"About Us"

-我が家のMMR接種事故のいきさつ

そして(いち市民としての)私たちの思い-

 

1.事故のあらまし

平成元年4月、私たちの住んでいた高槻市でも「MMRワクチン(はしか・風疹・おたふく風邪)が導入されました。そして息子、木下大輔は同じ年の9月2日に産まれました。出生届を提出してきた主人が、市の広報のコピーを持って帰って来ました。そこには、「市は、はしか(麻疹)ワクチンを4月から、MMRワクチンに切り替えます」と書かれていました。大輔は生後半年頃、たまたま血液検査をする機会があり、アトピー性皮膚炎である事が判り、卵の摂取を控えていましたが、その他は元気で、すくすくと育っていました。笑顔の可愛い子供で、アルバムを開くと必ずと言っていいほど笑顔の写真で占められています。平成3年の2月ぐらい、生後1歳半ころより、自宅(当時高槻市)近くのT病院という小さな病院で、アトピーの治療を本格的に始めました。食事に気をつけて、血液検査のアレルギー値を下げて行くと、それからは食べ物の幅もひろがっていいかな?と思ったのです。

予防接種はポリオ、ツベルクリン、その後に続くBCGを受けました。DPTは接種の時期を逃がし、2歳くらいで受けようかなと思っていたところでした。また私自身、初めての子供であり、それまであまり小さな子供に接した事がなかったので、よく育児雑誌などを読んでいました。それらの雑誌には何ヵ月かに1回、「予防接種ノート」等と名前のついた薄い別冊付録がついていて、それらのほとんどはまず、はしか・風疹・おたふく風邪などの伝染病の恐ろしさを説き、「可愛い子供さんの為にすすんで予防接種を受けて行きましょう」と結ばれていました。

平成3年6月25日、T病院で、MMRを接種。その日より何となく食欲がなく、接種の次の日に部屋の中で何でもないところで突然転んだり、夕方泣きやまず、夜も泣いて起きて来て、食べ物は取らないのに、お茶などはものすごい勢いで飲んだのを覚えています。27日朝より38度の熱が出て、様子を見ながら「よく眠っているので夕方に診察に連れて行く」事にしました。夕方、突然けいれんを起こし、T病院へ。K先生がたまたま病院に残っておられ、系列の病院で応急処置をしながら受入先を探してもらい、高槻病院に入院する事に。当初、意識はなく呼吸も出来ず、体中にびっしりと点滴の管がつけられました。入院先へ向かう救急車の中、K先生がなにげに「・・・これは、2日前に接種された予防接種・MMRの被害かも知れません・・・」とつぶやかれました。この日から必死の思いで病院通いと、看病を続ける中、K先生の言葉は脳裏に焼き付いていました。

私たち2人はただこれが夢なのか本当の事なのか判らなく、しばらく家に一緒にいても会話も出来ない状態が続きました。面会できる時間になると「支度しなきゃ」と出掛ける用意だけははじめられたという感じでした。そんな頃、私たちと親しくしてくれていた共通の友人達がこの事を知り、時々、私たちの家での様子を見に来てくれました。また、双方の家族がこの事を知ってから、「あなた達が一番大変なんだから」と私達2人を色々と気遣ってくれました。反対に、住んでいた小さな団地の中で、これまで毎日公園に出ていた子供が顔を見せなくなった事は、あっという間に主婦達の噂になりました。「大ちゃんがいなくなった・・・」「入院したらしいよ。急に重病になったらしくて意識不明らしい」までの情報が。私は人前に出る事に恐怖感を覚えましたが、団地で仲の良かった人が「木下さん達は毎日、頑張って病院に行ってるんやから、無意味な噂を流すのはやめようよ」と言って廻ってくれたりしました。これらの友人達のおかげで、徐々に立ち直る事が出来ていきました。

大輔は、入院1週間くらいの時、小腸からの下血がひどく、いくら輸血をしてもすぐにつけているおむつが真っ赤になる状態でした。主人と義母が面会中に医師より話を聞き、生命の危機である事、いつ連絡しないといけなくなるか判らないので自宅待機をして欲しい事を告げられました。何とかその状態から回復して欲しい思いで、一生懸命病院に通い続けました。何日かが経ち、看護婦さんがオムツ交換をして下さるのを手伝いながら、おむつに出血がないのに気付きました。「あんなにひどかった出血は?」看護婦「1・2日前から急に出血が止まりました」それから7月中旬までの間に、点滴の管は徐々に取れていきました。「大輔が私達の事を思って頑張ってくれたのかなあ」と話をしたものです。人工呼吸器だけはずっと離す事が出来ませんでしたが、栄養も鼻からの流動食を摂れるまでになり、顔色もずっとよくなり、辛い中にも安堵感が芽生えました。

10月に突然状態が悪くなりましたが本人の頑張りで持ちこたえてくれました。でもその時の後遺症で、人工呼吸器の酸素濃度を最大にし、圧力もあげないといけない様になってしまいました。それから何回か安定期と急性期を繰り返しましたが、面会時間に病院に行った時は顔色はいつも、元気な子供のようで、子供に感謝すると言うのもおかしな話ですが大輔が1日安定した状態でいてくれたとしたら、普通に育っている何日分、何週間分もの、本人に対する感謝の思いで病院に通い続けました。

翌平成4年7月。ずっと人工呼吸器につながれていた呼吸器官がついに無理が出来なくなりました。肺に穴があいたのです。一時は両側からドレンチューブを入れないといけない状態でしたが、なんとか数日後に片側に。でもその時、医師からも「治療」、というより「延命の限界」を告げられました。

8月8日。入院から1年1ヶ月と半分ほど。朝7時前に病院から電話があり、着いた時はもう間に合いませんでした。大輔は既に呼吸器を外され、気持ち良く眠っているかのようにベッドの上にいました。

看護婦さんやお世話になった方々にこれまでのお礼を言いました。お互いに涙が止まりませんでしたが、ICUの中でもとりわけ、看護が大変な状態の子になってしまっていたのでお世話して下さった方には感謝の思いでした。

大輔はほんの少し眼を開き、にこっと笑うような口元と、きれいな顔色のままでした。側にずっといると起き出して来そうなくらいでした。恐縮な表現ですが、1年と1ヵ月半の入院生活、不要な予防接種や病魔に、もしかしてこの子は勝って行ったんじゃないかな、そんな思いさえしました。抱っこで病院の正門から出て、家の車で連れて帰りました。ものすごく悲しい、残念な思い、またMMRを中止に追い込むなど何とかしなきゃと言う思いがすごくしたのと、反面、もう人工呼吸器や苦しい思いをしないでいい事にほっとした事も覚えています。今も、よく頑張ってくれたねという思いと、もし、亡くなった後次にまたどこかで生まれるとすれば今度は絶対幸せな人生を送れるんじゃないかなあ、否送れる。例えば、子供の為よりも自分達の利益を優先させてMMRを推進し続けた人間達の心の貧しさに比べれば、きっと心豊かな生き方がどこかで出来ているはずだ。私達は今もそう信じています(^_^)

 

2.行政との交渉・Aさんご夫妻との出会い・「MMR被害児を救援する会」

大輔が入院した3ヶ月ほど後の平成3年9月頃より、接種した病院のK先生から「僕の大学の同窓に弁護士がいます。医療事件に明るく、正義感の強い、いい弁護士さんです。裁判とかは先々考えるとして・・・行ってみるといいですよ、いいえ、是非行って下さい」と言われ、大阪の石川弁護士の事務所を訪ねました。また、K先生より、「これが健康被害である事を高槻市に申請するといいです」と詳しく教えていただきました。

私達はこの文章の中で強調しておきたい事があります。それは「国・大阪府・市・・・行政側には事故後すぐに連絡もしたし何回か交渉に行ったけど申請方法も何も教えてくれず、ただ事故を隠す事だけ一生懸命だった」と言う事です。

石川先生の事務所で事故のあらまし、接種後の経過などをお話ししていったところ、「まず情報公開で、木下さんが市を通じて府・国にあげられる課程でどのように審議されたかを知りましょう」と言う事になり、「知る権利ネットワーク」と言う市民団体の岡本隆吉さんを紹介されました。岡本さんから「予防接種情報センター大阪」の藤井俊介さんを紹介され、藤井さんから朝日新聞の記者を紹介され、私達の事故ははじめて、新聞記事になりました。また、「ワクチントーク」という集会に参加するようになり、藤井さんの話などを聞いて、「予防接種には恐ろしい副作用がある」という事や、「一旦被害者になった者への行政の対応は余りにもひどい」というのが自分達だけでない事を知りました。

(☆インフルエンザ・種痘などの予防接種後後遺症を残した被害者の映像をこの頃見た事があります。ショックを受けたと同時に、この被害者の人達が私達と同じ年代である事を知り、年代を超えて被害を生み続けている予防接種行政って何なんだろうと思いました)

また、この頃は「弁護士事務所に通う=訴訟になるのだろうか・・・」とぼんやり考える事はありましたが、明確に意思決定していたわけではありません。自分達が情報公開で、市や大阪府に対して何か働きかけられたら、行政の何かが動けばという思いが強かったです。

翌平成4年3月頃、石川事務所に行った後、藤井さんよりAさんご夫妻と豊中市役所職員の勢馬さんを紹介されました。勢馬さんはAさんの息子さんがMMRを受けた当時の予防接種担当の職員でした。また、当時豊中市自体が「予防接種後に異変はなかったか」などのアンケートはがきを作って全家庭に、何かあった時はこのはがきで連絡出来るようにしていたようです。このような配慮をしていた自治体は豊中市くらい?あるとしても数えるほどでしょう。(このあたりは私たち自身よく判りません。この文章をご覧の方で「どれくらいの自治体が・・・?と必要と関心があれば調べてみてください)

「被害者が2家族集まったので、『被害者の会』を立ち上げましょう」と、石川弁護士から提案がありました。その時誰となく「被害者の会、というより、『被害児を救援する会』と言うのはどうでしょう」という意見がありました。私達のほかにも、MMR接種が続いている現状で、他にも被害を受けて現在困っている子供さんがいる可能性が充分考えられたからです。私達もこの名前の方が適していると思い、前向きな感じもしていいじゃない?と賛成しました。

その事もあり、Aさんの奥さんとは、いつとなく電話連絡をする様になりました。藤井さんや支援してくれている人にお礼の品物を一緒に選びに行った事があり、お互いの子供の元気な時の写真を見せ合ったりしました。「MMR被害児を救援する会」として、6月に大阪で集会を開きました。MMRの実態を訴え、Aさんと私が子供の発病の様子・経過などをお話ししました。また、その集会に間に合うように「予防接種はうたなきゃいけないものと思っていたけど、被害がある事も知ってもらわなくちゃ」と話し合って、2家族で「MMRワクチンレポート」と言う小冊子を作りました。

現在、一般の市民やユーザー側が企業や学校・賃貸の家主などに対して「学費の取り過ぎはおかしい」「住宅を退去する時に敷金がこれだけしか返らないのはなぜか」と、「おかしい事はおかしい」と意思を表明するようになってきましたね。私やAさんも、当時そのような気持ちで自分達の事故をまとめましたが、薬害やよもや予防接種に被害があるなんて、という考えが他のお母さんに強く、(それだけ信じさせられていると言う事と思います)また、同じ子供を育てる者として、子供が亡くなったり意識不明の重体になると言う事は、とても悲しい事です。私自身は「おかしい事はおかしい」と指摘する存在と言うより、かわいそうだと言われる事の方が多かったですね。今と時代が違ったと言う事でしょうか。

大輔本人がそのしばらく後に亡くなった事などもあり、それからしばらくは藤井さんにもその事を伝えて、亡くなってから1年ほどはそっとしておいて貰い、「大輔は亡くなったけど、自分達が元気で毎日を過ごし、家庭を再建する事が大事」との思いで、家庭を先ず優先しました。石川事務所には何回か通い続けましたが・・・。

行政との交渉の面では、入院中から「予防接種健康被害」と、入院費の給付申請をしていました。そして情報公開の事で何回も市役所に足を運びました。自分達が入院中に申請して、国に出されている資料達は、最初「高槻市予防接種健康被害調査委員会」の議事録などを入手できましたが、委員の名前はもとより、委員達の発言など殆ど真っ黒に塗りつぶされて手渡されるというひどい状態でした。同市役所内の「人権擁護課」にも足を運び、「個人情報保護審査会」にかけてもらう事になりました。情報公開で出された資料のマスキングはこれでいいのかと審査してもらうと言う事です。

私達は大輔が亡くなり、まだ喪も明けない平成4年9月に、個人情報保護審査会の委員の前で自分達の被害の実情と、情報公開で出された資料でまったく何が審議されたか判らないと訴えました。翌平成5年3月にその結果が出て、「全面開示を」という答申が出ました。但し発言者名は開示されませんでしたが、私達はやっと自分達の情報を手に入れたのでした。

 

3.国からの不認定決定

大輔が亡くなって次の年、平成5年4月にMMRはやっと「一時中断」となりました。私達はこれ以上被害者が出ない事にとても安堵しました。そして自分達が国に対してした申請に活かされる事を願っていましたが、その願望は見事に打ち砕かれてしまいました。接種をして丁度2年経った同年6月25日夕方、高槻市から電話がありました。

「国からの決定が出ました。今日これからお宅に伺いたいのですが。」としか言わない高槻市の職員に対し、「どのような結果が出ました?それから『すぐに伺いたい』というのって、ぶしつけじゃないですか?」と私は言い返すのが精一杯でした。その電話の時に「不認定」の結果の事を聞きだしました。

次の週の月曜日、主人が休みを取り、高槻市の職員が3人、来宅しました。

「自分達は国や大阪府からの書類を届けに来ただけですので、反論がある場合は大阪府庁に行っておっしゃってください」3人の言う事はこの一点張りでした。

後日大阪府庁に行っても「私達は国と自治体のパイプ役でしかありません」と言って丸め込もうとするだけ。石川事務所に行って相談、大阪府庁に「審査請求」を出す事にしました。文案を考えて石川先生や他の先生方に見てもらい、行政側に対して「付け入る隙を与えない」審査請求書を8月に提出しました。ですが、国・行政側はなかなか回答をしてこない。何の返事もない・・・。この回答を早く出させる意味もあり、そして何より「不認定」のままで、息子の死をないがしろにされたくないという思いで私達は提訴に踏み切る事にしました。平成5年12月24日。大阪地裁にAさんと2家族で提訴しました。後に平成8年4月、岩手県の上野花ちゃんとご両親が訴訟に参加され、現在3家族で訴訟をしています。

 

4.一転、行政認定を受ける

訴訟をはじめて4年後の平成9年12月29日。突然大阪府庁より電話がありました。

「審査請求の結果が出ました・・・」「結果、今言って戴けますか?」だめでもともとのつもりでいた審査請求の結果通知でしたが、それならそれですっきりしたい。だから結果をはっきり答えて欲しいと言う思いで、私は電話の相手に問いただしました。すると、平成5年6月に下した国の決定を覆すと言う答えが返ってきました。行政上の認定を受ける事が出来たのです。まさか、決定を覆す事までは出来ないだろうと思っていたので、この決定は予想外で、喜ばしいものでした。でも受け取った書類の中に謝罪の言葉は一言もなく、理由を問いただしてもちゃんとした説明はなされない。そして裁判ではまだ因果関係を争う姿勢を国や阪大微研は崩そうとしません。これでは、私達の願う予防接種行政は何も変わらない。改善されない。私達は訴訟を続行して頑張って行く事にしました。

 

5.(おわりに)結審、判決を迎えて・・・

私達は、事故の事を現在の支援者の方達を通じて報道関係の皆さんに入院中より何度か記事にして戴いてきました。ただ、訴訟の原告が現在3家族と少なく、また表面に出ている重い被害者の方との連絡がなかなか取れづらい事などで・・・MMRが接種されていた時や中止になった当時は結構記事になったり、私達も取材に来て戴いたのですが、「被害者」として声高に訴え、表に出る事で自分達の普段の生活とのバランスを崩してしまうんじゃないか、また、私個人としては、同じ子供を持つ主婦層にこそ予防接種被害の事を教えていってあげるべきなのでしょうが、地域で日常の生活をしていく上でこれらの事をガンガンと訴えて行く事はどうしても出来ませんでした。また、亡くなった翌日に「市役所に詰めている」というある報道関係の方からいきなり電話があって、ただただ「・・・どうやって調べたの?」と驚きを隠せなかった事などもあり、居住している市、名前共これまでずっと伏せてきました。

平成15年3月13日、大阪地裁の弁論だけで9年をかけたこの裁判は判決を迎えます。これまでの経過、国の不認定決定より一転しての行政認定、そして昨年5月16日の結審後、新たに出てきた被害の実態・・・私達はこれらを広く知っていただく事で、自分達の言い分と被告側の言い分のどっちが正しいか、また予防接種行政が子供たちの為を思ったものになっていく事を望んでいます。主人はこの思いで、現在名前を出した上で取材を受けています。私自身は先ほど少しづつ書きましたが、色々な思いも葛藤もありますし、自分自身に無理はかけないつもりですが、少しづつでも頑張って行こうと思います。

最後に、私たちから一つだけ取材に対しての希望を書かせて下さい。

私たちを特別な、かわいそうな被害者・「被害児の父(or母)の涙の訴え!!」として捉えていただくのではなく、「普通に過ごしていた市民が突然MMR被害に巻き込まれた」と、誰にでも起こりうる事という視点を入れて戴ければとても有難いなあと思っています。

MMR大阪訴訟原告 木下正美・佳代子