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東京レター 1971年5月  (ART INTERNATIONAL May, 1971) 坪井みどり訳
Tokyo Letter

 この春,音楽的興味をそそられる機会は少なからずあったが,造形美術の方はある種の低迷期に陥っているようだ。希望がかなわぬ不満を吹きとばすような,きわめて良質の展覧会もいくつかはあったが。特定の色にだけ染まった美術の横糸に,何本もの縦糸が走っており,それについて書くべきなのかもしれない。こうした動向に暗示されるものは,私にはよくわからないが,語ることで無意識に意味が明らかになるかもしれない。

 数年前,東大で美術と中近東音楽を教え,現代音楽の熱烈な愛好家でもある野村良雄教授は次ぎのようなことを言っていた。日本文化の核心に触れるとき,二つの特徴に気づかされる。一つは,新しもの好き。二つ目は,時空間が断片化され,極端な専門化がすすむあまり,自分の専門領域以外には興味を持たない,という状況だ。最近,東京では前衛音楽が新たな盛りあがりを見せているが,ここで開かれる現代音楽のコンサートの聴衆を観察すると,先の野村教授の言葉が思い出される。というのも音楽会の種類や演奏者によって,聴衆がまったく異なるからである。

 野村の言う第一の特徴については,南画廊で開かれた,靉嘔の油彩画とドローイング展のオープニングに見られた。この作家は虹色の色帯を使って単純で”現実的な”形を表わす作業に終始しているが〔あるいは,それがゆえ〕,彼の豊かな感性を物語る幻想的な展示だった。靉嘔が日本の美術界でいかに人気があるか,オープニングに集まった多彩な顔ぶれを見ればわかる。いわゆる前衛的な画家や彫刻家のみならず,作曲家,詩人,あらゆる芸術の評論家や出版関係者,新しいもの全般に興味を抱く一般の人々などである。さらに,東京の美術界に一時的に足をつっこんでいる,海外からの理解あるアーティストやジャーナリストの姿もちらほら見えた。彼らは無数にある”日本っぽい”画廊のオープニングなどには顔を出さないのが通例だが。さて,出席者を見渡して面白いことに気づいた。そのうちほとんどの人が,アメリカ文化センター主催の一連のパフォーミング・アーツ・シリーズ公演の一つ,『クロストーク No. 5』にも参加していたのだ。ちなみにこの催しは,ここ2,3年私自身熱心につまんでいる美味しいプラム・パイだ。コンサートの方にはこれらの人々に加えて穏健派ヒッピー族がかなり来ていたが,彼らもハプニングやアングラ劇及び映画会などをもりたてている。『クロストーク』公演の際,このような場に普通の若者が集まるのは喜ばしいことだと私はコメントした。だが悲しいかな,「彼らも今は新しい音楽を聞きにくるのですが,数年後には去ってゆき,過去へと逆もどりしてしまうのです。10年前,20年前,彼らの先輩が同じ道筋を辿っています」との答が返ってきた。この予想が当たらないことを私は願う。というのも聴衆の雰囲気は,例えば舞踊の特定の流派や様式に習った弟子たちしかきていないようなダンス公演に比べて,もっとずっと多種多様であったからだ。

 実験音楽やミクスト・メディア等におけるこの特殊な冒険の歴史は,ここ3年足らずにすぎない。にもかかわらず,きわめて多彩な分野の多くの人々をひきつける,ほとんど唯一のイベントといえる。集まる人々は,音楽家,評論家,建築家,様々な造形美術に関わる人,そして広範な一般人だ。これこそ,近い過去に飽き足らず,日本の音楽会の大勢を占めるロマン派音楽の伝統に苛立つような新人種が探し求める”ニュー・ロジック”の領域なのではないだろうか。2,3年前,インターメディア・クロストークの波が突如押し寄せ,日本からは,一柳慧,ミズノシュウコ,湯浅譲二,小杉武久といった若い作曲家,同じく米国からはゴードン・ムンマ,ロジャー・レイノルズ,サルヴァトーレ・マルティラーノ,ロバート・アシュレー等が参加して映画やインターメディア・パフォーマンスを創作した。この経験を踏まえると,新たな論理が確立されると共に,美的体系の刷新も必要とされていたことは明らかだ。一連のできごとがいかに東京を飲み込んだかについては,目をみはるものがあった。同様に驚かされたのは,タイミングよくたががはずれ,あまりに多くの公演の可能性が開けたため,現代音楽やインターメディア・コンサートもごく普通のイベントの一つとなりえたことだ(ハプニングの方は,長く混然とした思春期をいまだぬけだせずにいるが)。

 若い作曲家の世代は皆,外気に充分さらされる状況下で意気軒高,海外公演のチャンスをつかむことさえある。事情が好転しているのは,小杉武久の声を中心としたミクスト・メディア作品,『South No. 5』が,これまで超保守的だった東京混声合唱団によって演奏されたことでもわかる。この作品ではたった一つの『South 』という単語が音楽に分解され,それがグループ内の独唱者,あるいは大きな集団の中の小集団によってくりかえし変奏される。広領域の特定周波数を鮮明に聞かせるマイクが,まるでSF映画に出てくる光線銃のように演奏者に向けられ,このマイクが個々の声を拾って他の声の上に拡張する。すべては電気的に調整され,生演奏と同時に録音テープが流れ,さらにマイクのうなり声が加わる。

 湯浅譲二の作品も,従来日本で演奏されてきた合唱形態とは異なっていた。この作品ではちぐはぐな問いと答えが連綿と続く。最初は挨拶や丁寧なお願いだったのが,次第にやかましいホルンを通した「名前は?住所は?職業は?」という厳しい尋問の調子になっていくが,答えは低い声でのハミングのみである。質問はついに宇宙のかなたに消え,最後の力をふりしぼった「そのとき?そのとき?」との叫びを残し,後は死んだような沈黙が流れる。曲の終わりに指揮者は聴衆の方を向き,「そして誰も彼に対してただ一つの言葉も返すことができなかった」と静かに言う。先の小杉の作品において,充分な演奏効果が得られなかったのと同様,湯浅のこの作品の持つ劇的な可能性も十二分に解釈されたとは言えない。これは単に,今日書かれうる最高の曲が,舞台と客席が分離されたプロセニアム形式の劇場設計にはもはやそぐわないからだ。もし歌唱者がホールのあちこちに立っていたなら(そのためには真に新しく自由な劇場建築が要求されるが),これらの作品が必要とする空間的な広がりと全体的な効果が生まれたのではないだろうか。

 この種の問題が部分的にしろ解決したのは,東京の朝日ホールで行われた『クロストーク No.5』,厚木凡人のグループによるダンス公演だ。観客の間に点在するが,突然,ダンサーとしての生活についてモノローグをアドリブで語りはじめた。何らかの動きを期待していた観客はがっかりした。そしていざ彼らが動きはじめたとき,その行為はただ上着を脱いで練習着になり,グループのある者は息詰まるような狐独な状況下で互いに写真をとりあい,別の者は大きなボールでホール全体を横切るキャッチボールを行う,という内容だった。キャッチボールは省いてもよかったかもしれない。なぜならモノローグとカメラによって構築された緊張感から注意がそがれてしまったからだ。だが,これらの行為が発展させた空間観はとても論理的で,現況の美的な問題意識に見合ったものだった。演じる側のレベルは,音楽において向上している。本当に優秀な作曲家が努力を続けていること,また大抵グラフィックに記譜されている最近の音楽作品の楽譜を理解するためにも,演奏家と作曲家との協力関係が不可欠であることがその理由である。この春,現代曲のピアノ・コンサートが二つ,高橋アキと園田高弘によって開かれた。二人が従来の”クラシック”系ピアニストと異なるのは,演奏を,音質や楽器の可能性を探る研究とみなしている点にある。また作曲家と共同で音を作りだそうと努力しており,すでになされていることを”ノーミス”の技術で盲目的に繰り返すわけではない。湯浅が述べているように,こうした協力こそが作曲家にとって,演奏者の能力と創造性に適した新しい作品を書くための活力になるのだ。

 湯浅自身の合唱曲が演奏された際に残念だったのは,前衛音楽に対する理解,あるいは『Questions』のようにまったく自由な形式の作品を演奏し切るのに必要な経験のない合唱団が,曲を生かせなかったことだ。合唱のメンバーには,歌い手が曲を”話す”のがどのようなことか,想像できなかったのだ。クロストーク公演における湯浅の『トリプシティ』は,コントラバスの三重奏曲で,ベース以外のパートは予め録音してあるという(技術的条件が許せば,音だけでなく演奏する姿も録画すべきだった)作品だが,演奏者の田中雅彦は,同じ悩みをかかえていた。彼はきわめて優秀だし,作品に興味ももっていたが,譜面の指示する意味を理解せずに演奏していたようだ。例えば「弓をさかさにしてコントラバスを叩く」とき,ロマン派音楽におけるカデンツアと同じ位,微妙に音色を選択しなければならなかったのだが。こうした点に関して,湯浅の『プロジェクション・エセンプラスティック(ピアノのための)』を弾いた園田高弘の演奏は,どこに出しても恥ずかしくないほど立派で創造性にあふれた,作曲家と演奏者の共同作業の例といえる。園田は,ピアノ線のどこを手でかき鳴らしたり撫でたりしたらよいか,ピアノのどこの部分を叩けば最もやわらかく共鳴するか,充分理解していた。

 以上の指摘は,すでに確立された現代音楽の現況と比べてみると,一層当を得ていることがわかるだろう。ロシアとは違って自由な創造性を抑圧する当局の圧力こそ免れたものの,日本の昨今の現代音楽は,”口ずさめるようなメロディ”を伴ったいわゆる伝統的な民謡の利用や,技術的には変わりばえのしない古典作品からのつまらない引用を,ウェーバー以前の”安全な’西洋音楽テクニックと組み合わせたものにすぎない。尺八の使用などはまさにその例だ。ほとんどすべての現代作曲家が尺八の曲を書き,もし楽譜を見なければ,それらは”古典的アドリブ”とでも呼びたくなる。というのも,テレビの時代劇でお馴染みの調子を繰り返しているにすぎないからだ。コロンビア・レコードは,こうした二流の古典作品を海外向けに数多く輸出しているが,ここ数年音楽会で聞く機会が次第に増えている,真に活気ある作品はほんのわずかしか出していないので,嘆かわしい状況を悪化させている。前衛音楽がこのような芽生えを享受しているのは明らかなのに,多くの人々が芸術の死について語るのは不思議だ。

 この春東京の画廊で開かれた通例の展覧会を見渡すと,ある世代(その世代もこれほど激しく変化する状況では数年間しかもたないかもしれないが)に受け入れられる路線は一つしかないように思われる。現在の路線といえば,プロセス・アートとコンセプチュアル・アートの二本立てだ。先週,東京の芸年芸術研究会から一通の手紙を受け取った。封を切ると,年の初めに雪が降ったという報告が謄写版印刷され,「お申し込みになれば,ご説明いたします」とタイプで打たれていた。ここまで読んだ私は,この特定の時空間の一致における気象学的意味をさらに追求する気がおこらず,悲しみつつも返事は出さずじまいだった。ここに,今日流行しているコンセプチュアル・アートの多くが抱える問題の一端が見える。つまり,ある情報が与えられたり与えられなかったりすることで引き出される返答は,唯一「だから何だ?」であり,高級な美的返答とはいいがたいがいたしかたない。もしかするとこれはラウシェンバーグのいう「いいじゃないか」をひとひねりしたものかもしれない。だが日本での媒体はメッセージではないし,新しさもない。マクルーハン氏に敬意は払うが,頼むから内容を入れてほしい。内容はあくまでも内容なのだ。

 今や私は過去何年かのうちに消化されたはずのプロセス・アートについて語るのに弁解がましくなっている気がする。だが,注意を向けるべき重要な展覧会も三つか四つある。もっともこの注意は,昨今の貸し画廊の空間に巣くって居る亜流の作品を葬り去ってしまうかもしれないが。(最近,村松画廊に農家から菜の花が運びこまれて植えられた。その農場に残された穴の写真も共に展示されていた。)

 プロセス・アートに最も真剣に取り組んでいるのは,韓国生まれで東京在住のアーティスト,李  を中心とするグループだ。彼の場合,批評や哲学的文章が作品に添えられたり作品を支えたりするので,知的リーダーとして認められている。李はポストヒューマニズムのこの時代に,宇宙の中で人間が占める具体的な状態を全体的に把握しようと試みる。いやむしろ,人間が中心的な位置にはなく,単なる一員として出会いを求めてさまようような包括的な場を追求している,と言った方がいいかもしれない。彼の基本的な態度は”遊離しない他者”という禅の概念と結びついているが,この態度はアルチュール・ランボーのいう「私は他者である」という言葉から孤独感を差し引いたもの,といえるだろう。すなわち物質と精神からなる宇宙全体を具体的に直観すること,またその背後に存在する形のない存在−−それはすべての現実を見通し,その結果現実が互いに作用しあって統一される−−を直観することなのである。

 李は,統合を美的に把握するには”シチュエーション”を具体的に把握することが必要だと考える。この”シチュエーション”はつかみどころのない言葉で,日本語の”場”にあたる。”場”には場所,しっかりと根づいて動かしがたい空間,時空間の含みがあるが,英語の”エンヴァイロメント=環境”がもつニュアンスの数々はない。言葉による説明よりも,その全貌が実際に存在すれば,「ああ,これが場というものか」と直感できるだろう。

 さてこの問題をアートにもちこむのはきわめて難しいが,李が様々な展示において問題の領域をいかに設定するかについては興味深いものがある。一月,ピナール画廊で開かれた展覧会では,まず部屋同士の隣接の仕方を調べ,限られた空間にオブジェを設置して一つの”場”をつくりあげた。その場にはいってきた者は,全体的状況の雰囲気,つまり全体の一部をなす自分が動くことで,ゲシュタルトが変化する過程を体験する。ただし李は,一時的に借りている画廊では,この問題は不自然な状況を免れないことを発見した。画廊では繰返しモノが運び入れられては持ち去られるが,これら束の間の”中身”と永続的な”器”との関係は希薄だからだ。李によれば,理想はアテネのアクロポリスのように,建物は永久にそこにあり,柱から屋根にいたるまでその内容物がすべて外側の構造のために厳密な意図にそって作られている状況だという。ゴシックの大聖堂や仏教寺院もこの”場”の特徴−−土地,気候,安全性,そして中に入ってその意味の一端を担う人々−−を共有している。だが感受性が引き裂かれ,美術展示が一時性を帯びた今日,美術品はある場所とその周囲の環境から遊離することが一般化してしまった。最近はやっている”使い捨て”タイプのプロセス・アートはこうした土壌から必然的に生まれてきたのかもしれない。

 李の場合,彼は画廊を一種の儀式空間とみなす。宗教の言葉でいうなら,生けにえをまつる祭壇が設置される場所,である。空間は”契約の箱”を入れるべき移動テントと化す。こんなことを考えながら,李は山や川から採ってきた大小様々なたくさんの石を配置する。石は手触りその他,デリケートな感覚で選ばれたわけではなく,単に彼の設計図にそぐう大きさと外形によって選ばれている。儀式の精神においては,これら生のままの個体は,場の自然な感じをかもし出すには不充分だという。もちろん石は,床にしきつめられた青いカーペットの上に点在するはずはないからだ。そこで人間がすわっているかのように,まず石をありふれた芝生色のクッションの上にのせた。その結果,石の重力とそれを受けるもの,硬い形と柔らかい形との間に微妙な相互作用が生じ,彼の作品の物質性が強調されている。
しかしながらこれは決して”アール・ブリュット=生の芸術”ではない。というのも空間の全体的状況−−物質精神の代用物−−こそが,見る者に強い印象を与えるのであり,特に見る者がゆっくりと注意深く”場”を動いていくときに空間が感じられるからだ。この作品は,単純性や”理想”を拒否し,物質存在の複雑さをむしろ歓迎しようとしている。また,私が作品の間を動いていくことによって,あるいは入れかわり立ちかわり存在する多くの人々がその場に加わることで,作品は様々な顔をのぞかせる。この作品の魅力はそんなところにあるのかもしれない。

 全体としてみると,これは存在の物質性を追求する試みとして面白い。つまり曖昧さを受け入れつつ,物質と精神を区別するために精神から物理的内容をはぎ取るようなことは拒否しているのだ。
李は日本にいる韓国人の中で,美術界のスポークスマンとして指導的立場にあるが,他の韓国人アーティストも韓国がいかに美術方面での本領を発揮するかを示しはじめた。Kook-Joung Cho は東京芸大を卒業したばかりで,『平面−−相互関係』と彼が呼ぶ版画作品をシロタ画廊に展示した。彼はプロセス・アートを意図しているようだが(それは立体作品に顕著だ),薄い和紙の両面をシルクスクリーンで赤く色づけた版画はプライマリー・ストラクチュア的な特質をもつ。というのも,バウハウスのデザイン講座に使われるような単にトリッキーな形態に見えないように,和紙のかなりの部分が白く残されているからだ。

 李の仲間である吉田克朗も,一月に小さなシロタ画廊で個展を開いた。全く異質の要素と力に働く緊張がテーマである。吉田は壁とそれによって囲まれた内部空間との間に働く緊張の問題を設定し,これを最も単純な方法で実現した。まず三方の壁の色々な高さの部分に,ありふれた赤絵具で細長い長方形を描いた。筆致は粗いが,予め定められた範囲内に収められている。一つの壁では,赤の区域は他の壁に延長され,別の壁では一部が床面まで及ぶ。次に彼はこれらの区域の前面に,ホックを使ってスチール線を少し壁から離すように張った。その結果空間は,たて方向に運動する筆よりも,横方向に対し,より強力かつ敏速に引き出された。スチール線はまるで赤の区域を抑制するバリアとして機能しているかのようだ。この作品は控え目ながら,画廊空間の中で凛として自己主張し,単なる装飾とは一線を画している。

 三月には,李の弟子,瀬尾孝子が同じ画廊で吉田の作品の”版画版”とも言えるものを展示した。瀬尾は木材に印刻することで,紙や壁に対抗しつつこれらとは異質な平面を作り出した。実際,美術界である”症候群”が確立し,すぐに日常化していく様子を見るのは面白い。李と吉田が作りあげた作品はまたたくまに流行し,そしてクリシェとなってしまう。新しい美術の形が生まれると,その前のアートをあまりにしばしば駆逐する理由は,こんなところにあるのではないだろうか。

 李グループのリーダーたちに話を戻そう。このグループで三番目にとりあげる小清水は,きわめて大きな視覚的喜びを与える展示を生み出した。具体的には田村画廊とピナール画廊でごく最近開かれた個展である。それを見ると,まずプロセス・アートとよびたくなる。というのは,長い杉材に円ノコで数多くの模様を切り出すプロセスに他ならないからだ。あるいはソル・ルウィットのように予め規定した設計図にそって幾何学模様を切り出す作業が明確に進行している点で,コンセプチュアル・アートとも呼べるかもしれない。だがそう言ってしまうと,作品のもつ具体性が半減し,実際以上に抽象性が強調されてしまいそうだ。田村画廊では,切り出されたばかりの梁が壁に立てかけられていた。ある木材の側面に切り込みがあるとすると,次のものは水平面に,さらに十字型に切り込みがあるという具合で,チェス盤かあ立体的なダイヤモンド盤,グラフ用紙に作図しうるその他のバリエーションのように複雑な立体模様を作り出している。切りそこないはそのままにしてあり,大雑把に切られた木材には,裂け目や割れ目,目印なども見出される。一つ一つの木材に注意を向けるには数が多すぎて,一つか二つの木材があれば充分だったという意見もあるかもしれない。だが要は”切断”ではない。それに加えてブランクーシから直接流れをくむアプローチが見られる。ブランクーシが手で刻んだ基台は作品全体の一部となり,オークを切り出して作った1918年の『無限柱』のように,作品そのものとなることさえある。

 このような解釈は子供っぽくて単純すぎるかもしれないが,小清水がめざすものは,彼が選んだその特定の木の”心”というか本質であるかのように私には感じられる。つまりある種のコンセプチュアル・アーティストが使うような,辞書で定義される”木”の概念ではないということだ。李が彼自身の展覧会に関連して述べていることだが,物質としてのモノに対する彼の態度は,次のような体験に大きく影響されたという。学生時代,彼は道路工事のアルバイトをしたが,砂利を掘り起こす過酷な労働に耐える体力がなかった。他の労働者は彼に同情して,自分たちの弁当を野良犬に食われないよう見張っていろといった。がっかりした彼は,あてがわれたシャベルを地面に叩きつけて同僚をぎょっとさせた。もちろん彼らも自分のシャベルを持っていたわけではなかったが,昼食の前には必ずシャベルを洗って磨いた。その後すぐにまた,それを使うのだったが。この体験から李が得たものは,個々のモノにはそれぞれ固有の価値があり,決して”誰かの所有物”という抽象概念とは同化しえないということだ。遊び心のあふれた小清水のデザイン・カッテングにもこれと同じ教訓がある。彼の教訓の本質は啓示的行為だ。昨年の夏に開かれた『現代美術の新側面』展で,彼はおよその形が方形で分厚いみかげ石を半分に割り,この量塊の内面的な性質を開示しているかのようにみえた。だが今回の展覧会では,それと同種の啓示を行うために,考えられる限りのバリエーションを追求しなくてはならなかった。木がもつ初々しさは一つの満たされた経験そのものであり,そうした努力に充分値するといえる。

 プロセス・アートとコンセプチュアル・アートがほとばしり出た後,私は昨今叫ばれる絵画と彫刻の終焉を打ち破るようなその他の可能性を探してきた。そしていくつかは驚くほど良質のものに出会うことができた。最も素晴らしい例の一つは,長年仕事を続けている堂本尚郎の作品だ。彼は三月の熱い数日間,ニューヨークから帰国していたが,彼の地では,マーサ・ジャクソン画廊で彼の回顧展が開かれている。同展は,パリ時代に制作された羽を思わせる装飾的な”日本趣味’の作品や,その後連続性という一貫したテーマのもとに描かれた『連続の溶解』シリーズの様々な作品なっどを網羅している。ここ十年近く,彼の作品は密閉され,限定されているように見える。だが,ほとんど単色の帯形や円形が無限に交錯しあい,反復されるこれらの作品には,空間造形に対する基本的で真面目な意図を示す一徹な決意が感じられる。彼は空間の非連続性を認めた上で,これら異質な空間のミクロコスモスに働く連続性を再構築しようとしているかのようだ。むろん,こうした話は作品の解釈に他ならないが,それでも彼の追求には,純粋に非装飾的な意図だけでは説明しきれない一貫性がある。

 多くのアーティストが”時代についていく”ために(その結果,ここ日本では少なからざる重要なアーティストがそのキャリアを台無しにしてしまったが)自分の様式を変えねばならないと感じている状況の下で,堂本のようにはっきりした目的意識を持ってイメージを有機的に展開させ,決して大衆性(初期の装飾的なアンフォルメル系の作品には,こうした一面もあった)やいわゆるアート・シーンに媚びない態度はすがすがしい。

 同じことが久野真にも言えるだろう。彼はもう五十代だが,薄いスチール板を焼いて穴をあけ,それをつなげて幻想的あるいは現実的な空間を織りなす可能性を掘り下げている。できあがった線は叙情性豊かで,大きな喜びを眼に与えてくれる。最近東京画廊で開かれた久野の展覧会は,スチールや黒く塗られたベニヤの作品からなる安定したものであり,今,彼は脂がのりきっていることが見てとれる。又,彼の作品できわめて重要な叙情性,さらに明確な表現への可能性を伺わせる。

 若くはない世代の中で,同じように一貫したアーティストとして,ゆるぎない技術を持った彫刻家,建畠覚造があげられる。彼は”シグナル”や”煙”といったシュルレアリスム風のテーマを集中してとりあげ,スチールやクロム合金を固め,洒落た造形的なリズムに支えられたウィットを具現化する。アルミとステンレスでできた『煙突瓶』には,マグリットのブロンズ作品の世界,あるいはマグリットの油彩画に描かれた固体と気体の相互変換に通じるものがある。彼の『日時計の上の三形態』という作品は,メタモルフォーシスの練習問題としてみれば,ダリの絵に描かれるようなアイスクリームがのった硬い雲の変容過程といったところか。一つ目の日時計にかかっていた雲が二番目の日時計では二つに切られ,三番目では文字盤の上にたれてバターのように溜っている。建畠の作品は静かさをたたえ,今日メジャーなアートの主流からははずれているが,彼の力は単なる遊び心を越えた高みに作品を引き上げている。このように自分の意識に忠実に仕事を続ける人々を見るのはいいものだ。たとえそれが美術界全体を変革することはほとんどないにしても。


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