会」の力を壊す効果は大きなものだった。美術が本当の意味で戦争による破壊から立ち直ると,こうしたグループの意義は,だめな作家を保護するというアナクロにスティックな面を除けばますます小さくなった。

 こうした戦後グループが助長した芸術上の嗜眠状態への傾きにもかかわらず,日本の前衛美術に大きな創造力を注ぎ込み,かつそれを海外の鑑賞者の目に触れさせる原動力となったひとつのグループがある。具体美術協会は1954年に吉原治良を中心として結成されたが,1972年2月に彼が他界したため,それを機に解散することになった。この集団の活発な生命は,開明的な指導者の死とともに終わったのである。

 吉原は日本の前衛美術の大御所だが,美術界への関わり方はかなり変わっている。サラダ油をはじめとする食用油の生産では日本屈指の会社の社長としてだったからだ。この富があればこそ,彼には芸術上の完全な自由が保証され,具体グループのコジモ・ディ・メディチとなることができたのである。彼が展覧会を組織し,画廊を建て,グループの他の活動に資金を提供するということをしなかったならば,具体美術協会はこれほどの活力に満ちた存在にはなりえなかったろう。私の見るかぎり,彼はグループの中の誰に対しても,あるひとつのスタイルに合わせるように圧力をかけたことはなかった。従って,メンバーはみな常に対等の立場に立っていた。取り分け注目に値するのは,大阪を根拠地とするこのグループが,芸術の中心である東京で怒っていることに優るとも劣らない活動をしているという評価を勝ち得たことだ。

 1954年,吉原治良が彼の周りに集めたのは,すでに彼の薫陶を受けていた12人と,当時芦屋市展で作品を発表していた5人のアーティストたちだった。元永定正は初期のころを振り返り,次のようなことを言っている---若者の作品がどんなに異様でも,吉原は適切な批評と励ましを与えてくれた。そのお陰で自信が持てたのだ,と。こうした後ろ盾を得て,1955年の春,彼ら全員が東京都美術館における「日本アンデパンダン展」に出品した。この巣立ったばかりのグループにとっても,また他の多くのアーティストたちにとっても,これは新たな芸術上の自由への重要な前進で,従来の「会」のシステムでは叶えられないものだった。今日でも評論家たちは,この展覧会が日本の現代美術の真の始まりだったと認めている。無審査だっただけに,新しい芸術にはつきものの極端に風変わりな形態やハイブリッドが許された。言うまでもないことだが,ヒステリックで抑制を欠いた作品も数多く現れた。しかし,重要なポイントは,何をやってもかまわないというそれまでにない自由な空気だった。この空気から生まれ育ったのが,抽象表現主義という破天荒で粗野な表現形態だ。以来今日にいたるまで,抽象表現主義は反逆的な芸術における日本独特のアプローチになっており,現在の若い世代の芸術家たちに見られる政治志向の強い反体制的な作品に繋がっている。

 大阪では,具体の作品が新聞の芸術欄で取り上げられることは滅多になく,一風変わったイヴェントやスキャンダルの報道と同列の扱いを受けた。その理由は,初期の数年間このグループは,格式ばった雰囲気の中で展示するという従来の考え方を拒否し,開かれた公共の場で作品を見せたからだ。その点で最も意義深いのは,1955年と1956年に芦屋に近い広大な海辺の松林で開かれた野外展である。黒い足跡のついた白いビニールの「道」が100メートルにわたってつけられ,その場をひとつにまとめる。道はあちこちにうねり,しまいには一本の松の幹を昇って梢に消える。これは金山明の作品だ。金山はこれに様々な「ファウンド・オブジェクト」を付け加えた。たとえば踏切の信号機,展覧会の会期中,信号の鐘は鳴り続け,赤いライトが点滅していた。この鐘のリズムは,田中敦子が七つの巨大な人体につけた光りの明滅のリズムに同調するようセットされた。白いビニールシートに被われたこの七体は,夜ともなると,まるでロボットかクー・クラックス・クランがずらりと並んだように見えたものだ。田中は,同じ素材による巨大な十字架も展示した。これには無数の電球が取り付けてあり,それらが点滅して様々なパターンを描くようにモーターをセットした。

 雑な作りの作品も数多く展示された。それらは「完成した作品」の高い水準には達しないものの,のちにハプニングと呼ばれるものと同一線上にあったと言ってよい。1957年にこれらのアーティストたちはハプニングというジャンルを開拓するわけだが,すでに初期の作品にもその動きの萌芽が見て取れる。一過性の感覚に満ち,生で未完成というふうに見えるからだ。嶋本昭三は大砲を築き,アセチレンガスを爆弾代わりに使って様々な色の絵の具を10メートル四方の真っ赤なビニールに向かって発射した。機械による一種のアクション・ペインティングである。この作品には永続するハイアートの価値は皆無だが,具体グループを駆り立てたエネルギーを如実に表している。同じようにラフな表現主義は,村野康による金網の作品にも見受けられる。金網は高さ10フィートの赤いボールに大雑把に巻き付けられ,まるでアラン・サレの作品の予兆のようでもあり,また,当時日本ではほとんど知られていなかったジャクソン・ポロックの作品を三次元に変換した試作のようでもある。

 最近のプロセス・アートやコンセプト・アートを想起させるのだが,たとえば太陽光線を利用した堀井日榮の作品のように,自然とそのプロセスを際立たせたものもあった。彼は枠だけの箱のようなものを築いて傾いた壁をつけ,そこに半円の穴を開けた。その穴から射し込んだ太陽の光は,様々に変化するパターンを床に落とし,側面にはその反射が映るのだ。村上三郎は,二本の木の間に掛けた簡素な額縁に「あらゆる風景」というタイトルをつけた。彼はまた,漏斗のような蓋のついた筒型の布テントを作った。中に入ると,ピンクの漏斗を通して自然から円く切り取られた空が見えるというわけだ。吉原は,いかにも彼らしくこの「空」が気に入った。彼に言わせれば,「その目的のために造られた作品が凡そ美術的だと考えられる一切の考慮を拒否している」からだった。

 自然の状況と人間が作った素材とのもっとも興味深い組み合わせは,元永定正の「水」である。彼は,松の木の間に約10メートルのポリエステルのチューブを何本も張り渡し,それに重りを兼ねた色水を入れた。チューブは風を受けて揺れ,太陽光線を受けて重さも変化するのだった。

 思い返してみると,一番びっくりさせられたのは,吉原が作った部屋である。外側の壁はインディゴブルーで,三つの入り口から見える内側は赤,その入り口から入って行くと,中はどんどん狭くなり,しまいには腕とか脚しか突っ込めないくらいになる。最近のノン・ヴィジュアルな知覚体験に近い体験ができたものだ。

 具体グループが獲得したディオニュソス的なイメージが見られたのは,白髪一雄の泥を詰めた大きなビニール袋の作品だ。白髪が意図したのは,内蔵のような効果である。袋は中ほどで絞ってあり,絡み合った緑色のロープが排泄されていてまるで異様なナマコのようだった。激しい有機的なイメージは,戦後日本の前衛美術に絶えず現れる特徴だが,いわゆるアングラ演劇にも見受けられる。これは,徳川の長い鎖国時代末期における大衆文化の特徴でもあった暴力的でグロテスクなセックスや流血のイメージにまでその源をたどることができるが,50年代には,むしろ戦後の混沌から発したようにも思えたものだ。歴史上の現時点では,当時の精神的空虚や疲弊,そして直前の過去に対する恐怖などへの共感を誘い出すのは難しい。そうした大戦直後の時代風潮は,日本のアーティストや詩人たちにとっては想像力の糧だったのだが。新しい生活が始まるという感覚が,この血なまぐさく内臓的な陣痛から生まれたのはごく自然なことだ。そこには地方のヴァイタリティと楽天主義も含まれていた。新たな種類の芸術宣言は,激烈なスローガンや世界に対する挑戦の形を取るのではなく,具体的で非言語的なフォルムに結実する。そのフォルムは,活力が奔る桃山時代の名残である。桃山期には,柔弱な洗練を特徴とする京都の主流から離れた文化が築かれたが,その頂点に立つ秀吉は堺の商家の出だった。千利休もまた商人階級の出身で,日本文化の中でも最も日本的な時代を築いたのは,こうした新たな人種の活力と楽天主義だったのである。

 この2回目の野外展のあと,具体グループはもっと伝統的な展覧会を開いた。そのスタイルは,フランスの批評家,ミシェル・タピエが「アール・アンフォルメル」と名付けたもので,雑誌「具体」の2号と3号を受け取った彼は,このグループの作品を熱心に海外に紹介した。展示された作品は,あくどいまでの抽象表現主義で,当時はアメリカ合衆国よりもヨーロッパで多く見られ,ポーランドやチェコスロヴァキアのアーティストたちに代表される特徴に通じるものだった。私は,第二次世界大戦に対する心理的反応が,この絵画様式と何らかの関係があるのではないかと思っている。と言うのも,ここには50年代のニューヨーク派の落ち着きは皆無だからだ。途方もない発動力のこもったそれらの作品には,また,絵具が置かれた平面のマチエールに対する大きな関心も見て取れ,その強烈さはバルセロナの画家アントニオ・タピエスによって示されたマチエールへの関心とほとんど同等である。ルチオ・フォンタナの日本における本格的な展観が,具体の尽力によって開催されたのは単なる偶然ではない。そして1958年,フォンタナは,「新しい絵画世界展」と題された具体の現代世界美術展に出品した。彼が送ってよこしたのは制作過程のプランだけで,それを実際に作品のかたちにしたのは具体グループである。それは,黒い木のパネルに無数の穴を開け,その背後から沢山の小さなライトを当てるというものだった。この展覧会はタピエを中心に組織され,結果として彼のアール・アンフォルメルへの嗜好が,具体の絵画観にかなりヨーロッパ的な傾向を帯びさせることになった。だが私たちは,ジャクソン・ポロックに対する彼らの大きな称賛を無視することはできない。無限の空間へ押し広がろうとするポロックの半自動的な線が持つ発動力と,自由奔放さへの称賛である。しかし,このグループが自分たちの雑誌を寄贈するほどポロックとクラインを高く評価していたとは言え,つまるところ,彼らの作品はシューマッハやフォートリエやフォンタナ,そして50年代の他のヨーロッパ作家の仕事に対するもっと強い共感を示している。

 具体の諸活動の一面は,アラン・カプローという適切な人物を得て詳細に記録されているので,くだくだしい説明は不必要なくらいだが,その底に流れる美学は明確にしておくべきだろう。これは「舞台を使用する具体美術」と呼ばれたイヴェントで,まず1957年5月29日大阪・産経会館で,続いて7月7日,東京の産経ホールで「ハプニング」した。このイヴェントは,1957年12月8日(日曜)付のニューヨークタイムズでも報道されたので,これに続くニューヨークでの同様のイヴェントに何らかの影響を及ぼしたと考えられる。この「ハプニング運動の父」には以下のようなマニフェストが添えられていた。

 「具体美術は新鮮で未知な美のあり方を,あらゆる角度からあらゆる方法,物質を駆使して生み出そうとしているものであり,平面と言わず,液体,固体,気体,又は音や電気なども素材にする。そしてここに時間も加えた舞台を使用した形式による作品の発表を見るに到った。これは正に洋の東西を問わず画期的な作品群と発表形式だと我々は信ずる」

 具体の演劇芸術と従来の演劇との違いは,彼らが物体を主役とし,参加する人間同士の非言語的なコミュニケーションを取り込んだことだ。金山明の作品では,絡み合う多色の線に被われたナマコ型の巨大な風船がふくらんでゆくさまを見せる。一方,嶋本昭三のミュージック・コンサートが,風船をふくらますポンプのリズムに合わせて激しい息づかいのように響くのだ。このビニール製の海の怪物に向けられた彩色光りは,青やサーモンピンクや赤に変わり,しまいに金山がこれを切り裂くと,シューッとしぼんで死に絶える。彼の意図は,表面と空間と時間の概念をひとつの作品で合体させることであり,そこには子供の考え方も取り込まれている。いついかなる時代であれ,風船やシャボン玉は,子供にとって常に何ものにも替えがたいおもちゃだからだ。

 最も哲学的なハプニングのひとつは,吉原治良による「二つの空間」である。暗い舞台に時々懐中電灯の光りが走る。人間の声や物音が聞こえる。ようやく舞台が明るくなると,そこには何もない。吉原は,舞台空間を何かが起こるはずの虚空とみなした。その虚空の中では,断続的な小さな光りですら驚くほどの意味を帯び,ごく曖昧な身振りでさえ大きな表現力を持つ。この舞台作品で吉原がやろうとしたのは,禅で言うところの「無」の空間と単なる空っぽの空間とを対比させることだった。禅における「無」は,空虚でありながら可能性に満ちているのだ。この空間に差し込まれる人間たちは,初めから仕舞いまで同じ行為を繰り返す。

 一見したところ,いくつかの作品は40年遅れのダダの表現のように思える。たとえば村上三郎は,複数の紙スクリーンの壁を体当たりで突き破り,最後にはこん棒で壁そのものを破壊する。だが,ダダ的というこの解釈は次のような発言によって裏切られる。

 「否定することに於て新しい美の契機が生まれないか。それが私の問題である。紙は普通描かれるためにあり,絵具はぬりつけられるためにある。紙や絵具を安定した確かな状態に置くことを望むとき剥がれたりするのは困ったこととして避けられる。然しこれも物の性質の一面であり取り上げる必要があると思う。確実さを望む既成の美意識を否定して,忌避される質をつかみ出し敢えて危険を選ぶとき,新しい美の断面を発見する可能性が開かれるのではないか」

 従って,具体の作品が荒削りでがむしゃらだとしても,彼ら自身のステートメントによれば,パフォーマーたちは新たな美の形態の探索に関わる美学を表現しているのだ。この種の美学や美の探索は,西洋のハプニングにはほとんど見出せない局面だが,逆に日本の美術史を通じてしばしば意識のレベルにのぼってくるものである。田中敦子が舞台で着たビニール製の衣装には,多色の電球が無数に取り付けられている。その電球は一定のリズムで明滅を繰り返す。彼女はこのコスチュームについて次のように言っている。「モーターで点滅器を回転させると,自分のセットした電球が人間の手で造られないような異常な美しさを見せてくれる」

 中橋孝一は彼の解説を次のような言葉で始める。「美は予測されるものではない。試練によってのみ,かちとられるものである」また,鷲見康夫は言う。「私が個性に立脚した美を発見しようとするには・・・・きたなくなければならない・・・・ビニールをはったわくの中で私はあばれまわり,(彼は舞台に立方体のテントを作った)又そのビニールをよごしまくるだろう。そこに私の体質からほとばしる迫力のある美を感じていただければ私は喜びに堪えないのである」

 こうした文章すべてから輝き立つ純粋さは,半ばは戦後の苦い貧困と廃墟から生まれた必死の希望の表れだが,半ばは言語の問題でもある。日本の美術批評の文章やエッセイを翻訳しようとすると,どうしようもなく感傷的になるのは周知のことで,感情的な印象や美の理想というかたちで説明しようとする傾向は,批評文やマニフェストにおける長い伝統である。この傾向は,20世紀初期にフランス語から翻訳された象徴主義と,それに続くシュールリアリズムの著作によって強化された。芸術に関するタフでクールな文章がある程度一般に受けいれられるようになったのは,ごく最近のことなのだ。

 私は,具体のメンバーが書いた文章にもいささか無理があるような気がする。と言うのも,彼らの間にあ言語化への興味はほとんどないからだ。ピナコテカ(古い蔵をギャラリー・ミュージアムに改築したもの)ができると,みんなはそこに集まりあらゆることについて議論を交わしたが,自身の芸術について論じられることはなかった。彼らの芸術に関する思考のすべては,作ること,創造することに費やされ,理論家に費やされることはなかったのだ。

 具体の展覧会のカタログを見て気づくのは,絵画や彫刻のカテゴリーから脱し,非美学的で一風変わった素材を使った熱狂的な行為に飛び込もうとする初期の行動が,徐々に弱められてゆくことだ。1960年4月の大阪・インターナショナル・スカイ・フェスティバルにおいてすら,平面に描くという考え方が目立ってきている。ミシェル・タピエの後押しにより,国際的に知られた多くのアクション・ペインターやアンフォルメルのアーティストたち---アメリカ合衆国のクレア・ファルケンシュタイン,アルフォンソ・オッソリオ,アルフレッド・レズリー,フランスのドゥゴッテクス,スペインのサウラ,イタリアのフォンタナ---が具体グループに水彩画を送るよう求められた。それらの絵は長さ10メートルの凧に拡大転写され,水素ガスの入ったアドバルーンにつながれて,デパートの屋上の空に揚げられた。全部で38点の日本および外国からの参加作品が,大阪の高島屋デパート上空を泳いだわけだが,同時にこのデパートの大きな展示場では従来のかたちの絵画展が開かれていた。

 恐らくこのグループの自国日本への最初の衝撃は,1956年に雑誌「ライフ」のフォト・エッセイで紹介されたのち逆輸入のようなかたちでもたらされ,やがて海外でも展覧会が開かれるようになった。まず1958年にはニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊で,翌年にはトリノで。それ以降の彼らの日本での受け止められ方は,東京の小原会館における最初の本格的な展覧の時とは大きく異なってくる。彼ら自身は東京進出を達成したことに興奮していたが,この展覧会を見にきた人はほとんどいなかった。具体が日本の現代美術に及ぼした影響は測りにくい。極端に東京中心である現代の日本文化の中では,彼らの本拠地が後背地にあったからだ。しかしながら具体の活動は,関西地方の若いアーティストたちの新たな運動を促進したと言ってよかろう。たとえば京都,東山地区の「アーティスト・ヴィレッジ」。このグループは,京都美術の凋落の因であった優雅で内向的な傾向に対する反逆の引きがねとなった。京都の孤立したスタンスとは対照的に,商業地大阪の精神は常に外向的であった(戦後,初めて国際音楽祭を開催したのもこの都市だ)。大阪人は,相手が赤の他人でもバス停や電車の中で話しかけるし,ある浪速っ子が言ったように「東京とは違って大阪では,金儲けを恥ずかしいこととは思わない」のだ。吉原治良の悠揚迫らぬ指導を受けた具体グループによって,この精神は育まれた。彼にはまた,グループの活動資金を負担する財力があったわけだが,それは彼も金儲けを恥ずかしいとは思わなかったからだ。桃山時代と同じように,地方が日本の芸術の主流に生命を吹き込んだのだ。

 吉原は,戦後初めて海外で認められるようになった日本の芸術家のひとりである。1953年のカーネギー・インターナショナルを皮切りに1961年にトリノで開かれた第12回プレミオ・リソーネにも出品し,その後はニューヨーク,ワシントン,サンフランシスコ,アムステルダム,そしてパリなどでも作品を発表した。従って,彼の重要性は財政的組織的な能力に留まらない。私は,彼が戦後の最も興味深いアーティストのひとりだと思っている。日本であれ海外であれ,彼の前衛活動を発生させた「影響源」を見つけ出すのは不可能だからだ。時間軸における虚空の表現力を探求した,彼の舞台作品についてはすでに述べた。だが,彼が早くも1936年に抽象表現主義の作品を作っていることは驚嘆に値する。この年に描かれた無題の抽象画には,デ・クーニングやゴーキーを想起させる荒削りで未完成な様子が濃厚だ。一連の断片が,カンヴァス全面に配されている。熱に浮かされたようなこの絵に影響を与えた先行作品が,ヨーロッパ美術にあるとは思えない。それはまるで,内臓的なアクション・ペインティングがどことも知れぬところから突然現れ,世界中が追い付いてくるのを静かに待っているように見える。西洋のハプニング運動の先駆けとなったのちの舞台イヴェントと同じようにはっと虚を衝かれるが,元永定正が言っているようにこのイヴェントは,当時の状況から芸術上の必然として登場したのである。1950年代初頭の吉原の絵画は,それより10年前のジャクソン・ポロックの作品に近い。たとえば1952年の「日曜日」では,ヒトか動物のようなラフなフォルムがカンヴァスいっぱいに埋め込まれている。1958年ごろには,これらのフォルムはラフな記号か,あるいは半ば壁に埋まった未完成の毛筆の書に似てくる。そのすべてが,非文学的に読める明瞭な形態をそなえている。これは,菅井汲の作品に見られるアプローチだ。菅井は真の意味でこのスタイルの「弟子」と呼べる唯一のアーティストである。菅井は1952年にパリに移り住んだのち,間もなくこの記号的書道的な様式を創り出した。いくつかの類似性は,彼と同時代の画家である斎藤義重の,丸のみで彫ったようなねじれたパターンにも見て取れる。斎藤は,長年にわたる吉原の友人で,1938年に結成された九室会という前衛的なグループの同人でもあった。

 これは,1950年代,具体のメンバーたちの多様な方法論がたどった傾向でもある。田中敦子は,多色の電球をカンヴァス上のフラットなフォルムに変換させ,やがて大きな画面は,もつれた針金のような滴りに混じった派手な色のボールで覆われるようになる。元永定正は,砂利や砂を混ぜた絵の具をカンヴァスにたらし,多色の溜まりを作った。その溜まりはやがて,彼の絵画の永続的な原基ともなる内臓的な形態を帯びてくる。白髪一雄は,1956年,東京の小原会館で開催された,具体グループ初の本格的な展覧会で,積み上げた泥の中で「アクション・ペインティング」を行った。彼は会場のすぐ外から勢いよく泥に飛び込み,あたり一面に泥を飛び散らせた。彼はこの動的な激しさを,筆や手を使い,また,裸足で画面を滑るといった全身の身振りでカンヴァスにぶつけた。文字通り「行為」の絵画である。具体グループは経済的に生き延びるために,少しずつ通常の絵画の形態に頼るようになり,画廊で展示したり売買したりできる作品を作り出した。

 1962年,第5回東京ビエンナーレで,私は吉原の「円」のシリーズの最初の作品だと思われるものを見た。大きな黒いカンヴァスに,書道のようなラフなタッチで白い円がひとつだけ描かれた作品だ。このシンボルは,日本において長い歴史を持っている。それは宇宙の象徴であり,虚空,あるいは「無」などの容れものなのだ。三角や四角とともに描かれた円は,禅僧たちが悟りの表現として描いた禅画における宇宙の基本形のひとつとなる。吉原は,およそ10年間にわたってほとんど専らこのイメージを書き続けたが,その円はラフで不規則なフォルムからゆっくりと変化し,やがてクールで均整のとれたハードエッジなイメージになってゆく。それは,具体美術協会の全史を通してほとんどすべての作品にみなぎっていた,ディオニュソス的な精神とは全く異質の超然たる姿勢を示している。1972年2月の突然の死の前に描かれた最後の作品では,彼は遂にこの強迫的なイメージから脱し,同じようにクールだがまた別の毛筆的なフォルムに行き着いている。そのフォルムは,戸惑いを感じさせるほど無表情である。その10年のちょうど半ばに当たる1967年,吉原が個展のカタログのために書いた文章で,どんなふうに自らの芸術に対する態度を要約しているかは興味深いことだ。

 「このところ円ばかり描いている。便利だからである。いくら大きなスペースでも円一つでかたがつくということは有難いことでもある。一枚一枚のカンバスに何を描くかという煩わしさから開放されることでもある。あとはどんな円が出来上がるかということである。あるいはどんな円をつくりあげるかということである。たった一つの円さえ満足にかけないことをいやほど知らされるはめに陥ることも白状しておこう。一本の線も完全にひけないということはそこから出発しなければならないことでもある。そして,やはり一つの無限ともいうべき可能性がこんなところに底なし沼のようなかたちでとりのこされてある。私が自分の描いた円と向かいあっていることは自分自身との対話を意味する。私は私の円との葛藤や妥協が終わりをつげたかどうかを見定める。不満なままでどうにもならないものもある。この円に向かいあっている私という人間はとにかく40年以上絵を描いてきたのは事実である。このながい年月のキャリアが現在の私の仕事に空しいものであるかどうか,これは私の決める事柄ではない。今度の私の展覧会は,現在の円の仕事とは別に古い作品がひきつづいて陳列される予定になっている。ずいぶんいろんな絵を私は描いてきた。しかし,そのときそのときに貪欲に私は新しい境地を開く努力を絶やしたことはなかった。私は私の限界を超えようと努めてきたつもりであった。しかし今日残された自分の作品にあるものはたえず何ごとかを訴えようとしている自分の姿である。私は自分自身がいとしくてならない。昔,私は山口長男や斎藤義重を誘って九室会をつくり,戦後は若い連中を集めて,というより集まった連中といっしょに「具体」をつくった。これがどんな役割を果たしたかは別として,私は私の生涯がよき友人たちに恵まれた事実にもかかわらず,私はたえず孤独であるという自覚からは抜け出せないのも事実であった。私は私が今しつこくつづけている円がどんな意味をもつものであるかわからない。やがては何か別のところで私自身を賭ける仕事を見出すことにもなろう。しかし,結局私は私自身との対面を追って生涯を終えることにもなろう。

 吉原がその生涯を終えた今,グループ・システムは過去のものとなった。今後も仲間が集まって展覧会を開くということはあるだろうが,日本という縦社会においてすら,「会」の創造的なパワーはなくなっている。新しい芸術的概念を押し進める集合体として,明治時代に始まったものは,もはやいささかの存在意義も持たないように思える。しかし,戦後の時代,少なくともひとつのグループはその存在を十二分に正当化し,20世紀で最も自由なアーティストのひとりの指揮のもとに,今日の芸術上の自由への道を切り開いたのである。

この文章は,『具体資料集ードキュメント具体1954-1972』1993年,芦屋市立美術博物館発行に掲載された。


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