■ MMR大阪訴訟 上野花ちゃん提訴・陳述 1996年 平成8.6.6

      陳  述  書

 私たちは、私たち夫婦と小学6年の長男、4年の長女、そして、今年養護学校の訪問部に入学した花の5人で、岩手県花巻市で暮らしています。当地にある、早期療育施設に娘を通園させるため親子5人で転居してから4年になります。元々は、岩手県南の三陸海岸沿いにある大船渡市の出身で、子供たちは3人共そこで生まれました。当時は、両親と、今は亡くなりましたが祖父母と、総勢9人という4世代の大家族でした。
 両親は、子供たちが喜ぶからと庭の畑にトウモロコシやイチゴを植え、数々の野菜を育て、植木を整えて小径を作り中には四季折々に、色とりどりの草花を咲かせ、庭の一隅にはウサギ小屋をしつらえて、何匹ものウサギを放していました。兄や姉に引き続いて、花も、よくその庭を行き巡り、きれいな花を見ては歓声をあげ、隣接の線路を貨物列車が通るたびに手を振ったり、夫が作った砂場で泥んこ遊びをしたり、ウサギ小屋に入って行ってウサギを抱っこしたり、三輪車に乗ったりして、楽しい子供の生活を送っていたのでした。
 しかし、平成3年4月24日に打った一本の注射のために、その日常は一変してしまいました。
 容態が急変したのは、接種から14日目の朝のことでした。前の夜、いつものように遊んで遊んで、遊び足りないのを、もう9時だからと私に促され、半ベソをかいて布団に入ったその夜半に、娘の脳に重大な変化が起きたのでした。明け方5時頃、髪がキラキラ光るほど頭に汗をかき、パジャマもぐっしょり濡れているのに気付いて、私は、不審に思いながら髪を拭き、着替えをさせました。汗はまだ温かかったので発汗してからそんなに時間はたっていなかったと思います。その時、「ママー、ママー」と語尾を伸ばすようにして、2度私を呼びました。後になって、あの時、娘は、頭がものすごく痛かったのだろうか、それとも何かが押し寄せてくるような感じだったのだろうか、目が回るような気がして怖かったのだろうか…どんな風だったのだろうと思いめぐらしましたが、親の私も想像できない苦痛を、小さな身体で一身に受け、どんなにかつらく怖かっただろうと思うと、胸がつぶれそうになるほど可哀想でなりませんでした。8時半頃には、高熱、意識不明、痙攣発作という事態になり、結局3日後に行き着いた大学病院では、人工呼吸器をつけられ、麻酔で眠らされ、交換輸血他のいろいろな治療がなされました。危機を脱してからは、脳症の後遺症により、娘の意志と関係のないものすごい力が全身の筋肉を緊張させ、両足は、緊張のあまり股関節が脱臼するに至り、両足の内転筋の神経と筋肉をそぐという、苦しい手術も受けなければなりませんでした。また、顔全体も緊張のために過敏になり、自分の手の指を、それと知らずに歯形が残るほど噛み、大泣きするということもしばしばありました。食べる機能も全く損れ、発病から5ヵ月は、鼻腔チューブから栄養剤を注入するという事態でした。また、何がさわるのか、夜半泣いて眠れない時期も長くありました。 発病から5年たち、リハビリや通園施設での楽しい刺激、家族との触れ合いの中で、少しずつですが、娘なりに成長して来ました。生活リズムも整い、家族の顔を見分け、よく笑顔を見せてくれるようになりました。食事も、離乳食程度のものを食べられるようになりました。しかし、未だに首もすわらず、食べることも、着ることも、入浴も、何もかも介助しなければなりません。発病直前には、得意顔でトイレに行っていましたが、今は、オムツもはずせません。坑ケイレン剤も飲み続けています。飲み物の飲み方が下手なので、飲む時は、食道まで届くチューブを口から飲ませ、そこから、飲み物を注入します。このように、外見は安定しているように見えますが、障害はとても重い状態です。もちろん、私たちは娘の障害を全部受け止め、精一杯の愛情を注いで育てています。当時、死ぬかもしれない状態の娘が危篤から脱したとき、「本当によかった、命が残されたのだからそれだけでいい。」と、心から思ったことでした。その気持ちは今でも変わりません。しかし、その一方で、さまざまな壁に突き当たるたびに、私たちの心の痛手は深くなる一方でした。周囲の人たちの、過度の同情に自尊心を傷つけられることもしばしばあります。そうかと思えば、心ない言葉を投げかけられ、落ち込むこともあります。
 また、この春の入学に際しては、私たちは「通学させたい」と希望しましたが受け入れてもらえず、結局週2回の訪問教育ということになり、その経緯の中でも失望することがありました。健康な子供と、そうでない子供の制度の格差があまりにも大きく、それを知らされるたびにMMRワクチンさえ打たなければ…という後悔の念が沸き起こってくるのです。
 この5年間は、生活することで精一杯の5年間でした。娘がこうなった原因についてあれこれ考えていると、暗く悲しい気持ちになり、私自身の健康にも悪いので、とにかく、前を向いて娘のほんの少しの成長でも、それを喜びながら暮らしたいと思って来ました。
上の子供達を含め、明るく暮らすためにも、なるべく過去のことは考えないようにして来た、というのが正直な気持ちです。
 ところが、この春就学を間近に控えて、ランドセルも机や教科書も必要のない娘が可哀想で、心の晴れない日を過ごしていた時、折しも、薬害エイズ訴訟の人たちの行動が報道されていました。その中で、代表の方が涙ながらに「仲間が殺されているのです。」と、訴えている場面を見て、その人の立場と娘の立場が同じだということに気が付いたのです。そして、もし、娘がこの代表の青年のように訳の分かる人だったら、今の自分の状態を何というだろうかと思ったのでした。きっと、「こんな身の上にはなりたくなかった」と、言ったことでしょう。何一つ自分でできず、じっとしているだけの人生を余儀なくされ、「なぜ、こんなことになったの」と、私に聞いたことでしょう。私たちの、介護し育てて行く側の人生はともかくとして、娘自身の人生は、何とも理不尽で、あまりにも可哀想です。
 どうして、MMRワクチンによる副作用が多発しているから中止するようにと、早い時期に警告していた医師がいたにもかかわらず、また、導入からわずか1年も経過しない段階で、無菌性髄膜炎の発生が数千人に1人と厚生省は認めているにもかかわらず中止をしなかったのでしょうか。何人もの子供たちが犠牲になり、私たちの娘も、死線をさまようほどの重い副作用の苦痛を味わい、結果がこのような状態となりました。本当に悔しくてなりません。結果的には4年間で中止になった、この欠陥ワクチンを製造した製薬会社と、早期に中止しなかった厚生省の責任は明らかです。私たちが、不覚にも娘にMMRワクチンを打たせてしまったのが悪いのではなく、あってはならない欠陥ワクチンを製造し、被害が多発している中で中止を先送りし、被害を拡大させた厚生省の責任は大きいと思います。「なぜMMRワクチンという欠陥ワクチンが製造され承認されたのか」、「副作用が多発していたにもかかわらずなぜ早期に中止しなかったのか」等、真実を明らかにし、小さな身体で、何の落ち度もないのに恐ろしい体験をさせられ、力尽きていった子供たちに謝罪してほしいと思います。また、私たちの娘も同じ苦しみを負い、生き残った子供として、その姿を見てもらい、何のためにこのような痛ましいことが起きたかを真剣に考えてほしいと思います。そして、是非、この子供のこれからの人生に、いろいろと手助けをしてほしいと思います。「命の重さ」を、娘の姿から感じ取って戴き、2度とこのような痛ましい被害が起こらないようにしてほしいと思います。
 薬害エイズ問題も、真実が全ては明らかにならないうちに幕引がされようとしているように思います。MMR予防接種禍も、一時的には大きな社会問題になり、MMRワクチンは中止になりましたが、根本的な事は何一つ明らかにされず現在に至っています。先に提訴している川邊さん、木下さんに続いて、私たちが訴訟に加わることにより、国と製薬会社の責任が公判の場で明らかになり、そのことによって、「人々の健康と命を守るため」という、予防接種行政の本来の姿に立ち返るよう願います。

上 野 裕 子