花さんの親から

母親としての思い

裁判を支援して下さる皆様に心よりお礼申し上げます。

 被害から11

 1991年5月の予防接種事故から11年、当時1歳10月だった娘もこの6月で13歳になります。元気なおてんばの赤ちゃんだった年月より、重症心身障害児として生きて来た生活の方がはるかに長くなり、今となってはこれが私達の普通の暮らしになりました。

 娘が誕生した時、地元新聞の出生欄に、数人の赤ちゃんたちと一緒に名前が載りました。少子化が進む小さな町に誕生して来る赤ちゃん達は、親や肉親だけでなく社会全体の大切な子供です。だからこそ町の新聞が、大勢の人達に赤ちゃんの誕生を知らせるのでしょう。私達の娘もすくすくと育って行けば、将来は町の役に立つ人になったかも知れません。出生欄を飾った赤ちゃんたちの輪から娘は心ならずもはずれてしまいました。その後私は仕事を辞め、家族で郷里を離れたので、後々巡り逢うはずだった人達の誰一人、娘を知ることはありませんでした。

 社会から見捨てられた娘−温かい出会いと寂しい現実

 事故直後は、心身共に赤ちゃん以前のような状態でしたので、とにかく機能訓練と医療的なケアを中心に生活しました。3週間毎に、郷里の両親に留守番に来てもらい片道3時間かかる療育センターに熱心に通いました。夫は年次休暇のほとんどをそれに使いました。それと同時に楽しいと感じる刺激をいっぱい入れたいという願いから、市内の福祉センターに週3回ほどのペースで通いました。そこで出会う人達は、娘を温かい態度で受け止め、私達に誠実に接してくれました。その中で私自身も、いつとは知れず立ち直って行くことができたのでした。

 しかし、一歩外に出れば、全介助の重症の娘にとっては、事故以前には想像もできなかった寂しい現実がありました。よく、娘は人からじろじろ見られました。とりわけ小さな子供の視線は、無邪気なだけ余計に私の心に突き刺さりました。元気な頃は愛敬があるので見知らぬ人からもよく声をかけられ、誰からも愛されて幸せに暮らしていた子供でしたが、重度の障害児になった途端環境が180度転換してしまい、事故以前の当たり前の暮らしは、暗闇の川の向こうに見える対岸の灯りのようでした。そこではいつもと変わらない普通の暮らしが続いているのに、私達にはもう戻れない、手の届かない場所のように感じられました。私の娘は不要な子供として社会から見捨てられたのかと思うと悔しくてなりませんでした。事故そのものへの憤りや悲しみもさることながら、誰にも理解されないまま、社会から忘れられて生きて行かなければならないという理不尽を、到底受け容れることができませんでした。

 提訴

  事故から5年後、私達は大阪の方達の裁判に加わりました。
 5年の間には、実にいろいろなことがありました。郷里の保健センターの迅速な対応もあって、国から予防接種被害の認定を受け年金を戴けるようにもなっていました。保健婦さんや保健課長さんが折に触れ訪問して下さり、ある時は市長さんが見舞って下さったこともありました。実際に来られない時は電話で様子を尋ねて下さるなど、その良心的な対応に、私達の気持ちもしだいに慰められて行きました。娘は少しずつですが、成長して、私達に喜びを与えてくれていました。上の娘が血液の病気を発症し、全関心がその闘病に注がれた時期もありましたが、様々な事柄や精神の経過、そしていろいろな人との出会いを経て5年が過ぎ、私達は提訴しました。娘は幸いにも小学校に入学し、7歳になっていました。

 接種医が私たちを中傷

  しかし、裁判はやはり一筋縄では進みませんでした。意外にも接種医が私達を中傷する証言をしたからです。娘の被害は実は家族の下痢が感染したのだとか、発症した朝に私がこたつに放置していたため手遅れになったとか、救命している最中に私と義父が言い争っていたとか、更には接種を勧めていないとまで証言したのでした。それには私も焦燥感に駆られ、あまりのことに反論する気にもなりませんでした。残念なことに、接種医が私達に不利になるような嘘の証言をしたことにより、裁判は被告側に都合良く進む結果になりました。人は自分の利害によっては、良心の通りに語れないものなのだ、そして、国家の、何やら大きな仕組みの前には、一人の子供の人生など何ほどでもないのだと、思い知らされました。少なくても接種医以外の人間で、娘を見て可哀相だと思わない人はいないでしょう。それほど、娘は健気に生き延びて来たのですから。接種医には、自分の勧めた注射が、前途ある子供の人生を大きく変える原因となったかも知れないということを真摯に受け止め、障害児となった娘を育てて行く私達の良き支援者になってほしかったのです。それ以上私達は何も望みませんでした。しかしそれは甘い考えでした。この医師とのことは、私達にとって心の傷になりました。

 社会問題として認知されない予防接種被害

 私達が提訴した頃、薬害エイズの被害者の方達が頑張っておられ、新聞やテレビはその様子を連日伝えていました。しかし、その頃世間の大方の人達は、それをごく一部の特別な人達の身の上に起こったこととして、人ごとのように捉えていたのではなかったでしょうか。まして、私達の予防接種の被害などは、運の悪い一握りの子供のこととして同情はされても、社会問題としてはなかなか認知されにくいことでした。しかし、ここ数年の間に、厚生行政ばかりでなく、多方面で行政のあり方が問われるような事件や疑惑が報道されるようになりました。医療過誤も多発して、犠牲になった人達が病院や医師を相手取って裁判を起こすケースも増えました。ごく最近では、BSEC型肝炎問題などが明らかになるなど、誰もが行政と企業との関係に疑問や憤りを感じ、自分自身の人権について切実に考えなければならない世の中になってしまいました。私達一般の国民には計り知れないような利潤追求主義の仕組みによって、多くの人達が大切なものを失うかも知れないと気づき始めたのではないでしょうか。大変な社会になってしまいましたが、そんな今だからこそ、私達の子供のことについても、共感して下さる人が増えてほしいと願っています。

 ただひたすら子供のために

 支援して下さる皆様には申し訳ないことですが、私自身はこれまでの生活の中で、娘の被害について声高に語ったことはなく、まして、裁判のことを話した人は数えるほどしかいません。何故なら、障害児の療育の現場では、子供をどのように育てて行けば良いのかが大切なことであり、障害が生来のものかそうでないかはさほど重要ではないからです。そんな中で、周囲の人達に誤解されずに、そしてまた共感を得られるように話をするのは、私には難しいことでした。ただひたすら、自分の目の前にいる娘や上の子供達を精一杯可愛がって、一日一日を大切に暮らすことが、私にとっては一番の幸せだったのです。嬉しいことに娘は、身体的には年齢相応に成長して来ました。反対に私も夫も、そろそろ五十代に向かおうとしております。いつも何かと笑い飛ばしてはいるものの、物理的に無理が出て来ているのも現実です。このような現実を受け止めながら、更に明朗に暮らして行くためにも、今後ますます皆様よりのご支援に甘えさせて戴きたく、岩手にいて公判にもたびたび行かれず誠に申し訳ありませんが、これからもどうかよろしくお願いいたします。