商品の詳細

商品番号 KT10
商品名 盃セット
価格 90,000
寸法 個別記載
共箱
状態 良好
作者 藤井波山(詳細は末尾に記載)

正面
五種セット


 
一種目の前  径3.8cm 高さ4.6cm

後面
一種目の上

左側面
一種目の底

上
二種目の前  径5.7cm 高さ2.8cm

中
二種目の上

底
二種目の底


三種目の前  径5.4cm 高さ2.8cm


三種目の上


三種目の底


四種目の前  径5.3cm 高さ3cm


四種目の上


四種目の底


五種目の前  径5.3cm 高さ3.3cm


五種目の上


五種目の底

箱

ふた表

箱中


藤井波山(ふじいはざん)

【生没】一八八六ー一九四○

 明治十九年相川町下戸浜町に生れ、名は治四郎。三代三浦常山の工房で孤山の指導を受け、紫山と称して工場長を勤めていたが、大正九年自宅に新窯を築き、作陶生活に入る。

独立の際、歴史学者岩木拡より紫文軒波山と命名される。

幼少より物事に熱中する実践の人と風評があり、職人気質もつよく釉薬の研究を重ね、特に色・光沢の二方面に成功、急須・香炉・花瓶・鉢などの名作を残した。
その技術は弟子の小波山平野進に受継がれた。
後援者の一人市野精一鮎川の勧めで、俳句雑誌「海紅」に投稿するなど、文人墨客との交りも深かった。
曽我真一の紹介で、九州窯からの帰りに板谷波山に逢い、出京を勧められるが、昭和十五年の夏、戦地に向う友人を送っての帰り、俄に体調が悪化し急逝した。行年五五歳。

相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より


板谷 波山(いたや はざん)

1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。
本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。

日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。
理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。

日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、瀬戸焼、美濃焼、伊賀焼などの茶器、朝鮮半島の影響を受けて始まった伊万里焼、鍋島焼の磁器のように、芸術として高い評価を得ている作品さえも、ほとんどが無名の陶工の手になるものである。

近世には京焼の野々村仁清のように個人名の残る陶工もいるが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。
陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。

生涯

のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町宇田町、旧・下館市甲866番地、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉〈いたや ますたろう ぜんきち〉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。

上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉天心、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。

同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。

波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。

その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)には帝室技芸員になっている。
第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。
1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。
波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。

1963年(昭和38年)の1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。
手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。
享年92、満91歳。
絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。
墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。

轆轤(ろくろ)師・現田市松

波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。
波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。
これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。
この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。
前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。
波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。
初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。

前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。

ウィキペディアを引用

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