商品の詳細

商品番号 KT3
商品名 古常滑 花瓶
価格 65,000
寸法 径   21cm
高さ  28cm
状態 良好
作者 不明 江戸後期の作

正面正面

上部背面

中

底面

箱

底


中世の常滑焼

 平安時代末期、猿投窯南部の灰釉陶窯の南下に伴い形成された知多半島古窯跡群を母体とするが、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明。過去の学説では最高10,000基というものがあるが[1]、根拠は不明瞭といわねばならない。

平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残を感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が少なからずあり、さらに奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたことが判明している[2]。

鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。そして、平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実している。瀬戸内地方の広島県福山市に所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼の生産地に近い立地ながら、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しており[3]、そこからも、この時期の常滑焼の流通のあり方が窺われる。

その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼を代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域を中心とする半島中部の窯で行われることが多く、半島の北部や南部では、灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。

室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。また、室町期のある段階で半地上式の大窯に窯の構造が転換している。そして、その大窯は江戸時代の常滑焼を焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた。古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない[4]。

禁窯令と常滑焼

戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために天正2年「禁窯令」を出したことで常滑の陶器生産も一旦終焉を迎えたとする説がある。その初出は昭和10年代に刊行の旧『愛知県史』で、昭和49年刊の『常滑窯業誌』でも採用されている。しかし、この説に対して赤羽一郎は1983年の著書『常滑』で「禁窯令」の根拠とされる朱印状の文面は、焼き物生産すべてを禁止したのではなく瀬戸風の焼き物を他所で焼くことを禁じたと解釈すべきであること。常滑の窯の数の急減と市街地への集約は、天正期よりはるか以前に起こった現象であること、そして、天正期に生産された可能性の高い常滑焼は、中世城館跡などから少なからず出土していること、さらには瀬戸と競合関係にあるのは常滑ではなく、生産内容が類似する美濃焼であるべきで、実際15世紀から16世紀にかけて瀬戸の技術が美濃に流入している現象があるなどの理由をあげて、その「禁窯令」の常滑への影響を否定している。その後の日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少を認めることはできない。

近世の常滑焼

江戸時代、常滑村・瀬木村・北条村の三か村で焼かれる焼き物を常滑焼と総称した。なかでも北条村に最も窯が多く、元禄七年の窯改めで常滑・瀬木が2基ずつであるのに対し、北条は8基である。その後、北条は享保年間に10基、天明年間に8基、そして、江戸末期の天保年間に11基である。常滑村と瀬木村については、その後の記録がないが江戸末期に1から2基の増加があった程度と推測される程度である。

近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。

尾張藩侯の七・八代のころに北条村の渡辺弥平は、その命を受けて茶器・酒缶・花瓶などを作って上納したところ、いずれも賞玩され、それらが無名であることから元功斎の名を賜り、以後、作品に元功斎と記入することになったとされる。その後、常滑でも伊奈長三郎、上村白鴎、赤井陶然などの名工が出て茶器や酒器などに技を振るった。また、文政年間に稲葉高道(庄左衛門)は遠州秋葉山に参り、そこで伝来の「足利家同朋巽阿弥秘蔵 茶器三百五拾一品之内 茶瓶四拾三品」とある古写本を譲り受けて帰り、常滑で初めて急須を作ったとされる。また、杉江寿門堂(安平)は、安政元年に常滑の医者で急須の収集家でもあった平野忠司の指導を受けつつ、中国の茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功した。

常滑に連房式登窯が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させた海草を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。

 ウィキペディアを引用
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